禅の人生は何でもありです(2)

 「俳句は芸術として劣る」と言ったのは桑原武夫さん(フランス文学者)です。「第二芸術論」ですね。筆者も俳句を好みません(もちろん否定などしません)。桑原さんのそれに続く言葉「老人の菊作りと同じで、好きな者同士でやっていればよい」に共感しています。ちなみに今朝の毎日新聞の「季語刻々(坪内稔典編)」は「言問橋マスクはずしてわたりけり」です!しかし、俳句と同じ短詩系の「自由律俳句」には深く傾倒しています。

 自由律俳句とは、季語を含まず、五・七・五の定型に縛られない俳句です。自由律俳句で傑出している人が、尾崎放哉(1885-1926)と種田山頭火(1882-1940)です。いや、傑出しているというより、「自由律俳句はこの二人だけだ」と思うのです。

尾崎放哉の人生

 尾崎放哉(本名:秀雄)は、東京大学法学部卒業後、東洋生命保険〈現朝日生命保険〉に入社・・・というエリートコースを歩みながら、わがままで自制心が全くなく、酒乱になってまともな社会生活もできない人でした。「一緒に死んでくれ」と言われた奥さんが愛想をつかして出て行ったのも当然でしょう。最後は自ら望んで小豆島の小さな庵の番人として孤独に死にました。ほとんど人生を投げた状態でした。結核で食事も受け付けなくなり、餓死同然だったのです。酒乱の他にも、「東大卒を鼻にかける。金の無心をする」・・・。作家の吉村昭さんが、放哉の伝記「海も暮れきる」の取材で50年後に小豆島を訪れた時でも「あんな人間のどこがいいのか」と、島民が口をそろえたというのですから相当なものです。吉村昭さんも「付き合いたくない人間だ」と言っています。

 放哉は師の荻原井泉水に「わたしは馬鹿正直で、世の中とうまくやっていけません」と言うのですから、「手が付けられない」人間なのです。しかし、荻原井泉水の他にも放哉を認めた人間は少なくありません。筆者もその一人です。近所の漁師のおばあさんは、食事から、最後には下の世話までしました。

放哉の句には

咳をしても一人

肉がやせてくる。太い骨である

墓のうらに回る

足の裏洗えば白くなる

入れ物がない。両手で受ける

障子開けておく。海も暮れ切る

おっ、丸い月が出たよ窓

春の山のうしろから烟が出だした(山には死者の焼き場がありました。辞世です)

 筆者は上の句のどれも、いつでも思い出すことができ、鳥肌が立つような作品ばかりです。しかし、自由律俳句は、凡人が作ればトンマなものになってしまいます。筆者は作らないだけ「まし」でしょう。

 こんな、まったく救いようのない人間の尾崎が、これらの不朽の名作を残しました。そして、放哉を許した人たちがいたのです。人生は「何でもあり」なのです。筆者が敬愛する良寛さんの秀句ですら、まだ「くさみ」が残っているのもがあります。

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