1)中観派はインドの龍樹(ナーガールジュナAD150-250)から始まった仏教思想です。龍樹には「中論」「大智度論」「十住毘婆沙論」などの著書がありますが、とくに「中論」が空思想(空観)の理論書として知られています。龍樹の空観は、その後大乗仏教の中心思想とされ、八宗(註1)の祖と呼ばれています。後継者は多いですが、とくにチャンドラキールテイー(AD600?-650?)が優れた解説書によってよく知られています。
「中論」の趣旨は、表向きには、紀元前後のインド仏教の有力な宗派「上座部・説一切有部(以下有部)」への批判ですが、じつは、それ以外の思想も含めたすべての概念に対する破邪(否定)です。すなわち、後述しますように、破邪の対象として常・断・生・滅・一・異・来・出の八つの概念を挙げ、これらの思想をすべて否定したのです。
縁起の概念についての誤解
まず、よく「縁起の概念は、無常の概念とともにブッダの中心思想だ」と言われていますが、そうではありません。ブッダの「縁起」の真意は、「悲しみや、苦しみには原因(因と縁)がある。それを突き止めれば悲しみや苦しみから逃れられる」という、いわば生活の知恵なのです。後世のインドの哲学者たちが、晦渋な理論にしていったのです。そしてそれをそのまま受け取って広めているのが現代日本の仏教家なのです。たとえば、「あらゆるモノには実体はない。なぜならそれらは他のさまざまなモノとの縁によって成立し(縁起)、常に変化(無常)しているからだ。縁が無くなれば消え、変化するから不変の実体はない」と拡大解釈し、「それが空思想だ」と言っているのです。筆者が初めて禅に興味を持った時出会ったのが松原泰道さんの「般若心経入門」でした。そこに「空」の説明としてこの考えが述べられていました。筆者はそれがどうしても納得できなかったのです。今では「あらゆるものには実体がない?ではあなたの頭をポカンとたたいてみましょうか。あなたが怒ったら、あなたには実体はないのでしょう?」と言うつもりです。もう亡くなられましたが。そんな経緯があって、筆者はそれから40年間も禅を学ぶのを諦めてしまったのです。松原泰道さんは有名な澤木興道師の弟子で、生涯に101冊もの仏教書を書いた人物ですが、筆者にとってまったく罪深い人なのです。
じつは、後でもお話しますが、龍樹は「モノには実体がない」などと言ったのではないのです。有部が「モノのありかた、つまり法(ダルマ)はそれ自身で成り立ち(自性があり)、実体がある」と言ったのに対し、龍樹は「法には自性も実体もない」と言ったのです。つまり、「モノのありかた」だったはずが、いつの間にか「モノ自体」に変わってしまったのです。ことほどさように、仏教思想は拡大(増広)したり、変容するので注意しなければなりません。筆者が「仏教思想の歴史的展開を見極め、よく注意しなければならない」言うのはそのことです。そこを混同すると、松原泰道さんのように「頭をポカンとたたいてあげましょうか?」と言われる羽目になるのです。
以下、「龍樹・中観派の思想」と「有部との論争」の二つに分けます。そう考えると「中論」が理解しやすくなるはずです。さらに、後者はブッダを含めた仏教宗派間の「コップの中の嵐」という面が拭えないからです。もちろんそれも学ぶことは大切ですが。
註1 天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗本願寺派・大谷派・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗。 華厳宗の「あらゆるものは関係しあっている」という重々無尽思想。法相宗の「モノのいう実体はない、ただそれを認識する意識だけがある」という唯識思想などは、龍樹の「空観」の影響を強く受けています。くわしくは筆者の以前のブログをお読みください。
龍樹の空思想(2)
前述のように龍樹は、あらゆる概念に対して破邪(否定)を行いました。その例として、
不生(新たに生じるということもなく)・不滅(消滅することなく)・不断(終末あることなく)・不常(変化しないということもなく)・不一(それ自身と同一ということもなく)・不異(異なることもなく)・不来(来ることもなく)・不出(去ることもない)の八つを挙げました。つまり、「これらの法はすべて、それ自身では成り立たない」と言ったのです。もちろん、概念には他にもいろいろありますが、「この八つが他宗派との論争の主題だから、この八つについて説けば、一切の法について説いたのと同じことだ」と言うのです。「八不(ハップ)」です。
龍樹はこれらを「縁起の概念」により証明しました。たとえば、「長いという概念は、短いという概念がなければ成立しないということと同じだ」と。つまり、「ありかた(法・原理)」は、必ず、対比するものがあるからこそ成立し、それ自身で成立しているのではなく、独立した(自性のある)法などない」・・・・と言うのです。これがすなわち相依性です。
龍樹・中観派のロジック
龍樹の思想は難解で、現代に至るまで多くの人を悩ませてきました。なにしろ現代の「中論」についての解説書がどれもよく分からないのです。以下、中村元博士の「龍樹」(講談社学術文庫)を参考にしながらお話します。
「中論」の論法(ロジック)の基本は、「運動の否定の論理」です。「運動の否定」とは、「すでに去ったものは去らない。まだ去らないものは去らない。現在去りつつあるものも去らない」という論法です。つまり、八不のうちの「不出(去ることもない)」についてですね。前記のように、龍樹は「ここさえ論破すれば破邪として十分だ」と考えました。その通りでしょう。この論法で行けば「すでに生じたものは生じない。まだ生じないものも生じない。いま生じつつあるものも生じない」・・・と八不どれについても否定できるからです。
そこで「運動の否定」についてお話します。まず「すでに去ったものは去らない」と、「まだ去らないものは去らない」はわかりますね。問題は「現在去りつつあるものも去らない」の部分です。ここが多くの人を混乱させてきた問題の箇所です。龍樹がなぜこんなバカげたことを言ったのか。じつはこれは説一切有部(有部)の論法に対する反論のための「ひっかけ」なのです。もちろん実際には有部はそんなことは言っていません。「もしそういう設問があったら有部はどうするか」と言っているのです。以下、有部との論争を例にして「運動の否定」についてお話します。
龍樹の空思想(3)説一切有部との論争
「説一切有部」はなぜ「法には自性があり、実体がある」と言ったのか
「説一切有部(有部)」とは、初期仏教のうち、上座部に属する宗派の一つで、当時王族や貴族の支持を受け、経済的にも豊かな最大会派でした。じつは龍樹らの中観派に徹底的に批判されても、その後もずっと、とくにスリランカや東南アジアで存続したのです。
前記のように、有部は「ダルマ(法・原理すなわちモノのあり方)は、それ自身で成り立つ(自性がある)実体だ」と言いました。まず、「なぜ彼らはそう言わざるを得なかったのか」からお話しなければなりません。ブッダは、もろもろの存在が消滅変遷するのを見て「すべて作られたものは無常である(諸行無常ですね:筆者)」と言いました。当時仏教外の諸思想が、絶対に常住不変なる形而上学的実体を予想していましたから(註1)、ブッダはこれを排斥したのです。しかし、「諸行無常を主張するためには何らかの無常ならざるもの(常住なるもの)を必要とするのではないか」と、初期仏教徒たちでさえ考える人がいたのです。
もちろん仏教(!)である以上、無常に対して常住なる存在を主張することは許されません。そこで有部は「ブッダの言葉は、対立概念など必要としない。それだけで存在する絶対真理だ」と言ったのです。つまり、「『モノやコトが〇〇であるありかた(法・原理)は、それ自身で成立し(自性)、実有(実体)である」としたのです。
しかしそれでも、その後インドの哲学者たちの間では「(自性がある概念は)有る」という主張と、「無い」という主張が入り混じっていました。そこへ登場したのが龍樹でした。龍樹は「縁起の法」を使って、この問題を決着したのです。龍樹の説明は以下の通りです。以下、中村元博士の解説(「龍樹」p117-p135)に沿ってお話します。
一異門破(有部、ひいてはすべての概念に対する龍樹の批判)
・・・たんなる実在論においては、ここに一人の人間がおり、その人が歩む(去る)からその人を〈去る主体〉と言い、歩む作用を抽象して〈去るはたらき〉と言うにすぎない。そのため、両者の一異(同じかどうか、異なるかどうか)という問題は起こらない。ところが法有(有部)の立場は、そういう自然的存在を問題とせず、その「ありかた(法・原理)が有る」となすのだから、一人の人間が歩む(去る)場合、「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」とを区別して考え、それぞれに実体視(法が有る)せねばならないはずだ。そうすれば両者の一異如何が問題とされることになる・・・・・。
つまり、普通に言う「去りつつあるものは去る」という場合には、「去りつつある者」という一つの「ありかた」としての形而上学的実在に関して、「去る」という述語を付与する判断だ。ところが有部の立場は、それぞれの「あり方」をそのまま実在とみなすから、「去りつつあるもの」という「あり方」と、「去る」という「あり方」はまったく別のものとされる。したがって「去りつつあるものが去る」といえば、それは拡張的判断であり、二つの去るはたらきを含むことになる。そうだとすると、この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。「あり方そのもの」(法のみ)であり、他のいかない内容も拒否している二つの実体がいかにして結合しうるのか・・・・・龍樹はまさにそこを突いたのだ(p125)。したがって龍樹は概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのでもない。概念に形而上的実在性を付与することを否定したのである。つまり、「去る働き」や「去る主体」という「ありかた」を実有と考え、その立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるを得ないところのある種の哲学的傾向を排斥したのである・・・
いかがでしょうか。龍樹の言う通りでしょう。しかし、ちょっとわかりにくいので、筆者のヒントを付け加えます。すなわち、「去りつつあるものは去る」の部分を英語訳すると、Those
who is going away goes
away.となります!これでおわかりでしょう。明らかにこの文章はおかしいのです。たんなる文章上の問題ではありません。文章は「論法」です。ことほどさように「去りつつあるものは去らない」という龍樹の考えは正しいのです。
註1 たとえば、ブッダ以前のインドヴェーダ信仰(ウパニシャッド哲学)では、人間の本体は常住不変のアートマン(個我)であり、輪廻転生をくり返して修行し、ブラフマン(神)に近づくことを信仰の基本としています。
龍樹の「空」思想(4)中観派に対する破邪
龍樹の論法の限界
しかしよく考えれば、龍樹の論法にも矛盾があるのです。まず、龍樹の論法が正しいとすれば、「縁起の法」そのもののに対してさえ、「縁起の法に依らない法」があるはずです!おわかりですね。つまり、龍樹・中観派は自らジレンマに陥っているのです。「われわれは他の思想に対して破邪をするだけだ。いかなる主張もしないから批判されることはない」と豪語していますが・・・。
次に、あらゆる法は「縁起の法」に従うのでしょうか?近代数学や科学の成果を知っている私たちにとっては「否」です。なぜなら、「三角形の内角の和は180度である」ことは、対立概念など不要の、それだけで(自性)宇宙のどこででも成り立つ絶対真理です。それどころか、現代の私たちにとって、原理とはそういうものなのです。
いずれにしましても、そもそもブッダが「不常、つまり永続するものはない」と言ったこと、それに対して有部などが、「いや、不常と言うからには常であるものという対立概念がなければならないのでは?」と考え、それを説明するために「(あり方という)法には実体がある(絶対真理である)」と言ったこと。さらにそれに対して龍樹が「縁起の法」を使って「常(じょう)は不常があるから成り立つのであって、常とか不常という法それ自体などない」と言ったこと。・・・それらの論争はすべて、ブッダも含めて「コップの中の嵐」であり、仏教研究家ではない者にとってはどうでもいいことなのです。
そうだとすれば、龍樹の「空理論」を基盤とするその後の天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗本願寺派・大谷派・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などはどうなるのでしょう。すべておかしいことになってしまいます。おかしいのです。それらの「おかしさ」については、くり返し筆者のブログに書いてきました。