道元と他力思想(1,2)

道元と他力思想(1)
 
 生死の問題は人間最大の課題でしょう。釈迦の最初の教え(初転法輪)以来、仏教は自力信仰を旨としました。道元禅は、その究極の姿でしょう。「正法眼蔵随聞記」には、道元の宋での師匠如浄の道場での厳しい修行のありさまが伝えられています。たとえば、夜遅く坐禅をしている時、つい居眠りしてしまった修行僧の頭を履(くつ)で激しく叩いたとあります。それと対照的なのが法然の他力思想ですね。一切の修行は要らず、「ただ南無阿弥陀仏と唱えよ」と言うのですから。仏教史を勉強していますと、この思想はまったく法然の独創であることがわかります。たしかに浄土思想の根本経典は、「無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経」の、いわゆる浄土三部経で、大乗経典の初期に成立したものです。しかし、はっきりと他力思想として確立したのは法然なのです。いずれくわしくお話します。
 道元禅は代表的な自力思想だとお話しました。しかし、道元は自力とか他力とかには少しもこだわっていません。「正法眼蔵・生死巻」に、

・・・ただわが身をも心をも、はなちわすれ(放ち忘れ)て、佛のいへ(家)になげいれて、佛のかた(方)よりおこなわれて、これにしたがひ(従い)もてゆくとき、ちから(力)をもいれず、こころをもつひやさず(費やさず)して、生死 をはなれ(離れ)佛となる。たれの人か、こころにとどこほる(滞る)べき・・・

とあります。弟子の一人から重要な「生死の問題」についてたずねられた時の言葉と言います。「生死のことは一切仏さまにお任せしなさい」と言うのです。まごうことなき「他力思想」ですね。

暁烏敏 「みなさん、ここで今すぐ死ねるか?」

 暁烏敏(1877-1954)は浄土真宗の僧侶で清沢満之の弟子です。浄土真宗は言うまでもなく他力本願の教えですね。「歎異抄講話」(講談社学術文庫)、「清沢満之集」(岩波文庫)など著書多数。清沢満之とともに、明治以降の浄土真宗宗教史上著名。ただ戦争協力と多彩な女性遍歴により批判も多い人です。

 以下は、筆者がNHKテレビ「こころの時代」で西川玄苔師が語っていた、暁烏敏の講演についての思い出です。

 ・・・それが雪の降る日だった。その寺は半部建てだった。屋根が半部で雪がさっと舞っている堂には大勢坐っていた。暁烏先生は、目がご不自由で、誰かにずっと引っ張って貰って、頭に白い頭巾を掛けてこうずっと出て見えた。その姿がなんとも言えん神々(こうごう)しいんですよ。私は遅れて行ったからもういっぱいで坐れんので、欄干の上に掴まって立って見ておった。あれは尊いお方だな、とその姿を見て思った。ずっと台の所に見えて、それで台の所に座られて、マイクがあって、それで聴衆を見てね、パンパンパンと台を叩いて、「みなさん、ここで今死ねるか!」「ここで今死ねるかね!」と開口一番こう言われた。ドキッとした・・・・。

法然、親鸞の教えを心の底から信じていた人の言葉です。「みなさん今すぐ死ねるかね」とは強烈な言葉ですね。筆者は数年後に、「ハッと」その意味がわかりました。他力本願思想の神髄の言葉だったです。

道元と他力思想(2)浄土思想の原点に戻るべきだ

  釈迦の教えの最初から仏教は厳しい自力が根底にあります。釈迦が最初に説いた教えが、 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の八正道の修行を果たすことにより涅槃(絶対安心立命の世界)に至る道です。また、よく知られた六波羅蜜とは、布施、持戒、精進、忍辱、智慧の六つの修行によって彼岸(悟り)に至るというものです。これに対し法然の浄土思想は「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」という他力本願思想であり、仏教思想の中ではきわめて特異なものです。

 禅では、仏教諸派の中でも特に厳しい修行が中心になっていることはよく知られています。道元の弟子で永平寺2世の孤雲懐奘によって書かれた「正法眼蔵随聞記」には、道元の宋での師如浄による厳しい指導の様子が伝えられています。すなわち、夜遅くまでの坐禅・瞑想で、つい居眠りをしてしまう修行僧の頭を沓(くつ)で力まかせに殴ったというのです。晩年如浄が、弟子たちに「今までは済まなかった。これも諸君のためであるとわかって欲しい」と言った時、弟子たちは皆泣いて感謝したということです。もちろん弟子の道元が開いた永平寺での修行も厳しかったでしょう。

 しかし、道元はけっして修行に凝り固まった人ではありません。以前お話したように、他力思想もけっして否定していないからです。すなわち、「正法眼蔵・生死巻」には、 
 ・・・ただわが身をも心をも、はなち(放ち)わすれて、佛のいへ(家)になげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひ(従い)もてゆくとき、ちから(力)をもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ佛となる。たれの人か、こころにとどこほる(滞る)べき・・・

 曹洞宗東海管区教化センターのホームページでは、この道元の言葉を、
・・・生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨てようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に執着すれば、仏の御命を失うことになります。生死を厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず・・・仏におまかせし、仏さまに導びかれてゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて生死を離れることができ、仏となるのであります・・・
と解釈し、道元の死生観だとしています。

 しかし、これはまぎれもなく他力思想ですね。道元が浄土思想をもわがものとしていたことの重要さに気が付かなければいけないのです。さらに法華思想も尊重していたことは、「正法眼蔵」に「法華転法華巻」があることからもわかります。つまり、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と他宗を激しく排撃した、日蓮とはおよそ次元の違う境地に居たのでしょう。その上で「只管打座」の教えを説いた人なのですね。それにしても、
 ・・・ただわが身をも心をも、はなち(放ち)わすれて・・・
なんとすばらしい言葉でしょう。筆者も心から安心します。

 筆者が、禅塾を開いている傍ら、浄土思想や唯識思想、あとからお話する法華思想、さらには、キリスト教やスピリチュアリズムなど、幅広く宗教を学んでいることは、ブログからおわかりいただけると思います。宗教を幅広く、そして深く学ばなければ、禅そのものも理解できないと思うからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です