(3) 筆者の検証(2)
岸根氏はホイーラーの思考実験(物理実験ではありません)の結果(?)から、「電子には心があり、人間の意図を読み取った」と結論付けています。そして、岸根氏の解釈はさらに飛躍します。
・・・自然界はすべて、心を持った電子が姿を変えたものである。人間と同じく、動物も植物もすべて電子によって構成されている・・・電子が心(意志)を持っているからこそ、その電子によって構成されている人間にも心(意志)があることが科学的に結論できる・・・ と言っています(註5)。
註5 もちろん人間の体は電子だけでできているのではありません。岸根氏が電子にこだわるのは、粒子と波との二つの性質を合わせ持つ物質の例としてでしょう。
岸根氏はさらに、
・・・肉体としての人間が示す電子の波動現象こそが人間の生命であり、人間の心である・・・生まれるといっているのは、心を持った無機物が統合されて、心を持った有機物が作り出される統合作用のことである・・・死ぬといっているのは、心を持った有機物が統合作用を失って心を持った無生物に還るということだ・・・心もまた肉体の輪廻転生と共に、輪廻転生を繰り返す・・・心の住むあの世も、肉体の住むこの世も、ともに存在していて、それらが互いに輪廻転生している・・・自然界全体(大自然、大宇宙)の下では、無生物も生物も基本的には区別はなく、それらは同じ物である電子が姿を変えて互いに流転し、転生しているにすぎない・・・
と言っています。
何人かの読者が指摘するように、岸根氏の文章は繰り返しが多く、独善的であるためわかりにくいので、筆者がまとめてみますと、岸根氏が言いたいのは、「電子は心を持つこと、時には波になり、時には粒子になる。その性質を輪廻転生と言い、人間も電子からできているから、人間の体も輪廻転生する」と言っているようです。輪廻転生という、仏教やスピリチュアリズムの概念を、電子の粒子と波との変化とくっつけているのには唖然とします。
さらに岸根氏は、「仏教だけが量子論と統一できる唯一の宗教である」と言い、
・・・仏教にいう無量寿(無限の時間の流れ)が量子論にいう電子の粒子性に当たり(なぜなら粒子は速度を持っていて無限の時間を走るから)、無量光(無限の空間の広がり)が量子論にいう電子の波動性にあたる(なぜなら粒子は波動となって無限の空間に広がるから)と考えられるからである。ゆえに私(岸野氏)は(宗教である)仏教と量子論(科学)は同一化する。まさに驚異と言うほかはなかろう・・・量子論の説く粒子性・波動性が神の心と考えられる・・・
と言っています。つまり、岸根氏は「量子論が神の世界の存在を証明する」と称しているのです。
(4)筆者の検証(3)
岸根氏は、
・・・これからの心の時代には、この世とあの世の間に存在する、量子論に言う量子エンタングルメント(あの世とこの世の共存性)や量子テレポーテーション(あの世とこの世の情報交換)などの心の共鳴現象を理解せずしてもはや対応できない・・・2500年もまえの東洋の宗教の仏教と、西洋の最先端科学の量子論との間にも、時空を超えて同一性がある・・・
と言っています。岸根氏は「量子は心を持つ」という持論(岸根氏の独創ではなく岡野氏の考えの引用ですが)を量子論的唯我論と称し、それを強く意識した上で量子宗教という造語をしています。
さらに、
・・・未来のあるべき宗教は一神教文明で物心二元論の西洋物質文明に基礎を置く西洋の宗教よりも、多神教文明で物心一元論文明の東洋精神文明に基礎を置く東洋の宗教のほうが、心の時代の宗教としては適している・・・
と言っています。しかし、このような考えは岸野氏の独創でも何でもなく、多くの心ある人が言っているのです。
以上のように、岸根氏のこの本は量子論に基づいて神の心を解き明かそうというものです。しかし、現代物理学でも量子の不思議な性質については、まだ正しい解釈はされていないのです。にもかかわらず岸根氏はその解釈の一つ、それもなんの科学的証明もなされていない意思説を自説に都合よく根拠としているにすぎません。しかがって同書はほとんど妄想としか言いようがないものなのです。
ある読者の感想文の中に、
・・・量子論は日常の常識が通じず余りにも奇妙なためしばしばオカルトのネタとなるが、この本はまさしく量子論をネタにしたオカルト本である・・・
とあります。筆者も同感です。量子のようなミクロの世界は、どんなにそれが私たちには不思議であっても、それにふさわしい解釈をすべきであって、それを人間や宇宙のようなマクロの世界へ敷衍したために岸根氏や、一部のスピリチュアリズムの人達の誤解を生じるのでしょう。
岸根氏の本は、京都大学名誉教授であるとか、湯川秀樹博士や朝永振一郎の師であることをキャッチコピーにしていますし、文章が巧妙に書かれているため、一部の読者が「すばらしい」と感じるのでしょう。しかし実体は、前述の読者が言っているようにオカルト本としか言いようがありません。真面目な読者が惑わされないように、願ってやみません。