ハイデッガーと禅(1-3)

 はじめに

ハイデッガー「存在と時間」(1)

マルチン・ハイデッガー(1889-1976)は当時ドイツ・フライブルグ大学教授。のち学長。主著「存在と時間」(1927)は、20世紀最高の哲学書と言われています。ナチスに協力したことは重大な汚点ですが、それでも彼の哲学は今に至るまで多くの人々に感銘を与えているのです。

 「存在と時間」は難解な書と言われていますが、翻訳書が中山元、細谷貞雄、熊野純彦らによって出版されています。入門書も仲正正樹によるもの(2015)、轟孝夫によるもの(2017)、竹田晴嗣によるもの(2017)池田喬によるもの(2021)などが次々に出版され、日本人の関心の高さが窺い知れます。難解であることも入門書の多さの理由でしょう。

 しかし、じつは本書はけっして難しくはないのです。ハイデッガーの「視点」さえ分かればいいのです。以下、用語の和訳については轟孝夫「存在と時間入門」を参考にしつつお話します。

 通例のように「存在と時間」にも、ハイデッガー独特の造語がいくつか使われています。「現存在」とか「世人」とか「本来性と非本来性」というふうな。とくに後者は、特に難解なので、使うのをことさら避けている研究家も少なくありません。哲学者は、いつもその理由として「そういう造語をしなければ私の思想を十分に表現できないからだ」と言います。よくわかりますが、むつかしい概念を平易な言葉で表現するのが啓蒙家の使命ではないでしょうか?

 「存在と時間」を理解するには、やはりそれが書かれた当時のドイツの状況を知らねばならないでしょう。当時ドイツは第一次世界大戦に破れ、国家予算20年分にも相当する多額の賠償金を求められていました。その結果、ドイツのハイパーインフレは気違いじみたものになり、「パン1個1兆マルク」といった状態でした。

 第一次世界大戦はドイツ・オーストリアとイギリス・フランスなどによる帝国主義戦争でした。一方、ドイツに過大な賠償金を課した元凶がアメリカの巨大財閥であったことも、多くの心ある人は知っていたでしょう。また、死者1600万人という悲惨さを目の当たりにして、神の存在に疑問を持った人も多いと思います。つまり人々は、帝国主義や資本主義、共産主義のようなイデオロギー、そして神の存在に至るすべてに、心の拠り所を失っていたのだと思います。さらに、西欧は15世紀のルネッサンス以来、「人間の尊重」をとても重視してきましたが、それが個人や国家のエゴに変貌してきてしまったのです。帝国主義や民主主義の自由競争は、まさにその弊害でしょう。それを目の当たりにしたハイデッガーが「人間の本来あるべき姿に戻ろう」と叫んだのです。いわば第二のルネッサンスですね。そこがハイデッガーの偉大さだったと筆者は思います。

 本論

 ハイデッガーは、「人間のあるべき本当の姿とは何なのか」を追求したのです。前述の「現存在」とは、「私」のことです。なぜ「人間」と言わなかったのか?それは一般人(世人)のことではなく、他でもない「(帝国主義などに協力しなかった)私自身のあるべき姿とは何だったのか」と問いかけるためだと思います。

 ハイデッガーは「私」を二つに分けて考えました。一つは「世俗の価値観についつい従ってしまう(非本来性の)私」で、もう一つが「本来あるべき(本来性)の私」です。しかし、「本来あるべき私」の規範を「神の御心に則った生き方をする私」としてしまったら、それはたんなる「神学」になってしまいます。それでは従来と変わりませんし、第一、哲学者としての誇りが許さないでしょう。そこでハイデッガーは「本来性の私」という概念を作ったのです。その「本来性」と言う言葉が、現代の研究者にはわからないのですからどうしようもありません。

ハイデッガー「存在と時間」(2)

 本来性と非本来性

 多くの研究者が「この言葉はよくわからない」と避けています。しかし、じつはこの思想こそハイデッガー哲学の核心なのです。ここを避けてどうするのでしょうか。ハイデガーの文章を読むと、

非本来性とは「世俗的な考えの(人)」と言っていいと思います。つまり、多くの人々が考えるような時代の価値観に(知らず知らずに)同調している人です。では、

本来性とは何か。ハイデッガーはまず、「自らのを先駆的に意識できる人」と言っています。

死への先駆

「死の問題は、何よりも自分自身の問題であり、他人のものではない」と言うのです。そして「死の問題を考えることを契機として本来性の自分を考えよう」と言っています。「死への先駆が本来性を取り戻すカギである」。「自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけられる」とも。「先駆的に」とは、「重病になってからではなく、予めの知性として」という意味です。「自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけられる」とも。

良心の呼び声

 本来性に戻るためのもう一つの方法としてハイデッガーは、「良心の呼び声」と言っています。「別の生き方もできるはずだと気づかせてくれるのが良心の呼び声だ」とも。そして、「良心の呼び声は常に心の中から響いてくる。それを自分のものにしよう。多くの場合、そうするには決意がいるが」と言っているのです。そしてもう一つ、「気遣い」を挙げています。「おのれの存在を気遣う」ことです。さらに言えば「おのれの(良きあり方)本来性を気遣う」のです。

 時間について 

 じつは「存在と時間」には「時間」についての考察がほとんど行われていません。「おそらく、本来上下2巻にするはずが、1巻とせざるを得なかったため」が多くの研究者の意見です。筆者も上巻だけでは「時間」についてのハイデッガーの思想はよくわからないのです。しいていえば、「死を先駆的に(予め)意識していること」や、「おのれの良きあり方を予め気遣う」ことが「時間」と言っているのです。そちろん、それだけでは中途半端です。

筆者の解釈:「死」と「良心」については筆者も同感です。しかし、「良心の呼び声がどこから来るのか」についてはハイデッガーは何も言っていません。じつは下記のように、筆者の考えでは「(神につながる)本当の我の声」なのですが・・・・。

 さらに、本来性とは、ただそれだけでしょうか。前述のように、本来性を「神の御心に則った人間性」と言えばよくわかるでしょうが、「それではこれまでの神学と同じことになってしまう」とハイデッガーは考えたのでしょう。しかし、「死の自覚」と「良心の呼び声」では、あまりにも狭くなってしまうと思います。

 筆者は、それ以外に「その人の感性、さらには創造性」も入ると思います。すぐれた芸術家や科学者のインスピレーションのことです。「すぐれた」を入れなくても、誰にでもすばらしい感性はあります。凡人の感性はよく間違えますが・・・。筆者は本来性を「(神につながる)本当の我」だと考えます。「本当の我」については、これまでこのブログシリーズで何度もお話してきました。本物の感性は、禅で言う「悟り」です。

ハイデッガー「存在と時間」(3)

 他のモノとの関係

 ところで、ハイデッガーは「存在」の意味をもう一つ提示しています。すなわち、「存在」とは人間であるだけでなく、世界の他の事物も含まれるのは当然ですね。そこでハイデッガーは、自己と他己(他の事物、モノ)との正しい関係を重視しているのです。つまり、「私」と他のモノとの「根源的な存在関係を正しいものにすることが大切だ」と言うのです。もちろんこの「私」は真の(本来性の)私(現存在)のことです。ハイデッガーは、

・・・・人間が世界の事物と関わるときにその事物の「存在」を真正な仕方で理解することと捉えなおされるようになる。本来性と非本来性の区別は、真の「存在」が了解されているかいないかの違いである・・・・と言っています。

 要するに「本来の正しい私が見た他の事物のことです。本来性の私とは「モノゴトの真の〈存在〉を正しく認識できる者」であり、非本来性の現存在とは「それができない者」と言うのです。

 色即是空・空即是色

 じつはこのことは、禅でいうところの「正しいモノゴトの観かた」と共通するところがあります。つまり、ハイデッガーの言葉は、筆者の言ってきた「モノゴトを〈空〉の観かたで見るか、〈色〉の見かたで見るかの差」と言い換えられると思うのです。これについては筆者のブログで繰り返しお話してきました。ハイデッガーの考えは、要するに色即是空なのです。

 しかし注意すべきは、禅では「色即是空」と言いつつ、「空即是色でもある」と言っていることです。そして両者は「一如だ」と言うのです。その通りで、禅の思想の方が、ハイデッガーに思想より一段とすぐれて深いと筆者は思うのです。

 いずれにしましても、ハイデッガーの思想は東洋の禅思想に共通するところが多いのです。これが当時の西洋哲学者にとって新鮮だったのでしょう。

ハイデッガーの自己矛盾

 しかし、ハイデッガーはヒトラー・ナチス党の政策を評価して自らも党員になりました。それどころかフライブルグ大学学長として学生たちに「革新である」との檄を飛ばしたのです。ヒトラー・ナチスに率いられたドイツがどのようなことをして、どのような終末を迎えたのか。それは結果論だったのか・・・・。ハイデッガーは明らかに、大勢に流された、非本来的現存在だったのです。言い逃れようのない自己矛盾ですね。

 ハイデッガーがなぜこのような錯誤をしたのかは興味を搔き立てられるところです。

 以上、ハイデッガーの思想はけっして難解ではありません。

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