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「色即是空」の別の解釈?

 青山俊菫師(1939‐2010駒沢大学文学部卒、曹洞宗正法寺住職、愛知専門尼僧堂々長)は、

・・・空(くう)とは、道元の言う「本来の面目」のことです(註1)。「本来の面目」とは、すべての存在(山、川などの自然。人も含めて)は仏性の表れだということです。

 道元はそれを歌にして、

 春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪きえですずしかりけり (「笠松道詠」)

と詠んでいます。

 悟りに至った人はそれを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る・・・以下同じ)ことができるが、悟りに至っていない人には見えない。見えるようになるための修行は、六波羅蜜(註2)を行じること。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定の六つです・・・。

と言っています(「般若心経を読む」1996すずき出版より)。

註1「正法眼蔵・弁道話」

註2六波羅蜜寺のHPから

布施:人のために惜しみなく何か善いことをする。善行には有形と無形のものがあります。有形のものを財施といいます。お金や品物などを施す場合です。
無形のものは、
 知識や教えなどの法施
 明るく優しい顔で接する眼施・顔施
 温かい言葉をかける言施
 恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施
 何かをお手伝いする身施
 善い行いをほめる心施
 場所を提供する座施・舍施、などがあります。

 施しは、施す者、施しを受ける者、施すもの、すべてが清らかでなければいけません。欲張りのない心での行いを施しといいます。あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。

持戒:本分を忘れずにルールを守った生き方で、人間らしく生活することです。自分勝手に生きるのではなく、互いに相手のことを考えながら、仲良くゆずりあっていく生活です。

忍辱:悲しいことや辛いことがあっても、落ち込まないで頑張ることです。物事の本質をしっかりとおさえて、時には犠牲的精神を持って困難に耐えることです。

精進:まずは最善をつくして努力すること。良い結果が得られても、それにおごらず、さらに向上心を持って継続することです。

禅定:心を落ち着けて動揺しないこと。どんな場面でも心を平静に保ち、雰囲気に流されないことです。

智慧:真理を見きわめ、真実の認識力を得ること。人は誰でも生まれながらにして仏様と同様の心を持っています。欲望が強くなると、単なる知識だけで物事を考えるようになります。知識ではなく智慧の心を以て考えることです。(六波羅蜜寺の「六波羅蜜」の説明は、大変わかりやすいので、引用させていただきました。)

筆者のコメント:青山師の「般若心経」の空(くう)」の解釈は誤りです。なぜなら、それでは肝心の「色即是空・空即是色」の「即」の意味が無視されてしまうからです。さらに、上記の六波羅蜜は、人として大切な心得でしょう。しかし、そんなことだけでは100 年たっても「見える人」にはなれないでしょう。

禅の人生は何でもありです(2)

 「俳句は芸術として劣る」と言ったのは桑原武夫さん(フランス文学者)です。「第二芸術論」ですね。筆者も俳句を好みません(もちろん否定などしません)。桑原さんのそれに続く言葉「老人の菊作りと同じで、好きな者同士でやっていればよい」に共感しています。ちなみに今朝の毎日新聞の「季語刻々(坪内稔典編)」は「言問橋マスクはずしてわたりけり」です!しかし、俳句と同じ短詩系の「自由律俳句」には深く傾倒しています。

 自由律俳句とは、季語を含まず、五・七・五の定型に縛られない俳句です。自由律俳句で傑出している人が、尾崎放哉(1885-1926)と種田山頭火(1882-1940)です。いや、傑出しているというより、「自由律俳句はこの二人だけだ」と思うのです。

尾崎放哉の人生

 尾崎放哉(本名:秀雄)は、東京大学法学部卒業後、東洋生命保険〈現朝日生命保険〉に入社・・・というエリートコースを歩みながら、わがままで自制心が全くなく、酒乱になってまともな社会生活もできない人でした。「一緒に死んでくれ」と言われた奥さんが愛想をつかして出て行ったのも当然でしょう。最後は自ら望んで小豆島の小さな庵の番人として孤独に死にました。ほとんど人生を投げた状態でした。結核で食事も受け付けなくなり、餓死同然だったのです。酒乱の他にも、「東大卒を鼻にかける。金の無心をする」・・・。作家の吉村昭さんが、放哉の伝記「海も暮れきる」の取材で50年後に小豆島を訪れた時でも「あんな人間のどこがいいのか」と、島民が口をそろえたというのですから相当なものです。吉村昭さんも「付き合いたくない人間だ」と言っています。

 放哉は師の荻原井泉水に「わたしは馬鹿正直で、世の中とうまくやっていけません」と言うのですから、「手が付けられない」人間なのです。しかし、荻原井泉水の他にも放哉を認めた人間は少なくありません。筆者もその一人です。近所の漁師のおばあさんは、食事から、最後には下の世話までしました。

放哉の句には

咳をしても一人

肉がやせてくる。太い骨である

墓のうらに回る

足の裏洗えば白くなる

入れ物がない。両手で受ける

障子開けておく。海も暮れ切る

おっ、丸い月が出たよ窓

春の山のうしろから烟が出だした(山には死者の焼き場がありました。辞世です)

 筆者は上の句のどれも、いつでも思い出すことができ、鳥肌が立つような作品ばかりです。しかし、自由律俳句は、凡人が作ればトンマなものになってしまいます。筆者は作らないだけ「まし」でしょう。

 こんな、まったく救いようのない人間の尾崎が、これらの不朽の名作を残しました。そして、放哉を許した人たちがいたのです。人生は「何でもあり」なのです。筆者が敬愛する良寛さんの秀句ですら、まだ「くさみ」が残っているのもがあります。

神様はいらっしゃいます

神々の朝 これは、作曲家でエッセイストの團伊玖磨さん(1924‐2001)「パイプのけむり」に載っていた実話です。

 「おばさんは数年前にご主人を亡くしました」から始まります。「5年生の女の子、2年生と1年生の男の子が残されて、一時は途方にくれました」。おばさんは強度の近視で、普通の女の人のように針仕事で生計を立てることもできません。薦めてくれる人があって、指圧師の講習を受け、免許を取りました。「この子たちと私の生活が懸かっている」と、精魂込めて仕事をし、そのためだんだん近所の人たちに「指圧ならあの人に頼もう」と言われるようになりました。近くに温泉地があり、そこでも呼ばれているうちに、おばさんの誠実な仕事は評判を呼び、いくつかの旅館から「毎晩必ず来てください」と言われるようになりました。

 子供たちも「お母さんが働いてくれるから、私たちも生きていけるのだ」ということをよく理解し、夕食後、おばさんが働きに出てから、食事の後片付けや掃除をしました。女の子の同級生に眼鏡屋さんの子供がいることから、「お母さんにコンタクトレンズをプレゼントしよう」と思い立ち、子供たちはお小遣いを節約し、近所のお店の店番をするアルバイトをして、1年後にようやくお金がたまりました。眼鏡屋のおじさんに相談すると、「お前たちはとても良い子だ。おじさんにも協力させてくれ」と、格安の値段で売ってれることになりました。次の日おばさんが仕事に行く前に眼鏡屋さんに連れて行って、コンタクトレンズを買いました。おばさんは子供たちのやさしさが嬉しくて涙が止まりませんでした。おばさんは、それからは「子供たちと一緒に仕事をしているんだ」と思い、一層誠実にその人たちの疲れをもみほぐしました。

 おばさんの誠実な仕事ぶりがさらに評判を呼び、その日はあるホテルで3人の人を施療したので、夜遅くなりました。雨の中を暗い街灯のアスファルト道を歩いていますと、しばらく前の水道工事のための穴が十分ふさがっていないのに気が付かず、ひどく転んでしまいました。さらに悪いことにコンタクトレンズが二つともどこかへ飛んでしまったのです。「コンタクトレンズを無くしたことを子供たちが知ったらどんなに悲しむだろう」と、眼鏡を無くしてぼんやりした目で、雨の中暗いアスファルトの道を必死で探しました。1時間、2時間・・・見つかりません。おばさんは凍える手に息を吹きかけながら、さらに一所懸命に探しました。

 そのとき、「こんな夜更けに何をしていますか」と尋ねる人がありました。振り返ってみると、ぼんやりした人影が見えました。その言葉の優しい響きに、おばさんは一部始終を話しました。主人を無くして生活のために指圧をしていること。子供たちがコンタクトレンズを送ってくれたこと。それをいま無くしたので探していること・・・。その紳士は「それはお困りでしょう。僕も一緒に探します」と。さらに1時間、そして2時間、紳士も這いつくばってレンズ探してくれました。やがて東の空が白みかけてきたころ、「ありました!」と紳士が。道の反対側にまで飛んでいたのです。そしてさらにしばらくたって、「またありました」と弾んだ紳士の声。おばさんは紳士に涙ながらに心からお礼を言いました。

 コンタクトレンズをはめて見たおばさんは、白髪の紳士が明け始めた朝の光の中を静かに遠ざかって行くのが見えました。その時おばさんは「ハッ」と気づきました。「あの人は神様に違いない」と。

 團さんがおばさんに肩をもみほぐしてもらいながら聞いた話です。團さんも「私もそう思う」と。筆者も、あの紳士は神だったと思います。おばさんは神の心を持つ人ですね。神の心を持つ人が神と出会ったのです。

道元、良寛さん、宮沢賢治はなぜ法華経を信奉したのか(1‐4)

 「法華経は諸経の大王」は道元の言葉です。「正法眼蔵」に「法華轉法華巻」を書いています。死の間際に、法華経の一節を口ずさみながら経行(きんひん、歩き回る)したと言われています(詳しくは筆者の2017年6月のブログをお読みください)。あの良寛さんも法華経を信奉し、「法華転・法華賛」と名付けた偈頌(漢詩)を残しています。そして宮沢賢治も「私が死んだら法華経を400部印刷して四方の山に埋めてほしい」と遺言したとか。

 筆者もこれまでに法華経をきちんと読んだことはありましたが、なぜこれらの人たちがあれほど信奉するのか、よくわかりませんでした。

 「法華経は、効能書きばかりで、中身のない薬だ」と言ったのは、江戸時代の平田篤胤(1776-1843 註1)で、まったくその通りだと思いました。なにしろ、法華経の中に「法華経はすばらしい、法華経はすばらしい」と書いてあるのですから。あの源氏物語の中に「源氏物語を読みました」と書いてあったら?!現代のある僧侶は、「仏教学者の中には、『法華経そのものは、仏が広大な功徳を持つ有り難いお経を説いた』と述べるだけで、説かれた筈の肝心の経の内容については何も説かず、恰も薬の効能書きだけで中身のない空虚な経だと言う者もいる。然しそれは正に彼等が仏法を知らないことを自ら暴露するものである」と言っています。ただ、筆者にはその人の「正法眼蔵・法華転法華」の解釈はよくわかりません。

 そこで筆者もあらためて法華経を読み直してみました。そうすると、ようやくその理由がわかりました。今回はその理由についてお話します。

註1平田篤胤は神道家・思想家として、死後の世界の重要さについても言及しています。すなわち、死後人間の魂は異界へ行く。その異界は現世のあらゆる場所にあり、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓に留まるものだとしました。また、平田は人間の生まれ変わり現象にも興味を持ち、「生まれ変わり体験者」小谷田勝五郎にも会い「勝五郎再生記聞」を残しています。

(2)ではこれらの人たちは、法華経のどの思想に感銘を受けたのか。それぞれご本人に聞いてみなければわかりませんが、おそらくその理由は次の二つではないかと思っています。すなわち、

1)諸法実相

 「諸法実相」とは、人間も山も川も木も草も、すべてそのまま法華(法の華、宇宙の真理)、すなわち仏の姿の現われであるということです。たとえば良寛さんは、「法華転63」の偈頌(詩)で、

 風定花尚落  風が止んだというのに花が散っている

 鳥啼山更幽  鳥が啼き山色渓水の眺めが一層幽邃(ゆうすい)となる

 観音妙智力  この風光こそ観音の妙智力であり

 千古空悠々  千古空々悠々たる清浄身である

と歌っています。

2)人間の本性が仏であること

 良寛さんは、「法華讃8」で、

・・・人人(にんにん) 箇の護身府有り。一生再活して用うるも何ぞ尽きん・・・

(人間には一つのお守りがある。一生の間に何度使っても、その働きはなくなることはない)と吟じています。ここで言うお守りとは、仏性、つまり仏としての素質のことでしょう。これも法華経の主題の一つです・・・。

 ただ、筆者には長い間、なぜこの人たちが法華経にそんなに思い入れが深いのか、ピンと来ませんでした。筆者にとっては、自然のすべてが神(仏)の創造物であること、人間の本性が神(仏)であることなど、当然のことと思っているからです。「でも道元禅師や良寛さん、宮沢賢治が、あれほど信奉していた法華経だから、私の勉強が足りないのではないか」と考え、もう一度一から考え直してみました。そうしているうちに「アッ」と気が付きました。

 本来、「人間の本性が神(仏)であること」との思想は釈迦仏教にはなく、釈迦以前のインドの古来のヴェーダ信仰の思想なのです。ヴェーダ信仰では、「人間の本性は不滅の個我(魂、アートマン)であり、絶対神(ブラフマン)に近づくことが、信仰の目的だ」と言うのです。釈迦仏教は、このヴェーダ信仰のアンチテーゼ(対立命題、乗り越えるもの)として生まれたのです。それゆえ、不滅の個我とか、絶対神の存在を認めるはずがないのです。おそらく道元や良寛さんは、長い修行と思索の結果、ヴェーダ信仰と同じような思想へ戻ったのでしょう。当然だと思います。その理由をこのシリーズでお話しています。

(以下、次回に続きます)。

(3)ことほどさように、道元や良寛さんは釈迦仏教から、ヴェーダ信仰へ回帰したのだと筆者は思います。彼らが勉強したからではなく、長い修行の末、自らそれに気づいたはずです。それが法華経と(部分的に)一致したのでしょう。法華経は言うまでもなく大乗経典の一つです。大乗経典は釈迦仏教とは異なることはすでに確定しています。道元や良寛さんはその中に「諸法が実相であることや、人間の本性が神であること」を見出したのだ、と筆者は思います。

 道元や良寛さんはヴェーダ信仰など知らなかったと思います。この思想(ウパニシャッド哲学)が、チベットや中国を飛び越えて日本に紹介されたのは、ずっと後年、じつに昭和の時代、碩学中村元博士などの功績です(「ウパニシャッドの思想」春秋社)。一方、後述のスピリチュアリズム研究が盛んになったのは19世紀末からです。

 じつは、禅の世界でも同じような体験をした人は何人もいます。たとえば臨済宗の開祖臨済義玄(?~647)が言っている「赤肉団上一無位の真人あり」もそうです。道元も「正法眼蔵・生死巻」で、「(生死のことは)仏の家に投げ入れて、仏の方より行われ、それに従いもて行く」と言っています。「生死のことは仏にお任せしよう」と言っているのです。 明らかに絶対神を指していますね。「正法眼蔵・渓声山色」にも蘇東披(蘇試、1036-1101)の有名な詩偈

渓声は便ち是れ広長舌、

山色は清浄身に非ざること無し

夜来八万四千の偈、

他日如何が人に挙似せん

が引用されています。「谷川の音、山々のたたずまいもすべて仏の姿だ」と言っているのです。

(以下、次回に続きます)

(4)じつは、「諸法が実相であることや、人間の本性が神であること」が、日本の神道思想にもあることは当然です。自然崇拝が基本ですから。筆者は、神道系の教団で10年にわたって霊能開発修行を実践してきました。そのため霊魂の存在など、いやというほど体験してきたのです(註2)。さらに筆者はスピリチュアリズムについても興味を持って学んできました。スピリチュアリズムとは、文字通り神(心)霊思想です。「自然はすべて神仏の姿であること、人間の本性が神仏であること」など、筆者にとっては、法華経など読まなくても、知識の上でも、体験を通じても当然のことです。

 これが、かねがね筆者が、「釈迦仏教ばかりでなく、他の宗派、さらにはヴェーダ信仰を含む他の宗教も学ばなくてはならない」と言う理由です。

註2拙著「禅を正しくわかりやすく」(パレード出版)の「あとがき」をご参照ください

 ところが、多くの人にとって法華経の大問題は、「人間も山も川も木も草も、すべてそのまま法華、すなわち仏の姿(宇宙の真理)の現われである」とか、「人間の本性は仏である」と言われても、「そんなものか」と思うだけで、実感すると言うわけにはいかないことでしょう。良寛さんや道元のような達人だけが感じられることだと思っていらしゃるでしょう。そうではありません。

 以前にもお話しましたが、筆者は、筆者の研究グループで明らかにした、あるタンパク質の遺伝子(DNA)構造を眺めていたとき、突然、「生命は神が作られた」とわかりました。別にそのとき、神のことを考えていたわけではなく、直感的に理解したのです。いまでもその体験はアリアリと思い出せます。その体験をとても尊いものと、うれしく思っています。

  以前、読者の真言宗寺院の僧侶(元臨済宗妙心寺派)が、筆者とのやり取りの最後に、「(筆者が『禅の根底にも神(仏)がある』と言ったのに対し)塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」とおっしゃいました(別に筆者は傷付いてはいませんが・・・)。筆者の考えの元になっているのは、道元や良寛さんについての上記のような思想の変遷です)。

秋月龍珉さんの般若心経(1‐3)

(1)秋月さん(1921-1999)についてはすでにご紹介しました。東京大学文学部哲学科卒。同大学院修了。卯坂光龍師、大森宗玄師に参禅し、印可(修了証書:筆者)を受ける。その後山田無文師にも師事し臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。臨済正宗「真人会」師家。花園大学教授など。真摯な求道者だと思います。今回は、「般若心経の智慧」PHP文庫をもとに秋月さんの般若心経解釈についてお話します。

 まず、秋月さんは、・・・お釈迦様は深い瞑想の結果、暁の明星のマタタキを見て、「アッ俺が光っている」、つまり、明星と自己と「物我(もつが)一如」という「真の自己」を自覚された・・・と言っています。「『般若心経』の冒頭の、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時(観自在菩薩は深い智慧の実践を行をしていた時)に続く照見五蘊皆空とは、このことだ」と言っています。

 五蘊について

 五蘊とは、色・受・想・行・識のことですが、秋月さんは、まず、「とは肉体のことであり、 受・想・行・識とは人間の精神作用(意識作用)を分析したものだ」と言っています。

・・・道で美しい少女に会ったとしましょう。美しいなーと感覚します。それがです。ところが別れて家に帰って、目をつぶっても、さっき逢った美しい少女を思い浮かべることができます。それがです。翌日また逢ったとしましょう。その少女に声をかけて「お茶でも飲みませんか」という心の動きが起こります。それがです。そうひた意識作用を識と言います・・・つまり、「五蘊とは肉体と意識作用だ」

と解釈しています(p104)。それはいいのですが問題はその後です。

 色(しき)について

 秋月さんはまず、「色即是空」のとは、(耳、鼻、皮膚についても同じでしょう:筆者)の対象界、つまり、色(いろ)があって形があって、運動するもの。しかしここではもう少し広く物質現象そのものだ」と言っています。しかし、いま、『とは肉体だ』と言ったじゃないですか!このように秋月さんの言葉の定義は、しばしば変わるので注意しなければなりません。秋月さんはさらに、「肉体と精神作用で形成しているものを自我(エゴ)と言う。小宇宙としては自我、大宇宙に広めて考えても、世界はこの五つの要素でできている」と言っています。しかし、今、「五蘊とは肉体と精神作用だ」と言ったじゃないですか!どうしてそれが世界になるのでしょうか?前々回お話した西嶋和夫さんの言うように「人間の心の働き、あるいは心そのものが、共通の地盤の上で働いて、われわれの住んでいる世界が出来上がっている」のでしょうか。「物や世界など無い。あるのは意識の働きの結果だ」と言うのが唯識思想ですが、どうやら秋月さんも西嶋さんも唯識思想と般若の知恵を混同しているようです。

 さらに、肉体と精神作用がどうして自我になるのですか?では、世界は自我の対象物ではないのか?ここがまたわかりにくいところです。さらに、後で、自我と対比すべきものとして自己(セルフ)の概念を挙げていますが、「では自己は 色・受・想・行・識の五蘊からなっているのかいないのか」がはっきりしないのです。

 筆者が秋月さんの言葉の定義について厳密に検討しているのは、秋月さんが哲学者だからです。哲学者はまず言葉の定義をはっきりさせてから話を進めるのが鉄則ですから。

 筆者は、はっきりと、「色とは目や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官が認識する対象物だ」と考えています。

(2)

秋月龍珉さんの般若心経(2

 「空(くう)」について

 では、「空」とはなにか。秋月さんは、

 「古代インド語で『シューニヤター』、英訳しますとemptinessとか、voidです」と言っています。ここで筆者は「アッ」と思いました。以前のブログで「鈴木大拙博士の言葉だ」と言いました。そこで秋月さんの経歴を見直してみますと、「鈴木大拙博士に師事」とありました。そこでも言いましたように それは誤訳です。emptinessは無、voidは空(から)としか翻訳できませんから。それでは「空=無」になってしまいます。

  さらに秋月さんは、

 「色・受・想・行・識という物と心の五つの構成要素からなっている「自我」、その自我が無我であることが空だ、もちろん世界も空だ。それは、一心不乱に座禅をして体得できる境地だ。自我が空じられて無我になったときに、『本来の自己(セルフ)』が露わになる」と言っています。そして、「色即是空とは、自我の否定を媒介として否定された自己の自覚体験を言う。そう言った後に「空即是色」とすぐに打ち返すことを空即是色と称する。すなわち、『自我』はすなわち空であり、その空こそが自我(私たちの言い方では『自己』である)」と言っています(p109)。

筆者のコメント:いかがでしょうか。まず秋月さんはここでは「自我とは、色・受・想・識というと心の五つの構成要素からなっているもの」と言っていますね。前回お話したように、秋月さんは、別のところで「とは肉体だ」とも言っているのです。さらに、秋月さんは「自我とは我欲だ。 その自我が無我であることが空だ 」と言っていますが、筆者は、色・受・想・行・識とはモノゴトの認識作用だと思います。そこには「我欲」とか「無我」というような価値判断は含まれてはいません。それゆえ、「空(くう)」も「無我」などではありません。

 さらに秋月さんは、色即是空に続いて空即是色が来るのかがわかっていません。それは「すぐに打ち返す」という言葉からわかります。わからないからそう言わざるを得ないのでしょう。ちょうど西嶋和夫さんが「仏教の理論は、こういう往復的な説明だ」と言っているのと同じで、内容のない言葉です。じつは、色即是空のあと空即是色が続くのにはもっと深い意味があるのです。さらに、「即」は秋月さんの言うような「すなわち」ではありません「即座の即」なのです。この差は重要です。それがわからないので秋山さんは「すなわち」と解釈しているのです。さらに、秋月さんは「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ」と言っていますが、それでは凡愚(たぶん秋月さんも含めて)は、「そんなものか」と思うだけで、「ではどうしたらいいのか」がわからず、途方に暮れるだけでしょう。

「色・受・想・行・識という物と心の五つの構成要素からなっている「自我」、その自我が無我であることが空だ、もちろん世界も空だ。それは、一心不乱に座禅をして体得できる境地だ。自我が空じられて無我になったときに、『本来の自己(セルフ)』が露わになる」と言っています。そして、「色即是空とは、自我の否定を媒介として否定された自己の自覚体験を言う。そう言った後に「空即是色」とすぐに打ち返すことを空即是色と称する。すなわち、『自我』はすなわち空であり、その空こそが自我(私たちの言い方では『自己』である)」と言っています(p109)。

 そして、「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ。衆生が仏になるのでなければ、いくら般若心経を読んでも無駄である。私(秋月さん)が「空とはこだわらない心だ」などという般若心経談を口を極めて非難するゆえんです(p110)」と続けています。

筆者のコメント:いかがでしょうか。まず秋月さんはここでは「自我とは、色・受・想・識というと心の五つの構成要素からなっているもの」と言っていますね。前回お話したように、秋月さんは、別のところで「とは肉体だ」とも言っているのです。さらに秋月さんは「自我とは我欲だ」と言っていますが、筆者は、色・受・想・行・識とはモノゴトの認識作用だと思います。そこには「我欲」というような価値判断は含まれてはいません。

 さらに秋月さんは、色即是空に続いて空即是色が来るのかがわかっていません。それは「すぐに打ち返す」という言葉からわかります。わからないからそう言わざるを得ないのでしょう。ちょうど西嶋和夫さんが「仏教の理論は、こういう往復的な説明だ」と言っているのと同じで、内容のない言葉です。じつは、色即是空のあと空即是色が続くのにはもっと深い意味があるのです。さらに、「即」は秋月さんの言うような「すなわち」ではありません「即座の即」なのです。この差は重要です。それがわからないので秋山さんは「すなわち」と解釈しているのです。さらに、秋月さんは「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ」と言っていますが、それでは凡愚(たぶん秋月さんも含めて)は、「そんなものか」と思うだけで、「ではどうしたらいいのか」がわからず、途方に暮れるだけでしょう。

秋月龍珉さんの般若心経(3

 秋月さんは、卯坂光龍師、大森宗玄師、山田無文師さらには鈴木大拙博士など、錚々たる禅師に教えを乞う、とても真摯な求道者だと思います。しかも後に臨済宗系の花園大学教授になったほどの専門家です。

 しかし、秋月さんは、「色即是空・空即是色」という、禅の根本義がわかっていません。

まず第一点、

 なるほど「色(しき)を自我(エゴ)、空(くう)を本来の自己」としたのは一つの解釈のように思えますだ。しかし、それは色即是空の概念とはとはなんら関係ありません。

 まず、まず、秋月さんの「色(しき)」の解釈がはっきりしないこと。(1)で述べたように、秋月さんはとは、目の対象界(物ですね:筆者)だ」と言ったり、「(人間の)肉体だ」と言っています。しかし、と自分の肉体はまったく別ですね。物は肉体の外に存在しますから。さらに秋月さんは「肉体と精神作用(両者を合わせると五蘊)で形成しているものを自我(エゴ)と言う。小宇宙としては自我、大宇宙に広めて考えても、世界はこの五つの要素でできている」と言っています。しかし、自我と世界とはまったく別の概念です。「世界はこの五つの要素(五蘊)でできている」とも言っていますが、「五蘊とは肉体と精神作用だ」と言ったはずです。人間の肉体と精神作用は、世界とは対象的な存在です。つじつまの合わない論理は成り立ちません。論理は神理ですから、それが成り立たなければ正しくないことになります。

 これに対して筆者は、「五蘊とはモノゴトについての認識作用だ」と考えています。モノゴトには、もちろん世界(対象界)も入っています。筆者の考えでは、五蘊のとはモノ(物)のことであり、後の四蘊がそれに対する人間の認識作用です。

ついで第二点、

 秋月さんは西嶋さん同様、なぜ、色即是空と言ってすぐ 空即是色と続くのかがわかっていません。以前お話したように、それには重要な意味があるのです。それがわからなければ禅はわからないはずです(以前のブログをお読みください)。

 前述のように秋月さんは多くの先師に教えを乞うています。しかし、それがかえって仇になったようです。筆者が尊敬する橋田邦彦先生は、当時(昭和初期)、たくさん出ていた「正法眼蔵」の解説書にはには目もくれず、道元の弟子による「正法眼蔵御抄」から出発しました。

 秋月さんは「今日ベストセラーだと言われるような『般若心経』の解説書を読むと『空とはこだわらないということだ』という解説がある。そんな説教ないし精神修養談で『(般若)心経』をどんなに見事に解説しても、一切的外れだ。それでは仏教の話にならない」と厳しい。しかし考えてみてください。お釈迦様が暁の明星を見て悟った「物我一如」の実体験が最高の悟りだ」と言われてみても、お釈迦様や空海だからこそ実体験できたので、現代人のいったい何人がその境地を追体験できるでしょう。秋月さんの言うことを聞いて大部分の人は、「ああそういうものか」と思うだけで、それこそ絵に描いた餅でしょう。秋月さんが強く批判した人たちが誰かは、今となってはわかりませんが、筆者はその人たちが言う「空とはこだわらないこと」の方が度一切苦厄(すべての苦しみから解放される)への道に近いと思います。つまり、筆者には「空とはこだわらないことだ」と言う方が、よほど「救い」への道に適っていると思います。

 これに対して筆者の考え、「正しいモノゴトの観かた」は、真摯に訓練すれば到達できるのです。

 いかがでしょうか。秋月さんは1999年に亡くなられ、筆者のこの批判に反論できません。しかし、すぐれたお弟子さんもいらっしゃるでしょう。読者の皆さんも含めて筆者のコメントに反論していただけることを待っております。