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怒りは自分も傷つける

 家族ぐるみの付き合いをしていた年上の友人が5年前に亡くなり、遺族の兄弟間で、遺産をめぐってバトルが続いています。父親の土地は兄が相続しました。もちろん法的には兄弟ともに土地を相続する権利はあります。しかし、父親は、弟が義父の多額の遺産を受け継いでいるという事情を斟酌して、財産のない兄に土地を与えたのでしょう。弟は、義父が亡くなり、以前から父親の土地に移転して家を建てていたため、賃貸料無しにそのまま住み続けることが、暗黙のうちに了解されていました。

 しかし、そこがトラブルの元になったのです。兄は「これは俺の土地だ」の意識がだんだん強くなり、「〇〇万円やるから出ていけ」と。そんな金額で建物(2階建て)を解体し、新たに土地を買って移転できるはずもなく、結局そのままずるずるになり、今日に至っています。それが10年近く続いたのです。父親の書斎も残り、アパートを建て、娘の自宅を新築したといっても、もともと700坪もあるのです。30坪の弟の家などあっても許容の範囲ではないか。筆者は以前から友人である父親の判断を尊重していましたから、兄弟間のバトルでは終始弟を支持し、兄には「君は欲深だ」という態度を取り続けていました(口には出しませんが)。

 ところが最近、新たに市の道路が通ることになり、弟邸の土地にも一部掛かる計画だとわかりました。そこでバトルが再燃し、とうとう双方の怒りが一触即発の状態になったのです。限度を超え、言ってはならないことまで言い合うに至りました。長年の付き合いで、双方から筆者のところへ訴えが来ました。友人の霊は悲しんでいるでしょう。今日お話したいのは、その後のできごとです。

 「あわや」の事態から約一か月たった最近、兄を見てその激ヤセぶりに驚きました。人違いかと思ったほどです。しかもその家内は入院しているとか。すぐにお見舞いに行ってみますと、本人は「精神的に・・・」と言っていました。兄夫婦の怒りや恨みは結局自分に返ってきたのです。筆者も後悔しました。あのとき「兄が欲深だからだ」と強く思ったことをです。たとえ正しいと思っても、「黒白をはっきり言ってはいけない」のですね。居丈高に振りかざしていいような正義などはないのです。仲裁してみて、こういう場合、双方が必死になって、へ理屈を付けてでも自分を正当化するものだということもわかりました。どっちもどっちです。禅では理屈をとても嫌います。「正義」などと言うものもないのです。

 問題を解決する道は一つしかないと思います。どちらかが冷静になって自分の主張を少し引っ込めることです。怒りや恨みなど、どこかで断ち切らなければいけないのです。ほんの少しの勇気をもって、こだわりを捨てなければならないのです。こだわらないことは禅の基礎です。そして、欲深いことは、仏教で言う貪(むさぼり)瞋痴の三毒の一つです。

 以前、「このままでは死ぬまで憎み合うことになるのではないか」という筆者の友人たちのことをお話しました。憎しみを残して死ぬことは、霊的に言っても、とてもいけないことなのです。

在家仏教と禅寺での修行(1,2)

その(1)NHK「心の時代」で、岐阜県美濃加茂市臨済宗正眼寺での厳しい禅の修行が、師家の山川宗玄師によって紹介されていました。午前3時半起床で、午後9時、時には10時や11時まで、息つく間もないほどのぎっしりとした規矩に従って座禅、師家との禅問答、読経、托鉢、作務(掃除や食事の支度)などが行われているとか。山川師の若いころには時には就寝は午前1時になることも少なくなかったと。托鉢では笠をかぶることも許されず、もちろん冬でも足袋をはくこともできない。

 厳冬期に行われる蝋八接心と呼ばれる特別座禅修行の7日間には、零15度にも下ることがあるという。大切なことは修行僧たちは、それらを少しも苦痛とは思わないことです。感動的ですね。

このような修行は、曹洞宗永平寺や、岡山県玉島圓通寺(あの良寛さん修が行した寺です)、決められた寺を持たない村上光照師のグループでも同じようにおこなわれています。山川師のような上級者は妻帯することもありません。

 道元禅師は修行者は家族も捨てて修行に専念すべきだと言っています。筆者はそれらの人々を心から尊敬していますし、修行の密度は及ぶべくもありません。しかし一方で、そういう修行法に疑問も感じているのです。

 修行僧たちは本を読むことが禁じられています。では他宗の教義や修行のことはどうして知るのでしょう。釈迦の教えを色濃く残している原始仏教や部派仏教、さらに対照的な他力本願である浄土宗系やキリスト教についても知ることができないでしょう。仏教の歴史的な変遷についても・・・。筆者は長く生命科学の研究を続けてきましたから、自分の専門分野だけをいくら深く学んでも限界があることをよく知っています。逆にまったく異なる分野の知見から大きなヒントを得ることが多いのです。山川師にも仏教について、いくつかの誤解があることは、以前お話しました。

 修行僧たちは静かに音楽を聴くことも小説を読むことも許されていません。その時間もないはず。いずれも筆者は好きですし、テレビにも良い番組はたくさんあります。それから得られる心の豊かさやゆとりは計り知れないでしょう。それらは禅仏教の理解に資するところが大きいと思っています。

 普通の人にとって家族を持つことは、悩みの種となることがあって当然でしょう。会社員として他人と一緒に仕事をすることは、葛藤の原因となることもしょっちゅうでしょう。私たちはみんな苦しみつつそれらを乗り越えて生きてきたのです。修行僧たちの辛さとどこに差があるでしょうか。

 それは女性でも同様でしょう。仕事と家庭の両立はやった人でしかわからないでしょう。主婦の子育てが済んでも、食事の支度、日常の雑事が、歳とともに負担になっていくことは、長く見ていて筆者にもよくわかります。これからは介護(筆者の!)も待っているかもしれません。世の中には、明日の食事にもこと欠く人たちも少なくありません。これに対し修行僧たちの衣・食・住は保証されています。それは、けっして小さなことではないでしょう・・・(以下に続きます)。

その(2) 筆者は、永平寺での師家と修行僧たちとの問答の場面を映像で垣間見たことがあります。それらの多くは残念ながら形式的なものと言わざるを得ませんでした(道元が定めた「只管打座」を旨とする永平寺でも禅問答はあります)。

 筆者の敬愛する良寛さんは、書の達人ですし、漢詩や短歌にも優れたものがたくさん残っています。阿部定珍や解良叔問などの越後の庄屋たちと親しく酒を酌み交わしました。晩年には貞心尼と歌のやり取りをするなど、こころ豊かな後半生を送った人です。良寛さんの禅境の深さは、残された詩や短歌からよくわかります。重要なことは、良寛さんは従来の寺や僧侶に失望して飛び出した人だということです。私たちと同じ世界にもどったのですね。そしてなにより重要なことは、良寛さんの人柄や生き方は、200年後の私たちでさえ、大きな慰めと勇気を与えてくれることです。筆者は心が屈した時、ふと良寛さんを思い出してホッとするのです。たとえば「淋しい」と感じたとき、「いや良寛さんはもっと淋しかった」と思い出すのです。

 もし良寛さんが野に下らなかったら、単なる一高僧としてしか名前が残らなかったでしょう。どんなに禅境が高くても、私たちが現代日本の高僧たちから得るところは少いでしょう。ここなのです。初期仏教が修行僧個人のためだけであることに飽き足らなくて大乗仏教が生まれた理由は・・・。

 良寛さんが200年後の現在の日本の禅寺の様子を見たらどう思うでしょうか。

 一方筆者は、在宅出家というものを好みません。たんなる自己満足ではないかという気がするのです。

 以前にもお話しましたが、筆者の友人には保護師としてのボランテイアを17年も続けた人がいます。罪を犯した少年たちに寄り添い、再び罪を犯さないように親身になって援助するのです。いったん道を外れてしまった少年たちですから、素直ではなく、反発することも少なくないと聞きます。彼らと付き合うのは、耐え難いことが多いと思います。それを長年続けることの厳しさは、禅の修行と変わらないと思います。頭が下がりますね。別の友人は、長い間地方都市の中企業の社長をしてきました。「一つ仕事を獲得しても、その次の保証はなく、眠らない日が続いた」と言っていました。しかし、長年それに耐え、見事に会社を存続させ、後継者に道を譲りました。それは禅の修行に何ら遜色のない厳しさでしょう。その後ロータリークラブの会員になり、実際に社会貢献されています。今では会長職からも退き、友人たちと小旅行を楽しむ日々だとか、筆者もそれを聞いて心から「よかった」と思うのです。これらの人たちは立派な仏への道を歩んできたのです。そしてこれらの友人たちはまことに穏やかな人柄です。専門の修行僧たちの修行に比べて何の遜色もない、いやそれ以上だと思っています。

「無門関」第二十九則 非風非幡

本則(筆者訳):ある時法座を知らせる寺の幡が風にパタパタ揺れ動いていた。それを見て二僧が議論を戦わせていた。 一人の僧は「幡が動いているのだ」と言うと、もう一人の僧は「いや風が動いているのだ」 と言ってお互いの立場を譲らないので決着が着かなかった。それを聞いた六祖(註1)は 「これは風が動いているのでもなく、また幡が動くのでもない、あなた方の心が動いているだけだ」と云った。 これを聞いた二僧はゾッとした。


無門の評唱(感想、筆者訳)風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましては心が動くのでもない。それでは祖師が言いたい処は一体何処にあるのだろうか。 もし、そこをしっかりと見抜くならば、この二僧がはじめ鉄を買おうとしたのに、 思いがけず金を手に入れたことが分かるだろう。 それにしても六祖は優しすぎたためにとんだボロをだした一幕であった。

註1 大鑑慧能(たいかんえのう、638-713)唐代の優れた禅師。禅の中興の祖。

 前回に続いて千葉県曹洞宗西光寺無玄邦光師の解釈(詳しくはブログをお読みください):

・・・では「風・幡・心が動く」と「風・幡・心は動かず」との違いは何でしょう。語意からすればまったく相反する表現です。この公案の意図はまさにここにあるのです。それはつまり「心が動く」と「心動かず」に”差”があったら「事実」は見抜けないということです。すなわち、「動く」が真に分かれば、同時に「動かず」が分かるのです。「動く」を観念として理解していたら絶対に分かりません。ちょっとでも差別観念が働いたらたちまち「真実」は”天地遙かに隔たって”しまうのです。ここで無玄師は風・幡・心は不二一体だと言っています:筆者)・・・風・幡・心が真に不二一体のものならば、一体という認識も、不二という概念も、「動く」「動かない」という観念も、更に言えば「悟り」という観念もそこにはありません。あるのはただ「あるがまま」の「まるだし」だけです。「ただまるだし」の世界には一切の分別はありませんから、無門禅師の言う「動くもの」など何もないのです。一切の対立観念もないから幡も風も心も無く「物我一如」なのです。すなわち「まるだし」が「事実」なのです・・・

筆者の感想:まず、「風が動くか幡が動くか」の二僧の議論は、たしかに六祖が言うよう、「モノゴトを対立してとらえてはいけない」という禅の考え方に反します。無門が「六祖は優しすぎたためにとんだボロをだした」と言っているのは、「教えてはいけない。ヒントだけ」という師家のルールを乗り越えてしまったためです。さらに、無門が「風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましては心が動くのでもない」と六祖を批判したのは見当違いです。なぜなら、六祖は二人の僧の議論を訂正したのであって「風・幡・心が動くかどうか」とは別のテーマだからです。

 それでは その「別のテーマ」についてお話します。まず、読者の皆さんは、無玄師の言う、

 ・・・風・幡・心が真に不二一体のものならば、一体という認識も、不二という概念も、「動く」「動かない」という観念も、更に言えば「悟り」という観念もそこにはありません。あるのはただ「あるがまま」の「まるだし」だけ・・・

がおわかりでしょうか。これでは、無玄師自身が嫌う「単なる説明」になってしまうと思います。筆者は、無門が言う「風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましては心が動くのでもない」の真意は、「空」の概念なのだと思います。「空」のモノゴトの観かたによれば、「風や幡という対象も、私の心も別々のものではなく、見る(聞く・・・)の、それぞれ、対象部分と主観部分にすぎない」という意味だと思います。いかがでしょうか。

釈迦仏教の変化

 NHK「心の時代 禅の知恵に学ぶ」で、岐阜県美濃加茂市臨済宗正眼寺での僧たちの真摯な修行生活が紹介されていました。その中で山川宗玄師が、典座が食事の支度をする厨房に祀られている韋駄天のお話をされていました。

 ・・・韋駄天はもともとインドのヒンドゥー教の神様であり、お釈迦様がそれを取り入れられた・・・

と。しかしそれは誤りです。私たちはインド=仏教と考えがちですがじつはインドでは古来、多くの国民がヒンドゥー教を信仰しているのです。起源をヴェーダ信仰に持ち、バラモン教として受け継がれ、さらにヒンドゥー教となったのです。成立したのは釈迦より千年も前のことです。すなわち、インドの古くからの民族宗教であり、業(カルマ)や輪廻の思想、さらに最高神ブラフマンと個我(アートマン)との一体化を理想にします。釈迦仏教はヒンドゥー教に対するアンチテーゼ(対立命題)として成立しましたから、当然これらの思想に対して否定的でした。ヒンドゥー教の神々を受け入れるはずがありません。釈迦の教えはその後大いに発展しましたが、インドでは輪廻転生の民俗信仰や、ヒンドゥー教に従ったカーストの身分制度が根強く(現代でも)、仏教は徐々に圧迫されていったのです。

 そこで仏教は何とか勢力を盛り返そうと、ヒンドゥー教の神々を取り入れて、民衆の気持ちに合わせようとしたのです。その神々こそ、韋駄天や多聞天、毘沙門天、持国天、弁財天など「天」の付く神々なのです。そういった改革の努力にもかかわらず、紀元4-5世紀には仏教はインドから駆逐されてしまいました。その後はスリランカやタイなどの、いわゆる南伝仏教、西域や中国、そして朝鮮や日本などへ伝わった北伝仏教となって現在に伝わったのです。達磨大師がインドからはるばる中国へ来たのは、インドで衰退した仏教を広める新天地を求めてのことだったのでしょう。禅は後期仏教(大乗仏教ですね)の一つですから、ヒンドゥー教の神々も取り入れたのだと思います。

 これで、釈迦が韋駄天や多聞天、毘沙門天を取り入れるはずはないことがおわかりただけるでしょう。「細かいこと」と言わないでください。こういう仏教のとらえ方はとても大切だと、筆者は思っています。

 こういう例はよくあることで、以前にもお話しましたが、日本では仏教が古来の山岳神道と一緒になった金峯山寺(吉野)や、熊野の那智大社がそうです。とくに後者は、神宮寺として青岸渡寺があり、その副住職は山伏と、もうムチャクチャで(筆者の個人的感想です)、唖然とするばかりです。

達磨安心

 「中野さんのブログは他人に対する批判が多いですね」と言われました。熱心に読んでいただいている人ですから、もちろん好意的な発言です。筆者の回答は「比較しなければ初学の人にはわかっていただけないから」です。そこで今回は併記の方法を取ります。

「無門関(註1)」第四十一則達磨安心

 達磨面壁す。二祖(註2)雪に立つ。臂(ひじ)を断って云く、

「弟子は心未だ安からず。乞う、師安心せしめよ」。

磨云く、「心を将(も)ち来れ、汝が為に安んぜん」。

祖云く、「心を覓(もとむ)むるに了(つい)に不可得なり」。

磨云く、「汝が為に安心し覓(おわ)んぬ」。

筆者訳:達磨は日々面壁坐禅をしていた。(後の)二祖は入門を乞うために雪中に立ち、自ら臂を切断し、達磨に差し出して言った。「私は、心が未だ不安です。どうか私のために安心させてください」と。すると達磨は、「それではおまえさんの心をここへ持ってきなさい。安心させてあげるから」と答えた。

註1 無門慧開(南宋時代1183-1260)によって編纂された公案集。

註2 俗名神光。後に入室を認められて二祖慧可となった(487-593)。

 以下は千葉県曹洞宗西光寺無玄邦光師のブログです(詳しくは直接お読みください)。

 ・・・「安心」とは、言うまでもなく「悟り」によって得られる一切の迷いから解放された大自由の心、これを「安心」というのです。この公案の狙いはその「安心」の”実体”を悟ることにあるのです。さて、ではこの公案はどう看ればよいのでしょう。達磨が「その”心”をここに持って来い」と言ったのに対して、二祖が「心不可得」(心が見付けられませんでした)と言いました。その「心不得」の一言にこの公案の答えが秘められています。では、その一言をどう解釈すればよいのでしょう。「心不可得」を単に言葉の意味の上から理解しようとしてもまったくダメです。公案はすべてそうですが言葉に囚われないことです。一切の分別と理屈を超えたところの”もの”を見付けるのです。その「もの」とは、「心不可得」という言葉”そのもの”です。「言葉そのもの」とは、その言葉自体の「実体」を意味します。”そこ”が分かるかどうかが勝負です。分別や理屈で考えていたのでは公案は絶対に分かりません。ではその「心不可得」”そのもの”の「実体」とは一体何でしょう。それは「無心」です。無心とは心が無いと書きますが、文字通り「心」を無くした境地のことです。「心不可得」(心が得られません)と一心に成りきって言葉に出して言うとき、言葉の意味を考えながら言う人はいません。
言っている瞬間は「無心」の筈です。”そこ”です。「そこ」に答えがあるのです・・・

筆者の解釈:要するに無玄師はこの公案を「無心」に結び付けたかったのでしょう。つまり、・・・「心不可得」という一言を慧可は「無心」で言った。その「無心」こそ「心の実体」だ・・・と。しかし、筆者そうは思いません。もしそうなら、達磨大師が「それではおまえさんの心をここへ持ってきなさい。安心させてあげるから」と言うはずがありません。前後関係が逆です。じつは慧可は、「心をここへ持ってきなさい」と言われて「ハッ」と気付いたのです。いままで、「心、心」と頭で考えていただけだったのを、初めて自分の「心そのもの」に気づいたのです。第一、「心不可得」と言ったのは一瞬ですから、「無心」なにもあるはずがありません。無玄師もそこが気になったので、後で「心不可得」(心が得られませーん)←無心で特に大声で」と付け加えざるを得なかったのでしょう(太字筆者)。いかがでしょうか。