歎異抄の呪縛(2)

 

法然は釈迦と並び立つ宗教家です(3)

 筆者は以前のブログで「歎異抄の呪縛から早く脱するべきです」と題したお話をしました(2015年10月)その一部を再掲しますと

・・・ 「歎異抄」に関する本は、今でも五木寛之さんや、梅原猛さん、ひろさちやさん、山折哲雄さんなどにより、次々に出版されており、その人気の高さがしのばれます。しかし筆者は、「日本人は早く歎異抄の呪縛から逃れるべきだ」と考えています。今言いましたように、「歎異抄」は、著者唯円が師親鸞の教えを、不肖の弟子たちが勝手に解釈し始めたのを「歎(なげ)いた」ものです。すなわち、
◎わざわざ十以上の国を超え、はるばる京の親鸞のもとに尋ねて来て、「念仏の他に浄土に往生する道があるのか」と尋ねる弟子、◎「すべての人が救われると言うのなら、何をしても許される」という「本願誇り」の弟子、◎文字の一つも知らずに念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議な働きを信じて念仏しているのか、それとも、(南無阿弥陀仏の)名号の不可思議な働き信じて念仏しているのか」と言って相手を脅かす弟子、◎弟子の取り合いをする者など、およそ親鸞の教えとはかけ離れた、自分勝手な拡大解釈をしている者たちを諭した「親鸞のお言葉」に過ぎないのです。
 さらに重要なことは、日本人は、よく知られた「◎善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスに「しびれ」ているにすぎないのです。「歎異抄」の第二条には、・・・自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願の働きを信じる心が欠けている(自力になる:筆者)。だから阿弥陀仏の本願(他力)に叶っていない」との親鸞の言葉の真意が明記されています。パラドックスでも何でもないのです。このように、「歎異抄」には、親鸞の教えを勝手に解釈している()、出来の悪い弟子達を嘆く親鸞の言葉が書かれているだけであり、何ら新しい教えなど書かれてはいないのです。

 法然の天才性は、大衆に向かって「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説いたところにあるのです。比叡山第一の学生(がくしょう)と言われたほど、旧来の仏教書を読み解いていた法然が「南無阿弥陀仏」という言葉の重要さを見抜いた上での名号なのです。文字も書けず、教えを聞く機会もない当時の苦しむ民衆にたいする教えとしてこれ以上のものはないでしょう。親鸞のすばらしさは、彼自身も法然に劣らないほどの比叡山のすぐれた学生(がくしょう)であったにもかかわらず、ひたすら法然を信じたことにあります。「歎異抄」にも、

・・・(私は「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」という思想に傾倒しており)、たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候(たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞には何の後悔もないのだ)・・・。

と言っているのです。

 いかがでしょうか。これが「歎異抄」の実体なのです。上でお話した多くの仏教解説者が言う「歎異抄の特別なありがたさ」などないのです。そんなものを読むより、ただ、心から「南無阿弥陀仏」と唱えることの方が、よほど法然や親鸞の教えを正しく受け取っていることになるのです。「日本人は早く『歎異抄』の呪縛から脱してください」と筆者が言っているのはこのことなのです。

4 thoughts on “歎異抄の呪縛(2)”

  1. 善人と悪人という判別が、そもそも客観的な合理性があるのか。どこに善人と悪人の境界があるのか。

    それから、悪いことをしても救われる、のではなく、最初から救われているのだから、悪いことをしてしまっても、それは凡ミスの範囲だ、という解釈はどうでしょう?

    1. 興味深いご指摘と思います。とても大切なことだと思いますので、後で改めてブログで取り上げさせていただきます。

  2. 歎異抄が特別な意味を持たない仏教界の一部の宗派で独自に出ている書物なら、なぜ今に残っているのでしょうか?
    浄土真宗内における「訓告・戒告書」で内部だけで読まれる「内々の書籍」なら納得ですね。

    1. えびすこさま
       メール嬉しく拝見しました。重要なご意見なので、他の皆さんの参考にもなると思います。のちほどブログでお答えさせていただきます。

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