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剣禅一如

剣禅一如

前回の「弓と禅」で、弓術の上達は禅の境地と密接の関連していることをお話しました。剣も禅と深く関わっていることは「剣禅一如」としてよく知られていますね。あの勝海舟も、
 ・・・この座禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。(徳川幕府)瓦解の時分、万死の境を出入して、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった・・・(「氷川清話」)と回顧しています。剣の道の上達に禅を重視したのは他にも柳生宗矩や山岡鉄舟が知られています。今回は沢庵和尚が柳生宗矩に教えた禅の心をご紹介します。沢庵より柳生宗矩への書簡「不動智神妙録」(タチバナ教養文庫)

 ・・・住は止まると申す義理にて候。止まると申すは何事に付けても其(その)事に心を止まるを申し候。貴殿の兵法にて申し候らはば、向こうより切る太刀を一目見て、そのままにてそこにて合わんと思へば、向こうの太刀にそのまま心が止まりて、手前の働きが抜け候て、向こうの人に切られ候。是を止まると申し候・・・敵に我が心を置けば、敵に心をとられ候間、我が身にも心を置くべからず。・・・仏法には、此の止まる心を迷いと申し候。不動とはうごかずといふ文字にて候。智は智慧の智にて候。不動と申し候ても、石や木のやうに、無性なる義理にてはなく候。向こうへも左へも右へも十方八方へ心の動き度(た)きやうに働きながら、卒度も止まらぬ心を不動智と申し候。・・・動転せぬとは物毎(ものごと)に留まらぬ事にて候。物一目見て、其の心を止めぬを不動と申し候。・・・何処なりとも、一所に心を置けば、余の方の用は皆欠けるなり。しからば則ち心は何処に置くべきぞ。我答えて曰く、何処にも置かねば、我が身一ぱいに行き渡りて、全体にひろ(広)ごりてある程に、手の入る時は手の用を叶(かな)へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其の入る所々に行き渡りてある程に、その入る所々の用を叶ふるなり。万一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用を欠くべきなり。思案すれば思案に取らるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々に止めずして、其の所々にあって用をば外さず叶べし・・・

筆者の感想:柳生宗矩や勝海舟、山岡鉄舟はいずれも戦国時代や幕末動乱期を過ごした人たちですから、剣に上達しなければそのまま命に係わったでしょう。勝海舟は3度も危ない目に遭ったと言っています。その一つに、あの坂本龍馬が護衛に付けた岡田以蔵(人切り以蔵ですね)が突然現れた刺客を直ちに切り捨てた事件があったと言います。勝は剣の達人でありながら人を殺すことが大きらいだった人ですから、「岡田君それはよくないよ」と言ったところ、「でもああしなかったら先生は殺されていらでしょう」と反論され、「ギャフンとなった」と言っています(「氷川清話」)。
 その意味で前回お話した、中西政次さんなど、現代に生きた弓道家とはくらべものにならないほど厳しい鍛錬だったでしょう。

 沢庵(1573-1646、臨済宗の僧)の言葉は、剣における禅の心として「一瞬たりとも相手の剣や自分に心を留めるな」と言っていますね。その通りだと思います。すぐれた禅師は心をどこかに留めることはありません。筆者も剣道をやったことがあります。その経験からしますと、もちろん相手の一瞬のすきに乗じて打ちますが、じつはその時が一番危ないのです。たとえば面を打てばこちらの胴は空いてしまいますから。ですから、打つときは常に半分の余裕を持たなければならないのです。「残心」と言いますとよく、「お互いに剣を交えてすれ違った後、じっとしている」と思われていますが、そうではありません。打つ瞬間も必ず心の余裕を残すことです。もちろん、一々そんなことを考えて戦っているのではありません。常に、無意識に「考えなくても体が反応する」ように、繰り返しくりかえし鍛錬するのです。ですから心は常に「無」なのです。沢庵和尚の言うことが納得できます。

「同行二人」さんへ

「同行二人さん」の筆者の龍樹「中論」批判に対する反論について

 「同行二人(以下同行)」さんから、筆者の龍樹の「中論」思想(およびその思想を受け継ぐ中観派)批判に対して反論(反発?)がありました。もちろん筆者が、現代の大乗仏教の思想的原点と言われる「中論」に異を唱えたのですから、反発は想定内のことです。結論から言いますと、「同行さん」の反発からは別に筆者の考えを修正すべきものはありませんでした。しかしよい機会ですから筆者のブログシリーズの基本姿勢について以下にお話します。

 まず、「同行二人」などというハンドルネームはやめませんか。いやしくも自分の考えを述べるのに匿名を使うのはいかがなものでしょう。ほとんどのHPの作成者が意図的に匿名とし、所属さえも秘密にしているのは、読者の皆さんもよくご存じのことでしょう。「こちらからの一方的発信です」と言う人さえいます。いずれも読者からの無責任で礼を失した批判もあり、だんだん双方が感情的になり、時には「炎上」するからでしょう。本来あるべき、双方が学び合うことから遠く離れ、しこりが残るだけだからです。
 これに対し筆者は、最初から実名と経歴を明示しています。自分の意見に責任を持っていますから当然です。それどころか読者から意見をお聞きするコーナーまで作りました。最近、ある別の読者から、お名前も経歴(臨済宗のある寺の住職)も名乗った上で貴重な御意見をいただいております。それらはすべて別のファイルに移し、充分に参考にさせていただいています。その方が筆者との問答を通して「学びたい」と考えていらっしゃることがよく分かりました。「同行さん」となんという違いでしょう。

「同行さん」の反発の内容について
 要するに「同行さん」の反発の主旨は、筆者が龍樹の「中論」の内容に懐疑的で、それを理論的基盤とする大乗仏教を否定したからでしょう。さらに、龍樹の批判の相手である初期仏教の「切一切有部(以下有部)」の思想、さらには「梵我一如」で有名な、仏教以前のウパニシャッド哲学の思想を尊重していること、つまり大乗仏教批判に対する「同行さん」の「いらだち」でしょう。まず、確認したいのは、これら各思想に対して、筆者はいかなる予断も思い入れもなく学んでいる姿勢です。言うまでもないことです。それらの思想を慎重に比較検討し、筆者の十年にわたる神道での修行体験を総合して考えると、どうしても大乗仏教より、有部の考えやウパニシャッド哲学を「よし」とするのです。純粋な学問的思考としてそう結論付けているのです。筆者は別に仏教を信奉していませんし、貶めてもいません。純粋に一つの思想として論究しているのです。

 いわゆる大乗経典類が釈迦の思想とはかけ離れたものであることは、江戸時代の学者富永仲基によって論証されて以来、現代では定説になっています。法然や親鸞などの「新」宗教の宗祖が延暦寺を飛び出したのは、旧来の大乗の教えが到底当時の大衆の心にそぐわなくなったと感じたからでしょう。かれらは、既存の大乗とは(じつは)何の関係もない「南無阿弥陀仏」や、の教えを創始したのです。これが大乗仏教を否定でなくてなんでしょう。法然が、自ら承知しながらほとんど「屁理屈を付けて」大乗の観無量寿経に依拠する形をとったのは、わが国におけるそれまでの大乗仏教の歴史を考え、ムダな摩擦を避けたかったからでしょう。つまり法然や親鸞は釈迦の思想から逸脱した大乗からさらに飛躍した人なのです。法然の考えをきちんと読めばすぐわかります。その筆者の考えはすでにブログに書きました。

 禅についても同じです。「同行さん」の言う「大乗仏教を否定することは禅を否定することだ」には「またか!」と思います。よく「禅思想の根源は大乗の般若系思想にある」と言われますが、あまりにも勉強不足です。禅は大乗仏教から大きく飛躍して別の思想になったのです。それは禅をきちんと学べばわかります。主に中国唐代のすぐれた禅師たちの命懸けの努力によるものです。禅の解釈に大乗思想を援用することこそ、これまでのわが国の禅家や解説者の病弊だと思っています。

 今、日本仏教が滅びつつあることは明白です。あの東日本大震災のあと、被災者の助けになろうと乗り込んだ有名大乗系寺院のエリート僧たちは、そろって挫折しました。全国に7万以上もあるお寺からどんどん檀家が減り、経営的にも破綻の瀬戸際にあることはよく報道されます。その最大の理由が、日本仏教には魅力がないことでしょう。大乗思想を聞いても心に響くものが何にもないからに違いありません。今こそもう一度大乗思想から飛躍しなければならないのです

 筆者のブログに対する批判やご意見は大いに歓迎します。筆者の一方通行では張り合いがありません。しかし、どうか一つのブログシリーズだけを読んで「カッ」となって反論せずに(それも筆者には楽しいですが)、できればすべてのブログをお読みいただいてからペンを取ることを希望します。でないと、このようにシリーズを中断して説明しなければなりません。それも閑話休題として有意義ですが。

 今回、図らずもこれまでの筆者のブログシリーズの基本的狙いをまとめる形になりました。この記事をできるだけたくさんの人が読んで下さることを願っています。「同行さん」と筆者とどちらの言うことが正しいか、歴史が判定するでしょう。

弓と禅(1-3)

弓と禅(1)

 剣禅一如という言葉はよく聞きますね。山岡鉄舟や柳生但馬守が剣の修行に禅の修行を取り入れたと言われています。弓道についても同様で、今回から中西政次という教師だった人が、偶然のキッカケから弓道を始め、ついに高位に達した修行の過程と感動的な体験についてご紹介します(「弓と禅」春秋社)。
 中西さんは中学校(新制)校長だった53歳のとき、鷺野暁という弓道師範の訪問を受けた。同中学校に弓道部を作らないかとの提案でした。中西さんは長く禅の修行をしてきた人です。鷺野師と親しく話し、その弓術に触れるうちに、弓道が禅の修行と共通するところが多いことを知ったと言います。大学で教えを受けた鈴木大拙博士にも相談したところ即座に賛成され、本格的な弓の修行をすることになりました。

 教えを受けた鷺野師範の無影心月流(註1)の主旨は、

 ・・・真の目的は的中にあるのではなく、的中を二義的なもの副次的なものと考えて、もっぱら内面を培(つちか)って行き、心が宇宙と一体になったような広々とした状態になること、つまり、射理見性(弓道を通じて悟りを開く)だ(筆者簡約)・・・

です。鷺野師の弓道は、弓術の修行に禅の修行を取り入れるどころか、修行過程が禅の境地の進化そのもののようです。すなわち無影心月流には段位というものはなく、心境の深化を表わす段階があるのみなのです。そして師範は各門弟の射を見ただけでその心境がわかるようなのです。さらに、その心の深化が直接的中率に反映されるというのです。

 中西さんは、心の深化が進んだある時、
・・・ふと我に返って庭を見ると樹々が燦然と光って見える。苔も濡れたように青々と輝いて見える。目を上げると、屋根も山も空もすべてが異様に光り輝いて見える。さらにそれらの奥に、すばらしい何物かが見える。私はただ恍惚と見とれていた。踵(きびす)を返して茶の間へ行った。家内や娘がいた。家内も娘も私の目下(めした)としての家内や娘ではなくて、強い光を放つ尊い存在として見えるではないか。それは神とも仏ともいうべき尊い存在であった。あなたはよう私の妻になって下さった。娘たちよ、よく私の所へ生まれて来て下さった。ありがたいことだと思われた。妻や子供だけではなかった。机も本も額も襖も目に触れるものすべてが強い光を放っているではないか。翌日になっても変わらなかった。山川草木すべてが絶対者の一部として感ぜられるとともに、その奥の絶対者それ自体が観取されるではないか・・・

感動的なシーンです。まさに弓道と禅道は同じだったのですね。

註1無影心月流の創始者は梅路見鸞師範(1892‐1951)。門弟3000人と言われます。

弓と禅(2)オイゲン・ヘリゲル

(原題は「弓術における禅」、「無我と無私」と変えて藤原美子訳(ランダムハウス講談社)など様々な訳本が出ている。
 オイゲン・ヘリゲル(ドイツ人1884-1954、東北帝国大学客員講師として日本に6年滞在して西洋哲学を教えた。日本の精神文化の奥底を知りたいと、夫人は日本画と華道を習い、自身は阿波研造師範(1880-1935、大射道教の創始者)に弓道の教えを受けた。帰国する時には五段の免状を授受。阿波師範は、前回お話した中西政次さんの大先輩で、梅道見鸞師の高弟。その境地と技は弓聖とも呼ばれるほどだったと言います。たとえば、弓道の全国大会で優勝したときは、4日間連続、全射的中したとか。
 筆者は10年ほど前に「無我と無私」を読みました。その内容に感動すると同時に、少し疑問も感じました。それについてお話します。
 ヘリゲルは「離れ(矢を放つこと)」がどうしてもうまくできない。彼は西洋哲学者であり、ピストル射撃術にも通暁していましたから、どうしても技術的な論理を究明したいと思った。しかし師匠はまったく意味不明のことを言う。

 ヘリゲル:的に当てるという目的を果たすために、弓を引くという手段をとっている
 のです。この関係を無視するわけにはいきません。
 阿波師範:正しく射るためには無為自然でなければなりません。的に当てるために
 正しい矢の離れを修得しようと躍起になればなるほど、ますます離れは
 うまくいかず、当たらなくなるでしょう。あなたのあまりにも強い執着が
 邪魔をしているのです。
 ヘリゲル:ではいったい私はどうすればいいのでしょう
 阿波師範:正しく待つことを覚えなければなりません。そのためにはあなたは自身
 から離脱し、あなたやあなたのもの一切を捨て去れば、そこに残るのは
 引き絞った弓だけになります。
 ヘリゲルはそこがどうしても理解できなかった。そこで、巧妙に「自然に離れたように見えそうな技術」を工夫して阿波師匠に見せた。ところが阿波はたちどころにそれを見抜いて、無言でその場を去ったと言います。つまり、ほとんど見放されたのです。
 その後、ヘリゲルは許され、さらに質問した。
 ヘリゲル:私が弓を射なかったら誰が射るのですか。
 阿波師範:「それ」が射るのです。

 阿波はそれを証明するために、暗闇の中で的の前に線香一本だけを立て(もちろん的は見えない)、続けて2射した。甲矢は的の真中に、乙矢は、甲矢を貫いたと言います。ヘリゲルはこれにより日本文化の根源に仏教や禅の精神性を見出したとし、帰国後講演を重ね、前述の書を著わした。
 ヘリゲルは、阿波師範が言った「それ」とは、「仏とか神のことだろう」と理解し、講演や著書でもそれを匂わしたことが、「日本文化の神秘性」としてヨーロッパ人に大きな衝撃を与えたのでしょう(註1)。

註1 これに対し元ドイツ弓術連盟会長Feliks F. Hoffは、「よい射を日本語で『それです』と誉めるのをドイツ語でEs(英語のIt)を主語にしたため意味が変わってしまったのだと「神秘性」に疑問を呈している。わが国の弓道家の中にもそういう人は少なくない。

 筆者が10年前この本を繰り返し読み、感銘を受ける一方、どうしても違和感が残りました。それが中西政次さんの「弓と禅」を読んで氷解したように思います。中西さんも境地と技術の向上に努め、「矢の自然の離れ」ができるようになりました。じつは中西さんにとっても重要な課題だったのです。そして、その技術・境地は梅路見鸞師範の「無影心月流」のいわば「初段」に過ぎません(前述のように、ヘリゲルは阿波師範から最終的に五段の免許を受けましたが)。これに対し中西さんは弓の道へ入る以前から禅にも造詣が深く、弓道を学びながらも禅を学び、坐禅を続けたのです。そして「弓と禅」を書いた時期にはヘリゲルよりさらに二段階も上に達していました(ちなみに同流にはさらにその上に二段階あります)。

 ヘリゲルは日本語はほとんど理解できず、阿波師範との会話はすべて東北大学のドイツ語が堪能な教授による通訳を介していました。そのため当然、日本滞在中に得た禅の知識は皆無だったと思われます。つまり、ヘリゲルが「弓術における禅」を書くにはあまりにも低い境地だったと言わざるを得ません。これが筆者が「ヘリゲルの論述には違和感があった」原因だったのではないかと考えています。

弓と禅(3)「無」「空」について、あるやり取り

 1)中西政次「弓と禅」(春秋社)に興味あるやり取りがあります。

弓の中級者で禅の修行も積んでいた中西さんが、鷺野師範に、

中西:(弓道の大先輩であり、禅にも造詣が深い)F氏が、「弓を打ち上げた時(弓に矢をつがえて頭上に挙げた時)無の境地になる」と言われましたが、正しい見解ですか」
師範:正しい見解です。弓を打ち上げた時だけでなく、始めから終わりまで「無」の状態
です。
中西:F氏は「無とは空であり、何物もないことだ」と説明されましたが、私が坐禅
でわかった無の見解は『何物もない』ということではないのです。何もないという見解が正しいのであれば、弓と禅とは一致しないような気もしますが。
師範:有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたものです。
中西:凛然たる気、純一無雑な心は「無」という言葉で表現するのは不適当だと思います。それは「絶対有」あるいは「真の実在」というべきであると思いますが・・・。
師範:F氏の無の意味も有限界、相対界の無ではないと思います・・・あなたの言われる「絶対有」というのも世間の一般的な言葉では「何物もない」というように表現したり、「空」と表現します。

 いかがでしょうか。このやり取りを読んで、筆者は中西さんの、少なくとも禅境については、むしろ鷺野師範より進んでいると思います。

 まず、F氏の言う「弓を打ち上げた時の無の境地」とは、禅で言う有・無とか空の問題ではなく、たんに「無心、つまり何も考えない」だと思います。坐禅の時の心の状態ですね。師範の言う「有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたもの」という表現は考え過ぎです。

 次に中西さんが「凛然たる気とは『絶対有』あるいは『真の実在』というべきである」と言っているのはよく理解できます。実に良いところをついていると思うのです。ただ、表現についは筆者とが違いますが。「絶対有」とか、「真の実在」というような言葉は、禅では使いません。筆者ならそれを「神(仏)に通じる『本当の我』と疎通した状態」と表現します。

 さらに、鷺野師範が「『絶対有』というのも世間の一般的な言葉では『何物もない』というように表現したり、「空」と表現します」言っているのにも問題があります。「空」についての筆者の解釈はすでに何度もお話していますように、師範の解釈とはまったく違います。さらに、「空とは何物もない」ではありません。鷺野師範は「空」という言葉を少し安易に使い過ぎていると思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追記:前回お話したオイゲン・ヘリゲルが阿波研三師範に、「私がいるのではないというなら誰が射るのですか」と聞いたのに対し、阿波師範が「ソレが射る」と言ったことについて、ドイツ弓術協会のF.F.Hoffやわが国の弓術家が疑問を呈していることは前回お話しました。筆者はむしろヘリゲルの理解が正しいと思います。上記のように、矢を射たのは、神につながる「本当の我」だと思うからです。つまり、「ソレ」とは神(仏教では仏)のことだと思います。

マイスター・エックハルトと禅(4)

キリスト教と禅‐マイスター・エックハルトの思想(4)

 マイスター・エックハルト(1260?-1327)は、ドイツのキリスト教神学者、パリ大学の神学教授、そしてドミニコ会総長代理などを歴任。当時のヨーロッパは、カトリックの勢力がますます強大になり、大学と言えば宗教学、芸術と言えばゴシック様式などなど、芸術と学問はことどとく教会によって支配されていました。それらのことは当然、神父の権力も増大させ、ために教会は堕落し、やがては免罪符といういい加減なものを売って収入とするようになったのです。いわゆる中世暗黒時代ですね。マルチン・ルターが宗教改革に乗り出し、ルネッサンス(再生)が起こったのは200年後でした。じつはエックハルトはカトリック教会において最も優れた指導者だったのです。しかし、やがて彼の思想は当時のカトリックから離れて独自のものになってゆき、民衆の心に直接訴えていくようになったのです。

 以下に示すように、エックハルトは神と人間の一体化を説きました。キリスト教の根本的思想は「神は人間から隔絶したものである。しかし、すべての人々のすぐ傍らに居て見守り助け給もう」ですから、エックハルトの言う神と人間の一体化がどれほど画期的だったのかおわかりいただけるでしょう。その考えは必然的に教会や司祭などの「仲介者」を不要のものとしました。教会が安住していた権威と経済的基盤を奪うことになったのです。異端者とされたのは当然でしょう。エックハルト自身は審問を受けるため教皇庁へ行く途上で亡くなってしまいましたが、その後彼の著作はことごとく焼かれ、説教を記録した文書を持っていた民衆まで徹底的に弾圧されたのです。現代に伝わるエックハルトの思想は、奇跡的に廃棄を免れたものなのです。

 以下に、著作「神の慰めの書」(講談社学術文庫)からエックハルトの思想を御紹介します。

エックハルトは言う、

 ・・・汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない状態となり、名前無きなることを理解するであろう・・・神は自分に似せて人間を作り賜うた。・・・魂の諸能力がより無垢であり、より清浄であればあるだけ、それだけ魂はますます完全にますます(神を:筆者)広く受容するのであり、ますます緊密にその受容せるものと一つになる。そして最後に、あらゆる物を離脱し、いかなる物とも共通することなき最高の魂の力は、実にほかならぬ神そのものを、その本然の、如実なる本質において受容するに至るのである。何ものもこの(神との:筆者)合一と貫通打開(突破:鈴木大拙博士)の歓喜にしくものはない(p311)・・・神は私より私に近い・・・

筆者のコメント:
 1)鈴木大拙博士が言うように、まさしく禅の悟りの境地と同じですね。ある一瞬を境にしてモノゴトの観え方がガラリと変わってしまう・・・以前から見えていたにもかかわらず見えなかったもう一つのモノゴトの姿が見えて来る・・・神との境が取れて神と一体化する貫通打開はその一瞬ですね。
 キリスト教会の権力が頂点に達した時の最高の指導者が、キリスト教学とはまったく異なる思想に達したのは大きな驚きです。

 筆者が以前、「悟りとは本当の我(真我)と疎通し、神と一体化することだ」とお話したとき、ある人から「それは一闡提(いっせんだい)と言って禅では否定されている」とのコメントがありました。すぐに「それは一禅者の個人的見解に過ぎません。第一、一闡提の解釈を取り違えています」とお答えしました。

 2)神は私よりも私に近い・・・ちょっとわかりにくい言葉ですが、私よりもの私とは、自分がこれまで「私」と考えていたもの顕在意識での私。私に近いの私とは筆者の言う本当のわれ、真我を指すと思います。

神と一体化するにはどうすればいいのか
 ではどうしたら神と一体となれるか。エックハルトは、神に対する全き従順、虚心、善、我意を離れること、棄却と言っています。さらに熱心、愛、人間の内面への充分な洞察、溌溂として真実に理性的現実的な認識、内面的な閑寂とも・・・うーん。当然でしょうが、あまり参考になりそうにもありませんね。それが残念です(註2)。

註1 一闡提:仏法を信じず誹謗する者(Wikipedia)。
註2 「エックハルトは深い瞑想によってこの考えに達した」という説もあります。

なぜ禅を学ぶのか(1)村上光照禅師の思想と実践(1-3)

なぜ禅を学ぶのか(2)‐村上光照禅師の思想と実践(1)

 現代人の多くが禅に興味を持っていると思います。しかし、禅について知れば知るほど「なぜそこまで『悟り』にこだわるのか」との疑問を持つ人も少なくないでしょう。筆者も長年坐禅・瞑想を続けていますが、このテーマに関する明快な回答はできません。ただ、あの良寛さんや、今からお話しする村上光照師の生き方を見れば、「すばらしいものだろう」と想像はできます。

 村上光照師(1932-)は、おそらくわが国近・現代の最高の禅師だと思います。名古屋大学理学部で素粒子物理学を学んでいる途中で禅の世界に入り、澤木興道師(註1)に感銘したと言います。そこで、澤木師を身近に接したいと、京都大学大学院へ進み、湯川秀樹博士の元で素粒子物理学を研究しました。しかし、母親の期待に反して大学教授への道を自ら閉ざし、禅僧となった人です。どの寺にも定住することなく(師の言葉によれば「呼ばれればどこへでも」)、わずか数人の弟子と修行生活を送っていらっしゃいます(註2)。筆者がテレビで拝見したのは、 伊豆半島の山奥の寺時代と、静岡県川根町の離農した農家を借りて修行中の村上師です。村上師たちの坐禅は毎日7回、5時間にも及ぶと言います。テレビで坐禅の様子を見て衝撃を受けました。結跏趺坐で前かがみになって眼を炯々と開けていらっしました。

 村上師たちはもっぱら托鉢での生活の糧を得ています。玄米と大豆を炊いたものに、八百屋でもらった青菜の切れ端にゴマを掛けて菜としていると。あるとき村上師を偶然見かけた人が「弟子一人と、町の噴水の水(!)を飲みながらフランスパンをかじっていた」と報告しています。村上師にとっては、噴水の水はばい菌も汚くも危険でもないのでしょう。

 現代の良寛さん

 村上師はそのまま学究生活を進歩めば、いずれしかるべき大学の教授になり、優れた研究成果を次つぎに挙げ、有望な教え子たちを育てる人になったでしょう。映画を見、多くの小説を読み、音楽や絵画を楽しむ生活を送ることもできたでしょう。恋をして結婚して家庭を持ち、かわいい子供たちと楽しい家庭を作っることももちろん可能だったはず。それは多くの人にとってごく普通の生き方ですね。しかし村上師はそれらのすべてを捨て、修行ひとすじの人生を送ってこられたのです。まさに現代の良寛さんでしょう。備中玉島圓通寺での厳しい修行を終え、国仙師から最高の印可(免許状)を得た良寛さんは、ちゃんとした寺の住職になって、後進を育成するチャンスはいくらでもあったはずです。村上師や良寛さんにとって、禅にはそれら普通の人が考える生き方に優る意義があったのでしょう。

 村上師の思想は上記のような行動として現れています。しかし、筆者にはとうてい真似ができません。目標というより遥か雲の上の人です。それでも村上師の思想の根本を知りたいと思うのは人情でしょう。筆者が村上師の言葉から知り得たところについては次回お話します。

註1 澤木興道師(1880-1965)は昭和を代表する禅師。村上師と同じように「一処不在」「只管打座(ひたすら坐禅する)」の生活を送った。村上師の他にも、弟子丸泰仙、内山興正、酒井得元、西嶋和夫など、多くの禅師を育てた。
註2 近年では日本各地ばかりでなくヨーロッパでの坐禅指導をされています。

村上光照師の思想と実践(2)

前回お話したように、村上師の生き方の根本を知りたい筆者ですが、NHK「心の時代」で次のようにおっしゃっていましたのからその一端を伺えます(以下筆者一部簡約)。

・・・ここ山奥で坐禅していれば、「あの人は山奥にいて、何も関係ないわ」と言うかも知れません。それは人間の目で見て物理的に離れているだけでして、魂の世界は、一人一人の魂の中心に直結していくわけです。人間ばっかりじゃないですよ。植物だって、動物だって、いのちあるものはすべて抱き留めて・・・世の中に老後悩んでいる人がもしいるのだったら、それと同じように私も悩みます。食えなくて、悩んでいる人が地球の上にどっかにあったら、私はその人と同じになって悩みます。それはもう当然なんです。出家というのは世界中全部道場ですから。それで、私と別のものは一つも存在していないわけなんです・・・地理的に山奥に住んで涼しい顔して無責任な生活をすることかと思うと、そうじゃないんです。静かな心で俗世間の波立ちを鏡に映すような世界を歩かせて頂いているわけです・・・

 村上師は毒蛇にも心を通じることができ、「あっちへ行ってくれ」と言えば村上師を避けて通るそうです。

 村上師は、典型的な自力信仰とされている禅の衣鉢を継ぐ人ですが、禅に少しもこだわることなく、

 ・・・自力というのは自分の尻尾の周りだけしか照らせないんです。それが自力です。お他力というのは天上界を照らすと一緒に地上のあらゆるものに平等に照らす。それを頂いていく作法を「大乗」とか、「お他力」とか言います。現にその通りになっていくんです。宗教的事実というのは、一回我を離れる、というか、自分の先入観にとらわれないでいると、もう既に煌々(こうこう)と照っている世界なんです。はっきりとそういうしるしが人々に顕れます・・・

と、大乗仏教にも造詣が深い。さらに、キリストの言葉も自在に引用していらっしゃいます。以前のブログで紹介しましたように、道元も「正法眼蔵・生死巻」の中で、
 ・・・仏のいへ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる・・・
と言っています。立派な「他力」ですね。

筆者のコメント:筆者も村上師の考えと同感です。このブログシリーズは「禅塾」と名乗りながら、他力系の浄土思想や華厳、唯識、さらにはキリスト教や神道、そしてスピリチュアリズムについても筆者が体験し、学んできたことをお話しています。筆者が長く生命科学の研究を続けていた経験から、自分の専門分野だけを学んでいても、幅広く関連分野について学ばなければ専門分野自体をよく知ることが出来ないと実感していたからです。仕事を続けながら禅を学び、かなりの境地に達した人が、仕事を投げ打って禅寺に入ったことを知っています。一方、良寛さんやこの村上光照師のように一般的な禅の世界から抜け出て、独自の道を歩む人もいます。筆者は上記の理由から、むしろそういう人たちの生き方を善しとしています。

村上光照禅師の思想と実践(3)

 村上師はテイクナット・ハン師とは対照的な禅の生活をしている
 
 村上師の禅師としての活動は、あのハン師とはまったく対照的です。すなわち、村上師は、いわゆる南伝仏教の伝統にのっとり、自分自身のための禅道を歩んでこられた。じつは良寛禅師もそのような生活を目指した人なのですが、途中で考え方を変え、あのような自由気まま(?)な人生を送った人です。その結果、当時からすでに心酔している人が多く、越後の大庄屋解良栄重(けらよししげ)や阿部定珍(さだよし)、最晩年の弟子貞心尼、それどころか、村の老爺から子供たちに至るまでの多くの人に敬愛されました。しかしそれはあくまでも「結果」に過ぎないと思います。あくまで良寛さんは自分本位に生きた人だと思います。北川フラムさんのように、良寛さんは越後へ帰ってから大衆を済度したという人もあります。しかし筆者はそういう気持ちはまったくなかったと考えます。あくまで結果として、現代に至るまで多くの人の心を癒し、勇気付けてきたのだろうと思うのです。

村上師は禅語「前後裁断(ぜんごさいだん)」と、「非思量」を、それぞれ、

 ・・・坐禅している時間は、人生がそこで無くなって、仏さまの時間に変わる。「この人間の世界の中に仏法があると思うなよ。また、仏法の中に人間の世界があると思うなよ」(道元の言葉を引用)。「前後裁断」と言うんです・・・

・・・「非思量」というのは、要するに、〈こういう人の世界で起こる、「考えられる」とか、「考えられん」とか、「ある」とか、「無い」とかじゃない。もう一つ、別世界の仏界から人の世界に届く。人でありながら、仏界のことがこの世に起こる〉。これを「非思量」という。「大矛盾」といいますか、〈あり得ないことが起こる〉。禅というのは面白い。みんなに分かり易く公案というのがありまして、非思量の世界を、「全てが燃える。真っ赤な炎の中で、真っ白な清らかな蓮の花が咲くんだ」という。これ「非思量」を譬えていうんです・・・

と言っていらっしゃいます。「前後裁断」「非思量」は重要な禅語ですが、いずれも筆者の解釈とは異なります。くわしくは、前著「正・続 禅を正しくわかりやすく」「禅を生活に生かす」(いずれも株式会社パレード)をご参照いただけば幸いです。

 村上師には著書や短歌・漢詩など、諸相の一端を知る材料は一切無く、わずかにテレビでのインタービューでその人となりを知るのみです。いずれほとんど痕跡も残さずに消えてゆく人つもりの人なのでしょう。しかし、ハン師や良寛さんとあまりにも対照的な村上光照師の生き方ついて、誰もとやかく言う筋はないことは当然です。それにしても、もう少しご自分の考えを残してほしいのですが・・・。

人さまざまであってよいと思います。それでも、ハン師の世界的な貢献には頭が下がります。