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死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(1-6)

  • 1)立花隆さんは「人間とは何か」について強い興味を持った人でした。その一つが「死後の世界はあるか」で、究極の疑問は「神は存在されるか」だったと思います。立花さんがそれらを解決する糸口として精力的に取材をしたのは「臨死体験」でした。関連した著作には「臨死体験」(文芸春秋)「脳死」(中公文庫)「死は怖くない」(文春文庫)「宇宙からの帰還」(同)などがあります。立花さんについてはすでに以前のブログでもお話しました。今回は死後の世界があるかどうかについて筆者の体験に基づく反論です。

 立花さんは「それは僕にとっては解決済みの議論だ」と言っています。その意味は、「死後の世界があるかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言うのです。立花さんが哲学科で学んだことの中で一番大きな影響を受けた、ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」を引用しています。

 立花さんは、改めてお話する必要もないほど真摯な探求者ですから、納得できない人たちに対する批判は激烈です、たとえば、

・・・・最近日本で評判を集めている東大医学部付属病院救急部の矢作直樹氏(註1)のような例です。最近彼は週刊誌で(註1)、TVの怪しげな番組に出まくって霊の世界がどうしたこうしたと語りまくる江原啓之なる現代の霊媒師のごとき男と対談して「死後の世界は絶対にある」と意気投合していましたが、これが現代の東大教授かと口あんぐりでした。ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこめないと「死ぬのが怖くない」世界に入れないのかというと、決してそうではありません・・・」(以上「死はこわくない」文芸春秋)、「生、死、神秘体験 対話篇」(講談社学術文庫)。

筆者のコメント

 まず、筆者も矢作さんや江原さんのお名前は知っています。ただ、著作を読んだり、テレビ番組を視聴したことはほとんどありません。やはり「?」と感じるところが多いからです。それにしても、「立花さんそこまで言うか?」ですね。霊的世界を考えることが、非理性的で怪しげかどうか。それについても後ほどお話します。

註1 立花さんが強く批判した元東京大学病院救命救急センターの矢作教授と、江原啓之さんの対談は筆者も読みました(「週刊現代」 56 (32), 176-179, 2014-09-20講談社)。江原さんが多くの霊的体験を持つことはよく知られている通りでしょう。それに対し、矢作さんは、そのような体験は皆無のようです。ただ、命が旦夕に迫った患者の「お迎え現象(註2)をよく見た」に過ぎないようです。立花さんに痛烈に批判されても仕方がないと思います。

註2死が近づいたころ患者が見る「母がすぐそこに座っていた」というような幻影。

死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(2)

 結論から先にお話します。

 眼に見えない世界があるかどうかは、体験したことがあるかどうかに懸っています。さらに、体験したことがないのに体験者を批判する資格はありません

 立花さんが「個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言っているのは誤りです。筆者は霊の存在を何度も体感しています。それらはたんなる情念の問題ではなく、明白な生理的変化を伴うものです。したがって現在では実測可能なものなのです。血圧や脳波、心電図の変化のように、です。それらのデータを詳細に集めて検討すれば、おのずと死後の世界について知る手掛かりが得られるはずでしょう。筆者は今からでもその研究をスタートできます。機会はいつでも作れます。協力者と測定器具が必要ですが。

 これらの現象を科学として研究するにはいくつかの課題があります。科学的に証明されるためには、条件さえ整えれば誰でも同じ結果を得られること、でしょう。その難しさが立花さんをして「情念の世界だ」と言わせたのだと思います。しかし、筆者の計画に従えばいつでも立証できるのです。

 ただ、筆者は心霊現象や神霊現象を体験したのであって、死後の世界があるかどうかとは別の問題です。それでも立花さんが熱心に求めたそれらの体験はしたのですから、一歩を踏み込んだことは間違いありません。死後の世界があることが多くの人に納得されれば、人間の死生観は根本的に変わるでしょう。ちょうど、宇宙に知的生命体がいることが確実となれば、私たち人類の人生観が180度変化するのと同じように。人が死を恐れるのは、死後の世界などなく、この自分という意識が無になってしまうことを恐れるからでしょう。

 立花さんは臨死体験を手掛かりにし、死後の世界の存在の有無についてアメリカやカナダ各地の大学研究所を精力的に取材しました。中でもカナダのパイケル・パージンガー教授らが「脳に弱い電流を流すと臨死体験ができる」と言う研究所を訪れて実際に被検者になったほどです。「何も感じなかった」そうですが・・・。しかしそれだけで「卒業した」と言うのは早計なのです。海の底を調べるのに山に登るようなものです。筆者はまったく偶然の機会から、別の道へ入りました。そこでは最初から神秘体験をし、その後、いやと言うほど多くの心霊体験をしました。ある神道系教団で霊感修行をしたことがきっかけです(別に霊能を開発したいと考えて入ったのではありません。そこではたまたまそういう修行をやっていたのです)そこでは霊の存在など日常会話でした。

死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(3

 キリスト教では「人体は魂の入れ物」と考えています。そうすれば「死ねば魂は肉体から離れる」のは、ごく自然な論理の帰結でしょう。そして、魂イコール意識というのも素朴な考えでしょう。

 意識がどこから来るのかは、神経科学の立場からも心理学的にも重要な課題です。とくにアメリカでは多くの大学できちんとした研究が行われています。ある研究者は「脳の働きは神経のネットワークの活動による。脳が作られてから神経ネットワークの形成がだんだん複雑になっていき、ある段階を越えると意識が生じる」と言います。つまり、意識はあくまで脳内の生物現象だと言うのですね。ウスコンシン大学ジュリオ・トノーニ教授は、睡眠時と覚醒時の脳の活動の差を調べたところ、眠っている時になくて、起きている時にあった脳の神経活動は、情報と情報をつなぐ「つながり」だったとか(「意識はいつ生まれるのか」亜記書房)。「嬉しい(感情)、まぶしい(感覚)、誕生日(記憶)、食べる(行動)などのつながりであり、これらを線でつないでいくと蜘蛛の巣のようになった。生物が進化していくと複雑性が増す。その複雑性がある限度を越えると意識が生まれる。犬や猫にも意識がある。鳥や昆虫になるとそのレベルが小さくなっていく。逆に、生物だけでなく、ロボット、インターネットなどの無生物でも意識を持ちうる」と言っています。立花さんは「もしこの考えが体だしいと証明されれば、人が死ねば脳のネットワークのつながりが消え、心も消えることになる」と(「死はこわくない」文芸春秋)。傾聴すべき考えですね。ただ一連のこの考えには大きな飛躍があると思います。

 一方、意識には顕在意識と、神につながる「魂」の意識があるという考えもあります。ふだんは顕在意識が主ですが、「創造的活動をするときに「パッ」とひらめくのは、魂(そして神)とつながったため」だと言うのです。筆者もこの考えです。「モーツアルトの音楽は神のメッセージである」とはあの小澤征爾さんの言葉です。

 立花さんは、なんとか心霊体験や神秘体験について知りたいと、宗教学者の山折哲雄さん、荒俣宏さん、遠藤周作さん、京都大学総合人間学部のカール・ベッカーさんなどとも対談しましたが、結局、その誰からも心霊体験談を聞くことはできませんでした(「生、死、神秘体験 対話篇」講談社学術文庫)。

死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(4)臨死体験(その1)

死は怖くない(1)

 立花さんがNHKと作った「臨死体験 人は死ぬ時何を見るか」(1991)や、「臨死体験(註1) 死ぬ時心はどうなるのか」(2014)を見た人や、著書「臨死体験」(文春文庫)を読んだ人から大きな反響があったと言います。中には直接立花さんを呼び止めて「ありがとうございました」と声をかけられた高齢の女性が何人もいたとか。NHKスペシャル「臨死体験 死ぬ時心はどうなるのか」では、まず、当時アメリカで最も注目を集めている神経外科医のエベン・アレクサンダー氏の臨死体験について紹介されました。アレクサンダー氏は、「プルーフ・オブ・ヘヴン(天国は実在する)–脳神経外科医が見た死後の世界」の中で、自身が2008年に脳脊髄膜炎によって昏睡状態に陥った際に遭遇した体外離脱と臨死体験から、「意識が脳とは独立して存在するものであり、死後には完璧な輝きを放つ永遠の世界が待ち受けている」と言っています(註2)。

註1一旦死にかけて、蘇生した人の20%が言っている臨死の体験。気が付いたら自分は体から抜け出して、嘆き悲しんでいる親族や、医師、看護師たちを上から見下ろしていた(体外離脱)。その後暗いトンネルを抜けてまばゆい光に包まれた世界へ移動して、美しい花畑で家族や友人に会ったり、超越的な存在(神)に出会ったりする。

註2 アレクサンダー氏はこの体験について世界中の教会、病院、医学大学院、学術シンポジウム等で講演を行い、大変な反響を呼びました。筆者も読みましたが説得力があります。しかし、アレクサンダー氏のこの意見ついては批判も少なくありません。自身は重度の細菌性髄膜炎の結果として昏睡状態に入り、その時点で脳の活動はほぼ停止していたと主張していますが、担当医の証言では、アレグザンダー氏が陥った昏睡は医学的な処置として人工的にもたらされた昏睡状態であり、処置の時点では幻覚状態にあったものの意識は持っていた」と言っています。


死後の世界はあるか― 立花隆さんへの反論(5)

死は怖くない(2)

 立花さんは、「死はこわくない」理由として、「夢の世界に入っていくのに近い経験だから」と言っています。その根拠として、ミシガン大学のジモ・ボルジガン博士の研究を挙げています(註3)。それによるとネズミの脳に電極を埋め込み、薬物注射によって心停止させても、数十秒間は微細な脳波が続いていたこと。さらに、ネズミを生かしたまま脳の各部からごく少量の液体を取り出して分析してみると、神経伝達物資の一つ、セロトニンの放出が増加していたことなどです。セロトニンは人間が快感を感じるときに働くドーパミン神経の調節に預かっています。ボルジガン博士は、「これらに現象こそ臨死体験を起こしている脳の活動の反映ではないか」と言っています。この研究成果のすばらしさは、初めて臨死体験を実験研究する確かな道を開いたことでしょう。立花さんはこれらの事実やさまざまな人の体験から、「人間には死を怖くないようにするため、幸せな臨死体験するためのDNAが組み込まれているのではないか」と結論しています。つまり、「臨死体験とは、死後の世界を垣間見たのではなく、脳の活動の一つである」と言うのです。とても興味深い考え方であり、立花さんのように「それを聞いて安心した」という人々も多かったのです。ちなみに立花さんの死生観は「哲学的&科学的世界観に基づく無宗教派です」と言っています。 

 以前のブログでお話した、遠藤周作さんの臨終の様子を、遠藤夫人が「とても安らかで嬉しそうな表情になった」と言っているのを思い出しました。それも死ぬ間際の幸せ体験ではないかと思います。よく「アッ死ぬ!と思ったとき、過去の人生が走馬灯のごとく思い出された」という話を聞きますが、臨死体験の一つにもそれがあります。ただ、違うのは、そういう時には別に心停止は起こっていないという点です。

註3  Proc. Nat. Acad. Sci. 110 14432 (2013).ネットで検索できます。ただし、脳内セロトニンの上昇に関する論文はまだ出ていないようです。

筆者のコメント:以上、ジモ・ボルジギン博士らのグループの業績は、確かに「臨死体験は神秘体験か、あるいは、たんなる脳の働きに過ぎないか」を明らかにするための新たな道を切り開いたと、脳疾患のメカニズムを研究していた筆者も思います。ただ、これだけの研究成果ではこの問題を決着して「死はこわくない」と言うにはあまりにも不十分です。そこは立花さんは科学者ではないからでしょう。筆者から見れば、立花さんが厳しく批判した元東京大学救急医療センター長の矢作直樹氏や江原啓之さんと「どっちもどっち」でしょう。江原さんは「霊が見える人」で、そのことを「死後の世界が存在すること」の根拠とし、それを以て「死はこわくない」と矢作さんと共感しているのです。彼らの考えにも一定の説得力があるのです。

死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(6)

 「死後の世界があることが分かったらあなたの死に対する恐れは小さくなりますか」という質問が聞こえてくるようです。そこであらためて思考実験してみました。その結論は「私自身の死生観にはほとんど影響ないでしょう」です。前回、「霊が〈存在〉することは確信していますが、それが死後の世界とどうつながるのかとは別問題です」とお話しました。昔、俳優の丹波哲郎さんが「死後の世界がある」と盛んに言い、映画まで作りましたが、あれはまあ「お話」です。

 ちゃんとした科学者なら、「死後の世界に入ってみたら、それがどんなものであろうとそのまま受け入れる」と答えるはずです。「では死んだら無になると知ったら怖くはありませんか」と聞かれても、「まったくありません」と。心配したって仕方のないことは心配しないのです。「死後の世界などない」という人の中には「死んでしまえば意識もなくなるのだから、恐怖を感じることもない」という人がいます。妙に納得できる考えですね。「極楽や天国へ行くために、生きているうちに善行を積み重ねなければならない」ということを言う人は多いです。しかし、そんなこととは関係なく、人にやさしい言葉をかけ、親切にし、奉仕することは、人間としての当然の務めです。

 「あなたの死生観は何ですか」と切り口上で筆者に聞いた人があります。「その時になってみなければわからない」と答えました。天下の名僧が臨終のとき、弟子たちが期待を込めて「なにかお言葉を」と聞きました。「死にとうない!」。耳を疑ってもう一度聞いても「死にとうない」と。長年、神の恩寵について説いてきた女性識者が、いざ自分がガンだとわかると、「神はヒットラーだ」と叫んだという話があります。その一方、末期ガンの知人を見舞に行くと、あまりの平静さに驚いた友人がいます。「敬虔なクリスチャンとはそういうものか」と。

禅はむつかしくない(5)風化を恐れるのは誤りです

 禅の要諦を一言で言えば(ずいぶん乱暴ですが)、「こだわらない」ことでしょう。苦しかったこと、悲しかったこと、そして無念だったことが本当につらいのは、じつはそれらを繰り返し思い出すことにあると思います。繰り返して思い出すことによって思い出は増強されるのです。あの東日本大震災で大切な家族や家を失った人たちがよく、「風化していくのが怖い」と言います。テレビもそれを斟酌し、NHKなどは10年以上、あれやこれやと関連番組を放送しています。多くの友人が「わかったわかった。つらい話はこちらの心も重くするので、いい加減にしてほしい」と言っていました。

 そのとおり、筆者は「風化」こそ、人間が苦しみから逃れるための本能だという気がします。大切な家族を失った当初は、それこそ「寝ても覚めてもその人たちのことを思い出す。しかし1年もたつと一日に一度になり、3年も経過すると週に1回になり・・・と少しづつ忘れていくものではないでしょうか。それだからこそ、人間は現実に帰って、立ち直って行けるのだと思うのです。「風化するのが怖い」という考えはそれに逆行するのではないでしょうか。むしろ大切なことは、つい思い出しそうになったら、「アッ」と止めるのです。少しのトレーニングが必要ですが、くり返していると、だんだん上手になってきます。そして、忘れて行けるのです。とても大切な人間の知恵だと思います。

 誰でも一生のうちには、大変なことが立て続けに起こることがあるものです。筆者にもそういう時期がありました。父母の病気のこと、仕事のこと・・・。そういう時は、次から次へと良くない連想をするものです。そのとき筆者の心配を軽くしてくれた二つのアドバイスがありました。一つは筆者の大学の嘱託医の言葉「将来のことを悲観的に悲観的に考えるのではなく、起こることを一つずつ解決していくのです」と。もう一つはある宗教家の「今あれこれ心配していることが全部起こるわけではない」との教えです。キリスト教でも「明日のことを思い煩うな。 明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ6章34節)」と言います。とても勇気付けてくれる言葉ですね。

 そして筆者の問題もその通りになり、解決したのです。

 これらはいずれも禅の「空」の概念に当てはまるのです。「空」の思想は「今を生きる」です。これらの言葉や思想は、人間が長い間、さまざまな苦難に出会って獲得した叡智なのです。

ハイデッガーと禅(1-3)

 はじめに

ハイデッガー「存在と時間」(1)

マルチン・ハイデッガー(1889-1976)は当時ドイツ・フライブルグ大学教授。のち学長。主著「存在と時間」(1927)は、20世紀最高の哲学書と言われています。ナチスに協力したことは重大な汚点ですが、それでも彼の哲学は今に至るまで多くの人々に感銘を与えているのです。

 「存在と時間」は難解な書と言われていますが、翻訳書が中山元、細谷貞雄、熊野純彦らによって出版されています。入門書も仲正正樹によるもの(2015)、轟孝夫によるもの(2017)、竹田晴嗣によるもの(2017)池田喬によるもの(2021)などが次々に出版され、日本人の関心の高さが窺い知れます。難解であることも入門書の多さの理由でしょう。

 しかし、じつは本書はけっして難しくはないのです。ハイデッガーの「視点」さえ分かればいいのです。以下、用語の和訳については轟孝夫「存在と時間入門」を参考にしつつお話します。

 通例のように「存在と時間」にも、ハイデッガー独特の造語がいくつか使われています。「現存在」とか「世人」とか「本来性と非本来性」というふうな。とくに後者は、特に難解なので、使うのをことさら避けている研究家も少なくありません。哲学者は、いつもその理由として「そういう造語をしなければ私の思想を十分に表現できないからだ」と言います。よくわかりますが、むつかしい概念を平易な言葉で表現するのが啓蒙家の使命ではないでしょうか?

 「存在と時間」を理解するには、やはりそれが書かれた当時のドイツの状況を知らねばならないでしょう。当時ドイツは第一次世界大戦に破れ、国家予算20年分にも相当する多額の賠償金を求められていました。その結果、ドイツのハイパーインフレは気違いじみたものになり、「パン1個1兆マルク」といった状態でした。

 第一次世界大戦はドイツ・オーストリアとイギリス・フランスなどによる帝国主義戦争でした。一方、ドイツに過大な賠償金を課した元凶がアメリカの巨大財閥であったことも、多くの心ある人は知っていたでしょう。また、死者1600万人という悲惨さを目の当たりにして、神の存在に疑問を持った人も多いと思います。つまり人々は、帝国主義や資本主義、共産主義のようなイデオロギー、そして神の存在に至るすべてに、心の拠り所を失っていたのだと思います。さらに、西欧は15世紀のルネッサンス以来、「人間の尊重」をとても重視してきましたが、それが個人や国家のエゴに変貌してきてしまったのです。帝国主義や民主主義の自由競争は、まさにその弊害でしょう。それを目の当たりにしたハイデッガーが「人間の本来あるべき姿に戻ろう」と叫んだのです。いわば第二のルネッサンスですね。そこがハイデッガーの偉大さだったと筆者は思います。

 本論

 ハイデッガーは、「人間のあるべき本当の姿とは何なのか」を追求したのです。前述の「現存在」とは、「私」のことです。なぜ「人間」と言わなかったのか?それは一般人(世人)のことではなく、他でもない「(帝国主義などに協力しなかった)私自身のあるべき姿とは何だったのか」と問いかけるためだと思います。

 ハイデッガーは「私」を二つに分けて考えました。一つは「世俗の価値観についつい従ってしまう(非本来性の)私」で、もう一つが「本来あるべき(本来性)の私」です。しかし、「本来あるべき私」の規範を「神の御心に則った生き方をする私」としてしまったら、それはたんなる「神学」になってしまいます。それでは従来と変わりませんし、第一、哲学者としての誇りが許さないでしょう。そこでハイデッガーは「本来性の私」という概念を作ったのです。その「本来性」と言う言葉が、現代の研究者にはわからないのですからどうしようもありません。

ハイデッガー「存在と時間」(2)

 本来性と非本来性

 多くの研究者が「この言葉はよくわからない」と避けています。しかし、じつはこの思想こそハイデッガー哲学の核心なのです。ここを避けてどうするのでしょうか。ハイデガーの文章を読むと、

非本来性とは「世俗的な考えの(人)」と言っていいと思います。つまり、多くの人々が考えるような時代の価値観に(知らず知らずに)同調している人です。では、

本来性とは何か。ハイデッガーはまず、「自らのを先駆的に意識できる人」と言っています。

死への先駆

「死の問題は、何よりも自分自身の問題であり、他人のものではない」と言うのです。そして「死の問題を考えることを契機として本来性の自分を考えよう」と言っています。「死への先駆が本来性を取り戻すカギである」。「自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけられる」とも。「先駆的に」とは、「重病になってからではなく、予めの知性として」という意味です。「自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけられる」とも。

良心の呼び声

 本来性に戻るためのもう一つの方法としてハイデッガーは、「良心の呼び声」と言っています。「別の生き方もできるはずだと気づかせてくれるのが良心の呼び声だ」とも。そして、「良心の呼び声は常に心の中から響いてくる。それを自分のものにしよう。多くの場合、そうするには決意がいるが」と言っているのです。そしてもう一つ、「気遣い」を挙げています。「おのれの存在を気遣う」ことです。さらに言えば「おのれの(良きあり方)本来性を気遣う」のです。

 時間について 

 じつは「存在と時間」には「時間」についての考察がほとんど行われていません。「おそらく、本来上下2巻にするはずが、1巻とせざるを得なかったため」が多くの研究者の意見です。筆者も上巻だけでは「時間」についてのハイデッガーの思想はよくわからないのです。しいていえば、「死を先駆的に(予め)意識していること」や、「おのれの良きあり方を予め気遣う」ことが「時間」と言っているのです。そちろん、それだけでは中途半端です。

筆者の解釈:「死」と「良心」については筆者も同感です。しかし、「良心の呼び声がどこから来るのか」についてはハイデッガーは何も言っていません。じつは下記のように、筆者の考えでは「(神につながる)本当の我の声」なのですが・・・・。

 さらに、本来性とは、ただそれだけでしょうか。前述のように、本来性を「神の御心に則った人間性」と言えばよくわかるでしょうが、「それではこれまでの神学と同じことになってしまう」とハイデッガーは考えたのでしょう。しかし、「死の自覚」と「良心の呼び声」では、あまりにも狭くなってしまうと思います。

 筆者は、それ以外に「その人の感性、さらには創造性」も入ると思います。すぐれた芸術家や科学者のインスピレーションのことです。「すぐれた」を入れなくても、誰にでもすばらしい感性はあります。凡人の感性はよく間違えますが・・・。筆者は本来性を「(神につながる)本当の我」だと考えます。「本当の我」については、これまでこのブログシリーズで何度もお話してきました。本物の感性は、禅で言う「悟り」です。

ハイデッガー「存在と時間」(3)

 他のモノとの関係

 ところで、ハイデッガーは「存在」の意味をもう一つ提示しています。すなわち、「存在」とは人間であるだけでなく、世界の他の事物も含まれるのは当然ですね。そこでハイデッガーは、自己と他己(他の事物、モノ)との正しい関係を重視しているのです。つまり、「私」と他のモノとの「根源的な存在関係を正しいものにすることが大切だ」と言うのです。もちろんこの「私」は真の(本来性の)私(現存在)のことです。ハイデッガーは、

・・・・人間が世界の事物と関わるときにその事物の「存在」を真正な仕方で理解することと捉えなおされるようになる。本来性と非本来性の区別は、真の「存在」が了解されているかいないかの違いである・・・・と言っています。

 要するに「本来の正しい私が見た他の事物のことです。本来性の私とは「モノゴトの真の〈存在〉を正しく認識できる者」であり、非本来性の現存在とは「それができない者」と言うのです。

 色即是空・空即是色

 じつはこのことは、禅でいうところの「正しいモノゴトの観かた」と共通するところがあります。つまり、ハイデッガーの言葉は、筆者の言ってきた「モノゴトを〈空〉の観かたで見るか、〈色〉の見かたで見るかの差」と言い換えられると思うのです。これについては筆者のブログで繰り返しお話してきました。ハイデッガーの考えは、要するに色即是空なのです。

 しかし注意すべきは、禅では「色即是空」と言いつつ、「空即是色でもある」と言っていることです。そして両者は「一如だ」と言うのです。その通りで、禅の思想の方が、ハイデッガーに思想より一段とすぐれて深いと筆者は思うのです。

 いずれにしましても、ハイデッガーの思想は東洋の禅思想に共通するところが多いのです。これが当時の西洋哲学者にとって新鮮だったのでしょう。

ハイデッガーの自己矛盾

 しかし、ハイデッガーはヒトラー・ナチス党の政策を評価して自らも党員になりました。それどころかフライブルグ大学学長として学生たちに「革新である」との檄を飛ばしたのです。ヒトラー・ナチスに率いられたドイツがどのようなことをして、どのような終末を迎えたのか。それは結果論だったのか・・・・。ハイデッガーは明らかに、大勢に流された、非本来的現存在だったのです。言い逃れようのない自己矛盾ですね。

 ハイデッガーがなぜこのような錯誤をしたのかは興味を搔き立てられるところです。

 以上、ハイデッガーの思想はけっして難解ではありません。

なぜ欧米人は禅にあこがれるのか(2)

読者のえびすこさんから次のようなコメントが寄せられました。

 ・・・欧米で仏教徒の割合(アジア圏からの移民およびその人の子孫、または日系人以外の仏教徒)が増えているのとは反対に、日本ではクリスチャンの割合が明治以降はほぼ横ばい(人数自体は明治初頭と比べると増えている)です。欧米の方が「他宗教」を受け入れやすい土壌なのでしょうか?欧米人は「キリスト教よりも仏教の方が人生のありがたみを実感できる」と言う発想もあるのでは?世界史を見るとキリスト教国同士の戦争は数多くありますが、仏教国同士で戦争をしたことはほとんど前例がありません。

 筆者のコメント:重要なご指摘だと思います。以前のブログで、ベトナム出身の禅僧テイクナット・ハン師がアメリカ連邦議会やイギリス国会、さらにはあのGoogle社に招かれて講演したとお話しました。欧米の資本主義が激しい競争化を引き起こしていること、勝ち組は豊かな生活が送れるのに対し、負け組になると社会的にも経済的にも大きな格差が付くことが、どれほど人々の心にとってマイナスであるかは、言うまでもないでしょう。さらに資本主義は国家間の争いの元にもなっています。

 ハン師がアメリカやイギリス議会に招かれたのは、泥沼化した世界各地の紛争解決の糸口を禅に求めたからだと言われています。そしてGoogle社のような新進気鋭のトップ企業に招かれたのも、激しい競争で苛まれたが社員たちの心を救うためだと思います。

 良寛さんの清貧の人生については何度もお話しました。

・・・・立身などどうでもいい。

    頭陀袋の中に3升の米と、

    炉端に薪が一束あれば十分に満ち足りている・・・・

この思想はハン師や良寛ばかりではありません。あのブッダでさえ、持ち物は着古した衣と、食べ物を乞うための鉢だけでした。およそ競争とは無縁の、しかし満ち足りた人生だったのです。仏教とはそういう基本的思想です。欲のために他人や他国と争いが起きるわけはありませんね。

 西欧にはキリスト教やイスラム教のような大宗教があります。しかし、キリスト教国家同士や、イスラム教との間の紛争の歴史です。いや、現在もそれが続いているのです。筆者も信仰の始めはキリスト教でした。キリスト教にはたくさんのすばらしい人間の智慧があります。

・・・明日のことは思い悩むなかれ。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である・・・

など、筆者の好きな言葉です。ただ、長年にわたってキリスト教を近くから眺めていますと、あまりのマンネリでうんざりすることも。それが現代人にとってキリスト教が魅力を失っていることの一つの理由のような気がします。何かといえば「(マタイ)伝第○○節では・・・」なのです。それらに一番詳しい人が神父であり、牧師なのです。しかも、キリスト教では、神と人間との間には決定的な隔たりがあり、一つになることなど思いもよりません。それに対し、仏教では多くの宗派で瞑想によって本当の我と疎通し、仏(神)と一体になることができるのです。「他人のことで思い煩うこと」などないのです。

 以上が、「えびすこ」さんの疑問に対する筆者のお答えです。いかがでしょうか。

「深い河」キリスト者への質問(1-2)

 1)以前のブログで、遠藤周作さん(1923‐1996)の「沈黙」について「踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです」と書きました。遠藤さんは、敬虔なクリスチャンだった母に勧められて、幼いころから教会に通いましたが、いつも「キリスト教は僕には似合わない洋服のようだ」と考えていたと言います。「それでも母への想いも強く、その葛藤が作家活動のモチベーションになった」と言っています。その彼が自ら代表作と言う「深い河」を執筆したのは死の5年前でした。「深い河」は「和服が似合う日本人のキリスト教とは何か」が主題です。「深い河」には、それぞれの課題を抱えた5人が出てきますが、とくに印象深かったのは大津と成瀬美津子です。上智大学を思わせる大学の同級生でした。

・・・大津は毎日クルトハイム祈祷所へ通って祈りをささげていました。一方、美津子は資産家の娘で、ボーイフレンドも多く、マンションに住み、何不自由なく暮らしていました。美津子はそんな大津を見てからかいます。

美津子「大津さんあなた毎日クルトハイムに行って祈っているの?」

大津「ええ、まあ」

美津子「あなたそれ本気?」

大津「すみません。信じているかいないか、あまり自信がないのです」

美津子「自信がないのによく跪けるわね」

大津「僕の一家はみなそうだったし、母が熱心な信者だったから、その母に対する執着が残っているのかも・・・。よく説明できないのです」

 美津子は大津の信仰を揶揄し、誘惑し、マンションに誘います・・・。そして大津を捨てました。

 その後大津は神学生になって、4年後フランスのリヨンで学んでいました。そこへ、資産家と結婚した美津子が訪れて、おどおどした大津の顔を見ながら聞きます。

美津子「あなた、あのとき神を捨てたんじゃない。それなのにどうして神学生になったの?」

大津「わかりません。そうなったのです。成瀬さんから捨てられたからこそ、僕は人間から捨てられたあの人の苦しみが少しわかったのです。成瀬さんに捨てられてボロボロになって、行くところもなくどうしようもなくなって、またクルトハイムヘ行ったんです。跪ずいていたとき、僕は聞いたんです。『おいで』という声を。『私はお前と同じように捨てられた。だからお前を決して捨てない』という声を」

美津子「そしてあなたは?」

大津「『行きます』と答えました」

そしてはじめて大津の頬にうれしそうな微笑が浮かんだ。

大津「僕はそれ以後思うんです。神は手品のようになんでも活用なさることを。われわれの弱さや罪も」

 何年かたってベナレス(註1)を訪れた美津子は、偶然貧しい人々の亡骸を火葬場へ運ぶ大津の姿を見たのです・・・。

そして大津は、日本人ツアー客と現地人との争いに巻き込まれて、瀕死の重傷を負います。

担架の上から大津は心の中で自分に向かって言った。

「これで・・・いい。ぼくの人生は・・・・・これでいい」

註1 ガンジス川の水浴で有名なインドヒンズー教の聖地です。

2) 筆者はNHK「こころの時代」で、批評家・随筆家の若松英輔さんとノートルダム清心女子大学教授の山根道公さんとの対話を通して「深い河」が語られているのを視聴しました。お二人の誠実な人柄が印象的でした。山根さんは授業でこの本を取り上げ、学生たち(授業の一環としてミサがあり、キリスト教学に関する科目も多いでしょう)に教えていらっしゃいます。お二人は古くからの知己で、キリスト教の集まり「風の会」のメンバーでした。

「深い河」はとても感動的で、「和服が似合う日本人の信仰とは何か」についての遠藤さんの回答でしょう。

 しかし、筆者がふと我に返ったとき、「これはフィクションではないか!」と思いました。大津は、遠藤さん自身、また一緒にフランスへ留学した井上神父の心情も重ねているでしょう。しかし要するに大津の信仰は遠藤さんの思い込みに過ぎないのです。「キリスト者は、実体験でもない思い込みやフィクションを信仰の拠り所にするのか?」。これが筆者の正直な感想です。

 このことは番組の最後に出てきた、遠藤さんの臨終の場面での夫人順子さんの言葉にも当てはまります。

 ・・・・生命維持装置が外れたと同時に、本当に主人の顔が、今まで見たこともないほど うれしそうな顔になって・・・『おれはもう今 光の中に入ったから安心しろ お袋にも兄貴にも会った。お前にもかならず会えるからな。死は終わりじゃないんだ』・・・。

 とても感動的ですね。しかし筆者は「アッ」と思いました。ビデオを巻き戻して、いくら聞き直しても、これは遠藤さん自身の言葉ではありません。当然です。もう心電図も脳波もフラットになっているのですから。つまり、これは遠藤夫人のたんなる想像・思い込みだったのです。

 筆者は、思い込みやフィクションを信仰の拠り所にすることなど到底できません。キリスト教が日本人になかなか受け入れられないのはこう言うところにもあるのではないかと思います。

 このことは遠藤さんのもう一つの代表作「沈黙」についても言えます。

・・・・ロドリゴ神父に「踏むがいい」という(イエスの)言葉が聞こえてきた・・・・

これは完全に遠藤さんの創作です。遠藤さんのこの小説は、島原の隠れキリシタンの里を取材して書かれたとか。しかし完成後、彼らから「私たちの信仰はもっと強固なものだ」と強い反発を受けました。「沈黙」が映画化されるのに10年もかかったのは、世界のカトリック会から強い抵抗があったため、と筆者は思っています。

 筆者の信仰もキリスト教会から始まりました。その後20年間神道系の教団に属していました。そして禅を本格的に学んで11年になります。その間、数々の霊的体験をし、さらに神秘体験もしました。けっして想像や思い込みの信仰ではないのです。