読者のお一人から、「あなた(筆者)の考えには共感するところが多いが、神や霊魂に関する部分については肯いかねません」とのメールをいただきました。筆者が体験した霊については、これまで何度も書きました。そこで今回は禅思想における神(仏)の意義についてお話します。
典型的な自力本願の禅と、仏(神)に対して絶対の信頼を寄せる他力本願思想とは正反対だと思われています。しかしそれは誤解です。あの道元禅師は主著「正法眼蔵・生死巻き」で、
・・・(生死は)厭うことなかれ、願うことなかれ。この生死は、すなはち佛の御いのち(命)なり、これを厭い捨てんとすれば、すなはち 佛の御いのちを失なわんとするなり。これにとどまりて、生死に執著すれば、これも佛の命を失うなり。佛のありさまを留どむるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて、佛の心にいる。ただし心をもて測ることなかれ、言葉をもて言うことなか れ。ただわが身をも心をも、放ち忘れて、佛の家に投げ入れて、佛の方より行われて、これに従いもてゆくとき力をも入れず、心をも費やさずして、生死 を離れ佛となる。誰の人か、心に滞るべき(正法眼蔵 生死巻(別巻5)・・・
「生き死にのことは神仏におまかせしよう」と言っているのですね。考えるまでもありませんね。あらゆる宗教の根本は神(仏)です。
ちなみに、有名な言葉「一切衆生、悉有仏性」を、ほとんどの人が「誰もが仏心(仏性)を持っている(だから誰でも悟ることができる)」と説いています。しかし、以前のブログでお話したように、道元の解釈は異なります。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」には、
・・・すなはち悉有は仏性なり・・・
とあります。つまり、この世のあらゆるもの、山も川も人間も植物も、すべての存在は仏(神)の真理の表われである、と言っているのです。それは他の箇所で、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれていることから明らかです。やはり神仏を思想の根底にしているのです。
なお、「生死巻」は次のように続きます。
・・・仏となるに、いとやすき道あり、もろもろの悪を作らず、生死に著(執着:筆者)する心なく、一切衆生のために、哀れみ深くして、上を敬い下を哀れみ、よろずを厭う心なく、願う心なくて、心に思うことなく、憂うることなき、これを仏と名付く・・・
「正法眼蔵」は難解な書物として知られていますが、道元の思想は、じつはこんなにわかりやすいのです。
禅と仏(神)(その2)
臨済宗の宗祖・臨済義玄(?-867)の「臨済録」には、有名な公案
赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す
があります。「臨済宗・黄檗宗公式サイト(臨黄ネット)」では西村惠信「禅語に学ぶ生き方、死に方)を引用して、
・・・臨済禅師が弟子たちに向かって、「われわれのこの身体(赤肉団)の中に、一人の形の限定できない真実の〝人(にん)がいる。〝彼〟は、朝から晩まで五官を通して出たり入ったりしている。そいつをまだ見たことがない者は、見よ、見よ」と言われた。これこそ禅者が求めるべき、「真実の自己」なのだ・・・。
臨黄ネットHPの担当者は・・・頬を抓(つね)ってみると、確かに他人ではない個体としての「自分」がある。しかしこれはもともと母の胎内から生まれ出たもので、やがて死ぬと棺桶に入れられる「肉の固まり」に過ぎない。しかし「私は」という自我意識が、その事実を見失わせる。
木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている。木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている・・・意識は鳥の声とか、花の色というような外界のものが、感覚器官に入ってくる瞬間に起こるものであるから、もし何にも入ってこなかったら自我の自覚もないであろう。こうして「自己」というものの内容は、肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって成り立っているのである。
道元禅師はこのことを「本来の面目」(真実の自己)と題した歌で、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と歌っているのである・・・
と言っています。
筆者のコメント:いかがでしょうか。じつは、これでは「意識」と「感覚」と「真実の自己」がごっちゃになっていますね。それぞれ意味がまったく異なります。それが重要なのです。
臨黄ネットではもう一つの解釈、
山田無文の「無文全集 第五巻 臨済録」(禅文化研究所)引用して、
・・・赤肉団上に一無位の真人あり、肉団はお互いの肉体のことだ。無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。皆の体の中に一人一人、無位の真人という、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性がある・・・常に汝等諸人の面門より出入す・・・
その主人公が、その主体性が皆の面門より、五感を通して出たり入ったりしておる。外へ飛び出して、きれいな花となって咲きもするし、美しい鳥となってさえずりもする。虫が鳴けば虫の中に真人がおる。山を見れば山が真人だ。川を見れば川が真人だ。全宇宙、お互いの感覚の届くところはどこへでも行く。主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人がはたらくのである。こういう立派な真人が、仏が、皆の体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ・・・この無位の真人を見ていくのが禅というものじゃ。
これについて臨済宗黄檗宗公式HPの担当者は、
・・・無文老師が説かれたように、私達には生まれながらに「一無位の真人」という主体性が備わっています。その仏の心を自ら発見するのが臨済禅の根本です。それは、その時その場で精一杯生きる己の「こころに向き合う」ということです。
・・・と解説しています。
筆者のコメント:一体これはどういう意味でしょうか。「一無位の真人という主体性」という抽象概念でしょうか。「こころに向き合う」という行動でしょうか。いずれにしても臨済宗や黄檗宗は、まさに臨済の思想を継ぐ宗派でしょう。しかるに臨済の思想の要諦であるこの公案についての公式見解がこのようにバラバラで、しかしハッキリしないではどうしようもありませんね。それにしても坊主は歳を取るとどうして「・・・じゃ」などと言うのでしょうか。
筆者はこれらとはまったく異なる解釈をしています。それを次回お話します。
禅と仏(神)(その3)
まず、これから筆者がお話しする言葉の定義をします。「感覚」とは、眼や耳、鼻などのいわゆる感覚器官から入って来た情報の認識を指します。たとえば「リーンリーン」という音がする」という神経作用です。ただし、そこには「あっ鈴の音だ」という「判断」は入っていません。次に「心」です。心=人間の意識とします。一方「魂」は「その人の本体、その人そのもの」を指します。注意していただきたいのは、魂は死後の姿、すなわち霊魂とは、必ずしも一致しません。
「本当の我」は神に通じる
筆者は、臨済禅師の言う一無位の真人とは、本当の我(本当の自己)のことだと思います。
重要なことは「本当の我」は神に通じているということです。神の一部と言ってもいいと思います。この考えは基本的にはインドに古くからあるヴェーダ信仰(のちにヒンズー教となり、現在に続いています)。理論体系としてはウパニシャッド哲学と呼ばれます。この思想の要諦では、人間の本体を「個我(アートマン)と呼び、神をブラフマンと呼びます。そして信仰の究極の目標は、アートマンとブラフマンとの一体化にあります。「個我」は魂の事であり、筆者が言う「本当の我」です。「魂(本当の我)」は人間が生まれる前から持っており、この世にあるときはもちろん、死後も消えません。つまり肉体が生まれ変わり(輪廻転生)しても消えることはありません。「本当の我」を「本来の自己」と表現する人もいます。
くりかえしお話しているように、釈迦仏教は、ヴェーダ信仰のアンチテーゼとして生まれたものですから、初めから固定的な「個我」とか、輪廻転生いうものは考えません。では「神」についてはどうでしょうか。これまでの仏教哲学では必然的に「神」というものは認めません。ただし、釈迦は「そんなよくわからないことについては考えるな」と言っただけです。しかし、釈迦など究極の悟りに達した人が仏(神)を体験しなかったはずがありません。
臨済禅師も瞑想が進むうちに一無位の真人、つまり本当の我、そして神の存在を実感したのでしょう。
何度もお話しているように、筆者は神の存在を実感しています。筆者の研究グループが明らかにしたあるタンパク質の遺伝子構造を眺めている時、パッと「生命は神が造られた」と直感したのです。