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岸根卓郎氏批判(3,4)

(3) 筆者の検証(2)

 岸根氏はホイーラーの思考実験(物理実験ではありません)の結果(?)から、「電子には心があり、人間の意図を読み取った」と結論付けています。そして、岸根氏の解釈はさらに飛躍します。

 ・・・自然界はすべて、心を持った電子が姿を変えたものである。人間と同じく、動物も植物もすべて電子によって構成されている・・・電子が心(意志)を持っているからこそ、その電子によって構成されている人間にも心(意志)があることが科学的に結論できる・・・ と言っています(註5)。

註5 もちろん人間の体は電子だけでできているのではありません。岸根氏が電子にこだわるのは、粒子と波との二つの性質を合わせ持つ物質の例としてでしょう。

 岸根氏はさらに、

 ・・・肉体としての人間が示す電子の波動現象こそが人間の生命であり、人間の心である・・・生まれるといっているのは、心を持った無機物が統合されて、心を持った有機物が作り出される統合作用のことである・・・死ぬといっているのは、心を持った有機物が統合作用を失って心を持った無生物に還るということだ・・・心もまた肉体の輪廻転生と共に、輪廻転生を繰り返す・・・心の住むあの世も、肉体の住むこの世も、ともに存在していて、それらが互いに輪廻転生している・・・自然界全体(大自然、大宇宙)の下では、無生物も生物も基本的には区別はなく、それらは同じ物である電子が姿を変えて互いに流転し、転生しているにすぎない・・・
と言っています。

 何人かの読者が指摘するように、岸根氏の文章は繰り返しが多く、独善的であるためわかりにくいので、筆者がまとめてみますと、岸根氏が言いたいのは、「電子は心を持つこと、時には波になり、時には粒子になる。その性質を輪廻転生と言い、人間も電子からできているから、人間の体も輪廻転生する」と言っているようです。輪廻転生という、仏教やスピリチュアリズムの概念を、電子の粒子と波との変化とくっつけているのには唖然とします。

 さらに岸根氏は、「仏教だけが量子論と統一できる唯一の宗教である」と言い、

 ・・・仏教にいう無量寿(無限の時間の流れ)が量子論にいう電子の粒子性に当たり(なぜなら粒子は速度を持っていて無限の時間を走るから)、無量光(無限の空間の広がり)が量子論にいう電子の波動性にあたる(なぜなら粒子は波動となって無限の空間に広がるから)と考えられるからである。ゆえに私(岸野氏)は(宗教である)仏教と量子論(科学)は同一化する。まさに驚異と言うほかはなかろう・・・量子論の説く粒子性・波動性が神の心と考えられる・・・

と言っています。つまり、岸根氏は「量子論が神の世界の存在を証明する」と称しているのです。

(4)筆者の検証(3)

岸根氏は、

 ・・・これからの心の時代には、この世とあの世の間に存在する、量子論に言う量子エンタングルメント(あの世とこの世の共存性)や量子テレポーテーション(あの世とこの世の情報交換)などの心の共鳴現象を理解せずしてもはや対応できない・・・2500年もまえの東洋の宗教の仏教と、西洋の最先端科学の量子論との間にも、時空を超えて同一性がある・・・

と言っています。岸根氏は「量子は心を持つ」という持論(岸根氏の独創ではなく岡野氏の考えの引用ですが)を量子論的唯我論と称し、それを強く意識した上で量子宗教という造語をしています。

さらに、

 ・・・未来のあるべき宗教は一神教文明で物心二元論の西洋物質文明に基礎を置く西洋の宗教よりも、多神教文明で物心一元論文明の東洋精神文明に基礎を置く東洋の宗教のほうが、心の時代の宗教としては適している・・・

と言っています。しかし、このような考えは岸野氏の独創でも何でもなく、多くの心ある人が言っているのです。

 以上のように、岸根氏のこの本は量子論に基づいて神の心を解き明かそうというものです。しかし、現代物理学でも量子の不思議な性質については、まだ正しい解釈はされていないのです。にもかかわらず岸根氏はその解釈の一つ、それもなんの科学的証明もなされていない意思説を自説に都合よく根拠としているにすぎません。しかがって同書はほとんど妄想としか言いようがないものなのです。

 ある読者の感想文の中に、

 ・・・量子論は日常の常識が通じず余りにも奇妙なためしばしばオカルトのネタとなるが、この本はまさしく量子論をネタにしたオカルト本である・・・

とあります。筆者も同感です。量子のようなミクロの世界は、どんなにそれが私たちには不思議であっても、それにふさわしい解釈をすべきであって、それを人間や宇宙のようなマクロの世界へ敷衍したために岸根氏や、一部のスピリチュアリズムの人達の誤解を生じるのでしょう。

 岸根氏の本は、京都大学名誉教授であるとか、湯川秀樹博士や朝永振一郎の師であることをキャッチコピーにしていますし、文章が巧妙に書かれているため、一部の読者が「すばらしい」と感じるのでしょう。しかし実体は、前述の読者が言っているようにオカルト本としか言いようがありません。真面目な読者が惑わされないように、願ってやみません。

岸根卓郎氏批判(1,2)

(1)はじめに、そして結論

 岸根卓郎さんのこの本「量子論から解き明かす神の心」(PHP研究所)についての読者の感想の一つに、

  ・・・こんなに格調高い文章の量子論は他にあるのでしょうか。繰り返し言葉を変えて語られる内容は重層的で、まるでオーケストラの音楽のようでした。通奏低音のように響く量子論をベースにしながら、その上で様々な音色で少しずつメロディーを変えて何度も繰り返されるテーマを読み解いていくのは非常に楽しい仕事でした。 本書は京都大学の名誉教授である著者の「あの世」と「量子論」への愛が満ちた書です・・・

とあります。とにかく興味あるテーマですからすぐに読んでみました。しかし、筆者はこの本を読みながら、しきりにオーム真理教事件が頭をよぎりました。なにかおかしいのです。麻原らの教義は、いろいろなところから聞きかじった断片的記事を恣意的に、つまり自分に都合よく解釈して組み立てているのが特徴的です。オーム事件が私たちに与えた衝撃の一つは、幹部の多くが一流大学を出たエリートだったことで、「なぜ彼らが」とみんなが思ったのです。広瀬健一死刑囚などは早稲田大学理工学部を主席で卒業し、大学院に進学後には超伝導技術を研究していた優秀な人でした。それどころか同世代の若者よりはるかに真摯に人生を考えていたのです。それが麻原の教義に出会って、人生の疑問に対する回答に「はまって」しまったのです。遺影を見ても彼の真摯な人柄がよくわかります。彼と遺族にとって不幸としか言いようがありません。

 以前にもこのブログシリーズでご紹介しましたが、オーム事件に一定の評価が定まったころ、筆者が深夜にふと点けたラジオで、ある大学の教授らしい人が、「私は霊的世界を決して否定する者ではありません。しかしオーム事件から学んだことは、さまざまな宗教やスピリチュアリズムについての本を読む時、『行間を読む』あるいは『眼光紙背に徹す』ことがいかに大切かを痛感したことです」と言っていました。

 同書を読んだ人は肯定派と否定派の二極に分かれています。ただ、否定派の人たちも「どうもおかしいが、どこがどうおかしいのかがよくわからない」ようです。筆者は岸根氏のこの本を精密に読み、論旨の流れに惑わされないように注意しつつ、筆者の能力の及ぶ限り学問的に検証しました。言うまでもなく同書は宗教書であり、「・・・から解き明かす神の心の発見」などという魅力的な文言に出会えば、同調して心酔する人が出てくるかもしれません(現に出てきています)。どうかこれまでに同書を読んで感動した人も、これから読もうとしている人も、まず筆者の以下の検証をお読みいただきたいのです。

 筆者の論及の姿勢は、あくまでも科学の視点に立ったものであり、なんらの感情も入っていません。むしろ肯定派の人たちからの反論を期待しています。

2)筆者の検証(1)

 前回もお話したように、筆者は読み始めてすぐ「これはおかしい」と思いました。岸根氏はこの著書で、電子や光子などの量子が持つ不思議な性質である、粒子性と波動性を根拠として壮大な(?)理論を展開しています。そして本書の目的として、「量子論に従って神の心を科学的に解明すること・・・」と言っています。それゆえ、どこがおかしいのかを検証するには、量子の性質について彼が犯した誤りの理由を突き止めればよいと思いました。

量子の不思議な性質

 20世紀になって電子や光子などの量子には奇妙な性質があることがわかってきました。すなわち、ごく通俗的な言い方をしますと、量子は粒子と波という2重の性質を持っていること、人間が観測すると粒子の状態に収束することなどです(註1)。岸根氏が、まさにこの人間が観察するとの語句をきわめて恣意的に解釈したことに誤りの根本があるのです。すなわち岸根氏は、「量子のこの不思議な性質についてのコペンハーゲン解釈(註2)においてN.ボーアは『この世の万物は、観測者の人間に観測されて初めて実在するようになり、しかもその実在性そのものが、観測者の人間の意識(心)に依存する』と主張した」と言っています。しかしN.ボーアは決してそんなことは言っていないのです。

一見、人間が観測すると波のように広がっていたものが一点に集まるように見えるのですが、収束がいつどのようにして起きたのかとか、観測が収束に必須とかは断定できないのです。正しい意味のコペンハーゲン解釈とは、観測前には空間的広がりがあった(波であった)ことと、観測時点で一点に収束していること、収束の確率が確率解釈に依存することの三つの実験事実を合意事項として採用する解釈として提唱されたものです。つまり、岸根氏はコパンハーゲン解釈を誤解、それも素人的で恣意的な誤解をしているのです。量子の不思議な性質についてには、今紹介したコペンハーゲン解釈以外にも、多世界解釈とか、岸根氏が重視する意思説があるのです。人間が観測すると粒子になるように見えるので、人間の意志が量子の状態を左右すると考えるのです。つまり、意思説は一つの解釈に過ぎず、しかもその前提には理論的裏付けがなく、実験による確認もされておらず、科学理論としての要件を満たしているとは言えないのです。岸根氏がコペンハーゲン解釈を自分の都合のいいように理解していることがおわかりでしょう。N.ボーアらのコペンハーゲン解釈は、現在正統派解釈とされているものです。

 岸根氏はさらに、「量子論には素粒子を心を持たない単なる物質(註3)と見て研究する、いわゆる量子力学の分野と、心を持った物質として研究する、いわゆるコペンハーゲン解釈としての量子論的唯我論の分野の二つがある」と言っていますが、およそ的外れであることもこれでおわかりでしょう。

註1 正確には電子は粒子ではありません。

註2 量子の不思議な性質についての基本的な考え方について、1927年に開催された第5回ソルベー会議において議論され、N.ボーアやW.ハイゼンベルグらによってコペンハーゲン解釈としてまとめられました。

註3「量子は心を持っている」は、この本の根本原理です。岸根さんが「それは科学的に証明されている」と言って4つの証拠(!)を上げています。スペースの関係上、すべてについて検証することはできませんが、その一つでも論破できれば十分ですから、次回それについてお話します。


心頭滅却すれば火もまた涼し(1,2)

その1

 碧巌録(註1)・第四十三則 「洞山無寒暑」の本則

僧洞山(註2)に問う、「寒暑到来、如何が回避せん」。

山云く、「何ぞ無寒暑のところに、向って去らざる」。

僧云く、「如何なるかこれ無寒暑の処」。

山云く、「寒時は闍黎(じゃり)を寒殺し、熱時は闍黎(じゃり)を熱殺す」。

註1 圜悟著の公案集と解説。1125年成立。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が百則の公案を選んだものに、著者が垂示(序論的批評)・著語(じゃくご、部分的短評)・評唱(全体的評釈)を加えたもの。臨済宗で最も重要な書とされる。

註2洞山良价(807‐869)曹洞宗の開祖。六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→雲巌曇晟→山良价→山本寂という錚々たる系譜です。

 伝統的に、以下のように解釈されています。すなわち、

僧「生死の一大事に直面した時、どのようにすればその問題を解決できるのでしょうか」

洞山「生死・煩悩を超えた世界に行ったら良いではないか」

僧「どのようにすれば生死を超えた世界に行くことができるのですか」

洞山「生きる時は徹底して生き、死ぬ時は尽天地に死に切るまでだ」

これが有名な快川和尚(註3)の心頭滅却すれば火も自づと涼しにつながると言います。

註3 快川和尚(1502‐1582山梨県恵林寺住職。織田信忠軍に敗れた武田方の家臣を匿い、引渡し要求を拒否した。そのため恵林寺は織田氏による焼討ちに会い、快川は一山の僧とともに山門楼上で焼死した。そのとき、有名な「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水を須(もち)ひ(い)ず、心頭滅却すれば火も自づと涼し)の時世を残したと言われています(快川の作でなく快川と問答した僧・高山の語とも)。「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず」とは、じっくり坐禅をするには、山中や、水辺の静かな環境でなくともよいという意味。

その2

 たしかに「生死・煩悩を超えた世界に行ったら良いではないか。生きる時は徹底して生き、死ぬ時は尽天地に死に切るまでだ」はすばらしい言葉ですね。心頭滅却すれば火もまた涼しもしかり。しかし、よほどの高僧でなければ「他人事」でしょう。「心頭を滅却したが熱かった」は筆者の皮肉です。

筆者はこの言葉を別様に解釈しています。

 筆者は最近、一人の友人と一緒に飲むことを止めました。中学・高校の同期生で、別の大学卒業後、上級公務員になった人です。先年50年ぶりに再会し、一ヶ月に1回のハイペースで飲み会をしてきました。ただ、徐々に彼との話し合いが重荷になってきました。彼の話がことごとくネガテイブだったからです。彼の公務員人生が決して満足できるものでなかったことが原因のように思えました。飲み会を重ねるごとに打ち解けたのでしょう。ますます本音を出し、ネガテイブ度は増していきました。

 禅を学んで来た者にとって、「こだわらないこと」が大切な心であることはもちろんわかっています。筆者は生命科学の研究者として生きてきました。そのモチベーションの核となるものは「真昼の晴天に向かってファンファーレを鳴らすような心」だと思っています。そういう筆者はどうしてもこの友人のネガテイブ思考には付いて行けなくなったのです。

 彼を受け入れないことは、以前のブログ「無門関・平常是道」で書いた 瑩山の「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」の言葉とちょうど逆の思想ですね。それでも、彼との飲み会を続けることは、禅の心である寛容さとか忍耐の埒外になると思ったのです。そんな時、碧巌録の「洞山無寒暑」を読み直して、寒時は闍黎(じゃり)を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺すの言葉と再会したのです。以前から、公案の解釈は、人によってさまざまであっていいと思っています。今回はこの言葉を「暑かったら暑くないように、寒かったら寒くないように」と解釈しました。

 もちろん彼との付き合い自体は変わりません。今年も年賀状のやり取りしましたし、今後何かの機会に出会ったときにもこだわりなく話せると思います。

AI(人工知能)と人間(その2)


AIと人間(その2-1)無くなる業種

 AI(人工知能)の発展は急速ですね。筆者もとても興味を持っています。「AIとこころ」についてです。まず、企業のAI導入によって無くなる業種(米国の試算)として、

  1. 小売店販売員
  2. 会計士
  3. 一番事務員
  4. セールスマン
  5. 一般秘書
  6. 飲食カウンター接客係 (以下略)

などが挙げられています。

 NHKの「人間とは何か」シリーズでも取り上げられていましたね。このシリーズは、AI発達の現状を伝えるとともに、逆に「人間とは何か」を問うことになる良い番組です。今回はその最終回として、この基本テーマに戻りました。

 その中で哲学者の小林康夫さん(東京大学名誉教授)は、「人間にとって最も重要なことは生きること。そのために闘争してきた。それこそ人間らしさだ」「労働して世界を作っていくことが人間らしさの最大の定義だ」「もし100年後か200年後に世界レベルでAIやそのロボットの機能が完璧になれば、人間のやる仕事がなくなってしまう。そうなれば闘争という人間らしさの原点がなくなる(註1)。中には『自分などいなくてもちゃんと世界は回るのではないか』と考える人も出てくるかもしれない。これまでとはまったく違った『人間らしさ』を探らなくてはならない。人間の生きる目的の大転換が必要だ。それはAIのデイープラーニング(AIの画期的技術)をはるかに超えた人間の心の深い所から求めなくてはいけない」と言っています。哲学者としては魅力的な課題でしょう。アシスタントの徳井義美さんは「世界が平和になったら無感情な人間がただ生存しているだけになってしまうのではないか」と言っています。

註1ここには「世界中の人々に富は均等に配分される」という言外の了解があります。ものすごい飛躍ですが。経済学者の井上智洋さん(駒澤大学)は、ベーシックインカム(すべての人に最低限の生活費を一律給付する制度)という言葉を使ってこれを説明しています(「AI時代の新・ベーシックインカム論」光文社新書)。すなわち、

大量失業の時代

・・・2050年には全人口の1割ほどしか働いていない社会になる・・・ベーシックインカムをひとことで言えば、すべての人に最低限の生活費を一律給付する制度です。現在の「子ども手当」に「おとな手当」もつけた「みんな手当」のようなもので、財源は税金です・・・(以下略)

近い将来まちがいなく来る深刻な事態ですね。国は早急に具体的な手を打たなければならないでしょう。すぐれたAIを持ったものが勝ち、勝ち組と負け組の所得格差は大きなものになるでしょう。井上さんは「三島由紀夫の言う『文化がふつふつと沸騰するような社会』になるのではないか」と言っています(逆だと思いますが、別の機会に:筆者)。

人間の生きる目的の大転換が必要?

 小林康夫さんのこの言葉は大問題ですね。皆さんはどう考えますか。じつはこれらの論理には大きな誤りがあるのです。最初これらの考えを聞いた時、筆者は「なるほど大変だ」と思いましたが、すぐに「なんかおかしい」と感じたのです。じつは、人間の闘争は未来永劫無くならないのです。理由は簡単です。人間には能力や容姿(言葉の美しさも含む)に遺伝的に大きな差があるのです。富が平均化すれば貧困層は喜ぶでしょう。しかし、能力のある人たちは「なんであんな奴らと同じ収入なのか。俺だったら・・・」と考えるはず。当然新しい経済闘争を発案するでしょう。さらに、世の中には少数の美人と、大部分の「そうでない人」がいます。当然、大部分の男は美人を求めるはず。とすれば必ず競い合いが起こる。あるいはお金、あるいは人間的魅力をもって・・・。闘争が起こるのは明白でしょう。

 小林康夫さんは東大名誉教授。世に知られた哲学者でしょう。しかし、こんな単純明白な前提も考えずに論理を展開しているのです。「新しい生きる目的」など不要です。ちなみに司会の松尾豊(東大准教授)さんは「人間の闘争はなくならない」と言っています。

AIと人間(その2-2)癒し

 まず問題になるのは、「AIは人間と会話できるか」でしょう。早くも1960年代に会話するAIができて人々を驚かせました。「おはよう」と言うと「おはよう。今朝は寒いね」というような「やり取り」ができたのです。しかし、よく考えれば、「おはよう」という会話に続く「やり取り」の例をたくさんAIに記憶させておいて、適当に再現すればいいのです。つまり、人間同士の心のこもった会話ではなく、文字通り機械的な会話なのです。最近ではマイクロソフト社によって「AI女子高生りんな」が開発されました。すでにユーザーは700万人とか。番組で徳井さんがトライしてみたところ、どうしてもトンチンカンな会話でした。同じマイクロソフトが2014年に中国において提供を開始した女性型会話ボットXiaoice(中国名: 微软小冰)と同じ機能かどうかわかりませんが、以前の報道では、「りんな」よりずっとまともな会話でした。利用者は2億人とも。ある青年が癒しを期待して、自分の好きな「〇○の歌を聞かせて」と頼むと、「今あなたの状態ではダメ。別の曲を」と答えていました。レポーターが「あなたは可能ならこのAI女性と結婚したい?」と聞くと、半分本気で「したい」と。中国では去年、よく知られた男性アナウンサーが、流ちょうな英語で報道をする映像が紹介され、世界に大きな衝撃を与えました。AI技術は日本より大分進んでいるようです。

AIと人間(その2-3)AIは宗教の代わりになるか

 NHK特集「人間とは何か」の究極の「怖れ」は、「はたしてAIは人間の脳に迫れるか(超えるか)」です。AI研究の第一人者の一人、カナダモントリオール大学のヨシュア・ベンジオさんは肯定します。すなわち、

 ・・・私たちの体や脳は物理法則に従うだけです。人間のニューロン(神経細胞と繊維)はさまざまな信号を受け、それを次のニューロンに伝えます。脳のニューロン一つひとつに情報処理能力はないのです。AIのシステムとまったく同じなのです。シグナルを受け、シグナルを出す大量のニューロンが力を合わせると、それがルールに従うように集まってシステムを成します。それによって非常に知的な能力を発揮するのです。この仕組みは脳でもコンピューターでも同じことです。ただ非常に複雑なシステムだという科学的な視点を取るならば、私たちは本質的に機械だとも言えます・・・一方、これを受け入れない人もいます。私たち人間は絶対に違う。人間には、どんな機械でも再現できない知性を持つと信じる人もいます。なぜなら人間には自然を超えた「魂」を持つと考える人もいます。それはしばしば宗教的な信念とも結びついています。しかし科学的な視点から言えばそんなものはないのです。私たちはたんなるシステム、しかし壮大で複雑な機械なのです。いつの日か必ず知的な機械を作ることができます・・・

 筆者はベンジオさんの考えには否定的です。筆者も人間には肉体(機械)部分とは別に「魂」があると考えています。筆者の言う「本当の我」です。そして、本当の我は神につながっていると思います。これは宗教的信念などではありません。筆者の実体験に基づくものです。筆者の考えの根拠はすでにこのブログシリーズで何度もお話してきました。本当の癒しは魂と魂が触れ合うことによって成立するのです。

 魂のないAIに本当の癒しができるはずがありません。未来永劫に。

無門関・平常是道(1,2)

(その2‐1)

 公案集「無門関・第十九則」に「平常是道」(びょうじょうぜどう)があります。「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)という言葉は特に有名ですが、この公案(註1)から出ている禅語です。

本則
南泉、因(ちな)みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖(そむ)く。
州云く、擬せずんば争(いか)でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶(なお)大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。州云く、言下に頓悟す。

唐代の趙州(778 – 897)と師匠の南泉(いずれもすぐれた禅師)との問答です(以下筆者簡訳)

趙州「道(悟り:筆者)とはどんなものですか」

南泉「ふだんの心が道である」
趙州「それをめざして修行すればよろしいのでしょうか」

南泉「目ざそうとすると、すぐに外れる」

趙州「目ざさなかったら、たどり着けないではないでしょうか」

南泉「道は知るとか、知らないとかいうことではない。頭で考えることではない。言うに言えない心境だ。そこを無理にああだこうだと云うことなどできない。悟りとは、ちょうど澄み切った大空のようで、広々とした心境だ」

趙州はただちにに悟った。

 後進の私たちには心躍る場面ですね。「平常心」とは、普通考えれば「目の前に何が現われても動じない心」でしょう。しかし、これでは当然すぎて禅語とは言えませんね。実はもっと深い意味があるのです。それについては次回お話します。ちなみに、曹洞宗総持寺を開いた瑩山禅師が師匠の義介禅師(永平寺三祖)から平常心の意義を問われたとき、瑩山は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す(註2)」と答えたと言います。「一切のことにこだわりを持たない」という意味でしょう。よく知られた大切な言葉だと思います。この語によって瑩山 印可(悟りの証明)を受けました。

註1「無門関」は南宋の無門慧開(1183-1260)がによって著された公案集。 彼は古今の禅者達の間に交わされた問答商量の中から48則を選び、評唱(感想)・頌(詩)を付けたもの。修行者が目指す悟りやその悟境の指標になるためのものです。

註2この言葉の前に、瑩山は師匠から平常心の意味を問われて「黒漆の崑崙・夜裏に走る(真黒な玉が暗闇を走る)」と答えています。「そのように見分けがつかない、つまり思量分別を超えた境地」と言いたいのでしょう。

じつは「無門関・第十九則・平常是道」は本則につづいて、(無門による詩)として、

春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、若もし閑事の心頭に挂(か)かる無くんば、便すなわち是れ人間(じんかん)の好時節

と言うのです。「春には様々な花が咲き、秋は月、夏の涼風、冬の雪。もしつまらぬ事柄を心にかけることがなければ、人生はまさに幸せの日々である」という意味でしょう。道元は「春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」と詠っています。人間の悩みとは関わりなく季節は移り変わってゆくと言うのですね。

(その2‐2)

 しかし、無門はつぎに痛烈な一喝をくらわしています。じつは次の一句こそ重要だと筆者は考えます。すなわち、最後の評唱(感想)で、

趙州たとえ悟り去るも、さらに参ずること三十年にして始めて得るべし

と。その通りですね。「もしつまらぬ事柄を心にかけることがなければ」・・・そんなことはだれでもわかっています。しかし、それができずに悩み、苦しみ、迷うのが人生ですね。趙州は南泉師匠とのこのやり取りですべてを悟ったのではないはず。「たしかに大切なことがパッとわかったけれど、本当に自分の血肉になるのにはその後30年の修行が必要だっただろう」と言っているのです。 段落

 ためしにネットで調べてみて下さい。ほとんどの解説ではまでしか触れていません。えらいお坊さんにそう言われれば「なるほど」と感銘を受けるかもしれません。しかし、家へ帰れば忘れてしまうのです。そこが問題なのです。マルクスが「宗教は麻薬である」と言ったのはそういう意味なのでしょう。心の底から理解しなければ、一時の痛み止めで終わってしまうのです。

頓悟と漸悟

 これは有名な言葉です。豁然大悟(かつぜんたいご)は禅を学ぶ者の憧れですね。頓悟(パッとすべてがわかる)のことです。古来、禅では「頓悟か漸悟(徐々にわかる)か」は重要な課題です。筆者は「たしかにある思想がパッとわかることがとても重要である。しかしそれを全身で理解するにはそれからの長い修行が必要なのだ」と思います。完全な頓悟などないはずです。