nakanozenjuku のすべての投稿

ひとまずそのまま受け入れる-禅の心

 毎日新聞の「女の気持ち」欄(2022・11・7)で、57歳の看護師・三浦昭子さんが「患者になって」を投稿していました。

・・・・2年前乳がんを告知されたとき「定期的に検診を受けてきたのに、なぜもっと早く見つけてくれなかったの」とショックを受けました。でも意外と気持ちは前向きで・・・・これからすべてを受け入れて行こう、人生のいい経験なるかも・・・家族でなく自分でよかった。身内の心配をするほどつらいことはない、などと診察後の待合室で考えていました。その後の治療、特に手術は私自身がオペ室勤務だったので、逆の立場を経験できることが楽しみで、興味津々で臨みました。風景を目に焼き付けようと周りをキョロキョロしたり、麻酔がかかって意識がなくなるまでの感じを忘れないようにしようと思いました。入院中の看護師さんのやさしい言葉や、いつでも来てくれる安心感を身に沁みて感じました。その後の抗ガン剤治療や放射線治療など、すべてよい経験だったと思っています。自分が弱い立場になり、人のやさしさを改めて実感しました。今も看護師として仕事が続けられることに感謝しています(以上、一部筆者の責任で削ったり言い回しを変えさせていただきました)・・・・

 とても気持ちの良いお話ですね。しかし筆者は、けっして「めでたし、めでたし」とだけ受け取りません。「このエピソードはよいところだけ選んでまとめた。都合の悪いところは隠している」と思うのです。まあお聞きください。

 まず、「自分がガンになってしまった」ことがどれほどショックだったか、死に対する恐れがどれほど大きかったか・・・・深刻な悩みだったはずです。「なぜもっと早く見つけてくれなかったの」は、たんなる恨み言にすぎないと思います。つぎに、三浦さんにも家族、ことに子供さんがいらっしゃるでしょう。「もし私が死んだらこの人たちはどれだけ悲しむだろう。世話はどうするのか」と思わないはずがありません。とくに若いガン患者のお母さんの苦しみはそこにあるという多くの証言があります。さらに、手術の痛み、抗ガン剤の副作用などによる苦しみも感じないはずはありません。

 これで筆者の言いたいことがお分かりいただけたと思います。すなわち三浦さんは、この一連のプロセスや心の変化のうち、ポジティブな部分だけを集めてストーリーとしているのです。つまり、「隠している」という心の痛みがあるはずです。三浦さんはポジティブな面だけ選んで「かっこいい文章」に仕立てたのです。文字数の制限もありますが、むしろ悩みや葛藤を含めたサクセスストーリーでしたら、読者の受ける感動は2倍になったと思います。

 「ひとまずそのまま受け入れる」・・・これが禅の心です。そこには無理がないのです。そこで初めて読者の皆さんも「自分もそうありたい」と思うはずです。

自力も他力も同じ

 前回「アメイジンググレイスの歌を聞いていて、突然、その本当の意味が分かった」とお話しました。「私のような者でも神によってすでに救われている」という意味だとわかったのです。

 I村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方で、現在は岐阜県の真言宗徳林寺住職です。筆者はブログを通じて岩村さんとはかなり突っ込んだやり取りをしました。しかし、議論は最後まで平行線でした。結局、岩村さんの最後のコメントは「塾長は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。感情的になってしまったら議論は終りです。

 法然は、「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば仏になれる」という、仏教における革命的思想を提唱しました。他力信仰ですね。親鸞は法然の高弟で、「たとえ師にだまされて地獄へ落ちようと師の教え(他力信仰)に従う(筆者訳)」と言いました。キリスト教も「絶対神によって救われる」が根本義で、いわば他力です。

 「寺院消滅」という恐ろしい言葉があります。京都の嵯峨野にある浄土宗正覚寺の住職で元ジャーナリストの鵜飼秀徳さんの著書です。同書には、國學院大学の石井研士教授の試算として、2040年までに日本の宗教法人17万7千のうち35.6%が消滅するとあります。昨今、浄土宗や浄土真宗、そして日本のキリスト教がなぜ振るわないのか。理由はいくつかあると思いますが、もっとも重要な点は「住職自身が他力の本当の意味を分かっていないから」と筆者は思います。なによりの証拠は、試しにネットでさまざまな寺院のHPを開いてみればよくわかります。余分なことばかりが書かれているのです。 

 道元はもちろん自力の人でしたが、正法眼蔵・生死巻で、

・・・・この生死は、すなはち仏の御命(いのち)なり。これを厭ひ捨てんとすれば、すなはち仏の御命を失なはんとする也。これに留まりて生死に(執)著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…厭ふことなく、慕ふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以て量る(はかる)ことなかれ、言葉を以て言ふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかた(方)よりなはれて、これにがひもてゆくとき、力をもいれず、こころをも費やさずして、生死を離れ、仏となる・・・・

と言っていました。他力そのものですね。

 筆者は長年禅を学んできましたが、行き着いたところは他力の心境なのです。考えてみるまでもなく、自力も他力も、悟りに達するまでの道が違うだけで、富士山に登るのに御殿場ルートや須走ルートなどがあるのと同じです。自力と他力のどちらを選ぶかではなく、他力も分かった上で、自力修行をすればいいのだと思います。筆者は、今でも毎日座禅瞑想を欠かしません。

アメイジンググレイスを知っていますか(1-3)

驚くべき神の恩寵(Amazing Grace)

1)
Amazing grace!(how sweet the sound)
That saved a wretch like me!
I once was lost but now I am found
Was blind, but now I see. ‘Twas grace that taught my heart to fear.
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed. Through many dangers, toils and snares.
I have already come;
‘Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
驚くべき恵み(なんと甘美な響きよ)
私のように悲惨な者を救って下さった。
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える。 神の恵みが私の心に恐れることを教えた。
そしてこれらの恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じた時に。 多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、
私はすでにたどり着いた。
この恵みがここまで私を無事に導いた。
だから、恵みが私を家に導くだろう。(以下略) (以上Wikipedia から)

 イギリスの牧師ジョン・ニュートン(1725-1807)作詞で、讃美歌[第二編第167番]にも入れられている有名な歌です。筆者は最近、この歌の歌詞を読んでいた時、突然「ハッ」と、その本当の意味が分かりました。そのとき神がすぐ傍らにいらっしゃると感じました。(次回に続きます)

2)解説:ジョン・ニュートンはイギリス生まれ。母親は敬虔なクリスチャンでしたが、ニュートンが7歳の時に亡くなりました。成長したニュートンは船乗りとなりましたが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わり富を得るように。当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪だった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれます。

 ニュートンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていましたが、1748年5月10日、彼が22歳の時に転機は訪れました。イングランドへの航海中、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのです。彼は必死に神に祈りました。すると流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのです。ニュートンはこの日を転機として船を降り、勉学と多額の献金を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」が作詞しました。黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにもかかわらず赦しを下さった神の愛に対する感謝が歌われています(久野陽一「ニュートンと恩恵のゆくえ」『愛知教育大学研究報告. 人文・社会科学』第56巻85-90、2007)。

筆者のコメント:前回紹介したC)の訳者はクリスチャンだそうですが、「神の恵みを受けるには」として、

・・・ボク達の身代わりになってくれた方(イエス)が死なれて甦えったということを信じるだけいいんです・・・と言っています。クリスチャンでない私たちにはちょっとわかりにくいですね。A)~C)の訳もピンときません。

 「筆者はこの歌詞の意味が分かってハッとした」と言いました。もちろんこの歌はそれ以前から知っていました。しかし「ハッとした」とは、この歌詞の意味は「すでに私も神によって救われている」と気付いたからです。讃美歌ですからクリスチャンならいつも教会で歌っているはずです。しかし、全身でわかることが重要だと思います。筆者その時、周りの雰囲気がパッと変わったのを感じました。神がすぐそばにいらっしゃるの感じたのです。その感じは今でもアリアリと思い出せます。

この体験をもとに作った筆者の訳詞です(原詩の忠実な訳ではありません)。

驚くべき神の恵み。

何という温かさ。
私までも救ってくださっていた。

苦しみ、さまよい続けていた私。

なぜ気付かなかったのか。

「私はそこにいる」という神の言葉を。

神の恵みが私の苦しみを癒し、
苦しみから心を解き放ち給うた。

いまは気付きました。

なんという幸せ!

ありがとうございます。

3)神によって救われている」と言っても、亡くなった人が生き返るのではありません。末期ガンが治るわけでもありません。神の恩恵とはそういうものではないのです。よい例があります。「長崎の鐘」「この子を残して」の作者永井隆さんは、長崎医大の放射線科医でした。当時のレントゲン技術はとても危険なもので、永井医師もその影響を受けていました。その不安を奥さんに話すと、「すべては神のおはからいね」と答えたそうです。つまり、神に「治してください」と願うものではなく、神の意志をそのまま受け入れると言うのです。筆者の友人の話です。「ガンの知人をお見舞いに行ったとき、もう末期で、ホスピスに入っていたにもかかわらず、不断と変わらないように本を読んでいた」と。敬虔なクリスチャンでした。「神を心の底から信じるとはこういうことなのかと感銘を受けた」と。

 自分の犯した罪の大きさに苦しみ続けている人たちがいます。先日の新聞に、2019年の台風19号で、妻と小学生の二人の子供を亡くした38歳の父親のことが載っていました。県内の友人宅へ1泊する予定の妻が「台風が接近しているし、どうしようかな」言ったのに対し、「まだ雨は降っていないし、行っていいよ」・・・3人は亡くなりました。東日本大震災でも「あのとき○○しておけば」と苦しんでいる人がたくさんいます。「一生苦しんで行くしかない」と言った人も。ベトナム戦争時、ある村で待ち伏せ攻撃に会い、親友を殺されたアメリカ軍兵士がいます。怒りに目がくらんだ彼は、サンドイッチに毒を入れ、村の入口に置いておいた。陰で見ていると子供たちがそれを食べ、死んだのです。その兵士は帰国後もその罪に苦しみ続けていました。

 犯した罪は消えるものではありません。ではどうしたらいいか。罪を心から懺悔することだと思います。そして少しでも世の中に貢献すること。「万分の一でも世の中に尽くしなさい」・・・筆者の尊敬するベトナム出身の禅僧テイク・ナット・ハン師が、上記の元アメリカ軍兵士に諭した言葉です。

  筆者はこの生で神の恩恵の(筆者にとって)本当の意味を知ったことを心から幸せに思います。

耳をすませば-心の声を聴く

 宮崎駿(はやお)監督制作で人気の高いアニメですね。筆者も2度テレビで見て、感動しました。中学3年の女の子月島雫(しずく)の話です。

 ・・・雫はこのごろ受験勉強に少しも身が入りません。「自分は将来、詩や小説を書いて暮らす方が向いているのでは」と考えるようになったのです。偶然親しくなった聖司君が、「中学を卒業したらイタリアへ行ってバイオリン制作の修行をしたい」と言うことも影響しました。雫の成績は250人中53番から153番へと著しく低下します。「高校なんか行かなくても別のことをやりたい」と言う雫に、本当の理由を知らない大学生の姉・汐(しお)は、「受験勉強をしたくない言い訳でしょ」と。心配する両親に「あと少しだけ待って」。密かに小説を書いていたのです。急いで完成させ、心が通え合える聖司の祖父に第一に読んでもらいます。「よく書けている」とほめてもらいましたが、「私ダメなことが分かっているんです」。「やっぱりもっと人生経験を積まなくては小説も書けない」と悟った雫は「受験勉強に復帰します」と両親に・・・・。

 エンデイングロールのバックに流れる歌「カントリーロード」で、この作品のテーマ「耳をすませば」の意味が語られます。「自分の心に耳を傾けて生きよう」と。

筆者のコメント:筆者は「悟りとは神につながる本当の我と疎通すること」とお話しています。本当の我とは、筆者が考えている仮定のものですが、筆者にとっては確かな存在です。本当の我とは「心」のことで、「耳をすませば」と深い関りがあります。心の声とは「本当の我の声」ですね。ちゃんとした芸術家や科学者は、われ知らずに「自分の心の声」に耳を傾けながら創作活動しています。筆者は研究者として生きてきましたが、研究の方向性はいつも「頭で考えたことではなく、心の声を聴いて決めてきた」と、後になって知りました。

補注「(自分の心に従って)別のことをやりたい」とか、「アンテイークを買いたい」とか「馬券を買いたい」は、ほとんど失敗するのも事実でしょう。長い人生経験を積み、創作活動でも厳しい鍛錬を経した人だけが、「(本当の)我」と疎通するのです。多くの人が疎通(?)したのは本当の我などではなく、たんなる自我-顕在意識で判断したに過ぎません。

統一教会-安倍でよかった?

 筆者もこの問題を避けて通ることはできません。この問題については多くの「識者」がさまざまな視点から解説をしていますが、筆者の意見はシンプルです。

 結論から言いますと、山上容疑者は実に適切な問題解決法を実行したのではないかと思います(註1,2)。まず、統一教会(現世界平和統一家庭連合)のひどさはよく知られている事実ですから、ここでは省略します。問題の一つは、なぜ自民党と深く関わってきたかですね(註3)。それについても多くの人が指摘するように、統一教会側としては「自民党にお墨付きをもらうこと、つまりはわが国民にも認知してもらうこと」でしょう。一方、自民党側のメリットは「無料で選挙に協力してもらい、選挙の際には票になること」、これも「識者」の言う通りでしょう。日本の信者の数は5-6万人と言われますが、少なくとも地方選挙ではあなどれない得票数になると思います。それにしても自民党がなぜこれほど問題の多い統一教会を利用したのか。「知らなかった」で済むはずがありません。

 統一教会についての最も深刻な問題は「信者の退会を説得することが極めて困難」でしょう。あの山上容疑者の母親も、事件後まず協会に謝罪したとか。これに対し、現在、これほどまでにマスコミが騒ぎ、国民の関心を引いていることは、個人または集団で退会を説得するより、はるかに有効な手段です。現信者やその二世に大きな衝撃を与え、自分を取り戻すきっかけになっていることはまちがいないでしょう。これまでの「脱カルト協会」の真摯な努力は中々実を結ばず、紀藤さんなど弁護士の地道な努力も、成果が上がるまでに何年もかかっているのです。

 もし山上容疑者のターゲットが統一教会幹部だったら、これほどまでに国民の関心を引かなかったでしょう。なんといっても元首相の安倍さんだったことが衝撃的だったのですね。以上のことを勘案すれば、山上容疑者が安倍さんをターゲットにしたのはきわめて有効な、信者に自覚を促す解決手段だったと思うのです。多くの国民が山上容疑者に同情し、多額の義援金が寄せられている事実が何よりの証拠ですね。

註1 人を殺して問題解決を図ることが良いはずはありません。しかし、現にウクライナ政府は多くの兵や市民を犠牲にして問題解決を図っているのです。別に筆者が取り立てて言うことではありませんが。ウクライナ問題、中国がウイグル自治区でやっている蛮行で悩んでいる人の中に、「プーチンや習近平を暗殺するしかない」と半ば本気で考えている人は少なくないと思います。

註2 この種の問題は統一教会ばかりでなく、他の新宗教や新々宗教の問題でもあることは、多くの人が言うとおりでしょう。既存の大宗教でも「熱心な信者」とは、しばしば「洗脳」の裏と表なのですから。以前の日本の国政選挙のさい、筆者の郷里の、創価学々員と思われた人たちが数人、筆者宅を訪れ、協力を要請されたことがあります。見覚えのある顔もありましたが、話したこともない人たちでした。彼らが筆者の住所をどうして知ったのか、空恐ろしさを感じました

註3 米・共和党についても同様のようです