(1)秋月さん(1921-1999)についてはすでにご紹介しました。東京大学文学部哲学科卒。同大学院修了。卯坂光龍師、大森宗玄師に参禅し、印可(修了証書:筆者)を受ける。その後山田無文師にも師事し臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。臨済正宗「真人会」師家。花園大学教授など。真摯な求道者だと思います。今回は、「般若心経の智慧」PHP文庫をもとに秋月さんの般若心経解釈についてお話します。
まず、秋月さんは、・・・お釈迦様は深い瞑想の結果、暁の明星のマタタキを見て、「アッ俺が光っている」、つまり、明星と自己と「物我(もつが)一如」という「真の自己」を自覚された・・・と言っています。「『般若心経』の冒頭の、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時(観自在菩薩は深い智慧の実践を行をしていた時)に続く照見五蘊皆空とは、このことだ」と言っています。
五蘊について
五蘊とは、色・受・想・行・識のことですが、秋月さんは、まず、「色とは肉体のことであり、 受・想・行・識とは人間の精神作用(意識作用)を分析したものだ」と言っています。
・・・道で美しい少女に会ったとしましょう。美しいなーと感覚します。それが受です。ところが別れて家に帰って、目をつぶっても、さっき逢った美しい少女を思い浮かべることができます。それが想です。翌日また逢ったとしましょう。その少女に声をかけて「お茶でも飲みませんか」という心の動きが起こります。それが行です。そうひた意識作用を識と言います・・・つまり、「五蘊とは肉体と意識作用だ」
と解釈しています(p104)。それはいいのですが問題はその後です。
色(しき)について
秋月さんはまず、「色即是空」の色とは、目(耳、鼻、皮膚についても同じでしょう:筆者)の対象界、つまり、色(いろ)があって形があって、運動するもの。しかしここではもう少し広く物質現象そのものだ」と言っています。しかし、いま、『色とは肉体だ』と言ったじゃないですか!このように秋月さんの言葉の定義は、しばしば変わるので注意しなければなりません。秋月さんはさらに、「肉体と精神作用で形成しているものを自我(エゴ)と言う。小宇宙としては自我、大宇宙に広めて考えても、世界はこの五つの要素でできている」と言っています。しかし、今、「五蘊とは肉体と精神作用だ」と言ったじゃないですか!どうしてそれが世界になるのでしょうか?前々回お話した西嶋和夫さんの言うように「人間の心の働き、あるいは心そのものが、共通の地盤の上で働いて、われわれの住んでいる世界が出来上がっている」のでしょうか。「物や世界など無い。あるのは意識の働きの結果だ」と言うのが唯識思想ですが、どうやら秋月さんも西嶋さんも唯識思想と般若の知恵を混同しているようです。
さらに、肉体と精神作用がどうして自我になるのですか?では、世界は自我の対象物ではないのか?ここがまたわかりにくいところです。さらに、後で、自我と対比すべきものとして自己(セルフ)の概念を挙げていますが、「では自己は
色・受・想・行・識の五蘊からなっているのかいないのか」がはっきりしないのです。
筆者が秋月さんの言葉の定義について厳密に検討しているのは、秋月さんが哲学者だからです。哲学者はまず言葉の定義をはっきりさせてから話を進めるのが鉄則ですから。
筆者は、はっきりと、「色とは目や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官が認識する対象物だ」と考えています。
(2)
秋月龍珉さんの般若心経(2)
「空(くう)」について
では、「空」とはなにか。秋月さんは、
「古代インド語で『シューニヤター』、英訳しますとemptinessとか、voidです」と言っています。ここで筆者は「アッ」と思いました。以前のブログで「鈴木大拙博士の言葉だ」と言いました。そこで秋月さんの経歴を見直してみますと、「鈴木大拙博士に師事」とありました。そこでも言いましたように
それは誤訳です。emptinessは無、voidは空(から)としか翻訳できませんから。それでは「空=無」になってしまいます。
さらに秋月さんは、
「色・受・想・行・識という物と心の五つの構成要素からなっている「自我」、その自我が無我であることが空だ、もちろん世界も空だ。それは、一心不乱に座禅をして体得できる境地だ。自我が空じられて無我になったときに、『本来の自己(セルフ)』が露わになる」と言っています。そして、「色即是空とは、自我の否定を媒介として否定された自己の自覚体験を言う。そう言った後に「空即是色」とすぐに打ち返すことを空即是色と称する。すなわち、『自我』はすなわち空であり、その空こそが自我(私たちの言い方では『自己』である)」と言っています(p109)。
筆者のコメント:いかがでしょうか。まず秋月さんはここでは「自我とは、色・受・想・識という物と心の五つの構成要素からなっているもの」と言っていますね。前回お話したように、秋月さんは、別のところで「色とは肉体だ」とも言っているのです。さらに、秋月さんは「自我とは我欲だ。
その自我が無我であることが空だ
」と言っていますが、筆者は、色・受・想・行・識とはモノゴトの認識作用だと思います。そこには「我欲」とか「無我」というような価値判断は含まれてはいません。それゆえ、「空(くう)」も「無我」などではありません。
さらに秋月さんは、色即是空に続いて空即是色が来るのかがわかっていません。それは「すぐに打ち返す」という言葉からわかります。わからないからそう言わざるを得ないのでしょう。ちょうど西嶋和夫さんが「仏教の理論は、こういう往復的な説明だ」と言っているのと同じで、内容のない言葉です。じつは、色即是空のあと空即是色が続くのにはもっと深い意味があるのです。さらに、「即」は秋月さんの言うような「すなわち」ではありません「即座の即」なのです。この差は重要です。それがわからないので秋山さんは「すなわち」と解釈しているのです。さらに、秋月さんは「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ」と言っていますが、それでは凡愚(たぶん秋月さんも含めて)は、「そんなものか」と思うだけで、「ではどうしたらいいのか」がわからず、途方に暮れるだけでしょう。
「色・受・想・行・識という物と心の五つの構成要素からなっている「自我」、その自我が無我であることが空だ、もちろん世界も空だ。それは、一心不乱に座禅をして体得できる境地だ。自我が空じられて無我になったときに、『本来の自己(セルフ)』が露わになる」と言っています。そして、「色即是空とは、自我の否定を媒介として否定された自己の自覚体験を言う。そう言った後に「空即是色」とすぐに打ち返すことを空即是色と称する。すなわち、『自我』はすなわち空であり、その空こそが自我(私たちの言い方では『自己』である)」と言っています(p109)。
そして、「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ。衆生が仏になるのでなければ、いくら般若心経を読んでも無駄である。私(秋月さん)が「空とはこだわらない心だ」などという般若心経談を口を極めて非難するゆえんです(p110)」と続けています。
筆者のコメント:いかがでしょうか。まず秋月さんはここでは「自我とは、色・受・想・識という物と心の五つの構成要素からなっているもの」と言っていますね。前回お話したように、秋月さんは、別のところで「色とは肉体だ」とも言っているのです。さらに秋月さんは「自我とは我欲だ」と言っていますが、筆者は、色・受・想・行・識とはモノゴトの認識作用だと思います。そこには「我欲」というような価値判断は含まれてはいません。
さらに秋月さんは、色即是空に続いて空即是色が来るのかがわかっていません。それは「すぐに打ち返す」という言葉からわかります。わからないからそう言わざるを得ないのでしょう。ちょうど西嶋和夫さんが「仏教の理論は、こういう往復的な説明だ」と言っているのと同じで、内容のない言葉です。じつは、色即是空のあと空即是色が続くのにはもっと深い意味があるのです。さらに、「即」は秋月さんの言うような「すなわち」ではありません「即座の即」なのです。この差は重要です。それがわからないので秋山さんは「すなわち」と解釈しているのです。さらに、秋月さんは「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ」と言っていますが、それでは凡愚(たぶん秋月さんも含めて)は、「そんなものか」と思うだけで、「ではどうしたらいいのか」がわからず、途方に暮れるだけでしょう。
秋月龍珉さんの般若心経(3)
秋月さんは、卯坂光龍師、大森宗玄師、山田無文師さらには鈴木大拙博士など、錚々たる禅師に教えを乞う、とても真摯な求道者だと思います。しかも後に臨済宗系の花園大学教授になったほどの専門家です。
しかし、秋月さんは、「色即是空・空即是色」という、禅の根本義がわかっていません。
まず第一点、
なるほど「色(しき)を自我(エゴ)、空(くう)を本来の自己」としたのは一つの解釈のように思えますだ。しかし、それは色即是空の概念とはとはなんら関係ありません。
まず、まず、秋月さんの「色(しき)」の解釈がはっきりしないこと。(1)で述べたように、秋月さんは色とは、目の対象界(物ですね:筆者)だ」と言ったり、「(人間の)肉体だ」と言っています。しかし、物と自分の肉体はまったく別ですね。物は肉体の外に存在しますから。さらに秋月さんは「肉体と精神作用(両者を合わせると五蘊)で形成しているものを自我(エゴ)と言う。小宇宙としては自我、大宇宙に広めて考えても、世界はこの五つの要素でできている」と言っています。しかし、自我と世界とはまったく別の概念です。「世界はこの五つの要素(五蘊)でできている」とも言っていますが、「五蘊とは肉体と精神作用だ」と言ったはずです。人間の肉体と精神作用は、世界とは対象的な存在です。つじつまの合わない論理は成り立ちません。論理は神理ですから、それが成り立たなければ正しくないことになります。
これに対して筆者は、「五蘊とはモノゴトについての認識作用だ」と考えています。モノゴトには、もちろん世界(対象界)も入っています。筆者の考えでは、五蘊の色とはモノ(物)のことであり、後の四蘊がそれに対する人間の認識作用です。
ついで第二点、
秋月さんは西嶋さん同様、なぜ、色即是空と言ってすぐ
空即是色と続くのかがわかっていません。以前お話したように、それには重要な意味があるのです。それがわからなければ禅はわからないはずです(以前のブログをお読みください)。
前述のように秋月さんは多くの先師に教えを乞うています。しかし、それがかえって仇になったようです。筆者が尊敬する橋田邦彦先生は、当時(昭和初期)、たくさん出ていた「正法眼蔵」の解説書にはには目もくれず、道元の弟子による「正法眼蔵御抄」から出発しました。
秋月さんは「今日ベストセラーだと言われるような『般若心経』の解説書を読むと『空とはこだわらないということだ』という解説がある。そんな説教ないし精神修養談で『(般若)心経』をどんなに見事に解説しても、一切的外れだ。それでは仏教の話にならない」と厳しい。しかし考えてみてください。お釈迦様が暁の明星を見て悟った「物我一如」の実体験が最高の悟りだ」と言われてみても、お釈迦様や空海だからこそ実体験できたので、現代人のいったい何人がその境地を追体験できるでしょう。秋月さんの言うことを聞いて大部分の人は、「ああそういうものか」と思うだけで、それこそ絵に描いた餅でしょう。秋月さんが強く批判した人たちが誰かは、今となってはわかりませんが、筆者はその人たちが言う「空とはこだわらないこと」の方が度一切苦厄(すべての苦しみから解放される)への道に近いと思います。つまり、筆者には「空とはこだわらないことだ」と言う方が、よほど「救い」への道に適っていると思います。
これに対して筆者の考え、「正しいモノゴトの観かた」は、真摯に訓練すれば到達できるのです。
いかがでしょうか。秋月さんは1999年に亡くなられ、筆者のこの批判に反論できません。しかし、すぐれたお弟子さんもいらっしゃるでしょう。読者の皆さんも含めて筆者のコメントに反論していただけることを待っております。