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筆者が禅の道に戻った理由

 筆者は20歳代の頃から「どうも生きにくい」と感じていました。周りとの関係がギクシャクすることが多かったのです(それには霊的な理由があることが後年わかりました)。そこで筆者はキリスト教の教会に通いました。しかし、どうもしっくりいきません。そこで禅の本を読みました。たまたま手にしたのが松原泰道さんの「般若心経入門」です。30歳の頃でした。しかし、松原さんが「あらゆるモノには実体がない」という考えにどうしても納得が行きませんでした。その失望から禅から離れました。まちがったことを書くことの罪は大きいのです。その判断は今でも変わらずこのブログシリーズでも書きました。もちろん今度は、「なんかおかしい」ではなく、「ここがおかしい」との根拠も明示しました。

 40歳代初めに個人的にとても困ったことが起こり、どうしても解決できない苦しみの中で、たまたま書店である神道系教団の教祖の著書を見付けました。さっそく隣県にあるその教会を訪れ、感じるところがありましたので、入会しました。そこでは「霊能開発修行」を主旨にしておりましたが、そのことは入会してから知ったたのです。月に1回、1日3回ずつ「霊感修行」があり、神前で座り、後ろで導師が祝詞を奏上するという型式でした。最初から強く感応したので驚きました。1回の修行ごとに修行帖に判を押してくれます。5年ほどで300回に達しました。修行が進むと神占法、神伝治療法(病気の治療)、邪霊払いなどができるようになります。今考えればその修行は「悟りへの道」だったと思います。その後別の教団へ移り、さらに5年間、同じような修行を積みました。そこで筆者が「なぜ生きにくいか」の霊的意味もわかりました。もともとある程度の素質もあったのでしょう。霊能開発は進み、ついに「あと一歩で霊能者になるところまで達しました(教祖の言葉)」。世の中には霊能者になるのを目指している人も少なくありませんね。しかし、霊能者になれば大きな責任が生じます(それをわかっていない人が実に多いのですが)。趣味として、あるいは仕事の片手間でやることではないのです。筆者には大学での研究と教育という重要な責務がありました。そこで教祖と相談し、霊能者への道を閉じていただきました。今でも正しい判断だったと思います。けっきょく、いろいろな事情があって筆者はその教団をやめました。その理由の一つは、修行が受け身だったことです。やはり、信仰とは、なにより自ら積極的に学ぶことだと思ったからです。このブログを書き始めたのは、すべての公職を終えてからです。

 以上、筆者の信仰も仏教に始まり、キリスト教から神道系教団と変化しましたが、結局、「禅こそ」との考えに至りました。その途上で神智学や、カントや西田哲学も学びました。南伝仏教の拠点スリランカの道場でも瞑想修行をしました。今考えてもこれらの遍歴は決して無駄ではなかったと思います。というより、「何かに導かれてここまで来たのではないか」とさえ考えています。なにより大切な気づきは、命は神によって造られたことに「ハッ」と気付いたことです。霊の存在もいやというほど体験しましたが、それも貴重な経験だったと思います。

 人間的にもずいぶん変わったと思います。大学の教え子に「人見知りする」と言ったところ「先生は明るくて、気さくで話好きな方だと思っていました」と驚かれました。生命は神によって造られたとの思いは、自ずと他の人に対する見方がやさしくなったのは当然でしょう。そして「少しでも世の中のために」と始めた一人ボランテイア活動が地域の人の目に留まり、最近、思いがけなく市から表彰されました。

 そして、こうして禅に関するブログを書き続けていることは、大きな生きがいになっています。

瞑想の意義(1)

  (話の途中ですが)

これまでもっぱら禅の教えについて学び、お話してきました。禅に限らず仏教では「教行一如」と言い、学びと修行はいずれも不可欠です。学びなくして悟りはありません。「わかったことが正しいかどうか」は奇跡が起こることで確認できます。そこで今回は、もう一度瞑想についてお話します。

 もちろん筆者は瞑想を毎日実践しています。瞑想の意義の一つは、心を鎮めることにあります。現代の私たちには、「良い高校や大学に入り、一流の会社に就職し、豊かな(?)人生を歩まなければならない」という暗黙の至上命令に従って生きています。そのため、時には幼稚園や小学校から塾に通う人もあり、就職してからも神経をすり減らす毎日です。つまり、私たちは常に何かを考えています。その「何か」も私たちがこの世で生きる本来の意味である、魂の成長とはおよそ関係のない、俗事ですね。それによってどれだけ心が曇り、魂との疎通が滞ってしまうかわかりません。そのため瞑想によって心を鎮めるのです。

 瞑想の最も重要な意義は、正しい瞑想を積み重ねることによって「本当の我(魂)」に出会い、それを通して神(仏)と一体化することです。神と一つになって正しいメッセージを受け、神の御心に従って生きるのです。筆者はもっぱら禅について学んでいますが、じつは釈迦以前のインドのヴェーダ信仰や神智学に共感するところが大きいのです。自己(アートマン)と神(ブラフマン)との一体化を目指すのが、ヴェーダ信仰の目的です。人間の言葉や行為によってカルマが生じ、それが私たちの魂の記憶になって刻み付けられると言います。輪廻転生(生まれ変わり)のさまざまな状況でカルマが表に現れ、多くの場合「好ましからざること」となって具現化すると言われています。

 これに対し釈迦仏教では、真っ向から自己(アートマン)という固定的なものを否定し、輪廻転生については「無記(語らない)」としました。それは当然のことで、もともと釈迦仏教はヴェーダ信仰のアンチテーゼ(それを否定する理論)として生まれたからです。

一方、神智学とは、広い意味では、カルマの存在や、神との一体化を目指す、ヴェーダ信仰と共通するところが多い考えです。ヨガにも通じるところが大です。もちろんヨガでも瞑想は重要な修行です。

 筆者は、神道系教団にも属して修行をしましたし、神智学についても学びました。カントの観念論哲学や西田哲学も学びました。そして今日に至るのですが、もう何が現在の考えに結び付いたのかはわかりません。いずれにしましても、釈迦仏教とはかなり異質なものです。

 ここでとくにお話したいのは瞑想のやりかたについてです。「ひとお―つ、ふたあ―つ・・・」と声に出して数える方法、自分の心を見つめる方法など、さまざまなやりかたがありますが、そのほとんどに筆者は馴染めませんでした。筆者が「これなら」と思う方法にたどり着くまでに10年かかりました。どうか皆さんもさまざまな試行をしてみて納得するものをつかんでください。なによりも続けることが大切です。

 最後にとても大切なことを付け加えます。瞑想は正しい指導者の指示に従ってください。「正しい」とは、「途中で何か起こっても対処できる人。それだけの霊的能力を持った人」」という意味です。有名寺院で5年や10年瞑想体験をしただけの人でもとてもダメだと思います。くれぐれもご注意ください。

Aさんが仏教では悟れなかった理由(1)

以下はネット記事です。著者Aさんはその理由を三つ挙げています。

 仏教には膨大な経典と、それらを裏付ける圧倒的な論理があり、その完成度は非常に高いと言われています。また、日々をもっと柔軟に過ごすための、ホッとするような包容力もあって、とてもバランスのよい教えだと思います。ですが、僕の読んだ多くの仏教書や情報教材が悪かったのか、以下のような点で幻滅をしてしまいました。

  • 「なんとなく日々を気楽に過ごすための心がけ」になっている
  • 複雑で難しい話が多く、それを理解したからといって幸せになれるとは思えない
  • 仏教の論理性や歴史を盾に、他の宗教を批判している

 悟りとは、きっと頭であれこれ考えることでもありませんし、外側から身につける「知識」でも、思い込みでなんとなく前向きになる「心がけ」でもないはずです。また、もし仏教の考え方が論理的に正しいものだったとしても、ある特定の「知識」を強く信じることは、かえって「執着」となって、硬い結び目のように、寛容性・柔軟性を欠きがちです。これを「信念」と呼べば聞こえはいいものの、実際の場合、ほとんどが自分のエゴを守るためのロジックに使われ、自分とは異なる価値観を批判したり、ひどい場合は衝突にもつながってしまうのではないでしょうか。

悟りとはきっとそのようなものではなく、知識を超えて、差別や区別のない、ただ愛だけが内側から溢れるようなものだと思います。そして、このような境地は、本を読んでいっぺんに得られるものではなく、ブッダがそうしたように、瞑想で自分の内側を見つめ、地道に気づきを深めていくことでしか手に入らないものだと、今でははっきり分かります。

理由2.何年も瞑想をしても、全く変わらない

 一通り教えを学んだのち、仏教に本格的に取り組もうと思った意識の高い人たちは、次に実際に瞑想や座禅をしてみて、少しでもブッダのいう「悟り」の片鱗を感じようとします。その際に、付近にある寺などで教えを受けながら実践する人もいれば、学者やセラピストの書いた本を購入して、独学で挑戦しようとする人もいるでしょう。また、瞑想のやり方も様々あり、じっと座って心を見つめ、雑念が出てきたら流すというものや、あるいは、ある言葉を繰り返し集中して唱えるという方法もあるようです。どんな方法であれ、一人でゆっくり座って無心になり時間を持つことで、ある程度、自分自身の穏やかさを取り戻すことができ、とても良い習慣だと思います。ですが、瞑想の目的が単なるリラクゼーションではなく、本当に悟りを目指して、自分の変容を目指している人にとっては、だんだんとある疑問が湧いてくることでしょう。それは、「いつまでたっても雑念だらけで、自分が何も変わらない」という根本的なものです。少し昔に、あるお寺で10年もの間、座禅をやり続けたという人とセラピーで一緒になったことがあります。しかし、それだけ地道に頑張ってきた方であっても、自分の性格の頑固さなどが原因で、仕事や人間関係がなかなかうまくいかないという悩みを抱えているようでした。年数で比較するのもどうかと思いますが、ブッダが悟りを開くのにかかったのは6年間ほどと言われています。ブッダの生きてきた時代や生活の状況とは全く違うとはいえ、10年頑張ったのに悩みは絶えず、雑念が次々と湧いてくるというのですから、思わず「やる意味があるのか」と疑ってしまいました。この人以外にも、瞑想をなんとなく続けているものの、実際は自分が変容しているか分からない、という人はとても多いと思います。もちろん、僕自身も独学で瞑想を毎日行っていましたが、正直まるで変わりませんでした。大学の先生の翻訳した本に書いてある通り、ブッダと同じやり方で修行しているはずなのですが、雑念は消えず、流しても流しても湧いてくるのです。そんなことを数十年繰り返しても良くならないとなれば、「悟りなど存在しない!」と憤慨する気持ちも分かります。決して楽をして悟りたいというわけではありませんが、それでも「もっと効率の良いやり方があるのでは?」と感じるのは、僕だけではないと思います。

理由3.出家をして極端な苦行をしなければ、悟れない?

 悟りを目指そうとするときに突き当たる問題として、やはり「外の世界の影響」を挙げなければなりません。試しに、外で仕事をして帰ってきた時と、一人で家に居てじっとしていた時の瞑想を比べてみてください。後者の方が、圧倒的に内側に入っていける感覚があると思います。それだけ、日々の生活で色々な人からたくさんのエネルギーを受けているため、やはり修行には人から隔離された静かな環境が不可欠なのです。そのような意味で「本格的に悟りたいなら、出家して世俗から離れよ」というのは、間違ったことではありません。

 ですが、日本人として生まれ、日本の社会で育ってきた人にとって、「出家」という選択肢は、あまりに極端に思えます。本当の理想を言えば、普通に社会人生活を営み、子供を育てたりしながら悟りを目指せる道があれば、それが一番だと思いませんか。社会との関わりをあまりに無視しすぎるのもバランスが悪く、孤独故にエネルギーが滞る原因になってしまうと思うのです。また、ブッダの時代から数世紀経って、状況も大きく変わっている今、その当時の極端な修行法をそのまま踏襲しようとするのはリスキー過ぎるように思います。日本でもしブッダと同じように出家して何日も断食を行ったり、過度に自分を痛めつけるような修行を行わせる団体があったら、公安から目をつけられてしまうでしょう。現代でも千日回峰行といった過酷な修行法があるそうですが、果たしてそんな辛い思いをしなければ悟りにはたどり着けないのでしょうか。苦行を繰り返すことで、本当に内側から愛が溢れたり、雑念がなくなり純粋になるということが起こるのでしょうか。

個人的には、神様からいただいた心と体は、もっと大切にして、誰かを幸せにしたり、安定した瞑想のために使うものだと思っています(もっとも、現代では、大切にしすぎて弱ってしまっているのですが)。

 「ストイックな自分」との共依存も起こりやすい

 このように、仏教を厳密に極めようとすると、どうしてもストイックにならざるを得ないわけですが、その構造自体にもリスクをはらんでいます。それは、「ストイックさはエゴに結びつきやすい」という点です。ブッダのように、まっすぐ戒律を実践できれば良いものの、多くの場合、自分の中に堕落的な気持ちがあるのにもかかわらず、それを抑圧してまで教えを守ることが正しいように振舞い、「自分はこんなに教えを正しく守っている」と意地を張ってしまうのです。

当然のことですが、いくら気持ちを押さえ込んでも、あるものをないことにはできません。このような抑圧を繰り返しおこなっていくと、エゴとして固着化して頑固になり、それをほどくのにもっと時間がかかってしまうのです。それはある意味、ストイックな自分との共依存であり、ブッダのいうような「執着を捨てていく生き方」とは真逆のものと言えるかもしれません。

本当に悟りを目指すために、仏教を去らざるを得なかった

 このような理由で、僕は仏教を去り、さらに本当の真理を求める旅を続けたのでした。もちろん、ブッダの教えは不滅であり、その真髄が衰えることはありません。僕自身も、今でもブッダが示してくれた教えには(失礼な表現かもしれませんが)、今でもとてもワクワクしています。ですが、現代の日本において、悟りのために必要なのは、厳しい苦行ではなく、日本のライフスタイルに馴染むような、社会人として普通に生活しながら、同時に神を愛し、悟りに近づいていけるような教えではないでしょうか。ブッダの時代からこれだけの年月が経っています。それなら、悟りの道ももっと進化しているはず・・・。

筆者のコメント:ネット記事をくわしく検討した結果、Aさんはとても純粋でひたむきに仏教を学んだ人だと思いました。ただ、若者らしく、いかにも視野が狭く、未熟なままであきらめてしまったように思いました。Aさんの論拠は一つ一つ精密に論破できますが、読者の皆さんもそれぞれのお考えをお持ちでしょう。判断はお任せします。また、人の心はその人のもので、他人がとやかく言う筋のものでもありません。ただ、他の若者たちの中にはAさんの言葉を「なるほど」と思う人もいるかもしれません。そこで、Aさんに反論するより、筆者が禅に(仏教に)戻った理由をお話した方が良いと考え直しました。(続く)

苦しみを幸せに変える 鈴木秀子シスター(1,2)

(1)鈴木秀子シスター(1932-)聖心女子大学教授(日本近代文学)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。全国および海外からの招聘、要望に応えて、「人生の意味」を聴衆とともに考える講演会、ワークショップで、さまざまな指導に当たっていらっしゃいます。「純潔」「清貧」「従順」の三つを誓ってシスターになられました。「純潔」の誓いにより、一生涯独身生活を守り、身も心もすべて神の国の建設のために捧げるのです。

「自分を生き抜く聖書のことば」(海竜社)、「死にゆく者との対話」(文藝春秋)、「あなたは、あなたのままでいてください」(アスコム)、「あなたは生まれたときから完璧な存在なのです」(文藝春秋)など著書多数。 

(以下はNHK「明日も晴れ、人生レシピ・苦しみを幸せに変える」の放送から)

 鈴木さんの活動の一つに「死を間近にした人への癒し」があります。枕元で手を取りながら「吐く息とともに心配や不安が全部外へ出て行きます」「過ぎ去ったことはすべて許されます」と言って死への恐怖から解放してくださいます。鈴木さんは「一人の人生の、それに振り回されず終わりというのはこの世を卒業し、向こうの世に生まれ変わって行くすばらしいチャンスだ」との、独自の死生観をお持ちで、そのきっかけは47歳の時、階段から落ちて5時間も意識不明になったときの臨死体験に基づきます。 ・・・取り巻いている全体が金白色のすばらしい光に満ちていて、立っている私は満たされている。ああ、無条件の愛とはこういうものだと、とても強く感じた(註1)・・・

 鈴木さんの言葉はどれ一つをとっても胸に響きます。

 ・・・病気とは苦しくて先がすごく不安になりますね。だけれどもその体験があなたを幸せに導いてくれます・・・よく「私の病気を治すために祈ってください」と言う方がありますが、私は「病気を直してください」とは祈りません。苦しみが無くなることがその人にとって果たしていいのかどうかわからないからです。その苦しみを通して、その人が人間として成長してゆくため、いまそれらに出会っているのかもしれない。「それを乗り越える力を与えてください」と祈ります・・・。

 ・・・迷うことも苦しむことも人間として当たり前ですが、そういうことを通して神さまが導いてくださり、すべてよく計らっていて下さると私は確信しております。ともかくその時に沸き起こってくる感情を認めながら、その感情に振り回されず、一つ一つの出来事に対処するのが一番とわたしは考えます・・・すべて起こることには意義がある、だから悲観せず、最悪とは考えずに、その気持ちを受け止めながら、今日一日を精一杯生きて行くことが大切です・・・

 ・・・自分自身と良い絆を築く、これが幸せになる第一の法則と確信しています。あなたが自分を叱りつけたり、なんであんなバカなことをしたんだろう」とか言って自分を責めたりしていると、他の人との人間関係も悪くなります。あなたが「また私を責め始めている」と気付いたら、このマジックワードを思い出してください。「意外と私は・・・」と言うんです。「意外と私は頑張ったじゃないか」「意外と私はみんなに感謝されているじゃなないか」・・・そういう自分の良いところを引き出してみてください・・・。

 鈴木さんは一年に一回、北海道で9日間、ただ一人で「沈黙の黙想」をなさいます。日常を離れ、静かに神に祈り続けることで「苦しむ人のために祈り続けるエネルギーが生まれてくる」と言っていらっしゃいます。

 鈴木さんのところへは、全国から相談のメールや手紙、あるいは直接訪ねてくる人がいます。その一人に7年前、娘を自死で亡くしたお母さんが来ました。「母親として失格ではないか」と苦しみ、3年間はほとんど寝たきりだったという。「鈴木さんに苦しさを話したいだけ話すと、ようやく少し楽になった」と。鈴木さんは「そのあなたの苦しみと救われた体験を私の会でお話になりませんか」と言うのに応えると、鈴木さんは「後で多くの皆さんから、『勇気をいただいた』との反応があったじゃないですか。あなたが想像しないところでたくさんの人が勇気をもらっている。(お嬢さんの自死という)出来事があって今のあなたがある。お嬢さんは素晴らしいものを贈られましたね。天国からお母さんにすばらしい働きかけをしているのです」。お母さんは「そう言われればそんな気にもなります」と。

(2)一生涯「純潔」「清貧」「従順」の誓いを守って生きて行くことは、部外者には信じられないほどの覚悟と実践でしょう。鈴木さんは13歳の時終戦を迎え、今まで、校長や教頭、すべての先生たちが「登校した時必ず天皇陛下のご真影にご挨拶しなさい」と教えて来ました。しかし(終戦の年)夏休みが終わって学校へ行ってみると、一人遅れてきた子がいた。窓から見ているとある先生が「あのバカはまだあんなことをしてる」と、せせら笑った。それを聞いて私の心にあった大切なものが一気に粉々になりました・・・」。「その空洞を埋めたのが、その後入学した聖心女子大学で同級生の曽野綾子さんから聞いた次の言葉でした・・・戦時中、シスターの一人が神についてお話していると、憲兵たちが乗り込んできて「キリスト教などデタラメだ」と言って講義を中止させた。しかし憲兵たちが引き上げると、シスターは、すぐに元の話にもどった」。キリスト者の心の中心軸は少しもぶれることがなかったのですね(註2)。

筆者のコメント:鈴木さんのご活躍はただただ頭が下がります。強い信念をもって神を信頼されている方ならではのお言葉と行動でしょう。ただし、死を間近にした患者へ、「吐く息とともに心配や不安が全部外へ出て行きます」「過ぎ去ったことはすべて許されます」との言葉は霊的な観点から言えば誤りです。誤りを伝えてやすらぎを得させるのは、やはり正しい道とは思えません。筆者でしたら、「あなたがこれまでひどいことを言ったり、ひどい仕打ちをした人に許しを乞いなさい」「あなたを生かしてくださっている神に感謝しなさい」「あなたを許し、愛して下さったたくさんの人に感謝しなさい」「自分を心から認め、許しなさい」と伝えるでしょう。また、「(自死をした)お嬢さんが天国からお母さんにすばらしい働きかけをしている」かどうかも筆者にはわかりません。お母さんの「そう言われればそんな気もします」が正直な感想でしょう。しかし、お母さんが、それまでのただただ自分を責める生き方から、「他人に聞いていただこう」と前向きになったのは間違いないでしょう。

註1 鈴木さんの「臨死体験が神の存在を確信させた」かどうかについては、異論もあります。「脳の中に組み込まれていた生存本能としての記憶に過ぎない」という人たちもいるのです。

註2 鈴木さんは「日本人には中心軸を持っている人が少ない」と言っています。まったく同感で、今度のコロナウイルス騒ぎなど、その好例でしょう。

一般人でも悟れるか(1,2)

一般人でも悟りを開くことがありますか?

ネットを見ていましたら、このような質問がありました。「がっしー」さん50代男性からです(https://hasunoha.jp/questions/32252)。

 ・・・仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか?

 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。

 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており 少々物足りない感じを受けます。もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。

 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として)これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。

お坊さんからの回答:(それに対する筆者のコメントを逐次付け加えます)

1)悟れません(浄土真宗・住職)

 広島県でしたら「がっしーさん」の周囲は 浄土真宗の寺院が多いでしょう。浄土真宗では「人間は煩悩を滅せない凡夫であり、今生で悟りは得られないので、全て阿弥陀如来にお任せして成仏させていただく」と考えますから、一般人も僧侶も自力では悟れないのです。阿弥陀如来のお力で救われるだけです。それを信じることで安穏が得られる訳で、その阿弥陀如来から頂いた安穏の気持ちを 他の方々におすそ分けすることはできます。自分が悟っていようと悟れていなくても 周囲の力になることは出来ますよ。

筆者のコメント:まず、「悟りとは何か」の定義が重要ですが、それは以下の回答とも関りがありますので追々触れていきます。

 浄土の教えでは悟りに至ることはできないことは宗旨からいって当然です(すでにこのブログシリーズでお話しました。後ほど改めて書きます)。ただ、「がっしーさん」が浄土真宗寺院の多い広島県にあるからと言って、悟っていないことの理由とするには不適切と思います。あくまでもがっしーさんの言葉から判断すべきです。 

2)悟りに至っているかどうかは…(臨済宗住職)

 一口に仏教と言っても、八万四千の法門と言われるように様々な思想体系を備えています。その分、悟りという状態も時代やセクトによって指しているものが異なるというのが実際でしょう。初期の仏教では文献を読む限り、悟りに至るには出家が絶対条件でしたので、在家のままでは悟れません。しかし、大乗仏教では維摩経などで示されるように在家のままでも悟りに至る事が可能であると説かれています。上記でお判り頂けるように悟りを明確に定義する事は出来ませんが、その前提の上で私見を述べます。

 仏教では老病死は苦として扱われますが、四門出遊で示されるように、これらの苦からの解放が仏教の立ち向かう重要なテーマです。では、なぜ老病死が苦なのかと言うと、他でもない自分に訪れるからです。ここで言う自分とは自意識、いわゆる「我」です。我が強ければ、それに比例して老病死苦は耐え難く、反対に我のない人は軽やかに人生を終えるでしょう。そのため、我を慎ましくするべく瞑想を行います。だから、悟りに至っているかどうかは「我・私心」の有無によって分かれるように思います。

 私自身は悟りに至っていない明確な自覚があり、あなたが悟りに至っているかは私には分かりませんが、誰かを助けるのに必要なのは悟りの自覚ではなくて、共感ではないでしょうか。私が本当に辛かったときに、一番助けになったのか達観した論理的なアドバイスではなく、一緒に泣いてくれた人の存在でした。あなたに共感があるのであれば、悟りに関係なく、手を差し伸べて頂ければと思います。

筆者のコメント:「誰かを助けるのに必要なのは悟りの自覚ではなくて、共感では?」はもっともな回答だと思います。やはりこの僧侶は自覚どおり、悟りに至ってはいませんね。

3)できます(天台宗住職)

 仏道修行をしなくても、悟りがえられるかどうかということですね。
もちろん、仏道修行をしていなくとも、仏道修行に値する人生を歩んでいれば覚れます。坊さんでなくても覚れます。覚りは坊さんの専売特許ではありません。すべての人に覚りはあるのです。高僧といわれる僧侶であっても堕落している坊さんを少なからず見てきました。反面、僧侶や高学歴でない人でも、多くの生命を救い人々を幸せに導いている人はたくさんいます。覚りの内容の受け止め方は人それぞれですが、少なくとも人の幸せを喜びに感じ努力を惜しまず導く人は大きな覚りを持った人でしょう。覚りは特殊な力、超能力ではないのです。生きる実感だと私は思っています。合掌

筆者のコメント:「仏道修行をしていなくとも、仏道修行に値する人生を歩んでいれば覚れます」とは筆者も共感するところはありますが、やはり「悟り(覚り)」とは別です。「特殊な力、超能力ではない」は卑俗な表現です。前回お話したように、「悟りに至ったかどうか」は「奇跡が起こったかどうか」で、明確に区別されます。筆者は、自らの体験からも一般人でも悟りに至ることはできると確信しています。

4)悟っています(浄土真宗副住職)

 悟るとはなんでしょうか? 大きな安心を得ること、心にわだかまるがないこと、澄み切った青空のような気持ち、人によって違うようで、違わないような、求めても得られるものではなく、求めれば求めるほど 遠ざかるように思えます。

佛是幻化身 祖是老比丘  仏はこれ幻化の身 祖はこれ老比丘
儞若求佛 卽被佛魔攝   仏を求めれば すなわち仏魔に攝せられん
儞若求祖 卽被祖魔縛   祖を求めれば 祖魔に縛せられん
儞若有求皆苦 不如無事  若し求めることあらば皆苦なり 如かず無事ならんには

淡々と生きられたらよろしいかと。ただ、一つ異論があります。自らが選択した人生ではありますが、生かされた人生、給わりたる人生、と考える報恩感謝の気持ちが湧いてきて、よりあなたの人生を豊かにするのではないかと、愚拙は思います。南無阿弥陀仏

筆者のコメント:よく見られる人生相談に対する僧侶らしい回答ですね。つまり単なる一般論です。厳しい修行を続けている僧侶たちは、明確な意思を持って悟りを求めています。「求めれば求めるほど遠ざかる」とは、この住職は悟りに至っていないことを自ら示しているのです。

5)菩提道次第(臨済宗住職)

 真に悟りを開けば、迷い苦しみは完全に滅するため、その境地が悟りかどうかなどについても迷うことなく、ここにご質問頂くことももちろんないことになるでしょう。とにかく、悟りへと至るためには、確かなる仏道により、無明(根本的な無知)と煩悩を退治し、業を清らかに調えていくことが必要となって参ります。特に、悟りの妨げとなってしまっている煩悩障と所知障(究極の真理を知ることを妨げる障害:筆者)を、仏道修行における智慧と福徳の力で対治(退治?:筆者)することが求められるところとなります。ではいかにして私たちは悟りへの道を歩むべきであるのか、それが詳しく述べられてあるのが、10~11世紀に活躍されましたインド・ヴィクラマシーラ大僧院の僧院長であったアティシャ大師による「菩提道灯論」からの流れを受け継ぎ、14~15世紀のチベットにおいて活躍されましたツォンカパ大師により著されました「菩提道次第論」、「菩提道次第広論」であります。和訳があります。

筆者のコメント:これも単なる一般論でしょう。「あなたは悟りには至っていません」という答えですね。それにしても「〇〇を読んでください」はちょっと無責任では?