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意識はどこから来たのか(1,2)

1) 意識・・・たしかに不思議な現象ですね。その実体について現在二つの考え方があります。一つは、あくまで生物的な現象だとするものです。すなわち、脳の神経ネットワークが一定以上に発達すると意識が生ずるというものです。この考えは、次にお話する「意識は魂に由来する」という考えが進んできた現在でも根強いものがあるのです。そのこの考えの延長上に「AI(人工知能)は人間の知能に迫れるか」の問題があります。

 一方、「意識は魂に由来する」という考えは、「人間の意識は肉体の意識と魂の意識が重ね合わせたものだ」とするものです。肉体の意識とは、私たちの思考や感情、つまり、考えたり、泣いたり喜んだりする心の動きです。魂の意識とは、生まれる前からあり、死ねば肉体から離れ、一旦霊的世界に移ったのち、別の人間が生まれる時そこへ入る意識、つまり輪廻転生する意識です。何度もお話しましたが、人間では肉体の意識に「神につながる魂」が重ね合わさっています。そして両者は影響を及ぼし合っているのです。たとえば、肉体意識が悪感情を起こしたり、強い怒りを発すると魂を傷付けるのです。人間にはどんな状況でも決して言ってはいけないことがあるのはそのためです。逆に、魂は人間の意識に影響を与えます。芸術家や優れた作家が「パッ」と良い考えが浮かんだりするのは、神界への通路が開き、神の知恵が魂を通じて肉体の意識に流れ込んできたためだ、と筆者は考えています。しばしば、あるいは常に魂への扉が開いているのが天才というものでしょう。悟りもそういう状態だと思います。

 よく、私は「〇〇の生まれ変わりだ」という人がいます。生まれ変わりに関する研究に、米国ヴァージニア大学精神科のイアン・スチーブンソン教授による詳細な調査があります。米国ではそういう調査・研究も正式な科学として認められているのです。日本とは大きな差がありますね。スチーブンソン教授の調査研究はきわめて厳密であり、日本でやられている前世療法などとはまったく異なります。わが国でも「私の前世は○○だった」と言う子供は少なくありません。多くのケースでは2歳のころ突然、前世について語り始め、5-6歳になると、話したことさえ覚えていないようです。しかし、まったく不思議な現象ですから、母親が詳細な記録を残していました。前世が外国人であったり、わずか20年前の同じ日本人だったと言ったケースもあります。NHKテレビの番組でやっていた例では、あまりにも生々しい記憶なので、本人や親が実際に現地へ行って調べてみました。しかし、該当する場所や人は突き止められませんでした。おそらく他人の霊的意識が本人のそれと混線してしまったのだろうと思います(註1)。成長とともに自己の意識が確立して行くと、自然に他人の霊的意識は排除されてしまったのでしょう。このように、人間の意識の一部は死んでから再生する間に、他の人の意識と入り混じったり、一部は消えるはずです。前世の自分の意識と全く同じであるはずはありませんね。 以上、霊魂は現世の人間の意識の霊的部分そのものではないと思います。

 以上のことは筆者が知識として得たことで、本当のことはわかりません。ただ、霊魂が存在することは、たびたび筆者自身が霊障として実体験しています。これが筆者が、人間には肉体の意識の他に魂があると考える根拠です。

註1 性同一症候群、たとえば、体は男で意識は女という症状がありますね。本人にとってはとても苦しい状況です。男の霊魂がこの世に再生する時、まちがって女の体に入ってしまったのかもしれません。

2) AIは人間の脳に迫れるか

 今、AI(人工知能)技術は急速な進歩を遂げていますね。その最大の関心は「AIは人間の脳に近づけるか」でしょう。なにしろ限られた天才たちの世界だと考えられていた将棋や囲碁の世界に入り込み、名人たちを打ち負かしたのですから、大きなショックでした。

 では、AIは人間の意識に迫れるか・・・大きな問題ですね。「時間の問題だ」と言う人たちもいます。なにしろすでに「創作活動」も行っているのですから。レンブラントの作品群を詳細に調べ、彼の筆致や色遣いを突き止めた結果、「新しい」レンブラント作品を作ったり、AIが書いた小説が一次選考を通ったのです。さらに中国ではすでに、ユーザーが申込み、さまざまな個人情報-趣味や好き嫌い、価値観などをインプットすると、その人に合った仮想人間、例えば若い男には「素敵な女性」が設定され、いつでも個別に相手をしてくれるソフトの会社があるとか。アナウンサーが「あなたはその人と結婚したいですか」と尋ねると、半分本気で「そうです」と言っていました・・・。

 しかし、筆者は、「AIが人間の意識と同等になることは永遠にあり得ない」と思います。将棋や碁などはいわば数学のゲームですから、人間の知能の特定の一部に過ぎません。それゆえ、AIが人間の棋士を打ち負かしたのは不思議ではありません。以前、「AIが人間の棋士に勝つのはいつか」とのアンケートに対し、あの羽生さんだけが「平成15年」と正確に当てました。「そんなことは永遠にない」と言った人もいたのですから、羽生さんのすごさですね。

 筆者が逆に「AIは人間に永遠に勝てない」と考えるのは感性の部分です。美しいものを美しい、悲しい時は悲しい、うれしい時はうれしいと感じる心ですね。それこそ芸術活動や科学研究の創造性に関する脳の機能の根源です。親の子供に対する無条件の愛情もしかり。「私の命に代えてお救い下さい」と、AIは表現できても文字の上だけのことです。人間の愛情には、目の動きや言葉の響きなどが伴うのです。AIが絵を描いたり、文章を書いたりする「芸術活動(?)」も、「仮想の恋人」も所詮、似て非なるものでしょう。人間、いやすべての動物の親の子に対する愛情は本能であり、神の心なのです。意識は魂を通じて神につながっているのです。AIが人間の意識に迫ることなどありえないのです。

安楽死について(1,2)

その1)

 先日(2019/6/2)のNHK特集「彼女は安楽死を選んだ」は衝撃的でしたね。多系統萎縮症に罹り、Kさんという51歳の女性が自ら安楽死を選んだケースです。この病気は24時間強烈な痛みに襲われるという、原因も治療法もまだわかっていない神経難病です。ただ鎮痛薬だけで耐えているのです。とにかく、目の前で自ら安楽死薬の入った点滴のスイッチを入れ、死に至った瞬間まで放映されたのですから驚きです。病状は進み、最後には人工呼吸器を付け、胃ろう(胃に穴を開け、栄養を補給する)により延命する事態になります。番組では、安楽死を選んだKさんと、懊悩した二人のお姉さんとのやり取りを縦糸とし、同じ病気にに罹り、人工呼吸器と胃ろうを選んだSさんの選択を横糸としながらながらの、生々しい経過を追っていきました。sさんはすでに言葉も話せなくなり、唯一の「会話」は瞬きによる返事しかない状態でした。

 もちろん反響は大きく、即日、長尾和弘医師(長尾クリニック院長)がブログを発表し、このNHK報道自体を強く批判していました。なにしろ「視聴率さえ取れたらいいのか。テレビとはそんなものだ」という感情的な言葉で終わっているのですから。

 言うまでもなく、こういう問題はあくまでも患者自身と家族が判断されることで、医師や弁護士、宗教家を含めて、他人がその是非を口にすることではないでしょう。当番組を視聴されなかった人も多いでしょうし、「ザッ」と見ただけの人も少なくないと思います。そこで筆者が番組を記録したものに、霊的に診た感想だけを付け加えさせていただきたいと、予定を変更して今回のブログを書きました。

 Kさんはスイスで安楽死を実行しました。もちろん日本ではそれが認められていないからです。安楽死には2種類あります。一つは、致死薬の処方をする「積極的安楽死」と、延命治療を中止または差し控える「消極的安楽死」があります。日本では後者が行われ始めているだけです。Kさんの積極的安楽死を受け入れたスイスでは、何回かの国民投票を通じてこの制度を導入したとのことです。現在、スイスの他、アメリカ合衆国(9州)、オーストラリア、オランダ、カナダ、ルクセンブルグ、ベルギー、コロンビアなどがこの制度を導入しています。前述の長尾医師の「スイスだけを美化している」との発言が正しくないことがおわかりでしょう。

 番組を通して、Kさんはとても誇りが高く、知的な印象の人でした。ネットでのスイスの受け入れ団体とのやり取りも、現地での医師とのやり取りも、よどみのない英語でした。ソウル大学を出て、帰国後通訳をしていた、キャリアーウーマンでした。スイスの受け入れ団体からの「いま希望者が多いので」との返事に、「Urgent(早く)」と書き送った人です。「3か月後になったらスイスへ行く体力が残っているかどうか・・・」

 スイスの受け入れ団体の安楽死認定基準は、

1)耐え難い苦痛がある

2)明確な意思表示がある

3)回復の見込みがない

4)治療の代替手段がない

です。厳しいですね。Kさんは48歳で発症し、3年後にはここまで進行していたのです。

その2)

 Kさんは大変知的で、誇り高い印象の女性でした。もうおぼつかなくなった口で言った、「どういう死を迎えるかは、どう生きるかと同じです」の言葉が胸に響きました。Kさんが安楽死を選んだきっかけは、紹介されて同病の患者たちがケアを受けている施設を訪問したときだったようです。人工呼吸器をつけて・・・・。その実態を見て、二人のお姉さんに「天井を見ているだけの人生にどんな意味があるのか。おむつを替えてもらって、胃ろうをしてもらって・・・。お姉ちゃんたちも共倒れになることが目に見えている ・・・。」自分の尊厳を守るための選択だったのですね。

 スイスに着くと、受け入れ団体はKさんの意思と状態を2重にチェックしました。「あと2日考えてください。今なら帰国できます」と言うのです。Kさんの意思が変わることはありませんでした。お姉さんたちは心がぐらつきながらも「ここで帰国させられたらまた以前のように自殺未遂を繰り返すだけだ」と、最終的にKさんの考えに同意しました。

2日後、いよいよ安楽死が実行されました。あくまでも自分の意思でそれが行えるシステムになっているのです。そして自分で安楽死薬の入った点滴のスイッチをの入れました(映された薬の英語名(Pento・・・)を読んで胸を突かれました。「ああそう行くか!」と思ったのです)。最後に、二人のお姉さんに「ありがとう。ありがとう。幸せだった」と言って亡くなりました。安楽死が認められていない日本には遺骨さえ持ち帰ることが許されていませんので、遺灰としてスイスの川に流しました。

 一方、「生きる!」ことを選んだSさんは、人工呼吸器と胃ろうへの道を選びました。一人娘の「形が有ると無いとでは私にとって大きな違いだ」の言葉もあったからでしょう。

 最初にお話したように、この選択はすべてご本人と家族が決めることであって、他人が是非を口にすることはできませんね。ただ、筆者は結婚してすぐ、「将来ボケたら殺してくれ」と家内に頼みました(後で、「いくらボケ老人でも殺せば罪になる」と撤回しましたが)。

 さて、結論です。最初にお話した、霊的に見たこの問題です。Kさんは満点ですね。最後まで自分で決め、実行し、「幸せだった」と姉たちに言いましたから。数か月後、お姉さんたちは、故人が好きだった「母のおにぎり」を持って遺影と共にお花見をしました。「最後に幸せだったと言ってくれたことが、私たちがこれから生きていくことの支えです」とお姉さんの言葉が印象的でした。ただ、最後まで安楽死に反対した一番下の妹さんは、花見には来ていませんでした。

追記:この番組を見て強い感動を覚えたのは筆者ばかりではないと思います。決して長尾医師が言うような「視聴率さえ取れたらいいのだろう。テレビとはそんなものだ」ではなかったと思います。長尾医師はこの問題の専門家のようで、「国会や日本弁護士会や宗教団体から招かれて講演し、ボカボカに叩かれた」とか。その恨みから否定的な発言をしたのでしょう。長尾医師が、「人工呼吸器を付けても食事をして、酒を飲み、旅行して笑っている人もいる」とのケースもあることは事実でしょう。しかし、そうではない場合が大部分だと思います。筆者の母は、「治る見込みはないので病院から出て行ってほしい」と言われました。帰宅すれば直ちに家族の誰かが胃に管を通して栄養を補給しなければなりません。それがどんなに神経をすり減らす作業か。人の世話になることをとても嫌った母でしたから、退院(!)する前に亡くなりました。

即心是仏(2-1,2)

(2-1)

「無門関(無門慧開1183-1260がまとめた公案集)第三十則 即心是(即)仏

本則:

馬祖(註2)、因みに大梅問う、「如何なるか是れ仏」。

祖云く、「即心是仏」。

筆者訳:大梅が師の馬祖道一に尋ねた。「仏とはどういうものですか」

馬祖「心がそのまま仏である(註2)」

註1馬祖道一(709-788)は唐代の禅者。大梅(大梅法常752-839)は弟子。

註2 道元の「正法眼蔵」にも「即心是仏巻」があります。そこで道元が言う「即心是仏」とは、「悟りに至った者だけに神性が現れ、彼らが見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)モノだけが真実だ」という意味です。そして道元はさらに「これに対し、釈迦以前のヴェーダ信仰や初期仏教の有部の人たちが『人にはもともと神性がある』としているのは誤りだ」と言うのです。筆者には異論があります。くわしくは以前の「即心是仏(1)」で論じました。

筆者の感想:「仏とは何か」が問題ですね。仏典では1)神仏の仏、2)最高の悟りに達した者、3)宇宙の法則、4)釈迦が混同されているようです。馬祖、無門や道元は2)を指していると思います。さらに道元は2)=釈迦牟尼仏とも言っています。ちなみに、あの永平寺では、「只管打座(ひたすら座禅せよ)」とこの「即心是仏」が重要だとされています。


評唱(無門の感想)

 若し、能く直下(じきげ)に領略(りょうりゃく)し得(え)去らば、仏衣を著(つ)け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり。是の如くなりと然(いえ)雖(ど)も、大梅、多少の人を引いて、錯(あやま)って定盤星(じょうばんじょう)を認めしむ。争(いか)でか知道(し)らん箇の仏の字を説けば三日間口を漱ぐことを。若し是れ箇の漢ならば、 即心是仏と説くを見て、耳を掩(おお)うて便ち走らん。

筆者訳:もしこの「即心是仏」の真理を正しく理解すれば、そのまま、仏の衣を着け、仏飯を食べ、法話をし、仏行するなど、悟りへの正道を歩む人です。それにしても、大梅が(馬祖も:筆者)「即心是仏」などとわかりきったことをことさら原理としたのは多くの人を誤らせたのだ。ひとかどの禅者なら、こんなことを聞いたら恥ずかしくて三日間ウガイをし、耳を覆って逃げ出すだろう。

筆者の感想:「仏衣を著(つ)け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり」は無門が十分に修行を積んだ上級の僧に対して言った言葉だと思います(「無門関」はすべてそういうものです)。道元も、そうなるには修行僧になることが不可欠だと言っています。一方、山川宗玄師は(「無門関提唱」春秋社)、「(これを山川師の講演を聞いていらっしゃる)皆さんに対する言葉でもあります」と言っています。でも、これではピンと来ませんね。それについては次回お話します。

(無門の詩)

青天白日、切に忌む尋覓(じんみゃく)することを

更に何如と問えば、贓(ぞう)を抱いて屈と叫ぶ。

筆者訳:即心是仏の原理など当然のことであって、その上何か付け加えれば、盗品を持っているのが明白なのに、まだ「私は無実だ」と言うようなものだ。

筆者の感想:「何か付け加えれば」の意味は、大梅が「即心是仏」を聞いて悟り、その後山に隠棲して15年後、「馬祖が今では非心非仏と言っている」と聞いて、「私はあくまで即心是仏だ、あのおやじ(馬祖)は何を言っているんだ」と反論したエピソードを指します。馬祖はそれを伝え聞いて「大梅はついに熟したな」と言いました。なお、無門関第三十三則には非心非仏が語られています。

即心是仏(2-2)

 道元は、悟りに達するには修行僧になることが不可欠だと言いました。現代でも永平寺や、高野山、岐阜県の正眼寺などで僧たちによる厳しい修行が行われています。しかし、社会人として生きている私たちにはとうてい真似のできないことですね。では本当に悟りのためにはあのような厳しい修行の日々が必要なのでしょうか。筆者にはそうは思えないのです。今回はそれについてお話します。

 筆者の親しい友人AさんとBさんは、いわゆる中小企業の経営者です。それぞれ25年と50年以上社長職を務めてきましたが、それがどれほどすごいことかは、大きな組織に守られて、生活の心配をする必要のなかった筆者の想像に余ります。筆者の近所でも、これまでの数十年、どれだけ多くの書店、食品店、コンビニやブテイックが次々にできては潰れるのを眼にしてきたかわかりません。

 AさんBさんの成功の秘訣をどうしても知りたくて、飲みながら重い口を開かせました。Aさんは会社の不条理な仕打ちに反発し、54歳(!)で辞めたとか(彼の誇りですね)。「1年くらい失業保険で食い繋ぎながら新しい仕事を探そう」と思っていたところ、関連業種他社の友人たちが放って置かず、彼らの協力で起業したのです(気持ちの良い話ですね)。Bさんの苦労も大変でした。上級公務員のエリートコースを歩んでいたところ、父上の急死により未知の会社経営を引き受けざるを得なかったとか。Bさんなら、そのまま旧道を歩いていればトップになっていたでしょう。言うまでもなく、経営者の肩には社員とその家族の生活も掛かっているのです。筆者などは、年金保険などの掛け金は自分の分だけ払っていればよかったのですが、経営者は残りの半分も負担しなければなりません。筆者は定年になるまででそんなことさえ知りませんでした。地方都市の企業主だったBさんなど、「廃業すれば、もうそこには住んでいられない」と言っていました。無念なことも多かったでしょう。とにかく注文がある月は100、無い月は0と極端だったのです。眠れない日が続いたのは当然でしょう。

 もちろん、必要なのは経営上の才覚ばかりではないはず。従業員に対する思いやり、得意先や関連業種の人たちに対するきめ細かい配慮・・・つまり全人格的なものが大切なのだと思います。お二人に聞いた経営上の信念はそれぞれ、「騙されても騙してはいけない」と、「忍耐」でした・・・。利益を求めるだけでは世の中が長年にわたって相手にするはずがありません。お二人がずっと人格の陶冶を続けて来られたことが、現在の成功の最大の力だったと思います。

 前述のように、道元は「悟りに達するには修行僧になることが不可欠だ」と言いましたが、筆者はAさんBさんの話を聞いて、必ずしもそうとは思わないのです。お寺での修業はテレビや本で見ただけでも大変だと思います。しかし、一方でそれは、長年にわたって完成されたレールの上を走るだけのような気もします。寺という組織に守られているからです。少なくとも明日の食事を心配する必要はないでしょう。それゆえ良寛さんは寺を離れ、乞食(こつじき)の道を選んだのです。「嚢中三升の米(があれば十分)」の詩がそれを示しています。 

 AさんやBさん、それどころか、立派に生きた市井の人たちが生きる厳しさ、人格の形成は、寺での修業と違うところはないと思うのです。Aさん、Bさんは共に悟りの必要条件は満たしていると思います。ただ、十分条件とするにはもう一つ大切なことが足りないと思うのですが・・・。筆者のブログシリーズからそれを読み取っていただければ幸いです。

棺を覆いて事定まる

 私事で恐縮ですが、母のことです。

 急を聞いて車で1時間の実家へ駆けつけた時、一目見て衝撃を受けました。後光が差すような清らかな死に顔だったのです。目の前に横たわるのは、老いて病んだ母とはまったく別人のようでした。

 母は12歳の時両親を亡くし、妹二人とともに中野家へ引き取られました。祖父が企業家で、小さな町に映画館・劇場を作りました。戦前のことで、昭和二十年代までは活況を呈していました。他に一町歩以上の田畑もありましたから、両親は文字通り働きづめの一生でした。祖母は親類縁者のもめごとの仲裁を頼まれるような人でしたから、母のわが家での存在感は小さかったようです。大きな声を出すのを聞いたことはありませんし、自己主張するのを見たこともありません。私や姉や弟妹が叱られたこともありません(じつは一度だけありました。今でもよく覚えています)。叱るのはいつも祖母でした。私には、母はただ黙々と働いていた記憶があるだけです。趣味を楽しむこともなく、晩年になってようやく老人会の旅行やカラオケや踊りの会に参加していたのが、息子として唯一の救いです。

 母は両親も、兄と3人の妹をすべて若くして亡くし、その意味ではずいぶん淋しい人生だったと思います。75歳の死は、16年前としては早すぎたということはないかもしれませんが、90歳過ぎまで生きた友人も少なくないのですから。やはり、働き過ぎで重い病気になって亡くなったと言わざるを得ません。母は病院から「もうこれ以上の回復は期待できないので出て行ってほしい」と要宣告され、在宅医療に切り替えざるを得ませんでした。自分で食べることはできませんでしたので、妹がチューブを使って栄養補給することになりました。それがどれほど大変なことかは、経験した人でないとわからないでしょう。下手をすれば食べ物が肺に入り、重篤な肺炎になって死亡するのです。しかし、母は退院後わずか数日後に亡くなりました。人に迷惑をかけることがとても嫌いな人でしたから、さっさと逝ってしまった、母らしい身の処し方だったと思います。

 その母の最期の自己表現が、あの清らかな死でしょう。もちろん本人が望んでできるものではありません。「仏様のような人だ」と言われた母の人生の集大成が、期せずしてあのような清らかな死に顔となったったのでしょう。それを見て私は、「神はすべて見ていらっしゃる。公平だ」と思いました。「棺を覆いて事定まる」とはこのことだと思います。

色即是空・空即是色(2)

読者の方から次のようなご質問をいただきました。

凡愚です。ご無沙汰いたしております。つたなき質問をお許し下さい。
1 モノ(或いはモノゴト)の真相は、中野さんの御説からしますと、色の見方と空の観方が一如したものからみる必要はなく、空の観方によって得られるのではないでしょうか。2 仮に「色の見方と空の観方が一如したもの」からしかモノゴトの真相は見えない、としますと、それはどんな「みかた」で、そこからはどんな「真相」が見えるのでしょうか。愚考しますに、せいぜい色の見方と空の観方とを、瞬時にみかたを切り替えてみるとしか、言いようがないような気もしますが・・・・・?
3 青原禅師は、「落ち着いた今となってみると云々」とおっしゃられているようですが、そうすると空の観方というのは、人は四六時中そういう観方をして暮らしていけるものではなく、普段は(社会生活的には)色の見方が普通で、煩悩や不安が起きそうになったら、空の観方に切り替えて対処するということではないのでしょうか。
4 「あいかわらず山は山で、水は水にみえる」というのが、修行前にみたのと違うということですが、違わなくて(色の見方だから)よいのではないでしょうか。色の見方というのは、修行には関係しないように思われますが・・・・・・?

筆者のコメント:いつも適切なご質問をありがとうございます。他の皆さんにも参考になりますので、ブログ本編で取り上げさせていただきます。

筆者の考え:

1)おっしゃるように、空の観方が正しいものごとの観方だと思います。しかし、色の見方を無視すると、「物などない。ただ意識だけがある」という唯識論になってしまいます唯識論には原理的な欠陥があると、すでにお話しました。

2)常に(四六時中)空の観方でものごとを見るのが、悟りだと思います。人間の思い込みや(時代によって変動する)価値観、感情にとらわれたモノゴトの姿ではなく、神の目で見た姿です。青原禅師は「悟りの後で観た世界も修行前に見た世界と同じだ」と言っていますが、それは言葉の「綾」で、じつはまったく違うのです。変わるのは景色だけではありません。周りと私との関係が変わってしまうのです。それ以上は言えません。

3)「煩悩や不安が起きそうになったら、空の観方に切り替えて対処するということ」ではありません。逆です。「ふだんから空の観方でモノゴトを見ているが、色、すなわち物体としての存在も決して無視しているのではない」これが正しいものごとの観方だと思います。

4)「修行前にみたのと違わなくて(色の見方だから)よい」のではなく、空の観方で見えるようになったことが悟り(飛躍)だと思います。前記のように、同じように見えていても質的にはまったく違うのです。

追加:おっしゃるように色の見方には修行は必要ありません。一方、空の観方は、「なるほどそういうものか」とわかるのは第一段階に過ぎず、意識せずにその観方ができるようになるためには、さらなる修行が必要だと思います。それが悟後の修行と言われるもので、村上師や良寛さん・・・皆さん厳しい修行を続けていらっしゃいます。

 「悟りの状態とは、いわば、クリーム(Oil in Water)の状態からバター(Water in Oil)の状態にクルッと転換した心境だ」とお話しました。あなたは良いところまで来ていますが、まだクリームの状態だと思います。