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禅の心を生きた人‐良寛さん(1 – 4)

禅の心を生きた人‐良寛さん(1)

 良寛さん(1758-1831)は、子供たちと手まりを突き、草相撲をして春の一日を遊んだ人として親しまれています。しかし、じつはあの道元以来の禅の達人と、筆者は考えています(註1)。18歳のとき越後の庄屋の地位を捨て、備中(岡山県)玉島の圓通寺へ入って10年にわたる厳しい修行をしました。その結果印可(免許状)を受け、将来どこかの寺の住職になることが約束されたのですが、なぜかそれも投げ捨てて、長い修行の旅に出ました。そして39歳のとき越後にもどって、あの子供たちと遊ぶ日々を送ったのです。
 良寛さんのことは、筆者が前著でくわしく紹介しましたので、このブログシリーズではあえて割愛させていただいていました。しかし最近、前著からの読者で、ブログも熱心に読んで頂いている人から「五合庵(新潟県燕市)へ行ってきた」とのお知らせをいただきました。筆者も9年前に行きましたが、「庵の前に『 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな』の句碑があったことを覚えています。良寛さんの悟境をもっとも端的に表した句だと、碑を作った人が考えたのでしょう。

 じつはあの小林一茶(1763-1828)の句に「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」と、ほとんど同じものがあります。びっくりしますが、じつはよく知られた話です。その人からのメールには、
 ・・・両者の句の違いに頭を痛めています。一茶のほうが先に詠んだようで、良寛さんはわざわざ解かってこの句を詠んだのはどのような意味があるのかとても面白い問題です。ネットで一茶の方は「自己を主にした自然への計らい」、良寛さんの方は「自然は自然で恩恵にあずかるのはこちらからである。それを感謝するのもこちらの心からである」と解説しているが今一よくわからない・・・
とありました。たしかにその人が言う通り、良寛さんの心境を考える上で重要な課題ですね。以下に筆者の考えを述べますが、その前に、もう一つの漢詩をご紹介します。
                    筆者訳
 生涯、身を立つるに懶(ものう)く 立身出世など考えたこと
                  はない
 謄々(とうとう)、天眞に任す   ただ、天命に従うまで
 嚢中(のうちゅう)、三升の米   頭陀袋には托鉢でいただ
                  いた米が三升
 爐邊(ろへん)、一束の薪(しん) 炉端には薪一束
 誰か問わん、迷悟の跡       悟りとか迷いなどどうで
                  もいい
 何ぞ知らん、名利の塵       名誉とかお金など興味は
                  ない
 夜雨、草庵の裡(うち)      草庵の外の雨の音を聞き
                  ながら
 雙脚(そうきゃく)、等閑に伸ばす 足を長々と延ばしてい
                  る。他に何が要ろうか

 良寛さんの清貧の生活をよく表したもので、筆者を含めたファンたちの大好きな詩でしょう。ただ、良寛さんの気負いが感じられ、漢詩としての情感もいまいちですね。

 「焚くほどの」の句にもどります。この良寛さんの句は、一茶の「焚くほどは」の句より断然すぐれていますね。それは、前述のように良寛さんの禅の心が表わされているからです。

(註1 道元以来、一休、白隠などのすぐれた禅師がいたと言われているのですが、著書がほとんどなく、思想がよくわからないのです。これに対し良寛さんの悟境は、たくさんの漢詩や短歌、俳句から知れます。じつは、それらの資料さえ良寛さんはありあわせの紙に書き散らしていたのですが、死後、愛弟子の貞心尼が整理して残してくれました。ありがたいことです。)

禅の心を生きた人‐良寛さん(2)

 良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」の句は、小林一茶の「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」の後で作ったと言われています。ほとんど同時代の人で、一茶の句は当時からよく知られていたそうです。なにせ一茶は、俳諧の世界の一方の雄でしたから。筆者は一茶の終の棲家、長野県柏原も訪ねたことがあります。火事で母屋が焼けたため、移り住んだ土蔵改造の建物でした。

 一茶の句は、「風が私に葉をくれた」。良寛さんの句は「風が吹いて葉が私のところへ飛んで来た(だけ)」ですね。前者が、風(自然)と私(一茶)を対立的にとらえているのに対し、良寛さんの句には風(自然)から私(良寛さん)への働きかけなどありません。「なるようになっているだけ」なのです。ここが重要なのです。

 筆者はこのブログシリーズで、
 ・・・空(くう)とは、私が対象物を見た(聞いた、さわった・・・)体験そのものが真実だというモノゴトのみかたである・・・
と、お話してきました。そこには私と対象の区別はありません。「両者は一体」(というより、禅では「一如」)です。禅の達人である良寛さんはとうぜんその考えを体得していたはず。そのため一茶の句を知って「私はちがう」と言わざるを得なかったのでしょう。他人の、しかも有名な句を勝手に変更したのは、やや穏当ではないようですが、良寛さんのひたむきさがそうさせたのでしょう。

 「焚くほどは、風が持て来る落ち葉かな」の句は、まさに自然と人間が一体化した世界を表わしているのですね。なぜこの禅のモノゴトの見かたが画期的であるかは、おいおいこのブログシリーズで、さまざまな方向からお話していきます。

 でも一茶を良寛さんと比較しては気の毒だと思います。なにしろ良寛さんは「永平寺より厳しい修行の場」と言われた備中玉島の圓通寺で10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。それに対し、一茶は、すぐれた句をたくさん残した人ですが、なんと言っても農民出身なのですから。一茶が継母や義弟と熾烈な遺産相続争いをしたことはよく知られています。「嚢中に三升の米と、炉辺に一束の薪があれば十分だ」と読んだ良寛さんの心境とはおのずと次元がちがいますね。

禅の心を生きた人 良寛さん(3)-芭蕉と山頭火

 友人であり、このブログシリーズを読んでいただいている人たちと一夜、歓談しました。筆者が良寛さんについて熱っぽく語りますと、そのうちのお一人が、「良寛さんが家庭も持たず、子供も残さなかったのは、生物の一員としての天の摂理に反するのではないか」と指摘されました。理屈はわかりますが、それでは子供さんができなかったご夫婦に失礼だと思います。まあ、酒の上でのことと許容されます。また、筆者が「良寛さんが一生、物乞いして生きたのは大変なことだ」と言いますと、「でも晩年はどうしたろう」と疑問が出されました。

 まず第1の疑問について:
 「もう少し広い視野で見てあげてください。禅の世界では、家庭を作ろうと子供ができようとできまいと、是非の判断は一切無いのです。地位がどうとか、財産や教育の有無についても同じことです。家庭を持ち子供を作れば喜びはもちろんですが、それなりの悩みもあります。高い(?)地位に付けば組織をまとめて発展させて行く苦労も付いて来るのは当然です。
 良寛さんはたぶん、禅の心を一生掛けて体現したいと決心し、それをやり遂げるには幸せな家庭を築くことは無理だと考えたのでしょう。「社会人としてちゃんと生き、幸せな家庭を築きながら禅の道を体現することができる」というのは、「言うは易く・・・」でしょう。良寛さんは自分の将来の限界をはっきりと見通したのでしょう。

 良寛さんは、備中玉島の禅寺で、10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。いずれ、しかるべき寺の住職になり、生活は安定し、弟子たちからも尊敬される一生を送ることもできたはずです。しかし、あえてその道を放擲したのです。自由が縛られると思ったのでしょう。

 あの松尾芭蕉や、自由律俳句の種田山頭火も自然と一体化し、自由に生きた人です。芭蕉の「静かさや・・・」や「古池や・・・」、「荒海や・・・」の句はそのまま禅の心を表わしたものかもしれません。山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」や「うしろすがたのしぐれてゆくか」の句も同様でしょう。しかし、それぞれ日本各地に信奉者がおり、そこを訪れて句の添削をすれば当然謝礼もいただけたでしょう。「奥の細道紀行」など、彼らの経済的支援があったからこそ成し遂げられたと思います。筆者も山頭火は尾崎放哉と並んで好きですが、二人共大酒のみで、どれほど支援者に迷惑を掛けたかわからないのです。
 山頭火も芭蕉も、それぞれ立派な句集を残しました。一方良寛さんは、詩集「草堂集貫華(そうどう しゅうかんげ)」と歌集「布留散東(ふるさと)」を残しました(いずれも現代の複製があります)が、あとは散らした歌や詩を弟子の貞心尼たちがまとめてくれたおかげで、今日私たちが味わうことができるのです。つまり、芭蕉や山頭火などの「句の宗匠」とはまったくちがうのです。

 第2の疑問「晩年も物乞いをしたか」について:

 晩年は、越後の大庄屋で文化人であった阿部定珍(さだよし)や、解良栄重(よししげ)などに良寛さんの学識や歌が自然に認められ、肩の凝らない交友が始まり、援助と言うより「気軽なお土産」として、いろいろなものをいただいたようです。

  ちんばそに酒にワサビにたまはるは春を淋しくあらせじとなり
(ほんだわらや酒やワサビをいただいたのは、私の春が淋しくないようにとのお心づかいからでしょう)

良寛さんと語り暮れて帰ろうとする友人に、

 つきよみの光を待ちて帰りませ、山路は栗のいがの多きに
(月が出てからお帰り下さい。山道は栗のイガも多いでしょうから)
と詠んだのも二人の温かい交情がよく出ていますね。

 またある秋の夕暮れ、良寛さんが一人の老農夫に呼び止められ、とうもろこしやどぶろくをご馳走になり、「こんなものでよかったらいつでもお寄りください」と言われたとの歌が残っています。

ことほどさように、筆者のような良寛さんファンには、つぎつぎにその歌やエピソードが出てくるのです。

禅の心を生きた人(4)良寛さんの悟境-道元以来の人

 ただ、良寛さんはけっしてすべてを受け入れ許容した人ではなかったと筆者は考えます。そんな人だったらとても敬愛できないでしょう。孤独な生活や、冬の寒さを、「淋しい、さみしい」とか、「寒さが腹にしみとおる」と正直に、なんども詠っています。それだけに春が来て子供たちと遊ぶのが心から楽しかったのです。
 
 きわめて純粋な人であったことは、堕落した同僚の修行僧たちに対する、若い時の厳しい批判の詩からわかります。とほうもない寛容の人だと考えては、良寛さんの禅の心はわかりません。「ぐっと我慢して表面は笑顔で」では、自由な心とは言えませんね。いやなものと付き合うより、避けることで自由さを保ったのだと思います。失火したと無実の罪から殴られても、されるままにしました。「経もあげずに子供たちと遊んでばかりいて」と非難されても、「私はただこういう人間です」とつぶやくだけだったのです。いずれについても詩を残しています。
 
 会って心地よい人達とだけ付き合い、好きなことだけをして自由気ままに過ごす。そのためには家庭や社会的地位、生きる糧を得るための社会的手段をすべて放棄したのです。新潟県北部の国上山にある五合庵に行くと、托鉢や、寒さ防ぎがどれほど大変だったかよくわかります。厳冬期など、明日の米も心配しなければならなかったでしょう。それでも、社会と関わって生活の糧を得るより、自由を選んだのです。自分の心にあくまでも忠実でありたいと思ったのでしょう。良寛さんはそれをやって見せてくれた人なのです。禅の心とは、なによりも自由な心なのですね。

 良寛さんの悟境は、道元以来だったと思います。なるほど道元以降、一休禅師や沢庵和尚、白隠など有名な禅師たちはいます。しかし、みんな基本的な生活は保障されていた人たちなのです。組織を作り、組織に入ればそれなりに自由が奪われるでしょう。「三升の米と一束の薪さえあれば十分だ」と歌った良寛さんの心境とは比べモノにならないのです。

公案の理解と坐禅(1, 2)

禅における語録の意義(1)

ここでお話しする語録とは、公案や禅語のことです。
 禅では、曹洞宗のように只管打座、つまりひたすら坐禅・瞑想をする宗派と、臨済宗のように、坐禅とともに公案についての師弟の問答を重視する宗派があります。一般に前者を黙照禅、後者を看話(かんな)禅と言われています。

 小川隆博士は「語録の思想史」(岩波書店)の中で、
 ・・・禅は一般に、坐禅によって悟りをめざす宗教だとされている。しかし、坐禅・禅定という行の実践は、とくに禅宗に限ったものではなく、さらには仏教独自のものでさえない。文献として残されているものを見るかぎり、禅宗のきわだった特徴は、坐禅よりもむしろ禅僧どうしの問答にこそあった・・・
と言っています。たしかに天台宗や真言宗にも瞑想はあります(止観と言います)。空海は虚空蔵求聞持法にある陀羅尼(短い呪文)を百万回唱えた結果、開悟したことはよく知られています。一方、釈迦以前のインドにも古くから瞑想はあり、釈迦自身が悟りを開いたのも瞑想によります。しかし、やはり坐禅瞑想と言えば禅でしょう。小川氏のこの説は、「語録の思想史」をのべるための、いささか我田引水の気味があります。それは小川氏がつづいて、
 ・・・自らの開悟を目指すのなら、今日でもやはり、自らその道を行くべきでしょう・・・
と言っていることから明らかです。悟りを目的とせず、たんに学問として語録を学んだとてどんな意味があるのでしょう。大部分の人が開悟のために語録を学んでいるはずです。

 道元がなぜ、「只管打座」、つまり、「ひたすらざぜんせよ」と言ったのか。それは道元の師・如浄の時代の中国の禅宗の事情にあります。禅はその前の唐の時代に大きく発展し、今に伝えられるそうそうたる禅師たちが輩出しました。しかし、如浄のいた宋の時代になると、ある者は朝廷や貴族に重んぜられるようになり、必然的に権威主義的になり、禅問答ももったいぶって形式的なものになりました。僧侶たちも経済的にも安定し、ひたむきな修行から離れて行ったのでしょう。如浄の禅風は、その流れから屹立したものだったのです。「只管打座」は道元の師・如浄の修法なのです。おそらく、まじめな禅僧たちも、ともすれば無意味な「禅問答」にとらわれ、正しい修行から遠ざかっていたのでしょう。
 道元の死後、師の言葉が弟子たちによってまとめられたものを「永平広録(十巻)」と称しますが、弟子義尹(ぎいん)がそれを持って宋へ渡り、かって道元の兄弟弟子だった無外義遠に校正を頼みました。無外義遠がそれを一冊に抄録したものを「永平略録」とも「永平(道)元禅師語録」とも言います。その序文に筆者が今のべた如浄の功績が書かれています。
 道元が公案を重視していたことは、「正法眼蔵」の中にも、「谿声山色巻」「栢樹子巻」「祖師西来意巻」「三界唯心巻」「即心是仏巻」など、多くの公案が含まれていることから明らかです。ただ、曹洞宗では臨済宗でのような「問答」は重視されませんでした。

 悟りのためには坐禅・瞑想と公案の理解のいずれもが重要だと思います。くりかえしますが、如浄や道元が「只管打座(ひたすらざぜんせよ)」と言ったのは、修行僧たちがあまりにも公案の理解に執心していたためでしょう。現代でも看話禅の宗派では、禅問答が儀式化されているところがあります。儀式も禅の嫌う概念の固定化なのですが・・・。

禅における語録の意義(2)

 筆者は、日々坐禅・瞑想を欠かしませんが、公案や禅語録も重視しています。以前お話したように、筆者は「永平(道)元禅師語録」「臨済録」などの現代語訳をしました(「従容録(碧巌録)」については進行中です)。禅を体得するには、やはり言葉も大切だと思い、詳しく検討したのです。公案の学習は、坐禅・瞑想とともに悟りに至る重要な道だと思うからです。

 筆者は、このブログシリーズで、さまざまな公案を取り上げ、近現代のわが国の著名な禅師たちの解釈を紹介してきました。じつは、もっと多くの禅師たちの解釈を調べたのですが、それらを比較評論するのはかえって読者の皆さんを混乱させると思い、ここでは避けました。結論だけ言いますと、同じ公案についても、禅師たちの解釈は一つとして同じものはありません。もちろん、どの禅師についても直弟子や孫弟子の考えは除外しました。師匠の影響を強く受けるのは当然だからです。とにかく、禅師によってこれほどバラバラな解釈から私たちは何を学べばいいのでしょう。「公案の解釈は人さまざまでいいのだ」という説もありますが、筆者にはなっとくできません。

思想とは言葉である
 悟りとは思想の飛躍的変化ですが、思想とは言葉なのです。言うまでもありませんね。「なにかをわかる」というのは「言葉」としてわかるのです。心を表現するに言葉を持たない人に悟りはありえません。ことほどさように禅において言葉は大切であり、公案の解釈は開悟の重要なヒントになるのです。そしてさらに、悟境(とうぜん、それ以前とはまったく違った世界になっているはずです)を詩で表現することもよく行われています。偈頌(げじゅ)と言います。

 次は、以前お話した、中国宋時代の詩人蘇軾(そしょく:蘇東坡1037-1101)がある時、廬山を訪れ、夜の渓流の声を聞いて突然悟に達したときの感動を常総禅師に呈上した偈頌です。

 谿声(けいせい)便(すなわち)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)、
 山色(さんしき)清浄身(しょうじょうしん)に非ざること無し。
 夜来八万四千の偈、
 他日如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん。

筆者訳:渓流の声はそのまま仏のご説法であり、
    山のたたずまいは仏の清浄なお姿そのものである。
    この昨夜からの八万四千の偈文の経を、
    後日 人にどう話せば分かってもらえるであろうか。

 このように、思想とは言葉なのです。そして坐禅・瞑想の実践が禅の言葉を作り出すこともあるのです。道元もこの感動的なエピソードを「正法眼蔵・谿声山色巻」で取り上げています。

浅原才市ー他力信仰の真髄

浅原佐市

 前回、「清原満之と暁烏敏のあと、本当の意味の他力信仰を理解していた人はいないのではないか」と言いました。ただ、石見の下駄職人浅原佐市(1850-1932)だけは例外です。佐市は、幕末から昭和7年の死まで、阿弥陀如来を心から信じて生きた人です。下駄造りで出たカンナの削りくずにすなおな信仰の気持ちを書き続けました。その内容は素朴ですが、心に響きます。
    ええな せかいこくうがみなほとけ
    わしもその中 なむあみだぶつ 

    ねるも仏
    おきるも仏
    さめるも仏
    さめてうやまう なむあみだぶつ
    むねに六字のこゑがする
    おやのよびごえ
    慈悲のさいそく
    なむあみだぶつ

    目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて 
    南無阿弥陀仏と 声でしられる
    死ぬるは浮世のきまりなり
    死なぬは浄土のきまりなり     
    これが楽しみ 南無阿弥陀仏
    世界をおがむ 南無阿弥陀仏  
    世界がほとけ 南無阿弥陀仏

    聞いた聞いた
    いいこと聞いた
    凡夫が仏になること聞いた
    聞いても聞いても何ともない
    何ともないのが目当てと聞いた

    ほとけから
    ほとけをもろうて
    なむあみだぶつ

    なむあみだぶつが
    わしのほとけよ
    こんなさいちわ(才市は) かくことわやめりゃゑゑだ 
    いいや こがなたのしみわありません やめらりゃしません 
    ほ(法)をたのしむかくもん(無学者)であります
    まことにゆかいなたのしみであります
    明ご(名号)のなせることのたのしみ なもあみだぶつてあります
    道理理屈を聞くじゃない 味にとられて味を聞くことなむあみだぶつ
    あさましと知られた心 仏の心よ

    凡夫わからにゃ邪慳なり 凡夫わかれば慚愧なり なむあみだぶつ
    おなじ迷い迷いと言いましても 
    迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは違いがしてをります 
    自力他力はここでわかります
    他力には自力も他力もありわせん 一面他力なむあみだぶつ
    煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ

    如来さんはどこにをる 如来さんはここにをる    
    才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ
    名号は不思議な慈悲で 合点がいらぬ 
    合点いらぬがなむあみだぶつ

    念仏は仏の念仏 仏が申す念仏 ただの念仏 
    わたしゃ用なし ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ
    なむあみだぶつに抱き取られ 取られて申すなむあみだぶつ
    称(たた)えても 称えても また称えても
    弥陀の呼び声なむあみだぶつ
    名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなむあみだぶつ

    才市や何処におる 浄土貰うて娑婆におる 
    これがよろこび なむあみだぶつ
    わたしゃ浄土を先に見て 娑婆で申すなむあみだぶつ

    才市や臨終すんで 葬式すんで 
    なむあみだぶつとこの世にはをる云々
    影を見よ 光明の光のおかげで 影がみえるぞ 
    浄土の影がこれでわかるぞ 
    ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ なむあみだぶつ

    才市や何がおもしろい 迷いの浮き世がおもしろい 
    法をよろこぶ種となる なむあみだぶつの花ざかり

    昔はありがたいこと たよりに思い なんともないこと ちからをおとし 
    いまは あろうがあるまいが ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ

    ありがたいの ありがたいの ありがたいのがあなたの慈悲で 
    うれしうないのがわたしの心 うれしかろうがかるまいが
    機法一体なむあみだぶつ これが知れたらありがたい

    わたしゃあさまし 親のごをん(御恩)がよろこばれん 
    よろこばれんならほうっておけよ 凡夫がよろこぶ法ではないよ 
    ごをんうれしやなむあみだぶつ
    へいぜい(平生)に臨終すんで葬式すんで 
    あとはあなたをまつばかり
    なむあみだぶつに 臨終はない

    おがみようがない
    おがまれてよろこぷ
    なむあみだぷつ

    才市はなむあみだぶつをどう心得てをるか 
    へ はなむあみだぶつに貰われましたよ 
    御報謝をどう心得てをるか 
    へ 御報謝は思い出したり忘れたり あさましいものであります。

    才市よい うれしいか ありがたいか 
    ありがたいときや ありがたい なつともないときや なつともない 
    才市 なつともないときや どぎあすりや(どうするか)
    どがあもしよをがないよ なむあみだぶと どんぐりへんぐりしているよ 
    今日も来る日も やーい やーい
いかがでしょうか。解説など要りませんね。浅原の言葉からは、以前お話した、東日本大震災を受けた僧侶の「葬式仏教のなにが悪い」の境地など論外であることがおわかりいただけるでしょう。

「蓑笠の人浅原才市」水上 勉(講談社学術文庫)、鈴木大拙編著「妙好人浅原才市集」新装版(春秋社)

清沢満之-浄土思想の救世主?(1,2)

清沢満之‐浄土真宗の救世主?(1)

 神や仏の存在を心から信じられるかどうかは、人が宗教に向かうときの決定的な要因でしょう。しかし、阿弥陀仏存在の確信を絶対条件とする他力本願の本当の意味を理解している人は、現代の僧侶ですらほとんどいないはず。それどころか、あの親鸞のあと、すでにあやしくなっているのです。教えの勝手な解釈(異)を歎いたのが「歎異抄」ですね。浄土真宗堕落の第一歩を踏み出させた張本人は蓮如だと、以前お話しました。親鸞の200年後の人です。さらに、江戸時代に入ると、日本仏教は幕府の支配体制に組み入れられ、寺受け制度によって全国民を檀徒としました。それによって各寺院は確かな経済的基盤と権威を得たのです。法事を独占的に執り行い、それから上がる収益は莫大なものとなったのです。現在でも、わが国の浄土真宗本山である、京都東・西両本願寺の壮大な建築群を見ればその財力の大きさがが窺い知れます。法主大谷家は華族との通婚を繰り返し、戦後すら「(最後の)貴族」と言われたほどです。大きな富を権力を得れば、人々の救済と言う本来の目的を忘れるのは自然の成り行きで、他力本願の本当の意味などとっくに忘れられていたのでしょう。
 しかし、明治政府によって国家神道が国是とされたため、廃仏毀釈が行われ、寺受け制度が廃止されました。さらに追い打ちを掛けるように、キリスト教や西洋哲学が入ってきて、一挙に日本仏教は存亡の危機に直面したのです。それを打開するため東本願寺が期待をかけたのがこれからお話しする清沢満之です。

 清沢満之(1863-1903)は、いまお話した、明治になって直面した浄土真宗の危機を打開するため、期待を背負って東京大学へ派遣されたエリートでした。尾張藩の下級武士の子として生まれ15歳で真宗大谷派の東本願寺育英学校に入学しました。そしてその俊秀ぶりを認められ、東京大学へ派遣されたのです。浄土の教えをキリスト教や西洋哲学に対抗できる思想体系にしてほしいとの輿望を担ったのです。
 清沢は期待に応えて東京大学文学部哲学科を首席で卒業しました。教授たちはわが国の哲学界を背負って立つよう嘱望したのですが、真宗大谷派の要請で、同派が委嘱されていた京都府尋常中学校の校長になりました。その後、教育制度や組織などについて、宗門改革運動を推進しました。そのため、東本願寺と対立し、除名処分されました。
 その後除名処分は解かれましたが、1899年、東京本郷で私塾浩々塾を開きました。その時の弟子の一人が、以前お話した暁烏敏です。1901年、再び真宗大谷派の要請を受け、真宗大学(現大谷大学)の学監に就任しました。しかし翌年、またもや辞任しました。真宗の体質と清沢の理想があまりにもかけ離れたものだったからでしょう。浄土真宗の救世主にはならなかったのです。

 その後清沢は愛知県碧南市西方寺(清沢の妻の実家、ただし住職にはなれなかった)に移り、1903年、肺結核が悪化し、わずか39歳で死亡しました。清沢はミニマムポシブル(最小限でも可能)と名付けた極端な清貧生活(主食はそば粉、副食は松脂だったと言います)による栄養失調で結核になったのでしょう。純粋もここに極まれりですね。

 このように清沢は惜しくも早世しましたので著作も少なく、「宗教哲学骸骨」や「我が信念」などわずかです。浄土真宗が期待した「浄土の教えに基づき、西洋哲学に匹敵する確固たる思想を確立する」には至りませんでした。しかし、以下に示すように、清沢自身は浄土の教えを完全にわがものとし、暁烏敏のような優れた弟子を育てたのです。ところが、暁烏敏以降、また他力思想はおかしくなってしまい、今日に至っていると筆者は考えます。
清沢の思想については次回お話します。

清沢満之‐浄土思想の救世主?(2)

 前回、ある解説者が「清沢の思想が浄土系思想から離れしまったことは明らかである」と言っているのは誤りだ、とお話しました。それは著書「我が信念」の一節(紙数の都合で簡約)に、

 ・・・私の信念は、どんなものであるかと申せば、如來を信ずることである。其如來は私の信ずることの出來る、又信ぜざるを得ざる所の本體である・・・如來は私に對する無限の慈悲である・・・如來は私に對する無限の智慧である・・・如來は私に對する無限の能力である。斯(か)くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力との實在を信ずるのである・・・如來は、無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給ふ。從來の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陷り易い。時には、有限粗造の思辨によりて、無限大悲の實在を論定せんと企つることすら起る・・・私の信ずる如來は、來世を待たず、現世に於て、既に大なる幸福を私に與へたまふ。私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、此(この)信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は私が毎日毎夜に實驗しつつある所の幸福である・・・今は「愚癡の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來、又自分も眞に無智を以て甘んずることが出來ることである・・・

とあることから明らかです。妻子を亡くし、悲嘆のどん底にあった清沢の言葉なのです。

 つまり清沢は、「私はいくら考えても、なにが真理であるのか、何が善であるのか、悪であるのかはわからない。ただ如来を信じ、お任せする」と言っているのです。なによりも、「愚癡の法然とか、愚禿の親鸞とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來(る)」と宗祖の言葉を引用して言っているではないですか。「我が信念」の中には、清沢がどういうきっかけで阿弥陀如来を信じるようになったかは、書かれていません。それがちょっと残念です。それにしても、現代の浄土真宗の僧侶の中に、清沢のように言える人が何人いるでしょうか。

 なお、清沢の言う「(宗教哲学)骸骨」とは、骨組のことを指します。清沢は前述のように早世しており、それ以上の深い考究やそれに基づく考究はできませんでした。それゆえ、浄土思想を西洋哲学に匹敵する思想体系とするまでには至らなかったのです。いえ、阿弥陀如来に対する心からの信仰は、哲学などの人間の思考を越えています。清沢の言うとおりですね。

 それにしても、清沢が浄土真宗から大きな期待を持って東京大学に派遣されたにもかかわらず、浄土真宗から離れてしまったのは、その旧態依然とした組織のあり方に失望してしまったからでしょう。それは筆者にもよくわかります。

清沢満之の著書:「宗教哲学骸骨」、「我が信念」などは、安富信哉編「清沢満之集」(岩波文庫)、および「日本の名著(43)清沢満之・鈴木大拙」(橋本峰雄編 中公バックス)などに収められています。

いまここで死ねますかー暁烏敏の他力思想

 以前、このブログでお話した浄土真宗の暁烏敏(あけがらすはや)の言葉です。強烈なテーゼですね。暁烏師のこの言葉を、「神の心に近づくには死ななければならないのか」と解釈している人たちがいましたので註釈させていただきます。
 その解釈には飛躍があります。暁烏師が言いたかったのは、「いまここから飛び降りられますか」とか、「毒を飲めますか」ではありません。たとえば「いまここで、『あなたは末期ガンです』と宣告されても平常心を保てますか」という意味なのです(暁烏師は人騒がせな人ですね)。

 前にもお話した良い例があります。
 永井隆博士(1908-1951)は、元長崎医大教授、「長崎の鐘」や、「この子を残して」の著者としてよく知られています。一般には「原爆症で亡くなった」と言われていますが、じつは、それ以前から重い放射線障害に苦しんでいました。博士は放射線学科に長く勤めており、当時のことですから、放射線漏れによる障害が医師にとって深刻だったのです。自分の余命を悟った博士は緑夫人(原爆で一片の骨とロザリオが残ったと永井博士は書いています)にそのことを告白しました。すると、永井博士自身より長いキリスト教信者だった夫人は、

「なにごとも主の御心のままね!」と答えたそうです。

 次は、最近筆者の友人から聞いた話です。癌で入院している人をお見舞いに行った時のこと。その人も敬虔なキリスト教者でしたが、命旦夕に迫っているにもかかわらず、「病室で静かに読書していた」と言うのです。この人も「神の御心のままに」だったのでしょう。

 いかがでしょう。暁烏敏の「いまここで死ねますか」の真意はこういうことだったと思います。

「死ねば神の心に近づくのかどうか」は筆者にはわかりません。たしかにスピリチュアリズムの考えでは、人間は死んでからしばらくすると、守護霊とともに自分のこの世の人生をビデオのように再生し、生まれるとき持って出た、果たすべき課題を完遂できたかどうかをチェックすると言います。というのは誰でも今生に転生するのは、その課題を果たすためだと言うからです(生まれるとその課題のことは忘れてしまうとか)。もしビデオを見た結果が不満足だったら、守護霊と相談の上もう一度この世に生まれ変わるとも言います。
 こういうプロセスが本当にあるとすれば、たしかに自分の生命全体を俯瞰することになり、神の心に近づいたことになるでしょう。しかし、私たちはそんなことを考えるべきではないと思います。釈迦のおっしゃる「無記」、つまり、「わからないことは考えるな」ですね。

 そんなことより、自分が神によって造られ、神の恩寵によってこの世で生かされていることを改めて考え、心の底から感謝すべきなのです。そして、神の心に沿う生き方とは何かを、自分なりに真剣に考える方がよほど大切でしょう。これが本当の他力思想なのです