(以下、主な情報は、毎日新聞7月24日朝刊の記事から引用しました)
筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っていた51歳の女性Aさんが安楽死を選び、かかわった医師二人は嘱託殺人の疑いで逮捕されました。24時間続く激痛、最後は呼吸筋も弱って人工呼吸器を付け、栄養補給も胃に開けた管からされます。Aさんは障害福祉サービス「重度訪問介護」を利用して、一人で暮らしていました。SNSで「体は目だけしか動かず、話すことも食べることもできず、呼吸苦と戦い、寝たきりで窒息する日を待つだけの病人にとって、安楽死は心の安堵と今日生きる規模を与えてくれます」「こんな身体で生きている意味はないと思っています。日々の精神・身体的苦痛を考えると窒息死を待つだけナンセンスです。これ以上の苦痛を待つ前に終わらせてしまいたい」「操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」「主治医に栄養を減らして身体を弱らせるようと相談したが自殺ほう助罪に当たるとして断られた」 と。
以前、このブログで紹介したKさんは、多系統萎縮症という、同じように24時間激痛を伴う病気に罹り、スイスで安楽死を受け入れた人です。Kさんも51歳でした。
昨年の参院選でれいわ新撰組から当選した舩越靖彦議員(ALS患者)がコメントを発表し、「患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知った」、『苦しみながら生かされているのは本当につらい』などの反応が出ていることについて、「こうした考え方が難病患者や重度障碍者に『生きたい』と言いにくくさせる社会的圧力が形成していく」「どんなに障害が重くても、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命」と言っています。毎日新聞の論説では「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」と。一方、生命倫理政策研究会共同代表の橳島(ぬでしま)次郎さんは、「日本でも命の終結につながる行為をどこまで認めてよいか、きちんと議論すべきだ」と言っています。
安楽死は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダで合法化されています。フランスでは安楽死は認めていないが、延命治療中止は認めています。日本も概ねそうです。
わが国の判例では、(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛を除去、緩和する方法が他にない(4)患者の明らかな意思表示がある-の4要件が示されています。Aさんは(2)だけが該当しません。
前述のKさんは、進行した同じ病名の患者の専門施設を訪れ、「ただ生きているだけの植物状態になった人たちを目の当たりにし、安楽死を決断した」と言っていました。とても誇り高い人で、「おむつまでされて生きたくない」と、姉二人とスイスへ渡り、安楽死を選びました。「生きたいという権利と同様に、死にたいという権利も主張したい」と言うのです。その通りでしょう。わが国の法律により遺骨は持ち帰ることができず、スイスの川に流しました。姉たちは、あの選択が正しかったかどうか、今でも悩んでいます。しかし、たとえ安楽死を中止して帰国しても必ず何度目かの自死を試みたと思います。Aさんもスイス行きを考えたそうですが、付き添いの人も「ほう助罪」に問われるとかであきらめたと。Kさんの姉たちには「ほう助罪」は問われませんでした。
たしかに安楽死を認めている上記の国々では、それ以前に大がかりな国民的議論がなされたようです。しかし、日本は、その種の国民的議論など到底できないと筆者は考えています。欧米諸国には国民による議論の歴史が日本とはくらべものにならないほど長いのです。橳島(ぬでしま)次郎さんの言うような「きちんとした議論」などできるはずがありません。マスコミが煽り、テレビのワイドショウで「専門家」たちがさまざまに言い、司会者や常連のゲストが言いたい放題で終始するのは、今のコロナ騒動を見ればよくわかります。
第一、人の命に関わるこのような重要な問題は、患者自身とその家族だけしか発言する資格はないはずです。専門医の信念などで判断することではありません。舩越靖彦議員の言う「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」は、患者や家族の決定とはまったく別の問題なのです。
ALS治療法に関する研究はまだ始まったばかりです。神経化学の研究をしていましたから現状を見て、3年や5年で実用化されるはずがないと思っています。しかし、患者は今、ひどい苦しみの真っ只中にいるのです。治療法の希望の灯が見えてきた将来の話ではないのです。将来のことは将来議論し直せばいいのです。
SNSで知り合っただけの医師二人が、主治医でもないのにAさん宅を訪れて薬剤を投与したことについては筆者にも抵抗があります。Kさんは自分で薬物チューブを開けました。Aさんはどうしたのでしょう。しかし、主治医が反対しているのにどうして相談できるか。やはり、筆者はこの二人がやったことを支持します。100万円以上の報酬を得たそうですが、報酬が伴わなければ、逆に医療活動とは言えなくなるのです。
これまでわが国では罪に問われたケースが5件ありました。2件の有罪判決を除き、最近ではほぼ不起訴処分になっています。ことに裁判員制度で裁かれることが多くなったからで、やはり、専門の裁判官より、人の心をより多く斟酌するようになったのでしょう。
神の言葉:人間にとってこの世に生きる意味は、魂の成長のためだ。それができなくなったら私のところへ帰ってきなさい。呼吸もできず、ものを食べることもできなくなり、植物人間になってどうして魂の成長ができるでしょう。家族の「生きていてくれ」という気持ちはよく理解できます。しかし、Kさんが言ったように、生きる権利と死ぬ権利は患者自身のものであるべきです。「(植物人間になっても)生きていてくれ」という家族の想いはわかりますが、患者の権利を奪うこともになるのです。
追記:その後の報道で、医師はAさんの胃の管から麻酔薬を投与したことがわかりました。Kさんのケースと同じです。苦痛はなかったはずです。