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心と魂(1)養老孟司さんと玄侑宗久さん(1‐2)

養老孟子さん・玄侑宗久さん(1)

今回から宗教を考える上でとても大切な「心と魂」についてお話します。以下は、養老孟子さんと玄侑宗久さんの「脳と魂」筑摩書房(ちくま文庫)基づきます。養老さんは元東京大学医学部解剖学教授。ベストセラー「バカの壁」の著者として知られています。玄侑(橋本)さんは臨済宗福聚寺住職で芥川賞作家。「般若心経」(ちくま書房)など。
この興味ある会談の目的は二つあるようです。すなわち、1)脳と心は対応するか、そして2)魂とは何かです。
養老:「心臓の細胞は一つだけ取り出しても拍動を始めます」(以下文庫版p223)
玄侑:そこまでいっちゃうと何か訊きたくなっちゃうことがあるんですけどね。やっぱり物質そのものが記憶したり、自発的に動くっていうふうにはなかなか考えにくいということですよね。だいたい物質そのものは次々入れ替わってるわけですし、たとえばDNAを構成している塩基だって、熱にも酸にも弱いから変成しやすい。そんなものに、永続する記憶が入ってるとは……。

筆者のコメント:神経細胞が「心」に関わるかどうかを念頭に入れての発言でしょう。もちろん玄侑さんは否定的なはず。「何か訊きたくなっちゃう」とはそういうことで、この心臓細胞のケースは心穏やかではないでしょう。一つの細胞が心臓そのものの働きを再現しているのですから、脳の神経細胞一つが記憶を担うことを否定しきれなくなってしまうからです。一方、「DNAは変性しやすく、そんなものに永続する記憶が入るとは・・・」は、生命科学を知らない人の発言です。DNAは生体内ではきわめて安定で、何かの原因で壊れればすぐに修復機構が働くのです。玄侑さんはここでも仏教の基本思想と言われる「縁起の法則」を取り入れているのです。
養老:(物質そのものが記憶したり、自発的に動く可能性について)いや。だからそうは思ってないです。
玄侑:その記憶するとか自発的に動くというところに……先生はやっぱりあれですよね。科学の立場だから、口が裂けても「魂」とは、言いたくない。
養老:いや。だから言いたくないっていうよりも、魂の定義が出来ないんです。僕の場合はそれなりに定義するんですよ。システムとしか言いようがないんですよ。われわれは実際には物質の塊なんだけど、いわゆる石ころとは全く遠いますよね。死体を考えていただいたらわかるんで、死体はわれわれと全く同じ物質で出来ているんです。ところが片方は生きていて、片方は生きてない。だからその違いはなんだ、と。・・・システムという言葉でごまかしているのはわかっているんだけど、要するに表現がないんですよ・・・

筆者のコメント:玄侑さんは、人間を生かしているのは「魂」だと言いたいのでしょう。しかし養老さんは「魂というものが定義できない」とかわしています。正直な言葉でしょう。しかし、生きている人間と死体との違いは。はっきりしています。生きるためには、常にエネルギーの供給と、それによる動的物質代謝が必要なのです。心肺が停止すればそれができなくなるのです。やはり養老さんは生命科学者と言うより、生きていない器官や組織を研究する静的な解剖学者だったと思います。
玄侑:先生は「生きているシステム」っておっしゃってますよね。
養老:そうです「生きているシステムって言うけど、それは実は何だ」って言われると、「細胞の連携だよ」とまず、言う。「じゃ、その細胞の連携って何だ」って言ったら「最もよく出来たシステム。以上終わり」って、言うしかないんですよ。

筆者のコメント:「以上終わり」としか言いようがないでしょう。「死んだシステム」というものはありません。生きものを生かさせておくのには「いのち」とか、「魂」という要素を入れなければならないはず。筆者は「生き物は神が造られ、生かさせていただいてるのは神のエネルギーだ」と、確信しています。メカニズムはの解明は今後の問題ですが、そうだとしかいいようがないのです。

養老孟司さん・玄侑宗久さん(2)

養老:細胞はまさにシステムなんです。じゃあ、その細胞っていうシステムがどうやって出来たかっていうと、科学はわかんねえって言うしかないんですね。

筆者のコメント:それではこの討論は終わってしまいますね。筆者は「魂」とか「いのち」という要素を入れても科学に反するとは思いません。たんに未解決であるだけなのです。そんな例は科学にはめずらしくありません。あのニュートンでさえ、ニュートン物理学だけでは説明できない現象(素粒子の世界)があることに気付いていたのです。

玄侑:私も、今仏教が認められつつある中でも、やっぱりここは言ったらまずいかなと思ってるとこなんですよね。現在の仏教各宗派も、ほとんどこの問題については触れないようにしている。いわば科学と同じスタンスをとろうとしてるわけです。そこに新興宗教が起こってくる最大の穴があるんだと思います。初期仏教はこの問題を避けてはいないんですが。

筆者のコメント:玄侑さんは、「システムを作って働かせているのは魂です」と言いたいのかもしれません。ブッダが魂というものがあるかどうかについては答えなかったのは、仏教各宗派の基本的了解事項です。玄侑さんも日本仏教の僧侶としてはそう言わざるを得ないでしょう。筆者も仏教を学んでいますが、別にブッダの考えには執われていません。むしろ魂というものをを認める、それ以前のヴェーダ信仰に共感を覚えます。

玄侑:よく、「魂ってあるのか ないのか」って訊かれたりするわけですよね。お釈迦様は訊かれても答えなかったわけですね。仏教は、「ある」とも「ない」とも考えていないんですよ。どう考えるかっていうと、観測者と、観測される対象と、その周辺の無数の縁による相互関係的な出来事だというわけですね。だから、「ある」ということが起こることもあるし、起こらないこともあるのであって、「ある」か「ない」かということではないと。すべては出来事というふうに考える。
筆者のコメント:玄侑さんは、「仏教では(すべてのものやことは)縁によって生じていると考えるから、魂も「ものではなくてことだ」と言っているのですね。例の「縁起説」です。しかし、ブッダはそもそも「魂というものについて考えるな」と言っているのですから、縁起のものであろうとなかろうと魂については触れていないのです。玄侑さんの拡大解釈でしょう。

養老:それはまさに、私が言ったシステム論です。多数の要素が複雑に絡み合って、ある動きをしている。それは一定であると思えば一定だし、絶えず変化してると思えば変化してるしね。そんなこと言ったら何も言ってることにならないって、近代科学は言うんだ。なんだ禅問答かって・・・(中略)・・・
玄侑:先生のおっしゃる「生きているシステム」は、仏教で言う「空」なんですね。「空」っていうのは実際、概念化することが不可能なものですから、なかなか難しいんですけど。そして科学が相手にするのが「色」ですよね・・・量子が粒子であり、波であることは、もうすでに「色」では収まらないんです。
養老:もう「色」の世界を外れちゃってますよね。むしろ「空」になっちゃったなあ。

筆者のコメント:玄侑さんの、「生きているシステムは、仏教で言う空なんですね」には驚きます。筆者は空思想ははっきりと概念化できると、このブログシリーズで繰り返しお話しています。さらに、量子が粒子であり波であろうと「色」は「色」です。というより、「色」とは対象のモノではなく、見る自分と、見られるモノとの関係、つまり「空理論」とは別の認識論ですから。さらに以前、NHKテレビ「100分で名著・般若心経」で、司会者が「『空』の意味が(玄侑さんの説明を聞いても)わからない」と言ったところ、玄侑さんは「般若心経で大切なのは、意識しなくても読める状態です」と言っていました。つまり、「空とは忘我の状態を指す」と言うのでしょう。違うと思います。司会者も不満足そうでした。

まとめ
結局、養老さんは「脳はシステムであり、それ以上はわからない」、つまり、脳と心は対応するかどうかわからないと言っています。一方、玄侑さんは仏教僧侶として「魂がある」とは言えないのです。要するにこの会談の目的に対する回答は得られなかったのです。

読者からのご質問(13)

大久保邦彦さんから次のコメントがありました。皆さんにも参考になると思います。
 公案に興味があり拝読。本来の面目がわかれば、公案は不要です。曹洞禅をして40年、禅では答えが無く、ヨガ哲学でアートマン(註)を知り納得。私の本来の面目は神である。禅はインド哲学を学ぶ者にとって不親切と感じます。答えの無い問は初学者をただ苦しめませんか?苦しむのが修行でしょうか?

註 ヴェーダ信仰で言う個我のこと。神(ブラフマン)と一体化することを信仰の目的とする。

筆者の感想:とても適切なご意見だと思います。筆者も釈迦の思想よりも、それ以前のヴェーダ信仰の方に共感を覚えます。アートマンとブラフマンとの対比ですね。アートマンは魂と同義で、死後も消えないものとされています。釈迦はそういうものを否定しました。つまり、釈迦仏教はヴェーダ信仰の対立命題として成立したのです。ちなみにアートマンはヴェーダ信仰の概念で、ヨガ哲学とは別のものです。唯識瑜伽(ヨガ)行派はもちろん釈迦仏教の一宗派です。大久保さんは混同なさっているようです。

 筆者は、禅で言う悟りの状態とは、「本当の我」と疎通し、それを通じて神と一体化することだと考えています(今までにも書いていますからご参照ください)。その意味でヴェーダ信仰と重なる部分があります。大久保さんは、「禅の答えのない問いは初学者をただ苦しませるだけではないか」とおっしゃっています。たしかに現代の禅宗派では、「それを良し」とし、形式的な(答えのない)問答を修行と考えているようにも見えます。しかし、誤解しないでください。公案にはすべて答えがあるのです。答えが無いように見えるのは、やはり初学者が未熟だからでしょう。過去の優れた禅師たちは、答えを言わずに修行僧に気付かせることに腐心しています。「公案集」に残るような禅師たちとはそういう人たちです。

 失礼を承知の上でお尋ねします。大久保さんは、「ヨガ哲学でアートマンを知って納得」されたとき、奇跡が起こりましたか?頭でわかっただけではわかったことにならないのです。全身で理解した時、奇跡が起こります。高野山での厳しい修行(虚空蔵求聞持法。虚空蔵菩薩の真言を100日間で100万回唱える)が完成したかどうかは奇跡が起こったかどうかでわかると言います。奇跡が起こらなかったら初めからやり直さなければいけません。筆者はヨガ行の経験はありませんが、完成させるためには容易なことではないように思われます。禅の修行と同じですね。筆者が「わかった」と思ったのは禅を通じてです。筆者が、ヴェーダ信仰に共感を覚えつつ、禅を学び、修行を続けているのはそのためです。

 筆者が展開していますのはヴェーダ信仰と旧来の禅解釈という対立したものを止揚させた新しい考え方です。

歴史における偽書について

歴史における偽書について

 前回のブログ「良寛さんに対する疑問?」で、・・・水上勉は、良寛さんの「虚像」に対比させるために、「越佐草民宝鑑」に描かれた同時代の人、弥三郎の生涯について書いています(「蓑笠の人」新日本出版社)。弥三郎は、天明三年の越後大飢饉の時、百姓一揆に加わって佐渡に流され、地獄の水替労働に投げ込まれた人だと言います。しかし、「越佐草民宝鑑」は水上勉が創作した偽書だったのです。自ら創作した偽書に基づいて語るのは水上流の歴史小説作法であり、「拾椎実記」に基づく「城」(文芸春秋読者賞)も、「一休和尚実譜」に基づく「一休」(谷崎潤一郎賞)も、同じ手法で創作しています(「水上勉全集⑧「あとがき」)。たとえば「一休」には、・・・元禄年間の刊行物を原本に、大正時代の戯作者・清太夫なる人物が仮名交じり文に書き直した「一休和尚実譜」・・・この書ほど詳記している本をまだ知らない・・・とか、「越佐草民宝鑑」では、・・・弥三郎が死んだ文化八年頃に良寛はどうしていたであろう・・・と年月の確認までしていますからあきれます。

 筆者はこうした小説作法をトータルに否定するものではありません。40年以上前、辻邦生の「安土往還記」を読んで感動し、「安土城の瓦は緑だったと書かれていますが、私が旧跡で拾って来た瓦は普通の灰色でした」との手紙を書いたところ、親切にも返書をいただき、「『安土往還記』原本は、私が創作した架空の書です」とありました。それゆえ、水上や辻の作品の受け取り方は、それぞれの読者によればよいのでしょう。ただ、後になって「あれは偽書だった」とわかれば作品を読んでも興ざめするのではないでしょうか。正直に偽書と最初から書いたらどうなるでしょう。辻邦生の「安土往還記」も原本が偽書だとわかってからは、筆者は二度と読んでいません。

 一方、司馬遼太郎は講演の中で「歴史というものは存在しない。ある人が、事実の断片を自分の価値観に基づいてまとめたものだ」と言っています。独特の「司馬史観」の原点を表わす言葉として重要ですね。たしかに歴史資料と言っても、かならず著者の考えを通して書かれたものです。「歴史は勝者の立場で書かれており、都合の悪いことは省かれている」とはよく言われる言葉ですね。寺山修司が「歴史はすべて嘘である」と言っているのにも、一定の説得力はあります。水上勉の小説作法も「どうせ歴史的事実なるものもそういった類のものである」との立地点に基づいたものでしょう。しかし、たとえ当時の人によって書かれたものならば、例えば著者の考えを通したものであっても、事実のある側面はとらえているはずです。それゆえ、後世の人間が書いた偽書とは次元がちがいます。はっきりと一線を画すべきでしょう。

 筆者は生命科学の研究者として過ごして来ましたから、「偽書」などとうてい受け入れられません。文献を引用する時も必ず原典に当たり、データが正しいかどうか検証します。当然このブログシリーズを書く時にも同じ姿勢を通しています。

偽経

 禅の公案として有名な「拈華微笑(ねんげみしょう註1)」の原典とされてきた「大梵天王問仏決疑経」は、後世に中国で作られた偽経であることがわかっています。偽経とは、インド人以外の者が書いた経典を指します。そういう例は他にもあります。注意しなければなりません。

註1 ブッダが死を前にして、多くの弟子たちに蓮の花(華)を差し出したところ(拈)、ただ一人迦葉がにっこり笑ったので、迦葉を後継者としたエピソード。迦葉はその場にいなかったことが、初期仏典であるパーリ仏典を漢訳した「大般涅槃経」に書かれていることから、「大梵天王問仏決疑経」は偽経とされています。(「拈華微笑」の筆者の解釈は以前のブログで示してあります)。「大梵天王問仏決疑経」は、後代、中国の禅関係のだれかが重要な「拈華微笑」の公案を権威づけるために書いたとされています。

般若心経

 以前、「ヤフー質問箱」で、「般若心経の作者はだれですか」の質問に対し、ベストアンサーが、「もちろんブッダです」とあったのを見て吹き出しました。もちろんブッダが説いたものではなく、大乗経典の一つです。「般若心経」には、サンスクリット語(古代インド語)で書かれたものもありますが、最も古いものでも東京国立博物館所蔵・法隆寺貝葉本であり、ずっと後の7~8世紀の写本とされています。「般若心経」は、玄奘三蔵が、鳩摩羅什訳「魔訶般若波羅蜜経」などに基づいてまとめたものと言われています。1992年米国のジャン・ナティエ(Jan Nattier)により、玄奘三蔵がそれを逆にサンスクリット訳し、それがインドに伝わったという偽経説が出されました。ナティエの説に対しては反論も出されています。たしかに玄奘三蔵が漢訳したものをわざわざ元のサンスクリット語に訳す必然性はないはずです。反論もその点を難じています。

 筆者がいつも言いますように、龍樹の「空」思想と禅の「空」思想はまったく違います。そして、「般若心経」は、明らかに禅の「空」思想に則っています。達磨大師が禅思想を中国へもたらしたのは5世紀後半です。一方、玄奘三蔵が「般若心経」をまとめたのは7世紀半ばですから200年も後のことです。もちろん当時、禅の「空」思想は中国で確立していました。玄奘三蔵もそれを知っていたでしょう。やはり、通説のように、玄奘三蔵が鳩摩羅什訳「魔訶般若波羅蜜経」などに基づいてまとめたもので、サンスクリット訳は、他の誰かを通じてインドへ逆輸出されたものでしょう。前述の法隆寺貝葉本は、その写本の一つだと思われます。

何のために生きる?(1,2)

何のために生きる?(1)

 オーム真理教の広瀬健一元死刑囚は、2018年7月、麻原とともに処刑された7人のうちの一人です。広瀬は、早稲田大学理工学部・修士課程を修了した優秀な人でしたが、麻原強い圧力によって入信し、オーム科学庁のトップとして自動小銃などの製造を行いました。サリン事件では、地下鉄丸の内線でサリンを散布し、1人を殺害、358人に重傷を負わせました。彼は逮捕後、オームを脱会し、自分のしたことを深く反省し、いくつかの手記をを残しました。今回ご紹介するのはその一つ、ある大学で、新入生に「カルト対策講座」が開かれるに当たって、「私のようにはなるな」との思いを込めてつづったものです。「皆さまは『生きるとは何か』の問いが胸に浮かんだことはありますか」で始まり、「私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くしがたい惨苦にあわせてしまいました・・・贖罪はいかなる刑に服そうとかなわないと思います・・・」と続きます。
 
 広瀬は高校生のころから、「生きるとは何か」を考え続けた、誠実でひたむきな青年だったのです。今、生きる意味など考える若者がどれだけいるでしょうか。ところがまことに不運にも、広瀬のその真摯な問いに麻原が回答を与えてしまったのです。言うまでもなく、麻原の「教義」は、人の死などなんとも思わない、きわめて独善的なものでした。しかし、不幸なことに麻原の「回答」は、広瀬の心をからめとったのですね。筆者は59ページにおよぶ手記を読んでいるうち、「なぜこのような好青年があのような大罪を犯してしまったのか」と、やりきれない思いにとらわれました。ジャーナリストの江川紹子さんが「麻原だけを処刑すべきだった。洗脳した麻原と、洗脳されてしまった他の12人とは、罪の重さに天と地との開きがある」と言っていました。筆者もその通りと思います。

 何のために生きる?(2)

 これは、宗教の大きな課題の一つでもあります。筆者も必死なって、一つでもこの問題で悩んでいる人たちの琴線に触れる「教え」がないものかと、このブログシリーズを書き続けています。しかし、それは簡単なことでないことも承知しています。「神がお造りになったあなたのの体です。おろそかにしてはいけません」・・・キリスト教の神父さんが言いそうです。でも、抽象的で、今一つ説得力に欠けるような気もします。

 最近、NHKテレビ「ドキュメント72時間・こころの温泉に集う人々」でとても貴重な場面を見ました。秋田県にあるこの温泉には末期ガンで余命宣告された人達が、最後の希望として集まります。放射性ラドンの噴出量が多く、それを吸うことが効くと言われているからです。高校時代の同級生とともに来ていたある女性(66歳、会社社長)は、「よく、なぜ生きるのかと言う人がありますが、生きるために生きるのです」と。末期ガンを宣告され、「明日はどうなるかわからない」人の言葉です。吹き抜けの桟敷のようなところで、寝袋に潜ったまま顔を隠してつぶやかれた言葉でした。

 それを聞いて「ハッ」としました。ほとんど絶望的な状況にある人の言葉ですから説得力がありますね。

前回、NHK「ドキュメント72時間・秋田・いのちの温泉に集う人々」で秋田県仙北郡の玉川温泉に、ガンで余命宣告を受けた人たちが集まって湯治する映像をご紹介しました。そのうちのエピソードを一つお話しましたが、その他の人々についても、ギリギリの状況で発せられた生の声を捨てるにはあまりにも惜しいので、追加させていただきます(註1)。

 口コミでかなり有名な場所らしく、秋田市内から車で3時間もかかる所ですが、毎年愛媛県から車を使い、道の駅で宿泊を重ねて来ている老夫婦など、多くの人が約一週間自炊しながら滞在しているようです。温泉というより、仮小屋で寝転んだり、噴出口の近くの道路に日傘をさしてお友達とだべったり・・・。岩盤浴、放射性ラドンを含む温泉の蒸気を吸う「療法」のようでした。72時間の間にさまざまな人たちとの対話です。

 ほとんどの人が末期ガンで、「医者から見放され、すがるような気持ちで来た。自宅に閉じこもっていてもしょうがないし(73歳食道ガンと膀胱癌)」。「何回も病院を移って、やっぱりウソではなかったと知り、毎日泣きました」(40代女性)。前述の、18年も愛媛県から玉川温泉へ通っているという70代の男性は、温泉の蒸気を吸い込みながら「喘息です(じつは肺ガン)」と言い、「お迎えが来たら素直に受け止めます」と言いつつ、「長生きしたい」と。「なんとか楽観的に」と思っても、状況は厳しい現実を直視せざるを得なくなってきたのですね。この男性夫婦は、2週間の予定で来たのに、体調が悪化し、途中で切り上げることになりました。「今回で最後とし、あとは自宅付近で療養を」と引き上げることに。多くの友人が見送りに来て、「来年も待っています」と口々に言われ、胸が迫った様子でした。この人は玉川温泉に18年も通っているとか。効き目があるという証拠かもしれませんね:筆者)
 神奈川県から夜通し車を走らせて来た(!)50代の女性は、「夫が50歳でガンになり、数か月で亡くなってしまいました。最後の数か月間を、もっと充実して過ごさせてあげたかった。こういうところがあると知っていれば一緒に来たかも。それを追体験したいと来ました」と。

 中でも印象的だったのが、仙台から来た50代の元銀行員でした。「卵巣ガンで余命宣告を受けました。息子と娘はすでに成人はしていますが、結婚して・・・のところまで見るのが親の仕事かなって・・・ここで一週間療養すれば、一ヶ月余分に生きられると思い、来ています。家では弱音ばっかり吐いていましたが、ここでは皆さん弱音吐いている人はいらっしゃらないんで・・・誰のために生きる・・・もちろん自分のためですが、家族のためでもあります・・・長生きすることが私の夢です」と言う、誠実そうなその人の言葉は胸に迫りました(この方はすでに2年間!ここに通っていらっしゃいます。14年間来ている人も。ゆったりと湯治していることがガンの進行を送らせているのかもしれません:筆者)。

 前にもお話したように、筆者のこのブログシリーズは、少しでも多くの皆さんの「生きるために生きる」力になっていただきたいと書き続けています。上記の体験談は、ギリギリの状況にある人たちの言葉ですから、強い説得力がありますね。

註1 NHK様 前回の放映がすでに2回目だったとか。再々放送があるとは思えませんので、どうか筆者の意図を汲んで、御許可ください。

良寛さんに対する疑問?(1,2)

良寛さんに対する疑問?(1)

 拙著「正・続 禅を正しくわかりやすく」で、良寛さんに対する熱い思いを語ったため、筆者の周囲でも少なくとも3人の人が、新潟県燕市の五合庵を訪れました。名古屋からも金沢からも岐阜からもずいぶん遠いのですが・・・。ところが先日、「あんな者が」と言う友人に出会い、驚きました。そこで調べてみると、昔から結構、良寛さんを否定する人が多いことがわかりました。まず、良寛さんの人格やその漢詩・短歌についての研究書、評論には、入矢義孝、唐木順三、北川省一、野崎守英、水上勉、吉野秀雄、長谷川洋三、中野孝次など多数に上ります。それだけ良寛さんに対する思い入れや、従来の評論に対する不満などから「私ならこう言う」と考えた人が多かったのでしょう。

 中には「みなが良寛のようになってしまったのでは国が立ち行かないから理想の人物などではない」(唐木順三「良寛」筑摩書房)とか、「耕さない人に蓄米のないのは道理で・・・国上山住まいは48歳のことであるから、まだ鍬の持てぬ年頃ではあるまい」(水上勉「蓑笠の人」新日本出版社)とか、「遊戯する良寛のほかに、その奥に、あるいはどこかに、何やら”真”というものが存在したにちがいないという錯覚が、牢固としてすべての良寛論を支配していたのであった(北川省一「良寛その大愚の生涯」東京白川書院)などいう的外れなことを言った人達がいます。水上勉は「(良寛の時代は)何年も飢饉は続いていたし、農民騒動は諸所に起きていた・・・凶作のつづいた天明の初め頃の百姓は、米はおろか芋も食えなかった。そのような農民から乞食して食い物を得、懸命に働く農民を尻目に子供と毬をついて遊び、庵では和歌や漢詩を歌い、親しい文化人から様々な農産物、海産物、果物、菓子類、薬や酒などの贈り物をもらって暮らしている、そのような生き方を良寛さん自身はどう考えていたのか(筆者簡約)」と言っています。まさに「下〇の勘ぐり」でしょう(テンションが上がります)。じつは、「働くな、食べ物は托鉢で得よ」は、ブッダの教えそのものなのです。さらにひどいのは、 「(同時代の人で)百姓一揆に失敗して佐渡送りになった弥三郎とは生き方に雲泥の差がある」という意味のことを言った水上勉の論拠は、じつは彼の創作人物だったのです(註1)。

 「良寛は悟ってなどいない」という人たちも少なくなく、「・・・どうも良寛は悟りという神秘的体験の方面よりも、文字(思想)の理解とその実践の方面に、よりすぐれたものを持つ人だったようだ(野崎守英「良寛学入門」名著刊行会)」という評価もあります。
 子供たちと鞠をついたりかくれんぼしたりして遊んだというイメージの強い良寛さんですね。しかし、じつはその学識は、道元の「正法眼蔵」「永平録」をはじめ、公案集「碧巌録」、「六祖(慧能)壇経」など、広範囲にわたるのです。「法華転」「法華賛」などの著作もあり、万葉集も返えり点などのない白文で読むことができるなど、江戸時代の代表的な知識人だったのです。

 上記の評論や研究の中には、筆者が同感するものもあります(中野幸次「風の良寛」文春文庫)。しかし、筆者が声を大にしたいのは、なぜ良寛さんを分析したり、比較評価するのかです。良寛さんのすばらしさは、下記の漢詩や短歌読めば、一切の解説を挟まずにスッと心に入って来て、何とも言えない温かさを感じ、心が安らぐのです。

 たとえば私たちの悩みには、自分の進学・就職の問題、家族の生活の問題、夫婦・親子間の問題、老後の生活や介護の問題がありますね。ときにはリストラされたり、地震や津波、豪雨によって肉親を亡くしたり、家財を一切失って生活の目途が立たなくなることも、今では他人ごとではありませんね。しかし良寛さんは、家族がなくても、定職がなくても、笠一つ、衣一つ、杖一つ、粗末な家さえあれば、乞食(こつじき)をして暮らしても、十分満ち足りた人生を送れること、家族がなくても、けっして不幸ではないということを、身をもって示してくれたのです。
 「悟っていない」と言う批評家もありますが、「悟ったかどうかなど問題ではない」(・・・誰か問はん 迷悟の跡・・・)と下記の漢詩で言っていらっしゃるではないですか。

 良寛さんの詩:                
生涯 身を立つるに懶(ものう)く 
騰騰(とうとう)として 天真に任す 
嚢中(のうちゆう)三升の米    
炉辺 一束の薪          
誰か問わん 迷悟の跡     
何ぞ知らん 名利の塵      
夜雨 草庵の裡(うち)      
雙脚(そうきゃく)等間に伸ばす   

 筆者訳:
生まれてからずっと立身出世など考えたこともない
ゆったりと心の赴くままに生きて来た
頭陀袋の中には三升の米
炉端には薪一束
迷いとか悟りなどなんだろう
名誉とかお金などどうでもいい
静かに雨の降るこの庵の中で
のんびりと足を伸ばしている

良寛さんの歌:
この里に手鞠(てまり)つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし
道のべに菫(すみれ)つみつつ鉢の子を忘れてぞ来しあはれ鉢の子
むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば
この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば おみなきて 
尿(ばり)を洗はむ こひまろび 明かしかねけり ながきこの夜を
(良寛さんの最後は大腸ガンと言われ、垂れ流しだったと。手伝いの女の人が来る朝までは衣も布団も洗うことさえできなかったのです。そんな恥まで赤裸々に歌にしたのです)。
  すぐれた詩や歌、名画や名曲には解説や批評・研究など一切不要です。

 良寛さんと間近に接した越後の大庄屋解良栄重(けらよししげ、註2)は、「良寛禅師奇話」(ネットで原著を見ることができます:筆者)で、

「師、神気内ニ充テ秀発ス。その形容神仙の如シ・・・師、余ガ家に信宿ヲ重ヌ。上下自(オノズカ)ラ和睦シ、和気家ニ満チテ、帰去ルト云(イエ)ドモ数日ノ間、人自ラ和ス・・・師更ニ内外ノ経文ヲ説キ、善ヲ勧ムルニモアラズ・・・其話、詩文ニワタラズ、道義ニ及ヨバズ・・・只(ただ)道徳ノ人ヲ化するノミ」

註1 正確には、水上が弥三郎の生涯を参考にしたと言っている「越佐草民宝鑑」自体が水上が創作した偽書でした。

註2 解良栄重は越後長岡の大庄屋。父の叔問の時代から良寛さんと親しく接して来ました。栄重21歳のとき良寛さんは亡くなりました。

良寛さんの「空」思想

 良寛さんに対する疑問?のブログで、「『良寛は悟りに至っていない』と言う人がある」とお話しました。

良寛さんの漢詩:
我生何処来  我が生は何処より来たり
去而何処之  去って何処へ行くのか
独坐蓬窓下  独り蓬窓の下に坐して
兀兀静尋思  兀兀(ごつごつ)と静かに尋思す
尋思不知始  尋思するも始めを知らず
焉能知其終  焉(いずくんぞ)んぞ能くその終わりを知らん
現在亦復然  現在亦(また)然り
展転総是空  展転として総(すべ)ては是れ空
空中且有我  空中にしばらく我有り
況有是與非  況(いわ)んや是と非と有らんや
不如容些子  些子(さし)を容(い)れるに如かず
随縁且従容  縁に随ってしばらく従容す

長谷川洋三さんの訳(「良寛禅師の真実相」木耳社):
 自分はどこから来てどこへ去っていくのか。庵の窓の下に座禅を組んで一所懸命に考え抜いたが、始めもわからず終わりもわからない。今の命もまたわからない。展転と移り変わる一切が空である。空の中に一時の間だけ自分がいるのである。ましてや是や非などというものがあろうか。今のささやかな自分をそのまま認めて、縁に随ってゆったりとしていよう。

 長谷川洋三さん(1934~)は、早稲田大学名誉教授。本書のほかにも「良寛禅師の悟境とと風光」「良寛曼荼羅」「良寛の世界」「良寛研究論集」などの著作がある著名な良寛さんの研究者。

この詩についての長谷川洋三さんの解釈は、
 ・・・この詩は一種の諦念の気配が感じられるが「明るさ」はない。自分の「初め」も分からず、「行く末」も分からず、「現在も分からず」という姿勢にも拘らず、暗さが付きまとっている(中略)たしかに「仮の我をたのしませよう」とする意図があったかもしれないが、この詩を読んでいる限り、ちっとも楽しくないことも事実である。何もかも「分からず」仕舞いの段階で「従容」という姿勢をとってみたところで寂寥感や虚無感は解決できないのである。生死に対する認識が変わり、「分かった」と言える段階に至って初めて楽しくなれるのではないだろうか・・・ 

筆者のコメント:「空中にしばらく我有り」を「仮の我」と言っていますね。下記の筆者の解釈とは異なります。

 一方、入矢義隆さん(京都大学名誉教授。「臨済録」「碧巌録」などの訳もある著名な禅学者)。この詩の解釈として、
・・・この詩はスケプテイッシュ(懐疑論的:筆者)に見えるが、簡単に言えば、<人無我>の理の諦観に立ちつつこの仮の我を楽しませようということ。我という生きものは、その生存を構成する五つの要素(五蘊)が仮に結合して成り立つ。だから人というものには永劫不変の主体としての実在はなく(人無我)、また一切の存在もそうである(諸法無我)。これが「仏」の教える「空」の内実である。それならむしろその空なる仮の我を生きてみよう、と良寛は言うのである・・・(「日本の禅語録二十・良寛」講談社)と言っています。

 筆者のコメント:まさしく龍樹の「空思想」に則って解釈していますね。

 筆者の感想:筆者はこれらの解釈とはまったく違った受け取り方をしています。お二人とも「総(すべ)ては是れ空(くう)」を龍樹の「空思想」で解釈しています。それゆえ良寛さんの人生が「暗いもの」であったり、「諦め」であるようにみえるのです。そうではないと思います。この詩を筆者の言う禅の「空思想」によれば、きわめてすっきりとするのです。すなわち、「過去は過ぎ去って無い。未来はまだどういうものかもわからない。現在に生きることこそ真の生である」という、格調高い現在肯定の精神を表わしているのです。長谷川さんの「暗い」とか、入矢さんの言う「実在のない仮の我(虚無的ですね:筆者)」などとは正反対なのです。