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読者のコメントーついにこういう人が現れました(続‐1)

 1)時永様から次のコメントが届きました。他の皆さんの参考になると思いますので、紹介させていただきます。

時永さんのコメント:・・・・何度もブログで取り上げてくださって、また大切なヒントを多くいただきましてありがとうございました。よく読み込みまして、内省のヒントとさせていただきます。また過去の投稿も再読させていただき、疑問に思った処はその都度、質問させてもらえればと思います。歩みの鈍い亀のような人間ですが、どうかお見捨てなく、ご見解を披露していただければと思います。

 私は現在、人生において何度目かの危地にあり、心身が健康なのだけを頼りとし、なんとか乗り越えていかなければいけない壁があります。しんどいこともありますが、以前と比べて状況が悪くなっても、妙に余裕があるのが不思議です。禅の勉強をしているからなのかはわかりませんが、危地にある自分を考えると、何故か過去に色々な意味で危地にあったこともよく思い返すようになります。これは何故かとよく考えるのですが、ピンチの時ほど、その危地にあって右往左往する自分を背後から一切全て見つめている何かがいる事を、自分が心のどこかで意識していたのではないでしょうか。そう考えますと、一期一会と言った言葉は、めでたい有り難い茶席の上の話だけではなく、ピンチに出会うことも人生の旅の大切な一期一会かもしれませんね。

筆者のコメント:筆者が12年前から禅を本格的に学ぶようになりましたのは、大きなピンチに会っていたからです。30歳のころから、いろいろな本を読んだ時、「これは将来ピンチになったときの参考になる」と考えたフレーズを専用のノートに書いていきました。12年前のその時もそのノート(3冊あります)を取り出して一語一語味わってみました。しかし、どうしても救いにはなりませんでした。そこで禅を本格的に学び始めたのです。しかし、どの本を読んでも少しも胸には響きませんでした。そこで、「一から自分で学ぶしかない」と決心し、今日に至ります。このブログシリーズも、「同じような状況にある他の方たちの参考になれば」と続けています。

 まず、筆者には一つだけ取り柄があります。それはピンチになると奮い立つことです。「マイナス思考に陥ったら負のスパイラルに入り、状況は悪くなるばかりである」ことが感覚的にわかるからです。奮い立って直感だけに従って行動します。その行動が良いか悪いかの判断などしません。 

(以下に続きます)

禅を生活に生かす(1)

 筆者の畏友Iさんは、中堅企業の経営者として、お父さんの会社を立派に引継ぎ、発展させた人です。30歳まで上級公務員としてエリートコースを歩いていた人ですが、突然お父さんが亡くなり、転身せざるを得なかったとか。筆者のブログを読んでいただいているご縁で、もう5年以上ご一緒に会食し、経営の苦心をお聞きしています。そして聞けば聞くほど、「この人の能力は余人には代えがたい」と感じました。まず、人格が立派で温かい人柄でなければ、長く社長業が勤まらないのは当然でしょう。世間が相手にしないはず。Iさんもそのとおりの人です。官公庁との対応など、「ひたすら忍耐」だったとか。筆者のような組織に生きた人間は、なんといっても組織のブランドで守られています。Iさんは自分でブランドを作り上げねばならなかったのです。ずっと以前に社長職を引退していますが、今でも何かといえば会社からお呼びが掛かり、今でも「顧問の肩書」が外せないとか。その理由は、Iさんの綜合的な人間的魅力であることがよくわかります。  「余人には代えがたい」という筆者の感想通り、「今後は会社を大企業に良い形で吸収合併してもらう方向を考えている」と言っていました。「あなたはもう十分会社のために貢献した。あとは好きなことをして人生を送ってください」というのが筆者の願いです。

 地方の中企業というものは、「もし会社を潰してしまったら、もうそこには居られない」とか。従業員の多くは地元の人ですから、失業させてしまったら家族ともども路頭に迷うことになります。何かと肩身狭く暮らしていかねばならないのでしょう。Iさんは「それでも居残る人間は厚かましい」とも言っていました。厳しく、格調高い人生観だと思います。

禅を学ぶと

 禅を学ぶ前なら、筆者はIさんの生き方を尊敬する外はなかったでしょう。しかし、禅を学んでからは「別の生き方もあるのでは?」と考えます。まず、家族もあります。転校は子供たちにとって大きな負担になるでしょう。慣れ親しんだ土地には、自分自身も、多くの隣人との心の交流の積み重ねもあるはず。それらを捨てて新しい土地に移るのは、無くすものも多いでしょう。同じようなことは犯罪加害者の家族にも当てはまるはずです。とかく被害者の遺族に道場が寄せられるのは当然でしょうが、加害者の親族も辛い人生を送っているはず。それゆえ、二つのケースとも、たとえしばらくは周囲の厳しい目に晒されようとも、我慢してそのまま住み続ける選択肢もあるのでは、と思うのです。

 禅の人生とは「なんでもあり」なのです。もう一つ、筆者の好きな言葉は「それが終わりではない」です。

読者のコメント-ついにこういう人が現れました(17-4‐1~2)

 時永様からさらにコメントをいただきました。私にとりましても貴重な学びとなります。要旨と私の回答は以下の通りです。他の読者の方も参考になさってください。まず、筆者は大竹晋さんの「悟り体験を読む」についてはすでにブログに書きました。

 1)時永さんのコメント(1):”空”という観方を頭で理解しておいて、それを今度は肚で納得させるための座禅という位置付けでしょうか。確かに教行一如であれば、二つの側面から挟み込むように、相乗効果がありそうな気がします。現在は空の観方を生活のシーンごとに体感するとはどんな心境なのか、私にはわかりません。塾長は、モノゴトを認識する最初の部分、価値判断が出てくる前、と仰っていますが、それは時間的なものなのか、心的態度によるのか、自分も思索しなくてはいけないと考えています。『愛の反対は憎しみではなく、価値判断を下すこと』と言いますが、逆に言えば価値判断を下さないのが愛であり、神の観方なのかもしれません。

筆者のコメント:「空という観方を頭で理解しておいて、それを今度は肚で納得させるための座禅という位置付けでしょうか」について:まず、座禅は見性(筆者の言う「本当の我」と疎通すること)への道です。そして「本当の我」は「空(くう)」のモノゴトの観かたをします。そういう意味で座禅は「空」のモノゴトの観かたができるようになるための修行です。ただ、前回もお話しましたように、座禅はとても難しいのです。そこで別の方法も取ります。それがまず頭で理解し、それを「生活のシーンごとに体感するのです。「空の観方を生活のシーンごとに体感する」とは、次のやり方です。私たちは、何かモノゴトを見たり聞いたりしたとき、いつもすぐに「あれは〇〇だ」と判断してしまいます。その習慣を断ち切るのです。たとえば富士山を見れば誰でも「きれいだ」と判断しますが、判断しそうになった時「富士山」と言って、次の判断へ続くのを止めるのです。つまり「時間的なもの」です。世の中には、良い仕事(学校)とか、つまらない仕事(学校)、美味しいとか不味い、高いとか安い、きれいとか汚い、多いとか少ない・・・という判断が多すぎ、それらが結局、私たちを苦しめることになります。私たちの苦しみはすべてそういう「誤った価値の判断」に由来しています。しばらく、何かを見たり聞いたりしたとき、判断へ続くのを止める訓練をしてください。じつは「価値の判断の否定」は禅の要諦の一つなのです。時永さんの「価値判断を下さないのが愛であり、神の観方」は良い表現です。

 2)時永さんのコメント(3):まるで見当違いかもしれませんが、上記の問題は自分の中ではいつくかの公案と重なるように感じられます。昨年私は「山岡鉄舟先生正伝」を読む機会があり、その中に、山岡の禅の弟子となった初代三遊亭圓朝が、趙州無字の公案を与えられ、半ば山岡に監禁されるようにして座禅し一週間の後に透過したエピソードが載っており、それを読んで以降、この「無!」というのも仏性神性と心身という関係に絡んでいるのでは、と考えるようになりました。塾長はこの無についてある時アッとわかったと述べておられましたが、無門禅師によれば、わかると驚天動地どころではないものだそうで、是非自分も体験したいものです。ここの辺りが深遠な悟りの世界の最初のステージなのかなと想像しています。

筆者のコメント:「この『無!』というのも仏性神性と心身という関係に絡んでいるのでは」について:おっしゃる通りと思います。

この「無」とは、無門が言うように、もちろん有無の「無」でも虚無の「無」でもありません。

時永さんのコメント(4):・・・前回、私が大竹晋さんの「悟り体験を読む」を読んで”空”とは何かを考えるようになったと述べましたが、この本はさすがに見性体験を持った方の言葉を集めているだけあって、空の観方においても、いろいろ示唆に富むものです。そして見性体験自体にフレームを設けて分析を試み、さらには見性者の方々の超常的な体験についても紙面を割いており、評価は様々だと思いますが、なかなか意欲的な試みであると私は受け止めました。そもそも、私は武道を少し稽古しているのですが、達人には世界はどう見えているのか、その不思議な洞察力はどこから来るのかに興味があったので、それと同様の位置付けとして見性者の体現する不思議な面にも興味があります。やはり悟りといった段階に達すると、ヒントをくださったように、何らかの不思議が身の回りにおこるものなのでしょうか。とても興味深いですね。

筆者のコメント:大竹さんの「悟り体験を読む」は良い本ですね。それについては以前のブログに書きました。ただし、私の「ふしぎ体験」は大竹さんの言う5つの分類のどれにも当てはまらないようです。ただし、「体験」は強烈です。「ふしぎなこと」が起こらなければ「悟り」のとば口にも立っていないと思います。

 以上、時永様も倦まずたゆまず学び、実践してください。それが正道です。やがて「父母未生以前のこと」や「庭前柏樹子」「拈華微笑」などの公案の意味もすべてわかるようになるでしょう。

読者のコメント(18)こういう人も出てきました

 カジワラフミヒコさんから次のようなコメントをいただきました(筆者のブログ「浄土の教えの誤解-正法眼蔵「生死」2018・10・5を読んでの感想でしょう)

 カジワラさん:・・・全くスバラシイと有難く拝読しました。有り難うございました。南無阿弥陀仏と申さずにはおれません。私は浄土真宗の門徒で寺の総代を仰せつかっていますが、「往生浄土」と「実践」の統一で悩んでいます。このプログはこの統一問題に大きなヒントになりそうです。道元様 スゴイ。高校時代、座禅を指導して下さった恩師に出遇ました。そのお陰でこの文章がほぼ理解できます。恩師に感謝。中野様に感謝。

筆者のコメント:喜んでいただいてよかったです。筆者の上記のブログは、「浄土の教えの根本経典である浄土三部経には、じつは中身が何もない。歎異抄は、親鸞の教えを自分勝手に解釈している不肖の弟子たちを嘆くという内容に過ぎず、重要な教えなどではない」という趣旨でした。ここでカジワラ様が〈「往生浄土」と「実践」の統一〉とおっしゃっているのは、「教えがはっきりとはわからないない浄土の〈教え〉を実践することなどできない」という悩みでしょう。中身が何もないものに依拠して実践することなどできるはずがありませんね。「日本仏教の退勢は浄土真宗や浄土宗から始まる」とも書きましたが、カジワラさんのような方がいればまだ捨てたものでもないようです。

 筆者がこのブログを書いたころ、筆者の友人がすごい剣幕で(古い友人です。仏教の勉強もしている)筆者を批判しました。筆者がブログで「『この人は浄土の教えを誤解しています』と書いたのを読んで」と言うのです。そこで筆者は、「ある有名な、浄土の教えを信奉する人が『無量寿経は宝の山だ』と言っているのを聞いて、唖然とした」と書きました。この筆者の友人はそこを批判したのです。ようやく今ではカジワラさんのような理解者が現れたのです。それらの体験には昔日の感があります。

読者のコメント(17‐1~3)ついにこういう人が現れました

  読者の時永様から次のようなコメントがありました。

 1)初めてコメントしたします。
 時間をかけて投稿は現在まで全て読ませていただきましたが、この記事が”空”について一番明快に論じておられるようで、あえてここで質問させていただきたいと思います。

私は大竹晋さんの『悟り体験を読む』を読んでから、空思想や瞑想について考える様になりました。これまでも色即是空空即是色と言った言葉はもちろん聞いたことはありますが、空とは何かについて、どの解説を読んでもピンと来ず、正直何を言っているのかわからない状態でした。これはいわゆる修行が足りないからかなぁとは思いつつ、大学で哲学を少し齧ったこともあり、愚鈍ながら自分なりに神や宇宙の存在を思考し続けてきました。その上で、塾長のおっしゃる、空とは哲学的な観念というより、ものの観かたのことだとの指摘は、綺麗に腑に落ちた感じがします。

そして浅学な自分なりに咀嚼しますと、
色とは、『物質世界で自らも体躯をまとって五感を使い、日常的な喜怒哀楽を感じ、様々な欲望を充足し、生存に必要な食扶持を稼ぐための仕事や、瑣末で事務的な事まで遂行する』、これらは同時瞬時に、空として、『一切を自己の真我アートマンが主体として経験し、味わっている』ということと一体であり、不可分である。ということになるのかなと考えたりしています。そしてそれらをきちんと味わうには、”前後裁断”つまり過去は過ぎ去り未来は未だ来ず、ゆえに今の今の今に集中するということができる方が良いのだろうかと思えます。こう考えますと、例えばコーヒーを飲むのでも、たとえ過去に何杯これからも何杯飲もうとも、本来この宇宙でこの私が今味わうこのコーヒーの味の経験は一回きりなんだなと思い至ります。そしてこの考えを延長しますと、禅語にあります一期一会とか喫茶喫飯であるとかが良くわかる気がします。また密教の17清浄句も、その理由が良くわかる気がします。

 そしてまた塾長は、道元等はヴェーダの見地に戻ったのだ、とおっしゃっていますが、私の一番好きな公案である古帆未掛の頌に”法塵もまた掃除せよ”とあったり、また一休宗純が、『釈迦といういたずら者が世に出ておほくの人をまよはするかな』と詠んだりしているのも、この辺のことなのかなと考察しています。そもそも”空”とは何がカラなのかと考えますと、いわば色の見方をする自分をカラにしてしまえば、自己の中の神が、これまた神の顕現である森羅万象と向き合っている状態となり、そこで主体と客体は無くなるのかもしれません。この一元的な世界は確かにヴェーダ的だと感じます。

以上、これまでの塾長の記事に関しまして、非才な私のコメントを述べさせていただきましたが、さて目下、塾長に質問いたしたく思っておりますのは、座禅するということが、どの様に空の見方が出来る、あるいは気付ける、実感できるという心の持ちかたに繋がっていくのか、ということです。三昧にすぐに入れる様な集中力があれば、前後裁断の見方は容易いのでしょうか?見性したいという欲もまた厄介で集中力を減らすものであり、ただでさえ煩悩まみれな自分は座禅しても甚だ途方にくれる有様で、また開悟は経験した者にしかわからない世界かとは思いますが、ヒントをいただければ幸いです・・・・。

 2)筆者の感想:時永様のコメントを読ませていただき、「ついにこういう人が現れたか」と感動しています。他の皆さんにも参考になると思いますのでご紹介させていただきます。なお、時永様の引用語句から、そうとう深く禅を学んでいらっしゃることがわかります。まず、ご質問に対する私の考えからお話させていただきます。ご質問の内容は、次の二つに分かれると思います。

 ・・・1)座禅するということが、どの様に空の見方が出来る、あるいは気付ける、実感できるという心の持ちかたに繋がっていくのか。三昧にすぐに入れる様な集中力があれば、前後裁断の見方は容易いのでしょうか?見性したいという欲もまた厄介で集中力を減らすものであり、ただでさえ煩悩まみれな自分は座禅しても甚だ途方にくれる有様で・・・

2)開悟は経験した者にしかわからない世界かとは思いますが、ヒントをいただければ幸いです。

 1)について:座禅瞑想(以下座禅)することは、「空」の見方を実感できる心の持ち方に繋がって行けると思います。しかし、おっしゃるように座禅はとても難しいのです。私も色々試してみて「これなら」と思える座禅法を会得するのに40年かかりました。このように、座禅から悟りに至るのは至難の業だと思います。もちろん今も続けていますが・・・。しかし、ご安心ください。じつは別の道があるのです。私が偶然見つけました。それが「空とは何かをわかること」です。学ぶことですね。仏教で「教行一如」というのはこのことでしょう。座禅は「行」、学ぶことは「教」です。子供が座禅しても価値はありません。第一、座禅の意味すらわからないはず。「教え」の大切さです。

 2)について:開悟は経験した者にしかわからない世界と私も思います。私が悟りに達したかどうかはわかりません。ただ、「ふしぎなこと」を体験しました(註1)。高野山には虚空蔵求聞持法という厳しい修行があります。それを「成し遂げた」と思っても、「ふしぎなこと」が起こらなければ始めからやり直さなければなりません。悟りは何段階もあると思います。私も「ふしぎなこと」を体験しましたので、その第一段階には達したのかもしれません。これがヒントです。

註1「ふしぎなこと」の内容については、拙著「禅を正しくわかりやすく」(パレード出版)に書きました。

 3)筆者の感想:時永様が「色とは、『物質世界で自らも体躯をまとって五感を使い、日常的な喜怒哀楽を感じ、様々な欲望を充足し、生存に必要な食扶持を稼ぐための仕事や、瑣末で事務的な事まで遂行する』、これらは同時瞬時に、空として、『一切を自己の真我アートマンが主体として経験し、味わっている』ということと一体であり、不可分である。ということになるのかなと考えたりしています」と理解されたのは正しく、重要なブレイクスルーがあったと思います。ただ、それがわかったことで「ふしぎなこと」が起ったかどうかが問題なのです。私と時永様の境地に差があるかどうかはわかりません。もしあるとすれば、私はこれまで「悟りに達したい」というより、「ただ知りたい」とだけ願って禅を学んできました。そこが少し違うのかもしれません。研究者として生きてきましたが、研究者とはそういうものだと思います。

 時永様のコメントは続きます。

 ・・・そしてまた塾長は、「道元等はヴェーダの見地に戻ったのだ」とおっしゃっていますが、私の一番好きな公案である古帆未掛の頌に”法塵もまた掃除せよ”とあったり、また一休宗純が、『釈迦といういたずら者が世に出ておほくの人をまよはするかな』と詠んだりしているのも、この辺のことなのかなと考察しています・・・

筆者の感想:道元がヴェーダの見地に戻ったかどうかはわかりません。ただ、「仏(神)」という概念を入れていることは間違いありません。「正法眼蔵」をよく読めばわかります。釈迦仏教にはないヴェーダの思想ですね。唐代以来の禅者にもなかったことです。臨済は「赤肉団上一無位の真人あり」と言っていますね。明らかにヴェーダで言う「個我」です。

 一休さんの上記の歌はふつう「お釈迦さんがお生まれになって仏法を説かれたが、そのためにかえって多くの人がわいわいがやがや騒いで迷っていることよ」と解釈されています。しかし私は、まさに時永様がおっしゃっているように、「釈迦が私たちの正しい道を誤らせた」と言いたいのです。それが肝心のインドから仏教が駆逐されてしまった理由の一つだと思います。ただ、それを明言すれば、多くの仏教関係者から反発を受けるはず。それが煩わしいので黙っていたのです。仏教は、たしかにすばらしい思想「禅」を生み出しました。その意味では偉大です。しかし、負の遺産も多いと思います。これまで多くの僧侶や仏教研究家が怠惰だったからと思います。私も時永様と同じように、「悟りとは何か」を知りたいと、さまざまな本を読みました。しかし、どれを読んでも「腑に落ちなかった」のです。現代日本仏教が葬式仏教に堕したこと、東日本大震災の被災者を救援しようとしてもまったく無意味だったことも負の遺産の結果だと思っています。薬師寺の布教委員の僧侶が「無力だった」と涙を流していましたが、まだ救われます。