宗教と奇跡(1)

 高野山の奥深くで、虚空蔵求聞持法(註1)という特別な修行が行われていること、満願のとき奇跡が起こって修法が完成したことの証とされていることは、以前お話しました。その「奇跡」が起こらなければ、最初からやり直しという厳しいものです。

 奇跡とは神霊現象の特別なものでしょう。宗教が神霊現象と深く関わっていることは、人間の心の問題であるからには当然だと思います。旧約聖書には多くの奇跡が書かれておりますが、決して神話だからというわけではないと思います。イエス・キリストの他にもムハマンド、釈迦、法然、親鸞、日蓮などの宗祖たちも、他の悟りに達した高僧たちも、おそらく数々の神霊現象を体験しているはずです。「禅は神(仏)とは関係ない」という人もいますが、そんなことはありません。道元も「仏の中へ(我が身を)投げ入れて・・・」とはっきり言っています。筆者はそれどころか、霊感がなければ宗教の要諦は究められないと思っています。筆者も、「空」の意味がわかったとき、奇跡が起こりました。その内容については前著で触れました。

 民俗学者の柳田国男のことはよくご存じでしょう。柳田さんは11歳の時、知り合いの祖母が大切にして、死後、家族によって庭に作られた祠の中にしまわれていた蝋石(蝋のように半透明で柔らかい石)の玉に触れたとたん、「向こうの世界」へ入ってしまったそうです(「故郷七十年」)。柳田は「ばかばかしいこと」と称していますが。思想家小林秀雄によると「そういう素質があったからこそ、民俗学をやる資格があった」と言っています。柳田の「遠野物語」には、あの世のことや心霊現象のことがよく出てきますね。小林は、「科学には限界があり、『科学的』でなくても正しい体験はある」と言っています。その通りだと思います。筆者は科学研究を40年やってきました。科学と神霊現象は矛盾するものではないと考えています。もちろんオカルトのような怪しい現象など論外ですが。

  筆者それ以外にもこれまでさまざまな神(心)霊現象を経験したことはすでにお話しました。奇跡とも言えない、柳田国男の言う「ばかばかしいこと」の類です。最近、60年来の親しい友人を亡くしました。葬儀で弔辞を読んだほどの仲でした。奥様から知らせをいただいた夜、寝ている時、「彼」が来ました。筆者は霊魂が訪れると、その独特の感触からわかるのです。以前、後輩が亡くなったときにも同じ現象が起こったのです。夜中にうなされていたのを家内が心配して起こしてくれました。その時まさに夢の中で後輩に会っていたことは憶えております。友人の場合は「しんどいから」とも言えず、困りました。やがて離れていきましたが。

 その「感触」は独特のもので、例えようがありません。あるいは「減圧タンクに入って

空気が抜かれた感触か」と考えたこともありますが、実際にそれを体験した人の話では違うようです。神経が高ぶって、背中が痛いような感じです。この感じは、日中でも他の霊魂が憑依した時や、ひどい時には竜神と感応した時もそうでした。

註1ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリ・キャマリ・ボリ・ソワカという真言を1日1万回で100日間(2万回なら50日間)唱える。空海が土佐の室戸岬の御厨人窟(みくろど)でこの修法を行って悟りを開いたといわれています。このとき、口に明星が飛び込んできたと記されています。

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