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嘱託殺人?でも医師を支持します

(以下、主な情報は、毎日新聞7月24日朝刊の記事から引用しました)

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っていた51歳の女性Aさんが安楽死を選び、かかわった医師二人は嘱託殺人の疑いで逮捕されました。24時間続く激痛、最後は呼吸筋も弱って人工呼吸器を付け、栄養補給も胃に開けた管からされます。Aさんは障害福祉サービス「重度訪問介護」を利用して、一人で暮らしていました。SNSで「体は目だけしか動かず、話すことも食べることもできず、呼吸苦と戦い、寝たきりで窒息する日を待つだけの病人にとって、安楽死は心の安堵と今日生きる規模を与えてくれます」「こんな身体で生きている意味はないと思っています。日々の精神・身体的苦痛を考えると窒息死を待つだけナンセンスです。これ以上の苦痛を待つ前に終わらせてしまいたい」「操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」「主治医に栄養を減らして身体を弱らせるようと相談したが自殺ほう助罪に当たるとして断られた」 と。

 以前、このブログで紹介したKさんは、多系統萎縮症という、同じように24時間激痛を伴う病気に罹り、スイスで安楽死を受け入れた人です。Kさんも51歳でした。

 昨年の参院選でれいわ新撰組から当選した舩越靖彦議員(ALS患者)がコメントを発表し、「患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知った」、『苦しみながら生かされているのは本当につらい』などの反応が出ていることについて、「こうした考え方が難病患者や重度障碍者に『生きたい』と言いにくくさせる社会的圧力が形成していく」「どんなに障害が重くても、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命」と言っています。毎日新聞の論説では「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」と。一方、生命倫理政策研究会共同代表の橳島(ぬでしま)次郎さんは、「日本でも命の終結につながる行為をどこまで認めてよいか、きちんと議論すべきだ」と言っています。

 安楽死は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダで合法化されています。フランスでは安楽死は認めていないが、延命治療中止は認めています。日本も概ねそうです。

 わが国の判例では、(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛を除去、緩和する方法が他にない(4)患者の明らかな意思表示がある-の4要件が示されています。Aさんは(2)だけが該当しません。

 前述のKさんは、進行した同じ病名の患者の専門施設を訪れ、「ただ生きているだけの植物状態になった人たちを目の当たりにし、安楽死を決断した」と言っていました。とても誇り高い人で、「おむつまでされて生きたくない」と、姉二人とスイスへ渡り、安楽死を選びました。「生きたいという権利と同様に、死にたいという権利も主張したい」と言うのです。その通りでしょう。わが国の法律により遺骨は持ち帰ることができず、スイスの川に流しました。姉たちは、あの選択が正しかったかどうか、今でも悩んでいます。しかし、たとえ安楽死を中止して帰国しても必ず何度目かの自死を試みたと思います。Aさんもスイス行きを考えたそうですが、付き添いの人も「ほう助罪」に問われるとかであきらめたと。Kさんの姉たちには「ほう助罪」は問われませんでした。

 たしかに安楽死を認めている上記の国々では、それ以前に大がかりな国民的議論がなされたようです。しかし、日本は、その種の国民的議論など到底できないと筆者は考えています。欧米諸国には国民による議論の歴史が日本とはくらべものにならないほど長いのです。橳島(ぬでしま)次郎さんの言うような「きちんとした議論」などできるはずがありません。マスコミが煽り、テレビのワイドショウで「専門家」たちがさまざまに言い、司会者や常連のゲストが言いたい放題で終始するのは、今のコロナ騒動を見ればよくわかります。

 第一、人の命に関わるこのような重要な問題は、患者自身とその家族だけしか発言する資格はないはずです。専門医の信念などで判断することではありません。舩越靖彦議員の言う「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」は、患者や家族の決定とはまったく別の問題なのです。

 ALS治療法に関する研究はまだ始まったばかりです。神経化学の研究をしていましたから現状を見て、3年や5年で実用化されるはずがないと思っています。しかし、患者は今、ひどい苦しみの真っ只中にいるのです。治療法の希望の灯が見えてきた将来の話ではないのです。将来のことは将来議論し直せばいいのです。

 SNSで知り合っただけの医師二人が、主治医でもないのにAさん宅を訪れて薬剤を投与したことについては筆者にも抵抗があります。Kさんは自分で薬物チューブを開けました。Aさんはどうしたのでしょう。しかし、主治医が反対しているのにどうして相談できるか。やはり、筆者はこの二人がやったことを支持します。100万円以上の報酬を得たそうですが、報酬が伴わなければ、逆に医療活動とは言えなくなるのです。

 これまでわが国では罪に問われたケースが5件ありました。2件の有罪判決を除き、最近ではほぼ不起訴処分になっています。ことに裁判員制度で裁かれることが多くなったからで、やはり、専門の裁判官より、人の心をより多く斟酌するようになったのでしょう。

 神の言葉:人間にとってこの世に生きる意味は、魂の成長のためだ。それができなくなったら私のところへ帰ってきなさい。呼吸もできず、ものを食べることもできなくなり、植物人間になってどうして魂の成長ができるでしょう。家族の「生きていてくれ」という気持ちはよく理解できます。しかし、Kさんが言ったように、生きる権利と死ぬ権利は患者自身のものであるべきです。「(植物人間になっても)生きていてくれ」という家族の想いはわかりますが、患者の権利を奪うこともになるのです。

追記:その後の報道で、医師はAさんの胃の管から麻酔薬を投与したことがわかりました。Kさんのケースと同じです。苦痛はなかったはずです。

仏教における「気づき」の大切さ

 読者のhuさんから仏教における「気づき」の大切さについてコメントがありました。たしかにその通りですが、「正法眼蔵・現成公案巻」や、「スッタニパータ874」との関連性についてのhuさんの理解には少し偏りがあるとお話しました。そこで今回は、改めて「仏」教における気づきの大切さ」についてお話します。

 「気づき」は、パーリ語でサテイ。英語でマインドフルネスと訳されているように世界的によく知られている概念です。これについてとくに重視していらっしゃるのは、前にもお話したように、日本テーラワーダ協会長老アルボムッレ・スマラサーナさんです。ためしにテーラワーダ協会HPによりますと、

・・・ 絶対に怒らないぞと決心しても、つい怒ってしまうという人は、無常を理解したほうがいいのです。無常を理解するための具体的な実践方法としては、今やっている行為に「気づく」ことです。手を上げているとき、今手を上げている、歩いているとき、今歩いている、立っているとき、今立っている、水を飲んでいるとき、今飲んでいる、と今の瞬間の行為に気づくことです。この気づきを瞬間瞬間つづけていくうちに、やがて無常を発見することができるのです。どういうことかといいますと、たとえば何か嫌なことがあって怒ったとしましょう。そのとき「今怒っている」と気づくと、怒りがスーッと消えるのです。嫉妬しているとき「今嫉妬している」と気づくと、嫉妬が消えるのです。妄想しているとき「今妄想している」と気づくと、妄想が消えるのです。これが無常ということなのです・・・

とあります。

 もともと「気づき」は「スッタニパータ」にあります。たとえば、

1034 アジタが言った「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか。 その流れを防ぎ守るものは何ですか。 その流れは何によって塞がれるのでしょうか。 それを説いてください。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気を付けることである。〔気づき」をこのような意味だけでなく、瞑想中にさまざまな思いが出てくるときの対処法とを付けることが〕煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」 とあります。

  さらにスマラサーナさんは瞑想をするときにも有効だと言っています。すなわち、瞑想をしているといろいろな思いが浮かぶものですが、なにかの思いが浮かぶたびに、それに気づいて「アッ○○だ」と気付けば消えるというのです。

オーム判決-長谷川和広さん

オーム死刑囚の刑執行は国による大量殺人か

 読者の「凡愚さん」から転写していただいた、長谷川和宏さん「オウムの物真似」(「全作家」114号2019)についての筆者の感想です。以下は「凡愚さん」のご厚意に報いるために書きました。筆者は以前、「オーム死刑に対する村上春樹氏の論理」と題して、「死刑制度は反対、しかしオーム容疑者の死刑は賛成」という村上氏の論理のいい加減さを批判するブログを書きました。なお、紙面の制約上、長谷川氏の意見を一部割愛して示します。

 結論から先にいますと、長谷川氏は「オーム死刑囚13人の刑執行は、オームのジェノサイド(大量殺人)を日本は国家がモノ真似した」と言うのです。

 (長谷川)・・・人間による復讐では、全く同程度の復讐は不可能であり、冤罪もまた避けられず、悲嘆と怒りと憎しみの連鎖は人の心を荒廃させる。

筆者のコメント:オームの容疑者が死刑されても、日本人の心は決して荒廃しませんでした。それは読者の皆さんご自身がおわかりのはずです。

 (長谷川)・・・聖書に「自ら復讐することなかれ。神の怒りにまかせよ。主曰わく、『復讐するは我にあり、我これを報いん』」(ロマ書12・19)とある。『我』は当局でも当事者でもなく、神であった。わたしが復讐する!・・・釈迦は言う。「人の身を得ること難く、身を得るも寿(いのち)ある難し」「殺す勿(なか)れ。殺させしむる勿れ」(「ダンマパダ」182/129)・・・。 

筆者のコメント神はいかなる罪を犯した人間に対しても復讐なされることはありません。この聖書の言葉は誤りか、訳者が間違っています。ブッダは、後述する「闇サイト殺人事件」の犯人をも「死刑にするな」とおっしゃるでしょうか。「殺人鬼」と言われた男です

 (長谷川)・・・被害当事者の「殺された者をもう一度私どもの許に返して欲しい」との異口同音は、加害者の死を!の願いがたとえ叶っても、その加害者の死は、殺された被害者やその被害と釣り合わない事を示している。「人の命は何ものにも代え難い」と痛感させられているのに、被害当事者が「加害者に死を」と願うのは、かけがえのない人の命の絶対的な重みを自ら掘り崩し、被害者の命の重みをも相対的に切り下げはしまいか・・・。

筆者のコメント:まったく論理のすり替えとしか言いようがないでしょう。筆者の反論は下記の「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」に尽きます。「闇サイト殺人事件」は筆者の勤務先のすぐ近くで起った衝撃的事件でしたので、裁判の経過はよく知っています。母一人娘一人の大切な家庭を壊されたお母さんは、「3人の犯人のうち2人目(堀〇)が最高裁判決で逆転無期懲役になったのは絶対に承服できない」と言っていました(1人目は死刑。3人目は自首したため無期懲役で確定。「自首すれば死刑にならないから」と言っていました。死刑制度はちゃんと抑止力になっているのです)。彼らは「殺さないで」と命乞いしている被害者をハンマーで撲殺したのです。その後堀〇は、別の殺人(2人)・同未遂(1人)事件が発覚し、その裁判で最終的に死刑が確定しました!「殺人鬼」だったのです。詳しくはja.wikipedia.org/wiki/闇サイト殺人事件で。

筆者のコメント:筆者の反論は下記の「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」に尽きるでしょう。「闇サイト殺人事件」は筆者の勤務先のすぐ近くで起った衝撃的事件でしたので、裁判の経過はよく知っています。母一人娘一人の大切な家庭を壊されたお母さんは、「3人の犯人のうち2人目(堀〇)が最高裁判決で逆転無期懲役になったのは絶対に承服できない」と言っていました(3人目は自首したため無期懲役で確定。「自首すれば死刑にならないから」と言っていました。死刑制度はちゃんと抑止力になっているのです)。「殺さないで」と命乞いしている被害者をハンマーで撲殺し、遺体を山に捨てたのです。その後堀〇は、別の殺人(2人)・同未遂(1人)事件が発覚し、その裁判で最終的に死刑が確定しました!「殺人鬼」だったのです。詳しくはja.wikipedia.org/wiki/闇サイト殺人事件で。

 (長谷川)犯罪被害者支援フォーラムの弁護士は「理不尽な犯罪を許さない、被害者の無念を救いたいという大臣の強い姿勢に対して支持する」と述べ、また、「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」というツイートした。しかし、御坊哲(ごぼうてつ)は「不殺生戒と死刑制度は矛盾しない」と言う僧侶に対し、「『より多くの命を生かすためには、一人の人間を殺してもよい』ということ」だから、「倫理というものが全て功利主義に還元されてしまう。死刑制度に賛成することによって、公権力による殺人に加担しているわけで、これはお釈迦様の『殺生することに関わるな』という言葉に明らかに背いている」(ブログ禅的哲学2014.8.1)と主張していた・・・ 

(長谷川)オウムが国家を真似たのか。国家がオウムを真似たのか。その国家はオウム真理教の再審請求中の十人も含めた教組幹部を、二日間で十三人処刑した・・・。

筆者のコメント:結局、長谷川氏の論説は、マスコミがよくやる「初めに結論ありき、後からいろいろな人の意見を論拠として挙げる」に尽きるでしょう。そもそも筆者はいろいろな理由を挙げる人の論説は信じません。必ず「理由の後付け」になっているからです。もう一つ、日本人の80%が死刑制度に賛成していること、仏教国スリランカではいったん廃止した死刑制度を復活したという重大な事実を長谷川氏は引用していません。

 最後になりましたが、死刑制度反対を主張する弁護士グループに対して「あなたの肉親が理不尽に殺されてもその主張を続けますか」という声なき声があります。筆者もそう思います。筆者の死刑制度賛成の論理はシンプルなのです。

華は愛惜に散り、草は棄嫌におふる(1-3)

読者huさんのコメントと筆者の感想(その1)

 読者のお一人(huさん)から次のようなコメントがありました。他の読者の皆さんにも重要な話題と思われますのでご紹介します。一緒にお考え下さい。筆者の感想はのちほどお話します。

 huさんのコメント:・・・道元禅師の現状公案で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌におふるのみなり」です(註1)。湧き上がる想いに振り回されないありさまで、スッタニパータ874「想いを想うのでなく(vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādetha (註2)」はこれだと思います。そして「花は愛惜に・・」は愛別離苦に気づいて手放すということです。想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです。

(両者を結びつけるのは少し飛躍があると思いますが」という筆者のコメントに対し)

huさんの返事・・・確かに874は涅槃の境地と考えられ飛躍ですが。行として考えるとベクトル方向(方向と強さを表す数学的述語:筆者)が同じです。正法眼蔵「祖師西来意」の「口樹枝、脚不蹈樹」の状態です。

註1「正法眼蔵・現成公案巻」のこの文章の前には、

 ・・・諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり ・・・とあります。

註2スッタニパータ:スリランカに伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録されています。大乗経典類と異なり、ブッダの言葉を色濃く残しているとされています。日本語訳:「ブッダの言葉」 中村元訳(ワイド版岩波文庫)。 スッタニパータ874には、

修行僧の問い:どのように修行した者によって、形態(色しき:筆者)が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。-わたくしはこのように考えました。
ブッダの回答(註3):「ありのままに想う者(凡人、註4。カッコ内以下同じ)でもなく、誤って想う者(狂人)でもなく、想いなき者(滅尽定に入った人)でもなく、想いを消滅した者(四無色定を得ている者)でもない。-このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである」

註3スッタニパータ874は、ブッダが亡くなる直前の最後の言葉として知られています。日本語訳は「ブッダ最後の旅」 中村元訳(岩波文庫)にあります。HUさんが注目している874のパーリ語原文にある
vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethaは、中村博士の訳では、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい」となっていますが、HUさんは「今の瞬間に気づくことを怠らずに(サティを切らさずに)完成しなさい」というアルボムッレ・スマラサーラさんの解釈に依拠しています。以前にもご紹介したように、スマラサーラさんは「気づき」をブッダの重要な概念と考えていらっしゃいます。

註4「ブッダの言葉」中村元(上記)の注記によります。スッタニパータ874の文章も「現成公案」のこの文章も、難解ですね。後ほど筆者の解釈をお話しますが、ネットでも調べられます。

読者huさんのコメントと筆者の感想(その2)

huさんはよく勉強していらっしゃいます。要するにhuさんがおっしゃりたいのは、

・・・道元禅師が「正法眼蔵・現状公案編」で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり」です。湧き上がる想いに振り回されないありさまで、スッタニパータ874「想いを想うのでなく・・・(vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādetha」はこれだと思います。そして「花は愛惜に・・」は愛別離苦に気づいて手放すということです。想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです・・・

でしょう。

 huさんは、「ブッダの思想の要諦は、(悲しみや苦しみから逃れるために重要なことは)気づくことだ」と理解していらっしゃいます。人はいつまでも苦しかった時のモノゴトを思い出して苦しみを繰り返します。したがって苦しみから逃れるにはそのモノゴトを滅するのではなく、気付いて手放すことが重要だというのですね。

 スッタニパータ874の、

・・・ vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethaは、やはり中村元博士の「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」(「ブッダ最後の旅」岩波文庫)が正しく、huさんが依拠していらしゃているアルボムッレ・スマラサーラさんの解釈「今の瞬間に気づくことを怠らずに(サティを切らさずに)完成しなさい」は拡大解釈だと思います。たしかに「怠らずに励んで目的を果たせ」ではどう励んでいいのかわかりませんが、原文に忠実に訳せば中村博士の訳以外にはあり得ません。つまり、スッタニパータ873・874は「気づき」とは直接の関係はないのです。

読者huさんのコメントと筆者の感想(その3)

 前回お話した、huさんが引用した「正法眼蔵・現成公案」の一節・・・かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり・・・は、「愛別離苦に気づいて手放すということ、つまり想うことを滅するのでなく気づいて手放す」という解釈は誤りです、とお話しました。今回はそれについてお話します。

 まず「曹洞宗東海管区教化センタ-HP」から該当部分を引用させていただきますと、

 ・・・この巻は悟りとは何ぞやということについて説かれた巻であります・・・天地自然のありのままの姿こそ諸佛が説かれた仏法であると信じ、その説かれる修行法を行じ続けるとき、その眼前には迷悟、生死というようなこの世のありのままの姿が現成する。また、証(さと)りの世界は心に映っているからあるのではなく修行によって現れるのである。そこにはもはや諸佛と衆生、生と滅、修行と証りという対立がなく、それらを超越した世界が現成するのである。このとき豊かな違いに彩られた証の世界が、修行という倹なるものに脱落(とつらく)するのである。ここにいう豊とは証であり、倹とは修行である。もともと修行と証とは異なるものではないのである。このようなわけで証の華は惜しんでいつまでも眺めていてもそれは修行に脱落し、修行の草は世人が好むと好まざるとにかかわらず、そのものが証悟となるのであり、修証は一等なのである・・・

筆者のコメント:この解釈はまったくの見当違いです。これが日本曹洞宗の公式見解でしょう。次の筆者の解釈と比較してください。

 まず、「正法眼蔵」のこの文章の前には、「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり」・・・とありますからそこからお話します。「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに」とは、「悟りの境地、すなわち正しくモノゴトが見える境地では、豊かな人と貧しい人とか、能力の多寡、美醜というような対立はない」です。しかし、「ゆえに生滅あり、迷悟あり、生佛(大衆と悟りに至った人)あり」では日本語としておかしい。そういう境地に至った人にはそれらは「ない」のでは?そうでなければ、次の、・・・かくのごとくなりといえども花は愛惜に散り・・・に続かない」という疑問をお持ちの方が多いでしょう。そのとおりですが、まあお聞きください。

 じつはそれでいいのです。「現成公案」で道元は「色即是空・空即是色」を説明しているのです。

「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり(しかし、悟りに至った人でも花が散れば惜しいし、雑草が生えればいやだ)」とは、空即是色と言っているのです。

 これ以上の説明は止めます。

 禅は解説してはいけないというのが鉄則です。「直指人心」ですね。しかし、公案集だけでわかるのは、修行が進み「あと一歩」というところまで達しただけでしょう。道元は実に巧みに「公案集によらずに悟りに達する道」を示しているのです。

 以上、筆者の解釈が曹洞宗の公式見解とおよそ別であることはおわかりいただけたでしょう。ましてやhuさんの解釈では・・・

 禅は「わかったか、わからないか」の世界です。huさんは「気づく」という大切なことがわかりました。とても良いことです。頑張ってください。

早川一光医師‐在宅医療、自宅で死ぬ

 早川一光(かずてる)医師(1924-2018)は、在宅医療地域医療の先駆けとなった人です。その持論は、ほとんど一世を風靡したといっていいでしょう。講演も多く、その一部はCDにもなって、筆者も持っています。以下はNHK「あの人に会いたい」から引用させていただきました。

 早川さんいわく、

 ・・・病と付き合う。老いと付き合う。老いというものは円熟。熟していくんだという風にモノを見る見方。積極的、ポジティブ、陽性にモノを見るというのが大事。死もまた、迎えがいつ来てもいいというモノの考え方、人生観。人間の死は非常に個性的であるべき、その人でないと演じられない独演。見事な死にざまを演じようと思った時には、見事な一日一日を生きて欲しい。死ぬ時だけうまいことをやりましょうなんていかない。私は往診こそ最高の医療と思っています。なぜかというと、病院で診たら臓物の故障はわかりますが、暮らしの故障はわからない。行ってみて初めて、おっ!こんな家でこんな人たちがおって、やっぱり家を治す病を治すんじゃなくて、家族関係を治す。そして人間の心を治していく、これが本当の本来の医療じゃないか。畳の上での大往生。「おじいちゃんやっぱり死ぬときは家で死ぬのかな。病院で死ぬのかな」。「それはやっぱり家の方がいいやろね」「家の方がいいか。やっぱり。この住み慣れた家がいいか。おばあちゃんがそばにおって。心の医療というものの表現のしかたは、やっぱり畳の上で死ねるような暮らし方・・・そういう人間関係の中で、家族との人間関係、地域との人間関係の中で息を引き取れて行く。そういう息の引き取り方をさせたい。孫、ひ孫に囲まれながらね。「おばあちゃん死なないで」という、そういう言葉を耳に挟みながら、最後の人息をふっと詰めて行く・・・。

どの言葉も納得できる良い言葉ですね。ところが問題はここからです。 しかし、問題はここからなのです。

 以下はETV特集「こんなはずじゃなかった」(H29)より、

 しかし、ご自身が90歳で白血病になり、この人生観が根底から揺らいだ。「こんなはずじゃなかった。おれは何をしてきたんだろう。「在宅は天国や」と言ってみんなを煽って来たけど、それ天国なんか?

 まったく「それはないでしょう」ですね。早川さんが長年標榜し、実践してきた在宅医療が、じつは家族のとても大きな負担となることもわかり、自らも死の恐怖に苛まれるようになったのです・・・

 早川さん自身の担当医に「入院したら帰って来れないかもしれない。その時はどうしましょう」と聞かれて(当然な質問ですね。入院は本人の医師としての信念に反します。しかし入院すれば高度の医療も受けられます:筆者)

早川さんの答え「先生、難しいなあ先生」

担当医「そこを決めとかないとどこで最後を迎えるかということだから」

早川「苦しみを受容するか拒否するか。難しい」

担当医「難しいですよ」

早川「永遠のテーマかもしれませんよ」

早川「こんなはずじゃなかった」

・・・お気の毒ですが「私の人生は何だったのか」と思われたのですね。

 その後、早川さんは「最後まで僕が失ってならないものは、生きて行くしんどさをしみじみ噛み締めて・・・」と言っていますが、負け惜しみの自己弁護としか思えません。読者の皆さんはどう思いますか。

けっきょく、早川さんは自宅で家族に看取られながら94歳で亡くなられました。

 筆者の母親は、結局1年ほど入院したでしょうか、あるとき医師から「もうこれ以上ここで治療しても改善する見込みはないので、自宅療養してください」と言われました。追い出されたのです。15年前のことで、今はどうかわかりませんが、胃管を通して栄養補給しなければならなくなりました。素人が毎日、毎晩できることではありません。下手をするとチュ-ブが肺に入り誤嚥性肺炎という重大な事故を引き起こすこともあるのです。

風呂にも入れなければなりません。母は人に迷惑を掛けることがとても嫌いな人でした。状況がわかったのでしょう。あっと言う間に逝ってしまいました。