「未分類」カテゴリーアーカイブ

正法眼蔵・現成公案‐読者の解釈

 ・・・「現成公案」をネットで調べたらヒットしたので拝見させていただきました。どうか勝手ながら私にも一つ意見を述べさせていただくことをお許し下さい。

 「現成公案」とは「今の様子はどうなっていますか」と問うているだけです。「現状」=今の様子、「公案」=問うています。今の様子を問うているだけですから、解釈の入る余地はありません。私の今の様子を申し上げますと、車が「ブーン」と通り過ぎました。つまり私の現成公案=「ブーン」です。このように「ブーン」に解釈の入り込む余地はありませんね。頭を使って考える必要のない様子です。祖師方が「実相」「悟り」「無常」「仏性」「救われている」などなど…いろんな呼び方で呼んでおられますがみんな同じです。禅は習禅にあらず。なので「ブーン」をわざわざ習う必要がありません。老若男女、誰のところにも等しく今の様子は必ずあります。だから道元禅師は「只管打坐」とおっしゃったんだと思います。摩訶迦葉さんの「拈華微笑」も同じですね。お釈迦さんがお花を「ユラユラ」させたんです。「ユラユラ」の様子を知るのに言葉も要らないし「ユラユラ」を勉強する必要もない。眠ってると分かりませんが…笑。摩訶迦葉さんの現成公案=「ユラユラ」だったんですね。だからニコッと微笑まれたんでしょう。私の様子は「ブーン」…ありがたいな〜と思います。

筆者のコメント: 礼儀正しく、誠実な方だと思います。筆者に対するご質問ではなく、「独りごと」ですから、そのままにしておきましたが、筆者のブログを読んでいただいたのは貴重な御縁ですから、感想をお話させていただきます。

 まず、「現成」は「現状」ではありません。この誤りがそもそもの誤解の元です。さらに、「公案」は問うことでもありません。したがって、「現成公案とは『今の様子はどうなっていますか』と問うているだけ」とはならないのです。さらに、それがどうして「ありがたい」のかも理解できません。

 また、「誰にでもある今の様子」が、どうして道元の「只管打座」になるのかもわかりません。さらに、「只管打座」が、なぜ摩訶迦葉(マハカショウ)の「拈華微笑」に結びつくのかも理解できないのです。

 つまり、全体として、おっしゃることがよくわからないのです。同学の士としてお話させていただきます。さらに、「拈華微笑」の意味も、「只管打座」の意味も違うと思います。

 読者の中には、かなり勉強していらっしゃると思われるのに、「現成公案」「只管打座」「拈華微笑」「実相」「無常」「仏性」・・・等々、いろいろなところから集めた言葉をつなげて一つの体系として「わかった」と思っている人が、よくいらっしゃいます。「禅はわかったか、わからないかの世界だ」とはこういうことだと思います。

 どうか筆者のこの言葉を前向きにお受け取りください。

読者のコメント(15)

 

筆者のブログ「何のために生きる?」に関連して無明の凡夫さんのコメント:

なぜ生きるのか?
生きるために生きるのです
ではなぜ生きるのか?
生きるためです

まるで禅問答ですね

私は生きる意味など無いと思います
死んでないから生きてるだけで、この場合死すら無意味じゃないでしょうか
自分を待つ家族や友人が居る、、、それも風の前の塵に同じで、死と共に消失です
生きてる間の満足感はあるかもしれませんね

唯一生きる意味があるとすれば、また人間に生まれ変わならないように、出来れば解脱するように、悟りを開く(悟りを求める)こと
この場合死にも意味はあるでしょう

人間としての幸せを求めるのではなく、魂の解脱を求めるのが、釈迦の解いた悟りへの道じゃないでしょうか

無意味な人生に意味を求めれば求めるほど、無意味に迷い悩む事になる

何の根拠もありませんが、そう考える人間も居たりします
色々な考え方があっても良いと思いコメントしましたが、気に障りましたらすみません

筆者のコメント:おっしゃる通り、色々な考えがあって良いと思います。筆者は親しい読者とのお一人と、「人の死生観など、その時になってみなければわからない」との点で意見が一致しています。「その時」とは、「死を現実のものとして認識した時」です。ガンを宣告されたときのように。あなたのコメントを読んだその「読者」から、次のコメントが寄せられました。

・・・この人は世の中に正面から向き合っていないような気がします。生きることはもっと素晴らしいことのはずです・・・。

無明の凡夫さん:・・・なぜ生きるのか?生きるために生きるのです・・・まるで禅問答ですね・・・

筆者のコメント:禅問答!その通りです。しかし筆者にはその人の言葉がよくわかります。それを言ったのは、前にお話したように、末期ガンの60歳代(?)の女性社長です。医者から見放され、最後の望みをかけて秋田県の山合いにある特別な温泉(玉川温泉)に来ました。そこで湧き出るラドンがガンに効くと言われているからです。記者の「なぜそこまでして生きたいのですか」という(不躾な)質問に対する答えです。ラドンを浴びるための簀の子の床に寝て、毛布を頭にかぶったまま。その女性は「生きたい。なんとしても生きたい。理屈などどうでもいいから」と言いたかったのです。「どんな絶望的な状況になっても、最後まで望みを捨てない」・・・筆者がイギリス人を好きな理由です。ちょっと悲劇的な場面に出くわすとすぐ「もうダメだ」と諦めるのが日本人です。

 上記の読者、筆者の畏友Iさんは、上級公務員としてエリートコースを歩いていましたが、その途中31歳で、会社経営者だったお父さんが突然亡くなられ、跡を継ぐことになりました。従業員を見捨てるわけにはいかなかったからです。不慣れな社長業がどれほど大変だったか、筆者の想像を越えていました。地方の中都市では、従業員たちの多くは近くの住民でしたから、 もし会社を畳むようなことがあれば、 元社長はもうそこに住めないとか。給料は毎月払わなければならず、仕事は常に途切れないようにしなければいけない。「仕事を受注できた時は100で、できなかったときは0」。「次はどうしようと考えて眠れない日が続いた」と。公共事業を引き受けた時は、役人の無理難題に「ひたすら忍耐の日々だった」・・・。それでも腹を立てればもう仕事は受注できません・・・誇り高いその人にとってどれほど無念だったか。

 それでも50年、立派に職務を果たし、会社を発展させました。今でも会社にとって不可欠のようで、退職後の今日でもなにかと協力しているとのこと。いつも筆者は「これからは、できるだけ遊んでください」と言っています。

 その人が、あなたの投稿を読んで、「いや、人生は素晴らしいものだ」と言っているのです。傾聴すべき言葉ではないでしょうか。

良寛さんの浄土信仰

 良寛さんは、曹洞宗本山の永平寺より厳しいことで知られた備中玉島圓通寺で10年わたる厳しい修行をし、印可を得た人です。いうまでもなく自力本願ですね。ところが、驚くべきことに故郷へ帰ってからは浄土宗の他力本願の歌を数多く詠んでいます。

かにかくに ものな思いそ 弥陀仏(みだぶつ)の                                本の誓いの あるにまかせて                                         本の誓い:弥陀の本願、つまり衆生をお救いくださると誓われたこと

我ながら うれしくもあるか 御ほとけの                                         います御国(みくに)に 行(ゆ)くと思へば

愚かなる 身こそなかなか うれしけれ                                 弥陀の誓いに 会ふと思えば                                      なかなか:かえって

待たれにし 身にしありせば いまよりは                                     かにもかくにも 弥陀のまにまに                                        待たれにし:命の終わりを待っている。 まにまに:心のままにまかせよう

極楽に 我が父母は おはすらむ                                       今日膝もとへ 行くと思へば     

草の庵(いほ)に 寝ても覚めても 申すこと                                       南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 これについて野積良寛研究所の本間明さんは、・・・その背景には、越後、特に平野部には浄土真宗の信者が多いこと、晩年に身を寄せていた木村家が熱心な浄土真宗の信仰の篤い信者であったことも影響しているでしょう・・・ 良寛は、貧しい農民が真に救われるためには、菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう(註1)では限界があり、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え、一心に阿弥陀仏を信じる教えは尊いものと考え、他力本願的な魂の救済という方法に徐々に傾倒していった可能性もあります。阿弥陀仏にすがることで、救われ、来世は極楽に行くことができるという教えの方が、庶民に安心を与え、庶民の魂を救済する方法としては、より現実的と考えるようになったのかもしれません・・・と言っています(以上野積良寛研究所HPから)。

筆者のコメント:筆者は、本間さんのこの考えに対して異論があります。本間さんは真摯な良寛さん研究者だと思います。ただ、本間さんが言う 「阿弥陀仏にすがることで、救われ、来世は極楽に行くことができるという教えの方が、庶民に安心を与え、庶民の魂を救済する方法としては、より現実的と考えるようになったのかもしれません」とは思えないのです。以前のブログ「道元・良寛さん・宮沢賢治と法華経」でお話したように、良寛さんは、長い仏教修行遍歴の結果、おのずと釈迦仏教から、神仏の存在を前提とするヴェーダ信仰に回帰したのだと思うのです。釈迦仏教にはヴェーダ信仰で言う神(仏)の概念はありません。釈迦以降数百年に及ぶ仏教研究の成果として、浄土思想や法華経思想が生まれたのです。浄土思想では、「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば仏(神)によって救われる」と言うのです。法然は「弥陀の本願」という、釈迦仏教とは正反対の思想に至りました。これが、筆者が「法然は釈迦と並ぶ偉大な思想家である」という所以です。

註1菩薩の実践する衆生を導く四つの方法
 布施(施しをする)
 愛語(慈愛の言葉をかける)
 利行(他を利益する行い)
 同事(他と同化すること)

 良寛さんは、浄土信仰に傾倒する以前から、越後の人たちに実践していたことですね。別に四摂法に限界を感じたからではないでしょう。ちなみに「正法眼蔵」にも 「菩提薩埵四摂法巻」があります。

歎異抄の呪縛(2)

 

法然は釈迦と並び立つ宗教家です(3)

 筆者は以前のブログで「歎異抄の呪縛から早く脱するべきです」と題したお話をしました(2015年10月)その一部を再掲しますと

・・・ 「歎異抄」に関する本は、今でも五木寛之さんや、梅原猛さん、ひろさちやさん、山折哲雄さんなどにより、次々に出版されており、その人気の高さがしのばれます。しかし筆者は、「日本人は早く歎異抄の呪縛から逃れるべきだ」と考えています。今言いましたように、「歎異抄」は、著者唯円が師親鸞の教えを、不肖の弟子たちが勝手に解釈し始めたのを「歎(なげ)いた」ものです。すなわち、
◎わざわざ十以上の国を超え、はるばる京の親鸞のもとに尋ねて来て、「念仏の他に浄土に往生する道があるのか」と尋ねる弟子、◎「すべての人が救われると言うのなら、何をしても許される」という「本願誇り」の弟子、◎文字の一つも知らずに念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議な働きを信じて念仏しているのか、それとも、(南無阿弥陀仏の)名号の不可思議な働き信じて念仏しているのか」と言って相手を脅かす弟子、◎弟子の取り合いをする者など、およそ親鸞の教えとはかけ離れた、自分勝手な拡大解釈をしている者たちを諭した「親鸞のお言葉」に過ぎないのです。
 さらに重要なことは、日本人は、よく知られた「◎善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスに「しびれ」ているにすぎないのです。「歎異抄」の第二条には、・・・自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願の働きを信じる心が欠けている(自力になる:筆者)。だから阿弥陀仏の本願(他力)に叶っていない」との親鸞の言葉の真意が明記されています。パラドックスでも何でもないのです。このように、「歎異抄」には、親鸞の教えを勝手に解釈している()、出来の悪い弟子達を嘆く親鸞の言葉が書かれているだけであり、何ら新しい教えなど書かれてはいないのです。

 法然の天才性は、大衆に向かって「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説いたところにあるのです。比叡山第一の学生(がくしょう)と言われたほど、旧来の仏教書を読み解いていた法然が「南無阿弥陀仏」という言葉の重要さを見抜いた上での名号なのです。文字も書けず、教えを聞く機会もない当時の苦しむ民衆にたいする教えとしてこれ以上のものはないでしょう。親鸞のすばらしさは、彼自身も法然に劣らないほどの比叡山のすぐれた学生(がくしょう)であったにもかかわらず、ひたすら法然を信じたことにあります。「歎異抄」にも、

・・・(私は「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」という思想に傾倒しており)、たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候(たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞には何の後悔もないのだ)・・・。

と言っているのです。

 いかがでしょうか。これが「歎異抄」の実体なのです。上でお話した多くの仏教解説者が言う「歎異抄の特別なありがたさ」などないのです。そんなものを読むより、ただ、心から「南無阿弥陀仏」と唱えることの方が、よほど法然や親鸞の教えを正しく受け取っていることになるのです。「日本人は早く『歎異抄』の呪縛から脱してください」と筆者が言っているのはこのことなのです。

法然は釈迦と並び立つ宗教家です(1-3)

 1)法然は日本浄土系宗派の宗祖であり、その思想の根拠としているのは、いわゆる「浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)」です。「無量寿経」は本来、サンスクリット語で書かれています。それを漢訳したものには、日本では特記が無い限り康僧鎧(中国三国時代の魏の訳経僧、生没年不詳 3世紀ごろの人)の訳を示します。浄土宗や浄土真宗では根本所依の経典とされています。とくに、法然が重視したのは、弥陀の本願の書かれている「無量寿経」です。弥陀の本願には、四十八あり、その第十八願が、

 設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法

です。

中村元博士和訳では、

・・・たとい、われ仏となるを得んとき、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せん。もし、生まれずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆(の罪を犯す者)と正法を誹謗する者を除かん。

(現代語訳:私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、〈万が一にも〉往生しないということがあるならば、〈その間〉私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪〈註1〉を犯す者と、仏法を謗〈そし〉る者は除くことと〈唯除五逆謗法〉する)

この解釈が一般的でしょう。しかしこの康僧鎧訳は、法然や親鸞の思想を考える上で、正しくありません。その理由について中村元博士の「浄土三部経(上)」(岩波文庫)に重要なヒントが書いてあります(p310)。それによると、

・・・「乃至(ないし)十念せん」は、善導によって初めて「十たび念仏を(口に出して)声で唱えること」と意味に解されたのですが、康僧鎧の漢訳では、「極楽浄土に生まれたいと願う心を十たび起こすことによって」となっている・・・

とあります。つまり、康僧鎧の漢訳では「願う心を十たび起こす」となっているのに、善導(613‐681唐時代の僧)は「声で唱えること」と変えているのです。ここが法然の浄土思想を考える上で大問題なのです。

註1五逆:母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること

 2)じつは、第十八願についてのサンスクリット原典の該当部分(中村元訳「浄土三部経」岩波文庫)を読んでみると、康僧鎧の漢訳とも、善導の解釈とも違うことがわかります。すなわちサンスクリット原典では、

・・・もしも、わたし(アーナンダ)が覚を得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心を起こし、わたしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信じる心)をもってわたしを念(おも)い続けていたとしよう。ところでもしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、わたしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったなら(太字筆者)、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように・・・

となっています。つまり、サンスクリット原典には、康僧鎧の漢訳「願う心を十たび起こす」とも、善導の解釈「少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、万が一にも往生しないということがあるならば」などとも書いてないのです。このように、仏教では思想が次々に変化するのです。いわゆる「増広」ですね。こういうところに注意しなければなりません。

 そして、前述のように、善導は、康僧鎧による漢訳を「願う心を十たび起こす」から、「十たび念仏を声で唱えること」とさらに変化させたのです。

 わが国のどの文献でも、「無量寿経の第十八願こそ、中国や日本の浄土教では重要な論題とされてきた」とあります。その理由は、たとえば、

 ・・・法然が専修念仏を唱道したのは、善導の「観無量寿経
疏 」「散善義」の中の、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からである・・・

とあります。しかし、これではなんのことかわかりませんね。筆者の考えはつぎのようです。すなわち、

筆者の考え:法然は、善導が無量寿経の漢訳で「願う心を十たび起こす」となっていたのを、「十たび念仏を声で唱えること」と解釈しているのを読んで、「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行ける」とまったく別の思想へと飛躍させたのです。これはすごいことです。

 くり返しますと、「無量寿経」の(サンスクリット原典)で、弟子のアーナンダが釈迦に言っているのは、「もしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、わたしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったなら、私は正覚(この上ない悟り)には至りません」なのです。それを法然は「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行ける」と、無量寿経の抽象概念を一気に飛躍させて新しい思想とし、具体的な方法まで示したのです。

 法然の思想は、「仏(神)が救ってくださる」という、キリスト教と同じ思想です。つまり、釈迦仏教とは正反対なのです。釈迦仏教は「厳しい戒律を守り、実践して初めて成し遂げられる」という、徹底した自力本願です。筆者が、「法然は釈迦と並び立つ偉大な思想家だ」と言う理由です。

 これが親鸞が、「正信偈」つまり「教行信証」で、度西天論家としてとくに善導を取り上げ、「善導独明仏正意」(善導大師はただ独りこれまでの誤った説を正して釈尊の教えの真意を明らかにされた)

と言っている理由でしょう。

3)- 歎異抄の呪縛

筆者は以前のブログで「歎異抄の呪縛から早く脱するべきです」と題したお話をしました(2015年10月)その一部を再掲しますと、

・・・・「歎異抄」に関する本は、今でも五木寛之さんや、梅原猛さん、ひろさちやさん、山折哲雄さんなどにより、次々に出版されており、その人気の高さがしのばれます。しかし筆者は、「日本人は早く歎異抄の呪縛から逃れるべきだ」と考えています。今言いましたように、「歎異抄」は、著者唯円が師親鸞の教えを、不肖の弟子たちが勝手に解釈し始めたのを「歎(なげ)いた」ものです。すなわち、
◎わざわざ十以上の国を超え、はるばる京の親鸞のもとに尋ねて来て、「念仏の他に浄土に往生する道があるのか」と尋ねる弟子、◎「すべての人が救われると言うのなら、何をしても許される」という「本願誇り」の弟子、◎文字の一つも知らずに念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議な働きを信じて念仏しているのか、それとも、(南無阿弥陀仏の)名号の不可思議な働き信じて念仏しているのか」と言って相手を脅かす弟子、◎弟子の取り合いをする者など、およそ親鸞の教えとはかけ離れた、自分勝手な拡大解釈をしている者たちを諭した「親鸞のお言葉」に過ぎないのです。
 さらに重要なことは、日本人は、よく知られた「◎善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスに「しびれ」ているにすぎないのです。「歎異抄」の第二条には、・・・自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願の働きを信じる心が欠けている(自力になる:筆者)。だから阿弥陀仏の本願(他力)に叶っていない」との親鸞の言葉の真意が明記されています。パラドックスでも何でもないのです。このように、「歎異抄」には、親鸞の教えを勝手に解釈している()、出来の悪い弟子達を嘆く親鸞の言葉が書かれているだけであり、何ら新しい教えなど書かれてはいないのです。

 法然の天才性は、大衆に向かって「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説いたところにあるのです。比叡山第一の学生(がくしょう)と言われたほど、旧来の仏教書を読み解いていた法然が「南無阿弥陀仏」という言葉の重要さを見抜いた上での名号なのです。文字も書けず、教えを聞く機会もない当時の苦しむ民衆にたいする教えとしてこれ以上のものはないでしょう。親鸞のすばらしさは、彼自身も法然に劣らないほどの比叡山のすぐれた学生(がくしょう)であったにもかかわらず、ひたすら法然を信じたことにあります。「歎異抄」にも、

・・・(私は「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」という思想に傾倒しており、たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候(たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞には何の後悔もないのだ)・・・。

と言っているのです。
 いかがでしょうか。これが「歎異抄」の実体なのです。上でお話した多くの仏教解説者が言う「歎異抄の特別なありがたさ」などないのです。そんなものを読むより、ただ、心から「南無阿弥陀仏」と唱えることの方が、よほど法然や親鸞の教えを正しく受け取っていることになるのです。「日本人は早く『歎異抄』の呪縛から脱してください」と筆者が言っているのはこのことなのです。