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玄侑宗久さん 般若心経(1-3)

1)「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)より、

 まず、前回お話したように、般若心経のハイライトは色即是空・空即是色だと思いますから、この語句の解釈について玄侑さんの論説に関する筆者の感想を述べます。結論から言いますと、玄侑さんも、新井満さんや、村上一照さん、ひろさちやさんとまったく同様に、「空(くう)」を縁起と無常の原理(?)で解釈しています。つまり、これまでの仏教解説者とまったく同じなのです。

 まず、玄侑さんはのっけから・・・仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体性(自性)をもたず、無限の関係性の中で絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということだ・・・と言っています(p39)。玄侑さんはこの基本的考えに基づいて「空」を、つまり「色即是空 空即是色」を解釈しようとしているのです。つまり、・・・「色」というのは、(人間でいえば)六境(色、声、味、触、法などの外界:筆者)と六根(眼、鼻、耳、舌、身、意などの感覚器:筆者)が出逢い、感覚器と脳とで把握した現象のことです。人間に見えている物(ここで玄侑さんは花瓶を例としています)の姿だけが物体の実相なんて言えない。たとえば犬やハチや鳩は感覚器がまったく違うわけですから、花瓶はまったく別の姿を見せるはず。人間に見える「色」(花瓶)も犬やハチや鳩やモンシロチョウに感じられる「色」(花瓶)もいずれも「空」という実相に依存しています。すなわち「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれの感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作るのです(p45-50)・・・とも言っています。

 すなわち、筆者が言う「空」と全く違う解釈なのです。読者の皆さんの中には、「どちらが正しいのかわからない」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、玄侑さんや新井満さん、藤田一照さんたちの考えでは肝心なことが解釈できないのです。論点は三つあります。

 第一に、モノは間違いなく実在します。それは、筆者がよく言う「花瓶で玄侑さんや藤田さんの頭をコツンとたたいてみれば実感できるはず」。物事が「縁起」の産物やであろうとなかろうと、「無常」であろうとなかろうと、それらの理論では説明できない現実なのです。

第二は、空不異色の解釈です。それはけっして色不異空の単なる対語ではありません。重要な意味があるのです。藤田さんは「まあ、あまり細かいことは言わずに・・・」と逃げました。玄侑さんは、空不異色とは、

 ・・・(あらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器やその場の時空間に限定され、つねに特定の「色」として現れるしかない)だから「色」を実体視することは問題ですが、同時に虚無的に見ることもない・・・とか、・・・「色」は常に実相そのものではありませんが、とにかく実相はいつも「縁起」して特定の「色」として顕現する・・・とか・・・(それでも、本質が「空」であるからこそ、物事は変化して関係を持ちうる)だからこそ「縁起」の中で「色」として発現できる・・・とか、「空」であるが故に「縁起」し、あらゆることが現象してくるということです(p153)・・・それが空即是色です・・・と言っています。

 筆者のコメント:ここで玄侑さんの論調は急にトーンダウンしてしまいましたね。自信が無くなったのでしょう。・・・ 本質が「空」であるからこそ、物事は変化して関係を持ちうる)だからこそ「縁起」の中で「色」として発現できる・・・とはどういう意味でしょうか。

第三は、「即」です。「色是空」のですね。「色不異空」とは重みが違うのです。「即」は「すなわち」ではなく、即座の「即」です。そこには禅独特の重要な意味があるのです。玄侑さんも藤田さんもそこを理解していないので、ことさら取り上げなかったのでしょう。

2)前記のように玄侑さんは、・・・人間に見える「色」(ここでは花瓶)も、感覚器が異なる犬やハチや鳩やモンシロチョウに感じられる「色」(花瓶)も、いずれも「空」という実相に依存している(太字は筆者)。すなわち「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれ(動物)の感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作る・・・本質が「空」であるからこそ物事(モノゴト)は変化し関係を持ちうる。だからこそ「縁起」のなかで「色」として発現できる・・・と言っています。

筆者のコメント:つまり、玄侑さんの言う「実相」とか「本質」とは、属性(性質)のことでしょう。ではそういう属性を持った本体があるはずですね。たとえ人間や犬やハチや鳩やモンシロチョウが「色」として感じているモノ(花瓶)がそれぞれの動物の感覚器の違いにより、特有の「色」として感じられたとしても、当然、それらには共通する元の本体があるはず。花瓶は茶碗や水差しとは違いますから。つまり、「色」のさらに本体があるはずです。ではそれらも縁起の法則に従っているのでしょうか?・・・これでおわかりですね。どこまで行っても止まらないのです。つまり、玄侑さんの論説には原理的矛盾があるのです。筆者の「空」の解釈によればそういう矛盾は一切生じません。

筆者のコメント(続き): 玄侑さんの「色即是空・空即是色」についての解釈がよく出ている言葉があります。すなわち、・・・般若心経は「色即是空」で充分だ。我々の眼に見える現象というのは空だと思えばいい。わざわざ「空即是色」とつけたということは、(空が)わかっただけでは救われないという主張がはっきりあるからだ(註3)・・・と続きます(「般若心経で救われるか」里文出版p187)。とんでもないことです。上記のように、玄侑さんは・・・「空」とは現象、つまり「色」の属性と考え、その属性の内容は「縁起」と「無常」だ(それゆえ「モノゴトの実体はない)・・・と言っています。しかしそれでは、わざわざ「色即是空」と「空」と「色」とを対比する必要もないではありませんか。たとえ縁起の産物であり、無常であろうとも、「色」は間違いなく実体です。そもそも玄侑さんが・・・「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ(太線筆者)、それぞれ(動物)の感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作る・・・と言っているのは間違いだと思います。正しくは「色」の属性が「空」だでしょう。「空」も実体、「色」も実体なのです。ただ、真の実体こそ「空」である。それが色即是空・空即是色の真の意味だと筆者は考えます。

註3 玄侑さんの言う「(空が)わかっただけでは救われない」とは、「(般若波羅蜜という)修行の実践だ」です。

超因果

 しかも玄侑さんはその一方で、「超因果(因果の法則に従わない)現象もある」と言っています。例として挙げているのは、・・・生物の発生のある時期に、特定の器官の発生を促す物質を分泌する器官(形成体)があることが確かめられた。アヒルにはアヒルの足を誘導する形成体があるため、たとえばそれをある時期に妙な場所に移植してやると、妙な場所から足が生えてくる・・・今度はニワトリにアヒルの形成体を埋め込んでみると、確かに足は生えたのですが、それはニワトリの足だった・・・少なくとも因果律的には、アヒルの足が生えてくる「原因」はまだ網羅されていない・・・「いのち」は常に超因果を含んだ現象だ(「現代語訳 般若心経」ちくま新書p119)・・・と言っています。それはないでしょう!玄侑さんは当書で一貫して「空=縁起(因果)」であるとした確固とした信念のもとに解説しているではないですか(註4)なのに超因果現象があるとは!

註4 じつは玄侑さんは発生学や遺伝学の基礎的知識がないままに、誤って借用してこの論理を展開しているのです。アヒルの形成体とニワトリの形成体は働きが共通していただけで、遺伝子は異なるのです。「瓜の蔓には茄子は成らぬ」のは当然なのです。

3)玄侑さんが「現代語訳 般若心経」で、なぜあんなに「空(くう)=縁起・無常」と繰り返し言っているのか、少し不思議な気がしましたが、「般若心経で救われるか」玄侑宗久、太田保世、荒 了寛(里文出版)を読んで「アッ」と疑問が氷解しました。玄侑さんはその中で・・・「空」についてはむしろ龍樹を読んだ方が読んだ方がよくわかるし、より緻密に論述されている(p109)・・・「般若心経」では「空」を説くことは主題ではありません。「空」というのは論理的な把握はできないし、言葉で表現することもできない。実践が肝要である(註3)・・・と言っているからす。

 龍樹の「空」理論と禅の「空」理論は違うのです。それについては以前、このブログシリーズでお話しました。たしかに龍樹は「空」思想を大成した人だと言われています。ということは、それまで「空」の解釈については、さまざまな解釈があったということですね。しかし、龍樹は、たんに一つの有力な考えを提唱したに過ぎないと思います。そのカギとしたのが「縁起」の法則だったのです。しかも、筆者がこのブログシリーズで何度もお話したように、「縁起」の解釈は、釈尊の元々の考えを拡大したものだと思います。

 さらに、龍樹は紀元3世紀頃の人(AD150-250頃)、鳩摩羅什が「般若心経」を漢訳したのはAD400年頃、つまり、龍樹の時代から200年も後のことで、漢語「色即是空・空即是色」が案出せられたのです。つまり、龍樹の解釈と違っても少しもおかしくありません。そして達磨大師が中国に来て禅思想を伝えたのが6世紀初頭、禅思想が発展し、隆盛を極めたのが7世紀から10世紀の唐の時代です(禅の大成者六祖慧能:えのうは、638 – 713)。つまり、龍樹の500年も後の人です。唐時代に優れた禅師たちが輩出し、禅の理論と実践が積み重ねられ、「空」思想の解釈が確立して行ったのだと筆者は考えています。

 いかがでしょうか、こういう歴史的な視点を持つことが仏教の解釈には不可欠のことだと、筆者が言うのはこのことです。玄侑さんや、藤田一照さん、松原泰道さんを初め、近・現代の禅師たちはこういう視点を持たずに解釈しているのではないかと思います。要するに玄侑さんたちは「空」の思想をよく理解できないのでしょう。

筆者のコメント:玄侑さんが・・・「空」についてはむしろ龍樹を読んだ方がよくわかる・・・と言っているのは、結局、自信が無いからでしょう。 しかし、なにか釈然としないので、

・・・「空」は主題ではない。「空」というのは論理的な把握はできないし、言葉で表現することもできない。実践(般若波羅蜜)が肝要である(註3)・・・とわざわざ理屈付けをしています。しかし、仏教では教えと実践は共に不可欠です。これを教行一如と言います。「空」の意味もわからず実践だけしていてどうするのでしょう。

 筆者は龍樹の解釈とはまったく異なる「空」の解釈を皆さんにお話しているのです。玄侑宗久さんは臨済宗、藤田一照さんは曹洞宗の僧侶です。おそらく宗派と言う閉鎖的社会にあるため、師から弟子へ、弟子から孫弟子へ・・・と、「空」=縁起の考えが伝わったのでしょう。これが出家してある宗派の僧侶になることの、大きな弊害だと思うのです。

註3 玄侑さんの言う「実践」とは、無意識のうちに経典を読誦すること(五蘊ごうんの「色受想行識」のうち、色(声)を「受」(耳という感覚器官で感じた)までで止め、「想(「アッお経を読んでいる声だ」の判断まで行かない状態)と、「ガーテイガーテイ・・・」の真言を翻訳せずに音読することとしています。なお、玄侑さんはこの真言部分を現代語訳したことについて中村 元先生を批判していますが、そんなことはわかりきったことです。

補注:筆者のこれらのブログを引用する場合は必ず出所を明示してください。

脳科学は宗教を解明できるか 藤田一照さんによる批判

(1)研究の概要

「脳科学は宗教を解明できるか」 芦名定道・杉岡良彦・藤田一照ら(春秋社)

まず、当書のタイトル「脳科学は宗教を解明できるか」について、少し問題があると思います。内容からから言って「脳科学は宗教体験を解明できるか」の方が適当でしょう。そのわけは、後述する、これらの研究に対する藤田一照さんによる批判とも関連があるからです。

 ここで問題にされている宗教体験には見神体験(神や宇宙との一体感を感じたり、神や高級霊や低級霊の姿を見たり、声を聴いたり、感じたりする体験)や幽体離脱体験、瞑想状態などです。つまり、「脳科学は宗教を解明できるか」とは、「霊的体験を神経科学の言葉で理解できるか」という意味なのです。近年、脳科学の研究法は急速に発達し、MRI法、SPECK法、PET法などが実用化されています。それらの方法を一言で言いますと、脳の構造を見たり、特定部位の働きを見たりする方法です。ふつう、それによって、てんかんや統合失調症など、さまざまな脳の病気の診断をします。それらの技術が宗教体験についても応用され、研究が始まっているのです。

神秘体験と脳画像

 ポール・ガール(「カルメル会の修道女の研究」2006、出典については当書を御参照下さい:筆者)らは、15名のカルメル会の修道女(23歳-64歳)を対象とし、以下の三つの課題の際に生じる脳内の活動をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて測定しました。すなわち、

1)目を閉じて、かって人生の中で最も強力に感じた神秘体験を思い出し、追体験する。2)目を閉じて、かって人生の中で最も強力に感じた他者との一体感を思い出し、追体験する。3)目を閉じる。

その結果、1)と2)の課題遂行時の比較では脳の6か所の領域に有意な活性化が見られた。具体的には、右内側眼窩前頭皮質の活性化は、楽しいという感情に関り、尾状核の活性化は喜びや無条件の愛に関わり、脳幹の活性化はオーガズム状態とも関り。自己の空間知覚に関わる上頭頂小葉の活性化は、自分より偉大な何かに自分が吸収されるという体験と関わることなどが示唆された(ここで問題は、脳の状態を測定しているのは神秘体験をしているその時ではないことです。著者もそれは認識しています)。

 当書で紹介されている事例の他にも、

2)ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ(サム・パーニア「科学は臨死体験をどこまで説明できるか」三交社)は、深い瞑想状態祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化(PET画像などによってでしょう:筆者)を研究した。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、(脳の)上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていた。また瞑想者のメラトニンやセロトニン(神経伝達物質)濃度は上昇し、コルチゾールやアドレニン(ホルモン)濃度は低下していた。前者2つのホルモンはリラックス時には上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理に適っているとした(以上、カッコ内は筆者の説明)。

瞑想と脳波

 一方、平井富雄(東大医学部1955 註1)らが、修行年数20年以上になる曹洞宗の僧侶14名を対象に、座禅瞑想をしている時にどういう脳波が出るかを調べた。その結果、一般人が日常生活を送っている時出るのはいわゆるβ波で、目を閉じて平静な状態で出てくるのがα波とされている。α波が出ている時、人は心身ともにリラックスした状態にある。それよりも遅いのがθ波で、中程度の睡眠の時に現れる。平井らの実験によると僧侶らが座禅をしている時数分でα波が出てきて、時間がたつにつれて、なかにはθ波が出てくる僧侶もいた。一方、座禅をやったことのない人に同じように座禅をやらせてもβ波が出るだけであった。

註1 筆者が読んだのは、「自己催眠術 劣等感からの解放・6つの方法」(光文社カッパブックス文庫)ではなかったかと思います。とても感動しました。それ以来、α波は創造性と深い関係にあるとされ、脳波簡易測定装置や、「α波を出す機械」が市販されたりしました。


脳科学は宗教を解明できるか(2)藤田一照さんによる批判

 藤田一照さんは共著者の一人ですが、このような研究に対して、・・・私はこの主題に関連する「学者」ではなく、一介の座禅修行者である・・・と断りつつも、かなり厳しい批判をしています(芦名定道・杉岡良彦・藤田一照ら 春秋社)。すなわち、

1)特殊な「宗教体験」をもって宗教を代表させるかのような主張がなされていること。そのような立場は宗教についてのきわめて偏頗な理解というべきである。

2)脳科学によって宗教が科学的に解明できるというという主張は脳科学の分限を逸脱したな妄想と言うべきである。

 では藤田さんの考える宗教とはなにか?藤田さんが依拠している仏教思想は、大乗仏教の虚妄分別(こもうふんべつ)論です。虚妄分別論とは、人間の営みは基本的に能執(主観)と所執(客観)の二元的な対立の上に展開しているという考えです。つまり、人間が生きていくということは、他人やモノに対する執着の過程だということでしょう。

 つまり藤田さんは(藤田さんの論調は少し複雑のように思われますので、筆者の責任において切り貼りをしました)、

 ・・・これまでの宗教科学が対象としてきた、見神体験(神を見たとか神の声を聴いたなどの体験)や悟りの体験によって真の宗教を把握することは原理的に不可能だ。仏教について言えば、仏法における真実は決してわれわれが直接に経験し得るものではない。経験成立以前の、しかも経験そのものを成り立たせているものだ・・・禅は悟りを得ることを目指すものと一般的に理解されているが、じつはそのような人間によって指向されるような悟りの体験とは、個人が勝手にそう思っているだけの虚妄分別の枠内の体験でしかない・・・脳科学が注目すべきものはもはや個人的「体験」と「脳」ではなない(「世界や身体をも巻き込んだ」の意味は後述します:筆者)・・・と言っています。

筆者のコメント:まず、藤田さんの言う「行為」とは何のことか?あまりに漠然としていますね。藤田さん自身が「浅学菲才の身である私にはわからない」と言っています。これだけ激しく批判をしておいて、自分でもわからないことは言わないでほしいです。「人間が目指す悟りなど利己主義、我執の延長でしかない」とも言っていますが、第一、藤田さんの言う「悟り」の定義がわかりません。それでは「行為」との差も考えようもないではありませんか。まず定義をはっきりさせるのが議論のイロハです。

 さらに、藤田さんの論説には重大な自己矛盾があります。まず、藤田さんは「悟りを求めることなど虚妄分別論で言う二元対立行為だと言っています。そして、「特殊な体験とは何ものも求めることなく、身心を挙げて環境と一体になって行じられる無所得無所悟に正身端座する座禅こそ正しい修行だ・・・と言っていますが、それも「何かを求めて修行する」虚妄分別行為のはずです。

 藤田さんはさらに、・・・脳科学の拠って立つ基盤そのものが抱える問題がある・・・と批判しています。すなわち、脳は脳だけで単独に存在し、機能しているのではなく、身体全体と密接につながり交流していなければならない。さらに身体が身体として生きて働くためには世界と密接につながり交流していなければならない・・・曹洞禅のキーワードの一つである「尽十方界真実人体(註2)」はまさにこの事実を指している・・・とすれば脳を身体から、世界から離してあたかも単独で特権的に働いているもののように取り扱っている脳科学は根本的にダメなのだ・・・と言っています。これが前述の、・・・脳科学が注目すべきものはもはや個人的「体験」と「脳」ではななく、世界や身体をも巻き込んだ「行為」でなければならない・・・の意味するところです。

 しかし、これはまったく見当はずれの論難です。宗教体験研究は始まったばかりなのです。MRIやPETなどの新しい医科学の技術を使って初めて見神体験や瞑想を科学的に研究する端緒をつかんだことが尊いのです。藤田さんのようなことを言えば、現在急速に進歩をしている医科学や宇宙物理学も、初期の頃の研究はきわめて素朴なものだったのです。批判などいくらでもできたでしょう。藤田さんが自然科学について疎いのは教育学部出身だから、などというエクスキューズは通じません。藤田さんはいやしくも曹洞宗国際研究所長、つまり日本の禅を海外に紹介する重要な役です。道元が泣くでしょう

 藤田さんは「おわりに」で・・・以上「宗教体験」に対する若干の批判と「脳科学的アプローチ」に対する若干の批判を一座禅修行者の立場から試みた・・・と言っています。まったく「これだけ徹底的に批判しておいてよく言うよ」ですね。

註2「尽十方界真実人体」の真の意味は、「このわれわれが生きる世界の姿や働きすべてが真実人体(仏の姿の顕現)だ」です。藤田さんは誤解しています。

なぜ「空」は誤解されてきたか

 前回お話したように、ほとんどの人が、空(くう)を解釈するために、縁起の法則と無常の法則を使っています。しかしそれは誤りだと思います。

なぜ空(くう)思想は誤解されてきたか

 縁起の法則とは、もともと釈尊が、「すべての苦しみには原因があり、それを突き止め、取り除かなければ苦しみは消えない」という意味でおっしゃったのだと思います。実際に苦しんでいる人たちを救うための知恵ですね。釈尊は大衆に高邁な哲学を説いたのではなく、苦しみから逃れ、心の安寧に至るための生活の知恵を説かれたのだと思います。じつは、筆者の体験を通してもわかりますが、どんな苦しみでも、さまざまな要素が絡み合って、原因がよくわからないことが多いものなのです。それを釈尊は「落ち着いて、苦しみの真の原因を突き止めることが大切だ」とおっしゃったのでしょう。

 それを後年、おそらくインドの仏教思想家たちがあれこれ考え、拡大解釈し、変質させていったのだと思われます。つまり、「すべての苦しみには原因がある」→「すべての現象(モノゴト)は原因があって生じる」→「あらゆるモノは、いろいろな他のモノと関係しあっている(華厳経の重々無尽の考えですね)」。それゆえ「(他のモノとの関係のない)モノはない」・・・そして結果的に「空(くう)」を「モノという実体はない」と解釈するようになった・・・。仏教思想はこんな風に変質していったのでしょう。

 もう一つが無常の法則です。もともと無常とは、「あらゆるものは変化する。一瞬たりとも同じ状態にはない」という、いわば当たり前のことを言っているのです。実際に釈尊がおっしゃったのかどうかわかりませんが、現在では仏教の中心思想の一つとされています。それが人生のはかなさ(無常-本来別の意味です)と結び付いて広まったのでしょう。それを後世の仏教思想家たちが、「だからモノには固定的な実体はない」、それが大飛躍して「モノはない」になったのでしょう。しかし、この考えが誤りであることは、モノというものはいくら変化しても「ある」ことは間違いないのです。筆者がよく言う「『モノはない』という坊さんの頭をコツンとたたいてやればいい。『痛いじゃないか。何するんだ』と言うでしょう。そしたら「あなたというモノもないのでしょう?」と言ってやれ」というのはこのことです。たしかにあらゆるモノは変化し続けています。しかしモノという実体は厳然として存在するのです。

 いかがでしょうか。「空(くう)思想」についての誤解は、こうして生まれたのだと思います。仏教を理解する上で大切なことは、それらの思想の歴史的変遷を読み解くことだと筆者は考えます。

ひろさちやさん 般若心経

 ひろさちや(増原良彦)さん(1936~東京大学文学部印度哲学科卒)広範な執筆・講演活動で仏教哲学の啓蒙家として知られていますね。「ひろさちやの般若心経88講」(新潮社)など著書多数。

般若心経」 ひろさちやさん訳:

 観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。

舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。存在がすなわち空で、

空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空でありますから、生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。

 そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界

といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、

そんなものはいっさいありません。また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった

煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。

そしてまた、分別もなければ悟りもありません。大乗仏教では、悟りを開いても、

その悟りにこだわらないからです。

 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、その心にはこだわりが

なく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、

妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。また、三世の諸仏は、

ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。

それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。真実にして虚妄ならざるものです。そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。すなわち、これが真言です。

「わかった、わかった、ほとけのこころ。

 すっかりわかった、ほとけのこころ。

 ほとけさま、ありがとう」

筆者のコメント:ひろさんは長年、仏教をわかりやすい言葉で解説している人とされ、よく知られていますね。しかし、この般若心経の解釈は、全文を通じて安易すぎると思います。まず、ひろさんは、「空」を実体のないものと理解されているようです。すなわち、

・・・存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。存在がすなわち空で、空がすなわち存在です・・・

が「色即是空 空即是色」の部分でしょう。しかし、そもそも肝心の「なぜ存在が空か」の説明すらありません。これではどうしようもないですね。さらに、仏教を大乗仏教と小乗仏教に分けることは、現在では心ある宗教者によって否定されています。その上、最後の真言の部分は、呪文であって原文を音読することに意味があり、ひろさんのように解釈するものではないことも、誰もが認めていることなのです。

 ひろさんの解釈は、「わかりやすく」というより、安易過ぎるように思われます。言うまでもなく、わかりやすいということは「どうでもいい」ということではありません。釈尊の直説が多く残っていると言われている原始仏教の経典、たとえば「スッタニパータ」はとてもわかりやすいのです。おそらく釈尊はわかりやすく、卑俗てなく、高尚な教えを説くことができた稀有の人なのでしょう。

藤田一照さん 般若心経

 藤田一照さん(1954-)は、東京大学教育学部大学院教育心理学専攻終了後、曹洞宗の厳しい修行道場である兵庫県美方郡安泰寺(註1)の渡部耕法師に就いて出家。福岡市明光僧堂似て修行。後に国際布教使に就任。マサチューセッツ州バレー禅堂で禅の指導を行う。現在曹洞宗国際センター所長(以上、Wikipediaより)。

 NHK「明日も晴れ・人生レシピ(写経)2020・1・10再放送」で、写経の題材としてよく使われている色即是空の意味として、

・・・仏教の教えの基本は縁起です。つまり、あらゆるものは縁によって成立している。すなわち相互に関係し合っており、常に変化している。それゆえ執着すべき不変のものなどない。何かに執着するから悩みや苦しみが生じる・・・。

とおっしゃっていました。

筆者のコメント:前回お話した、新井満さんの解釈と同じですね。つまり、従来のほとんどの人の解釈と同じです。おそらくいつの時代かの誰かによる解釈が伝わってきたのでしょう。まちがっているのですが・・・。

 そのあとアナウンサーが「では空即是色とはどういう意味でしょうか」と質問すると、

・・・とは簡単に言いますと、人間の肉体ということです。たしかに肉体という実体はありますが、いくらその人が若さを持続したいと考えても諸行無常で、老いは免れないのです・・・・まあ、細かいことは・・・と答えていました。

筆者のコメント:要するに藤田さんにもわからないのでしょう。色即是空・空即是色は、単なる語呂合わせの対句などであるはずがなく、重要な意味を持つのです。それにしても国際センター所長は、曹洞宗組織でも枢要な地位だと思いますが・・・。筆者の解釈については、筆者の前著「正・続 禅を正しく・わかりやすく」をお読みください。

「禅はわかったかわからないかの世界である」とはこのことだと思います。

註1よく知られた澤部興道、内山興正師も住職の経験がある著名な禅の修行道場です。修行僧自らが田畑を耕し、米や野菜を作るとういう完全な自給自足生活をしています。現在の住職はドイツ出身のネルケ無方師。

追記:「明日も晴れ・人生レシピ」でも紹介されていたように、今、日本の著名なIT産業でも社員の課外活動として写経が行われています。米国のGoogle社でも禅師を招いた講演会が行われていると聞きました。両社とも現代の最先端技術産業ですから驚きですね。いや、最先端技術産業だからこそ、従業員の心にやすらぎと潤いが必要なのでしょう。よくわかります。それにしても、以前お話した山川宗玄師(臨済宗)や、この藤田一照師(曹洞宗)の米国でも活動からわかるように、欧米で禅を知りたいという人が増えていることには驚かされます。それぞれの禅堂がかの地に作られているのです。