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真の勇気

 ヴィオレット・サボー(Violette Szabo、1921-1945)を知っていますか?フランス人で、第2次世界大戦中のイギリスの諜報機関(SOE,特殊作戦執行部)の部員でした。

 フランスに潜入した37名の女性部員のうち、14人がドイツ軍ゲシュタボに捕まり、拷問の末、処刑されました。彼らのもっとも有名な活動は、1944年の連合軍ノルマンデイ上陸作戦に当たって、ドイツ軍が戦場に駆けつけるのを妨げるため、鉄道や橋梁の破壊工作をしたり、通信網を混乱させたりした功績です。夜間に飛行機からパラシュートでフランスに降下し、フランスレジスタンスと共同で活動しました。これら特殊工作員の活躍によってドイツ軍の来援は間に合わず、作戦は成功し、第2次大戦の趨勢は決したのです。

 筆者は彼らの活躍を知った時、「真の勇気とはこういうものなのか」と強い衝撃を受けました。ここで紹介するのはその一人、 ヴィオレット・サボーについてです。イングランド人の父と、フランス人の母の間に生まれ、ハンガリー系フランス人士官エティエンヌ・サボーと結婚。1942年に長女タニアが生まれてまもなく、自由フランス軍に加わっていたエティエンヌが第二次エル・アラメイン(エジプト)の戦いで戦死しました。その後彼女はイギリスの特殊作戦執行部(SOE)に参加しました。ドイツ軍は占領下のフランスでは「女性には甘い」ことに目を付け、女性エージェントを潜入させたのです。イギリス人は戦いのプロだと言われており、その好例がここにあります。サボーは2歳の娘を人に託し、スパイとしてフランスに潜入しました。2回目の潜入の直後にゲシュタボに捉えられ、ドイツのラーフェンスブリュック強制収容所で処刑されました。わずか24歳でした。サヴォーのミッションはドイツ軍の通信網の破壊でした。このようにスパイの活動はきわめて有効でした。スパイは、たとえ捕らわれても捕虜としての待遇は受けず、連合国、枢軸国ともに処刑しました。まことに過酷な任務でしたが、それだけ功績が大きかったのですね。それによって何十万、いや何百万の命が救われたでしょう。

 ケンブリッジ大学の国際政治学の権威リチャード・ネッド・レボー教授は、「20世紀に入ると大国が小国に負けることが多くなった。それはなぜか?ナショナリズムであるからだ。国が占領され、蹂躙されるという屈辱に会うと、命がけで戦う」と言っています。サボーもその意気でスパイという過酷な任務に身を投じたのです。彼女の死後、娘のタニアが代わってジョージ十字勲章を受けました。

 「日本人は勇気ある国民だ」と言われています。「しかし、それは危機的状況に会った時に出る逆上的勇気だ」と言った人がいます。残念ですがそうかもしれません。イギリス人やフランス人は、女性でもサボーのような真の勇者が出るのですね。ちなみにイギリスの戦時下の最高栄誉賞を受けたのは、重傷の男性兵士に覆いかぶさって爆発から守った女性看護師と、ゲシュタポに拘束されて暗黒の部屋に入れられ、耐えた女性特殊工作員でした。

 私たちが〈勇気〉と言えば何を思うでしょうか。許しがたい他人を許すことか、重い病気にかかっても最後まであきらめずに治療にベストを尽くし、明るく振舞うとことか。受験に失敗したとか、失恋したとか・・・・。それも悩みに違いありませんが、サヴォーたちの勇気に比べて・・・・。サヴォーは常に死を意識していたはずです。そしてそれは現実のものになりました。

 私事ですが、筆者は12年前、所属していた組織の不条理さに対し裁判を起こしました。誇りを傷つけられたので戦ったのです。相手には法律の専門家が多数いましたが、終始「負けるはずがない」と思っていました。「わが国には法も正義もあるんだ」 ・・・・その時の感想です。その結果、睡眠障害になり、受診した親しい掛かりつけ医に「もうそんなことやめなさいよ」と言われました。もう一度そんな目にあったら?やっぱりやるでしょう。ただ、もし筆者がサボーのような状況に置かれたら・・・・自信がありません。

統一教会問題2)

 7月9日のNHKスペシャル「安倍元首相銃撃事件から1年」を見ました。NHKのこの放送の主張は「いかなる理由があろうと暴力はいけない」でした。しかし筆者はその報道姿勢に強い違和感を覚えました。理由は以下の通りです。

 事件を振り返りますと、2022年7月8日奈良市の近鉄・大和西大寺駅前で選挙応援演説中の安倍元首相が山上徹也被告によって手製の銃によって銃撃され、死亡した事件です。山上被告は、母親が旧統一教会に入信し、それにより家庭が崩壊したことに恨みを抱き、「安倍元首相とつながりがあると思い、犯行に及んだ」と供述しています。この事件が私たちに衝撃を与えたのは、その後旧統一教会と自民党を中心とする政治家たちとの癒着ぶりが次々に明らかにされていったことです。旧統一教会が自民党への選挙応援する見返りに日本での布教(?)の〈お墨付き〉をもらったのでした。問題の安倍元首相自身も、旧統一教会の式典に「この教会の活動はすばらしい」とのビデオメッセージを送りました。

 さらに、旧統一教会が新規入会者に組織的に、きわめて巧妙な段階的〈洗脳〉を行っていたことを知り、私たちも身震いするほどでした。山上被告の母親は、長年にわたって、死亡した父親の生命保険金や家族が所有していた不動産を売って得た金など、合わせて1億円以上を献金していたとみられています。その〈献金〉額の巨大さにも驚かされました。山上被告には全国から多くの同情が寄せられ、13,000名を超える人たちの減刑嘆願書とともに、洋服や菓子などの差し入れが届いたとか。送られた現金は去年10月までに100万円を超えると言います。NHKは「それらの社会現象が異常だ」と言うのです。

 NHK報道の内容

 NHKの当番組の論旨は、

 ・・・・山上被告に共感を寄せ、減刑まで求める人たちがいるのはなぜか。その後も、暴力で自らの主張を訴えるテロ事件が相次ぐ背景には何があるのか・・・・でした。そして最後にアナウンサーの強い言葉で締めくくりました。「動機がなんであれ、暴力に訴えることは断じて許されません」。

 その理論的サポートとして戦前から現代にかけて起きたテロや事件について研究してきた中島岳志さん(日本大学教授)の言葉、「被告への共感がうまれることに危機感を抱いています。事件を起こした人を評価、支持するような署名が集まっていることを知ると、『私も(テロを)』と思ってしまうことが考えられるので、冷静に対処しなくてはいけない。テロによって社会は変えられない、テロによって世の中は動かないんだということを、世の中はしっかりと見せつけないといけない」。

筆者のコメント:「筆者はこの番組を視聴して強い違和感を覚えた」と言いました。それは、これは論理のすり替えだと思うのです。まず、この事件の本質は「なぜ旧統一教会をのさばらしていたか」にあるはずです。それを「テロは許されるかどうか」にすり替えているのです。第一、その後「暴力で自らの主張を訴える事件が相次ぐ」ことはありません。岸田首相襲撃事件が一件あっただけです。

 NHK側は、「山上被告が高校卒業後に4つの資格を取得しながら非正規雇用の職場をたびたび変わっていたことが、社会に対する大きな不満になっていた。これがこの事件の原因だ」と言っています。その証拠にNHKの記者の一人が「教団に対する積年の思いがあったことは感じるが、今回の事件には直接結びつかないのではないか」との言葉があります。これは独りよがりの発言です。たしかに山上被告の就職事情はNHKの言う通りでしょう。しかし、家庭を破壊されてしまった人間がうまく就職できるとは思えないのです。何よりの証拠は、山上被告の就職用ポートレートです。本当に痛ましいのですが、こんな暗い表情(おそらく面接試験での発言も)の青年を正規社員として雇いたいと思う企業はなかったでしょう。山上被告の伯父はもと弁護士だったのです。お父さんを早くに亡くしているとのことですが、おそらくちゃんとした家系だったはずです。それがこんな青年になってしまったのは、まちがいなく旧統一教会の所為でしょう。山上被告が事件を起こしたことを知ったお母さんが、「それでも教会にすまない」と言ったと聞きます。宗教による洗脳の恐ろしさがわかります。つまり、NHK記者は結果と原因を混同しているのです。

 政治学者の中島さんはさらに、「民主主義の基本は徹底的な話し合いです。暴力に訴える前にあくまでも話し合いによって解決すべきだ」という趣旨の言葉を言っています。すなわち、

・・・・まず私たちは理解しようとする努力をしっかりとやるべきだと思います。それは共感するということと、全くイコールではないですね。理解した上で、その問題をどういうふうに乗り越えていくべきなのか。なぜ彼が事件を起こしたのかを、何か一元的にこれのせいだというふうに言うのではなく多角的に分析していくこと、どう捉えるのかを一生懸命議論していくこと、それが非常に重要な社会の役割です・・・・

 筆者はそれを聞いて「何という空しい言葉だろう」と思いました。そこにあるのは建前だけです。もし私たちが山上被告の立場だったら何ができたでしょう。普通の市民である私たちができることなど微々たるものだったはずです。おそらく唯一の方法が弁護士を通じて法的に訴えることだったでしょう。しかし、それがいかに無力だったか!30年以上、弁護団の筆頭として被害と向き合ってきた山口広弁護士に、NHKが「どんなことをすればこういう問題を解決できたと思いますか」と質問したところ、山口さんは、「・・・・わかりません。わかりません。わかりません」と涙ながらに答えたのです。旧統一教会問題に関わっている弁護士は200人を越えます。しかし、その彼らをもってしても、どうしても解決できなかったのです。中嶋さんが「話し合いが基本だ」というのを聞いて筆者が怒りを覚えるのは当然でしょう。

 いいですか、NHKは「絶対に殺してはいけない」と言いますが、安倍元首相暗殺事件があったからこそ、世の中がこんなに大きく動いたのです。

神の存在を知りたい?

 前回、作家の加賀乙彦さんの信仰についてお話しました。加賀さんが、「神を信じたい」とか「神を信じるのは賭けです」と言ったのには違和感を感じました。また、加賀さんの〈宣告〉を読んだ遠藤周作さんが「神を信じないでキリスト教信仰を書くのは、無免許運転だ」言ったことには筆者も同感です。

 一方、読者の時永さんから、・・・塾長は研究の最中に神の存在を実感する体験を持たれたとのことですが、そのような体験がない私のような者は、その時の感覚をいくら体験者に尋ねても同様に実感できることは難しい性質のものでしょう・・・・

というコメントをいただきました。

 このご質問に対し筆者は、「地区の産土神社に毎月参詣しています」・・・・などとお答えしましたが、信仰は心の問題ですから、適切なアドバイスは出来ませんでした。その答えを何ヶ月も考えていましたが、先日、ボランテイア活動の帰りにフト「神の心になりなさい」との言葉が浮かびました。そうなのです!「神の心になって生きる」それが答えだったのです。

 加賀乙彦さんのように「なんとかして神の存在を信じよう」とか、「キリスト教に対する疑問」などの気持ちを忘れるのです。あるいは時永さんのように「神を実感したい」という望みを捨てるのです。そして「神の心になって生きよう」と決心するのです。それは誰でも、今すぐにでも始められます。「神の心?」などと考える必要はありません。結果は自ずと付いてきます。

 神とは愛なのです。考えてみてください、親が子を思う心、それはすべての人間、それどころかすべての動物が持っています。「当然」ではありません。本能と言ってもいい感情ですね。なぜ人間やその他の動物はそういう感情を持つのか。それは神から与えられたものだからです。愛の心を持って生きましょう。いつでも、どんな時でも。それは時には難しいことです。他人にひどいことをされたり、言われたとき、誰でも腹が立ちます。また、他人が自分より優れていることを知らされた時、そんなとき誰でも悲しくなります。しかし、そんな時にもこのことを思い出すのです。あの良寛さんは失火犯の疑いを掛けられたり、畑の中で座禅して瓜盗人と間違えられて殴られたことがあります。また、「坊主のくせしてお経も読まず、物乞いをしている」と面罵されたこともあります。それでも黙って耐えました。おそらく良寛さんは禅の極意とはそういうものだとわかっていたからでしょう。聖書に「右の頬を撃たれたら左の頬を出せ」という厳しい言葉があります。おそらくそれも、やり返せば神の心に反することになるからでしょう。

 神の心になって生きる・・・・そこには疑問の入り込む余地はありませんね。

共感してくださる人が増えてきました。

 読者の柴田様から、次のようなメールをいただきました。

ご著書を送って頂きありがとうございました
早速三冊とも拝読しまして、さらには橋田教授の正法眼蔵釈意も拝読しました(主に第一巻)

今では各本とも愛読書になりました。

おかげさまで色即是空 空即是色、只管打座、而今をはじめさまざまな意味がわかり、又、道元の教えを日常において実践された良寛さんの素晴らしさを知ることができました。

私はこれまで儒教の特に陽明学を独学で学んできたのですが、どこか心の底で”なにか違う”という不信感が拭いきれず迷っておりました。
この度、それが払拭されましてなんだか目の前の霧が晴れた気分です。
大事なのは心ではなく行というのが大きかったと思います。

素晴らしい本を上梓して頂きありがとうございます。

 このブログシリーズを始めて8年を越えました。現在の日本仏教の衰退をなんとかして喰い止め、禅を中心に、東洋思想のすばらしさをお伝えしたいと続けてきましたが、奔流に竿差すような行為です。言うまでもなく読者から頂く批判は真摯に受け止め、学びの糧にさせていただいています。ただ、中には批判を越えた厳しい言葉を投げかける人もあります。ただ忍耐しかありませんが、時にこの柴田様からのような「共感した」とのメールを頂くこともあります。それが私にとって何よりの励みになります。

 現在、加賀乙彦さんの信仰についてブログを書いている途中ですが、ご紹介させていただきます。

加賀乙彦さんの信仰1,2)

  • 1) 加賀乙彦さん(本名小木貞孝1929‐2023)についてのNHK「こころの時代」(2005)が、2023年6月に再放送されました。それによりますと、

 ・・・・加賀さんの「宣告」(註1)という小説を読んだ遠藤周作さんは、「君のは無免許運転だ」と。また「キリスト教と仏教」という講演会を一緒にした北森嘉蔵さんという、「神の痛みの神学」の著者でプロテスタントの牧師さんが、講演後の茶飲み話の時、僕からそっぽを向いていた。「日本の知識人というのは、山を遠くから眺めているだけで、絶対に登ろうとしない。そういう人が一杯いますなー。山というのは登ってみなければわからない。宗教も同じ。宗教の知識をごまんと積んでも頂上には行けないんですよ。遠くに見えるけれど。しかしその頂上に登るという行為それ自身が宗教なんですよ」と言われた・・・・。

 読者の評価の高い作品でしたが、遠藤さんや北森さんのような〈生え抜きのクリスチャン〉から見れば不満が大きかったのでしょう。「真の信仰とはなにか」について模索を続けています筆者にとって看過できない問題ですので、今回取り上げました。

註1内容:(新潮社の書誌情報から)T大を卒業した楠本他家雄は、自堕落な生活を続けた挙げ句、バーで証券会社の外交員を絞殺する。その楠本は拘置所に入ってからカトリックに回心し、彼の手記に感動した心理学を専攻する女子学生と親密な文通を始めていた。淡々と過ぎて行く日常のなか、連続女性暴行殺人犯の砂田の死刑が執行される。死を宣告されて独房で過ごす青年の、苦悩する魂の劇を描く(バー・メッカの殺人事件の犯人正田昭がモデル。正田は慶応大学卒)。

 筆者は前回の「こころの時代」も視聴しました。その時、信仰についてとても違和感を感じ、ブログで次のように書いています。

         中野禅塾だより (2015/11/10)

 加賀乙彦さんにとって神仏とは

 加賀乙彦さん(1929-2013)は作家。精神科医時代に出会った死刑囚たちを描いた小説「宣告」では、当然、信仰の話にも及んだ。その時、遠藤周作さんに「神はいないと疑っているようでは、無免許運転のキリスト者だね」と言われ、「グチャット頭を殴られた感じで何も書けなくなった」。現在、17世紀に日本人として初めてエルサレムの地を踏んだペトロ岐部の生涯について執筆中。

前回お話した津村節子さん(註2)の質問に対する加賀さんの答え:(以下、「愛する伴侶を失って」集英社文庫より)

津村さん:(亡くなられた)奥様にあちらで会えると思っていらっしゃいますか?

加賀さん:会える。

津村さん:あちらの世界があると思っていらっしゃる?私はどうしてもそうは思えないんですけれども。

加賀さん:あるかどうかわからない。わからないけれども、あるということに賭けなさい。人は”無限”が何であるか知らないけれど、無限が存在することは知っているでしょう。それと同じで、「人は神が何であるかを知らないでも、神があるということは知ることができる。信仰によってわれわれは神の存在を知り、天国の至福においてその性質を知るであろう(パスカルの「パンセI」より)」と。けれども、キリスト者は自分たちの信仰を理由づけることはできません。理由づけることができない宗教を公然と信じている。

筆者のコメント:なんとも歯切れの悪い対話だと思います。加賀さんは、なんとかして神の存在を信じよう、「信じている」としているようです。「(あちらの世界が)あるということに賭けなさい」とは!ちなみに、「無限がなんであるか知らないけれど、無限がの存在することは知っている」ことと、「人は神がなんであるかを知らないでも、神があるということを信じることはできる」ことには、論理学的には何の関係もありません。

註2 津村さんは亡くされたご主人吉村昭さんの喪失感に苦しみ、友人の加賀さんに尋ねた時の対話です。加賀さんも奥さんを亡くしています。

 いかがでしょうか。「信仰とはなにか」を模索している筆者にとっても、加賀さんのこの態度はとても奇妙なものです。ちなみに、筆者の体験から言えば、いくら仲の良かった夫婦でも、〈あちら〉で再会できるという保証はないのです。

 最近、この番組が再放送されました。NHKは重要視しているためでしょう。そこでここでは、改めて加賀さんの信仰について考えてみたいと思います。

2)  幼児洗礼を受け、もの心着いた時から教会に通ってきたクリスチャンたちは、神の存在に疑問を持ったことはないのでしょう。遠藤周作さんもその一人です。たしかに遠藤さんは病気のあまりの苦しさに「神などない」と言ったとか。しかし、それは熱い信仰があったればこそのわがままでしょう。これに対し、加賀乙彦さんのように途中から信仰に入った人が、無理にも「神を信じる」と思うのでしょう。

 加賀さんはずいぶん後になって、

・・・・どうしてもキリスト教には疑問の点が多く、それらについて聞くために、親切な神父を軽井沢に招いてキリスト教に関する疑問を次々にぶつけた。加賀さんの質問は、「天使っていうのは本当にいるのか。天使が腕の他に翼をつけてるっていうのはおかしいじゃないか。解剖学的にあり得ない」 とか、「悪魔はいるのか。悪魔の耳はなぜあんなに尖っているのか」というような、ずいぶん幼稚な(本人の言葉)ものもあったそうです。それに対する神父の答えは「そうだけど、人間の解剖学を知らない画家が最初に描いて、そのためにああいう形ができちゃったんだろう」。

・・・・すると3日目の昼頃になると、もう質問することが無くなった。すると急に気持ちがさーっと明るくなった。身体が軽くなってフワフワ-っとなんか良い気持ちになった。「神父様どうも気持ちがおかしい。急に明るくなって、軽くなって何もかも疑問が無くなったような気がします。家内も同じだった。その時初めて神父さんが「受洗してもいいでしょう」と言った。ちなみにキリスト教新聞のインタビュ―でも加賀さんは、この神父との対話について言っていますが、〈神秘体験〉があったことには触れていません。

 加賀さんは、

・・・・人はよく「神が実在する証拠を見せてくれ」と言いますが、実は逆なのです・・・・親鸞の聞き書き「信ずべし。信心一途にあるべし(歎異抄)」の意味が初めてわかった。そして聖書の中にも「汝の信仰 汝を救えり(ルカ伝7章50節)」とあります・・・・と言っています。

筆者のコメント:いかがでしょうか。これだけの体験が、はたして本当に加賀さんの信仰を180度変えたのか、筆者にはよくわかりません。それにパスカルや親鸞の言ったことを根拠としてどうするんでしょう。信仰はあくまでも本人の問題なのです。何度もお話していますが、長年、生命科学の研究に携わってきた筆者はある時、「生命は神によって造られたに違いない」とありありと実感しました。筆者の信仰は、他人の言ったことを根拠とはしていないのです。しかも、〈宣告〉は加賀さん50歳の時の著書で、受洗の前です。それゆえ、遠藤周作さんや、北森嘉蔵さんの疑問ももっともでしょう。