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山岡鉄舟と禅(その2)

山岡鉄舟と禅(その2)

山岡鉄舟が天龍寺の滴水から与えられた公案(註1)は、

両刃交鋒不須避
好手還同火裏蓮
宛然自有衝天気
(りょうばほこをまじえ避くるをもちいず。好手還《かえ》りて火裏の蓮に同じ。宛然おのずから衝天の気あり)
でした。
言葉どおりに訳せば、
・・・両刃の鉾を切り結んでいる武人は、相手をかわしたりすることはない。このような鉾の使い手は、燃えさかっている炎の蔭で涼しげに咲いている蓮の花のようで、まるで天に突き入るほどの氣を備えている・・・

です。山岡は「余この句すこぶる興味あるを感じ、紳(おび:帯)に書いて考察し続けた」と書いています。三年間考えあぐねていたある日某商人(平沼専蔵:のちに平沼銀行を創設)が揮毫を頼みに来た時(山岡は書の達人でした)、

・・・自分は元来赤貧の家に生まれたが、今日図らずも巨万の富を手にすることができた・・・しかし、以前、金が四・五百円(現在の四・五千万円)できた時商品を仕入れたが、物価が下落の気味だとの世評から、早く売りたいと思った。しかし同業者がなんとなく弱みに付け込んで、踏み落とそうとするので動揺した。そのためほんとの世間の相場がわからなくなってしまった。そこで断念して、構わずに放って置いた。それから日数を経て、再び商人どもが来て、元値の一割高く買うと言った。今度は自分の方で前とは打って変わり、一割の利では売らないと言った。そうしたところ、また妙に五分突き上げてきた。そこで売っておけばよかったのに、自分が欲に目が眩んで、高く売ろうと思ううちに、結局、二割以上の損をして売った・・・もし、踏み込んで大商をなそうと思えば、すべて勝敗利損にびくびくしては商法にならないものだと思った。爾後は何事を企てるにも、まず心が明らかな時に、死かと思いをきめておき、そして仕事に着手すれば、けっして是非に執着せず、ずんずんやることにした。その後は大略損得に関わらず、本当の商人になって今日に至った(以上、山岡の原文は文語)・・・

山岡はハッとして「この談話は前の滴水の『両刃・・・』の語句と相対照するものではないか」と考え、「翌日より剣法に試み、夜はまた沈思精考すること五日、釈然として天地物なきの心境に座せる感あるを覚えた」と言っています。悟りに至ったのですね。

そして、それまで剣の師浅利又七郎の剣先がちらつき、壁のように立ちはだかってどうしようもなかった幻身が突然消えた。そこで浅利師を招いて対峙したところ、一合も交えずに浅利が「よくやった」と言って、伊藤一刀斎の無相の剣の奥義を伝えたと言います。まさに剣禅は一如なのでしょう。

山岡は惜しくも53歳で亡くなりましたが、門弟の中には、追い腹を切ったり、それを止められると「山岡先生のいない人生など考えられない」と放浪の旅に出た者がいるなど、素晴らしい人格の人だったようです。

註1 織田軍に敗れて逃げ込んた武田の残党の引き渡しを拒否して焼き殺された恵林寺の快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」と同じ意味で、公案集「碧巌録」第四十三則の本則の評唱(解説)にあります。「いかなる困難な状況にあっても動揺することはない」という意味でしょう。曹洞宗開祖、洞山良价禅師の言葉です。公案とも言えないような簡単な言葉ですが、実際に実践するのはよほどの胆力が必要でしょう。

父母未生以前のこと(3)‐山岡鉄舟(その1)

父母未生以前のこと(2‐その2)山岡鉄舟と禅

 慶応4年(1868年)3月14日、西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が、芝・田町の薩摩藩邸で行われた結果、江戸総攻撃が回避されたとされています。しかし、じつはその5日前に 山岡鉄舟(鉄太郎1836‐1888 註1)が、駿府に居た西郷のもとを訪れ、勝から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願したことの方がはるかに重要だったのです。西郷・勝会談は絵にもなって有名なのですが。山岡は維新後、勝や大久保利通などに請われて明治天皇の侍従(最終位は宮内少輔)という目立たない職に就きましたので、それほど有名ではないのでしょう。
 一方、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬという始末に困る人ですが、あんな始末に困るような人ならでは、お互いに腹を開いて、ともに天下の大事を誓うわけにはいかない」は、西郷の人間像を表わす有名な言葉として知られていますね。しかし、じつはこれは、西郷が勝に言った山岡鉄舟を評した言葉だったのです。歴史の「話」というものはそういったものなのでしょう。
 山岡(33歳)が西郷に会うために駿府へ乗り込んだときは、文字通り命懸けだったでしょう。心配する勝(44歳)に「殺されるかもしれない。しかし、静かに両刀を解いて差し出し、いかようにも先方に任せて快く処置を受けよう。いかに敵だとて、かりにも人一人を殺すのに一言も言わせず切り殺すようなことはしないだろう(筆者簡約)」と言い、勝は感服したと言っています(註2)。

 山岡鉄舟と禅(その1)
  山岡は十三歳のとき生死の問題に直面し、生死克服の道について父に尋ねたところ、「わが先祖は剣法を修め、禅の蘊奥をきわめて東照公(家康)に仕え、しばしば戦功をあらわす、今、汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるにしくはなし」と言われ、生涯を通じて剣、禅共に修行を続けたと書いています。禅に対する誠心誠意は、一・六の休日ごとに、前日夕食を済ますと江戸から徒歩で三十余里先の伊豆・三島にあった竜沢寺の星定のもとへ12時間近くかけて赴き、3年間修行に励んだことから伺われます(註3)。山岡は明治十三年(46歳)に透過大悟したと言っていますが、すでに23歳のとき「宇宙と人間」(模式図:筆者)を書き、

 ・・・我の思わくは、人の心は宇宙と同じからざるべからず。心すでに宇宙と等しからば、天地万物、山川河海もまた我が身と等しかるべし・・・

の境地に至っています。つまり、禅の要諦父母未生以前のこととは、「人間を含む天地万物は宇宙(=神)と一体だ」と言っているのです。

註1父・小野朝右衛門は600石の旗本で飛騨(米で言えば10万石)支配の代官でした。
註2「鉄舟随想録」安倍正人編・勝海舟評論(国書刊行会)
註3 大変な健脚だったと弟子が記しています。

父母未生以前のこと(2)

父母未生以前の自己(2‐その1)

大西晋二さんから次のようなコメントがありました。 
(前半は後半と重複しますので省略)・・・「父母未生以前の自己」とは、自分の父母が生まれる以前の自分とは、霊的存在である自己が、転生輪廻の過程で、この世とあの世を何回も、生まれ変わっているのが私達人間の本当の姿ですよ。ということを説きたかったのです。解れば簡単な事なのです。ある仏教の僧侶は、こう答えてました「この意味は、本来自分という我はいないのだ」。皆さんこれで理解できますか。私は情けなくなりました。ここまで仏教の教えが歪められたら、黙っていられなくなりメールした次第です・・・

筆者のコメント:大西さんの舌鋒が筆者に向けられているのか、たんに筆者のブログに便乗して自説を開陳しているだけかはわかりませんが(ちなみに筆者はまだこの公案について考えを述べたことはありませんので後者でしょう)、重要な公案の一つですからこの機会に筆者の解釈を述べます。ちなみに、夏目漱石が鎌倉東慶寺の釈宗演禅師の元で参禅し、著書「門」や「吾輩は猫である」にこの公案を取り上げたのはよく知られています。結論から言いますと、大西さんの解釈はまちがいです

 この公案は、もともと禅の六祖慧能(638‐713)の「父母(ぶも)未生以前に於ける、本来の面目如何」という問い掛けから始まっています。この公案を解説するのにネットで見つけた「仏光さん」の次の説明は、この公案の趣旨を理解するのにわかりやすいので一部引用させていただきます(ameblo.jp/bukko-san/entry-10263994887.html)。ただ、仏法さんのブログにはこの公案の解釈は出ていません。それが重要なのですが。

 ・・・私たちはよく「私はこう思う」とか「私は腹が立った!」とか「私は嬉しい」とか言っていますが、この私とはいったい何を指して私と言っているのでしょう?「この身体が私か?」 「いやいやそうではない。この心が私なのだ」とか色々考えてしまいます。「じゃあ私というその心をここに出して見せてくれ」と言われても困ります。心とはいったいどこにあってどんなものなのでしょう?・・・普段私たちはこのつかみどころのない「私」に振り回されているのではないでしょうか?このよくわからない私が苦しみ、悲しみ、喜んでいるのです。いったい「私とは何なんでしょう。「私」の知っている限り、正しい坐禅瞑想をしないと本当の答えは出てこないと思います・・・
 要するに「本来の人間とは何かをはっきり見定めよ。それがわからないから悩みや喜びに振り回されているのだ」と言うのですね。

 じつは「人間とは本来神である」と言っているのです。禅の語録や公案をよく読んでみますと、禅思想の根底には「神(仏教では仏)」があることがよくわかります。それどころか、あらゆる宗教に共通する大前提として「神(仏)」があることは言うまでもありませんね。「父母も生まれない遥かな過去」とは、神(仏)の世界です。そこには宇宙すら(もちろん人間も)ありません(じつは「そこ」もないのですが)。今、悩んだり苦しんだり、喜んだりしている人間も神なのです。神には悩みや苦しみはありません。「もともとは神なのに悩みや苦しみに振り回されている自分に気付くべきだ」というのがこの公案の主旨なのです。その意味で大西さんが批判するお坊さんの言葉「本来自分という我はいないのだ」の方がむしろ正しいのです。もう少しそのお坊さんの言葉の前後を知りたのですが。このテーマは次回以降も続きます。

剣禅一如

剣禅一如

前回の「弓と禅」で、弓術の上達は禅の境地と密接の関連していることをお話しました。剣も禅と深く関わっていることは「剣禅一如」としてよく知られていますね。あの勝海舟も、
 ・・・この座禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。(徳川幕府)瓦解の時分、万死の境を出入して、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった・・・(「氷川清話」)と回顧しています。剣の道の上達に禅を重視したのは他にも柳生宗矩や山岡鉄舟が知られています。今回は沢庵和尚が柳生宗矩に教えた禅の心をご紹介します。沢庵より柳生宗矩への書簡「不動智神妙録」(タチバナ教養文庫)

 ・・・住は止まると申す義理にて候。止まると申すは何事に付けても其(その)事に心を止まるを申し候。貴殿の兵法にて申し候らはば、向こうより切る太刀を一目見て、そのままにてそこにて合わんと思へば、向こうの太刀にそのまま心が止まりて、手前の働きが抜け候て、向こうの人に切られ候。是を止まると申し候・・・敵に我が心を置けば、敵に心をとられ候間、我が身にも心を置くべからず。・・・仏法には、此の止まる心を迷いと申し候。不動とはうごかずといふ文字にて候。智は智慧の智にて候。不動と申し候ても、石や木のやうに、無性なる義理にてはなく候。向こうへも左へも右へも十方八方へ心の動き度(た)きやうに働きながら、卒度も止まらぬ心を不動智と申し候。・・・動転せぬとは物毎(ものごと)に留まらぬ事にて候。物一目見て、其の心を止めぬを不動と申し候。・・・何処なりとも、一所に心を置けば、余の方の用は皆欠けるなり。しからば則ち心は何処に置くべきぞ。我答えて曰く、何処にも置かねば、我が身一ぱいに行き渡りて、全体にひろ(広)ごりてある程に、手の入る時は手の用を叶(かな)へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其の入る所々に行き渡りてある程に、その入る所々の用を叶ふるなり。万一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用を欠くべきなり。思案すれば思案に取らるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々に止めずして、其の所々にあって用をば外さず叶べし・・・

筆者の感想:柳生宗矩や勝海舟、山岡鉄舟はいずれも戦国時代や幕末動乱期を過ごした人たちですから、剣に上達しなければそのまま命に係わったでしょう。勝海舟は3度も危ない目に遭ったと言っています。その一つに、あの坂本龍馬が護衛に付けた岡田以蔵(人切り以蔵ですね)が突然現れた刺客を直ちに切り捨てた事件があったと言います。勝は剣の達人でありながら人を殺すことが大きらいだった人ですから、「岡田君それはよくないよ」と言ったところ、「でもああしなかったら先生は殺されていらでしょう」と反論され、「ギャフンとなった」と言っています(「氷川清話」)。
 その意味で前回お話した、中西政次さんなど、現代に生きた弓道家とはくらべものにならないほど厳しい鍛錬だったでしょう。

 沢庵(1573-1646、臨済宗の僧)の言葉は、剣における禅の心として「一瞬たりとも相手の剣や自分に心を留めるな」と言っていますね。その通りだと思います。すぐれた禅師は心をどこかに留めることはありません。筆者も剣道をやったことがあります。その経験からしますと、もちろん相手の一瞬のすきに乗じて打ちますが、じつはその時が一番危ないのです。たとえば面を打てばこちらの胴は空いてしまいますから。ですから、打つときは常に半分の余裕を持たなければならないのです。「残心」と言いますとよく、「お互いに剣を交えてすれ違った後、じっとしている」と思われていますが、そうではありません。打つ瞬間も必ず心の余裕を残すことです。もちろん、一々そんなことを考えて戦っているのではありません。常に、無意識に「考えなくても体が反応する」ように、繰り返しくりかえし鍛錬するのです。ですから心は常に「無」なのです。沢庵和尚の言うことが納得できます。

「同行二人」さんへ

「同行二人さん」の筆者の龍樹「中論」批判に対する反論について

 「同行二人(以下同行)」さんから、筆者の龍樹の「中論」思想(およびその思想を受け継ぐ中観派)批判に対して反論(反発?)がありました。もちろん筆者が、現代の大乗仏教の思想的原点と言われる「中論」に異を唱えたのですから、反発は想定内のことです。結論から言いますと、「同行さん」の反発からは別に筆者の考えを修正すべきものはありませんでした。しかしよい機会ですから筆者のブログシリーズの基本姿勢について以下にお話します。

 まず、「同行二人」などというハンドルネームはやめませんか。いやしくも自分の考えを述べるのに匿名を使うのはいかがなものでしょう。ほとんどのHPの作成者が意図的に匿名とし、所属さえも秘密にしているのは、読者の皆さんもよくご存じのことでしょう。「こちらからの一方的発信です」と言う人さえいます。いずれも読者からの無責任で礼を失した批判もあり、だんだん双方が感情的になり、時には「炎上」するからでしょう。本来あるべき、双方が学び合うことから遠く離れ、しこりが残るだけだからです。
 これに対し筆者は、最初から実名と経歴を明示しています。自分の意見に責任を持っていますから当然です。それどころか読者から意見をお聞きするコーナーまで作りました。最近、ある別の読者から、お名前も経歴(臨済宗のある寺の住職)も名乗った上で貴重な御意見をいただいております。それらはすべて別のファイルに移し、充分に参考にさせていただいています。その方が筆者との問答を通して「学びたい」と考えていらっしゃることがよく分かりました。「同行さん」となんという違いでしょう。

「同行さん」の反発の内容について
 要するに「同行さん」の反発の主旨は、筆者が龍樹の「中論」の内容に懐疑的で、それを理論的基盤とする大乗仏教を否定したからでしょう。さらに、龍樹の批判の相手である初期仏教の「切一切有部(以下有部)」の思想、さらには「梵我一如」で有名な、仏教以前のウパニシャッド哲学の思想を尊重していること、つまり大乗仏教批判に対する「同行さん」の「いらだち」でしょう。まず、確認したいのは、これら各思想に対して、筆者はいかなる予断も思い入れもなく学んでいる姿勢です。言うまでもないことです。それらの思想を慎重に比較検討し、筆者の十年にわたる神道での修行体験を総合して考えると、どうしても大乗仏教より、有部の考えやウパニシャッド哲学を「よし」とするのです。純粋な学問的思考としてそう結論付けているのです。筆者は別に仏教を信奉していませんし、貶めてもいません。純粋に一つの思想として論究しているのです。

 いわゆる大乗経典類が釈迦の思想とはかけ離れたものであることは、江戸時代の学者富永仲基によって論証されて以来、現代では定説になっています。法然や親鸞などの「新」宗教の宗祖が延暦寺を飛び出したのは、旧来の大乗の教えが到底当時の大衆の心にそぐわなくなったと感じたからでしょう。かれらは、既存の大乗とは(じつは)何の関係もない「南無阿弥陀仏」や、の教えを創始したのです。これが大乗仏教を否定でなくてなんでしょう。法然が、自ら承知しながらほとんど「屁理屈を付けて」大乗の観無量寿経に依拠する形をとったのは、わが国におけるそれまでの大乗仏教の歴史を考え、ムダな摩擦を避けたかったからでしょう。つまり法然や親鸞は釈迦の思想から逸脱した大乗からさらに飛躍した人なのです。法然の考えをきちんと読めばすぐわかります。その筆者の考えはすでにブログに書きました。

 禅についても同じです。「同行さん」の言う「大乗仏教を否定することは禅を否定することだ」には「またか!」と思います。よく「禅思想の根源は大乗の般若系思想にある」と言われますが、あまりにも勉強不足です。禅は大乗仏教から大きく飛躍して別の思想になったのです。それは禅をきちんと学べばわかります。主に中国唐代のすぐれた禅師たちの命懸けの努力によるものです。禅の解釈に大乗思想を援用することこそ、これまでのわが国の禅家や解説者の病弊だと思っています。

 今、日本仏教が滅びつつあることは明白です。あの東日本大震災のあと、被災者の助けになろうと乗り込んだ有名大乗系寺院のエリート僧たちは、そろって挫折しました。全国に7万以上もあるお寺からどんどん檀家が減り、経営的にも破綻の瀬戸際にあることはよく報道されます。その最大の理由が、日本仏教には魅力がないことでしょう。大乗思想を聞いても心に響くものが何にもないからに違いありません。今こそもう一度大乗思想から飛躍しなければならないのです

 筆者のブログに対する批判やご意見は大いに歓迎します。筆者の一方通行では張り合いがありません。しかし、どうか一つのブログシリーズだけを読んで「カッ」となって反論せずに(それも筆者には楽しいですが)、できればすべてのブログをお読みいただいてからペンを取ることを希望します。でないと、このようにシリーズを中断して説明しなければなりません。それも閑話休題として有意義ですが。

 今回、図らずもこれまでの筆者のブログシリーズの基本的狙いをまとめる形になりました。この記事をできるだけたくさんの人が読んで下さることを願っています。「同行さん」と筆者とどちらの言うことが正しいか、歴史が判定するでしょう。