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死後の世界はあります(4)東日本大震災後の霊的現象(2)

死後の世界はあります(4)東日本大震災後の霊的現象(2)

 「神の存在も霊的世界も今一つ信じられない」と言う人がたくさんいます。というより、神が実在されることを信じるか信じないかの分かれ目が、まず霊的世界の存在を認めるかどうかだと、筆者の経験から想像できます。前回、東日本大震災のあとで体験された霊的現象についてお話しました。今回お話しする二つのケースは、東北学院大学生の工藤優花さんが卒業論文として、タクシー運転手たちに聞き書きしたものです(「呼び覚まされる霊性の震災学」新曜社 註1)。

 ケース1)東日本大震災から3カ月ほどたった、ある深夜の出来事だった。タクシー運転手の男性がJR石巻駅の近くで客を待っていると、もう初夏だというのに、真冬のようなふかふかのコートを着た30代くらいの女性が乗車した。目的地を聞くと「南浜まで」と一言。震災の津波で、壊滅的な被害を受けた地区だった。運転手は不審に思って「あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか?」と聞いた。すると女性は震える声で答えた。「私は死んだのですか?」。運転手が慌てて後部座席を確認すると、そこには誰も座っていなかった。
筆者のコメント:戦争や事故などで突然死んだ人は、自分が死んだという自覚がないことを、筆者が神道系の教団で霊感修行をしていた時、時々聞きました。

 ケース2)「巡回してたら、真冬の格好の女の子を見つけてね」。13年の8月くらいの深夜、タクシー回送中に手を挙げている人を発見し、タクシーを歩道につけると、小さな小学生くらいの女の子が季節外れのコート、帽子、マフラー、ブーツなどを着て立っていた。時間も深夜だったので、とても不審に思い、「お嬢さん、お母さんとお父さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と女の子は返答をしてきたとのこと。迷子なのだと思い、家まで送ってあげようと家の場所を尋ねると、答えてきたのでその付近まで乗せていくと、「おじちゃんありがとう」と言ってタクシーを降りたと持ったら、その瞬間に姿を消した。確かに会話をし、女の子が降りるときも手を取ってあげて触れたのに、突如消えるようにスーっと姿を消した。

 東日本大震災に関わるこの種の話には「夢に現れた」というケースが多く(註1)、実証するすべがないのですが、工藤さんが調べた体験談は別です。なにより運転手さんたちはちゃんと仕事をしている時でしたし、なにより乗車記録として残っているのです。もちろん料金は支払われませんでしたが。
 前にもお話しましたように、筆者は一時期、何度も霊に憑依された経験があります。何よりの証拠は、あの時の独特の不快感です。有名な霊的カウンセラーの江原啓之さんは「霊媒体質についてどう思いますか」との問いに、「そんなものない方がいいに決まっています」と答えていました。筆者も同感です。筆者は憑りつかれた霊の除霊法も習いました。あるときなど、大学での試験監督中に憑依され、あからさまに除霊操作をすることも出来ず、閉口したことがあります。とにかくそいう体質になると、憑霊は次からつぎなのです。幸い今はそういうことはありません。
註1 関連書には「魂でもいいからそばにいて」奥野修司(新潮社)もありますが、夢の話が多いのは残念です。

唯識思想(2の1-4)横山紘一さんの考え

唯識思想(2‐1)

 NHK教育テレビで「唯識に生きる」についての6回シリーズが放映されています。横山紘一さん(立教大学名誉教授)のお話です。横山さんは50年来の唯識の研究者で、講演とともに熱心に講習会で「行」の実践を指導されています。

 唯識思想はAD4‐5Cインドの唯識瑜伽(ゆが、ヨーガ)行派の無着、世親によって確立されました。仏教の根本経典と言う人もいます。インドから中国へは玄奘三蔵によってもたらされました。わが国では興福寺が中心的存在で、空海、法然、親鸞、道元らによって尊重されたと言われています(註1)。筆者は以下の理由によって、これらの考えには賛成できません。

横山さんの解説:
 唯識思想のねらい:自己の心の奥底にあるメカニズムの探索、分析。
  基本的な考え:一人一宇宙(註2)
  瑜伽(ヨーガ)行の結果、人の意識には次の八つがあることがわかった。
  表層心: 眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、意識
  深層心: 末那識(自我執着心)
       阿頼耶識(あらやしき、
          一切種子《しゅうじ》識とも)

 このシリーズの横山さんの「ねらい」は、「人間が煩悩(苦しみや悲しみ)から開放されるにはどうすればいいか」と説くことにあると思われます。それはもちろん仏教の重要な目的です。しかし、それは唯識説の主要な側面ではありますが、すべてではありません。なぜなら、仏教は「心とは」を究明する哲学でもあるからです。それについては最後にお話します。読者の皆さんはこのこのとをよくご記憶ください。

 唯識についての横山さんの基本的解釈は、「モノ(や人)やコトなどない。すべて心の所産である。モノは言葉としてあらわされたものである」でしょう。

筆者のコメント: まず、アンダーラインの部分は明らかに「空思想」を援用したものです(註3)。唯識思想独特のものではありません。そして、横山さんは「モノ(や人)やコトなどない」ことを、縁起の概念を拠りどころとして解釈しています。すなわち、「あらゆるモノはそれ自体では存在しない、すべて縁起、すなわち他との関わり合いで存在しているからだ」と言うのです。

註1 唯識思想は空海、法然、親鸞、道元らによって読まれたのは教養の一環としてであって、本ブログシリーズでお話するように、根本経典として尊重されたからとは思えません。
註2 人の心が皆違うため、見える世界もさまざまなのは当然でしょう。
註3 禅の「空思想」は龍樹の「空思想」とは別のものであることは、すでにこのブログシリーズでお話しました。

 横山さんは「モノ(や人)やコトなどない。すべて心、つまり言葉の所産である」について、次のような例を挙げています。
 例1)私たちがある人を「嫌いな人」だと思うとき、たんなる影像に「思いと言葉」が付けられて、心の外に嫌いな人がいると思い込んでしまう。すると深層心の中に種子(しゅうじ)ができ、その思いが積み重ねられると種子が成長し、ついには表層へ出る。つまり「嫌な人がいる」と思う。これがグルグル繰り返されるとますます「思い」が大きくなる。

 つぎにスタジオにあるリンゴをアナウンサーに持たせ、
 例2)リンゴがあると思えばある。思わなければ無い。心の中にある映像に言葉が付くと、モノが自分の外にあるかのように思ってしまう。

 そう言われてアナウンサーは当惑し、「でもここにリンゴはあります・・・」と言いたげでした。もっともな気持ちでしょう。それに対し横山さんは、こともなげに「モノに執着するからいけないのです」と切り抜けました。読者の皆さんはこのやり取りを聞いてどう思いますか?それは明らかに論理のすり替えです。アナウンサーが当惑した気持ちはよくわかります。「モノがあるかどうか」と「モノに執着するかどうか」とは別問題ですね。
 さらに、このブログシリーズでなんども指摘しましたように、本来「縁起の思想」は横山さんの解釈とは異なるからです。このような誤った解釈が、わが国の仏教解説者には非常に多いのです。しかし、後でお話するように、こういう解釈は本来釈迦が説いた縁起の概念を拡大・誤解したものだと思います(仏教は思想の拡大、増広と言います)の歴史なのです)。そして横山さんがこれらの思想を唯識の理論的根拠としたところに基本的な問題があると思います。

 横山さんは「まちがった表層のモノの見方が、深層心の阿頼耶識に種子として植え付けられ、その思いが積み重ねられると種子が成長して行き、ついは表層意識として現れる。これが人間の苦しみだ。そのサイクルを断ち切ることが大切だ」と言います。これが阿頼耶識の浄化法の一つだと言うのです。そしてさらに、正しい教えを聞いたり学んだりする(正聞燻習しょうもんくんじゅう)と、深層心の阿頼耶識に潜在する「清浄な種子」が成長し、芽吹く。また、笑顔を絶やさない、お経を音吐朗々と読む。整理・清掃、坐禅瞑想)自他を分別しない心でしないで、今ここになりきって生きる。などを挙げています。

 横山さんの唯識解釈の問題点 1)
 上記のように、横山さんは唯識思想をネガテイブな面からのみ見ています。すなわち、
例1)で挙げたように、
 ・・・私たちが「嫌いな人」だと思うとき、たんなる影像に思いと言葉が付けられて、心の外に嫌いな人がいると思い込んでしまう・・・早くこの連鎖を断ち切ればいい・・・
としています。
 では、ポジテイブなケースではどうでしょう。たとえば、私たちは自分の父母や子供などを「愛おしい、愛おしい」と思い続けていますね。するととうぜん、深層心の中に種子(しゅうじ)ができるはずです。そしてそれがくりかえされています。
 もし、大震災などで「愛おしい」家族を亡くした人に向かって、「あなたのお母やさんや子供などは最初からいなかったのです。たんに心の中の映像に過ぎないのですから悲しむことなどありません」と言ったら納得する人がいるでしょうか。人によっては怒り狂うのではないでしょうか。

 いかがでしょうか、上で述べたネガテイブなケースと同じメカニズムですね。つまり、横山さんの唯識思想の解釈は間違いなのです。

唯識思想(2-2)

 NHK教育テレビ「唯識に生きる」第5回は、「唯識思想の科学性」と題するもので、東京大学カブリ数物宇宙研究所教授大栗博司さんと横山さんとの対話でした。唯識思想の科学性と言われて、筆者も耳をそばだてました。この研究所は数学や物理の一流の学者が集まって宇宙の成り立ちについて討論をするための施設です。言わば、宗教研究とはとは対極にある人たちです。同研究所の談話室の柱には「宇宙は数学の言葉で書かれている」とのガリレオ・ガリレイの言葉が刻まれていることから、この研究所の目的がよくわかりますね。

お二人の討論の内容は以下のようでした。

 まず、横山さんは唯識思想を一口で言えば、「(宇宙などの)モノなどない。それはすべて心のはたらきである。一切は言葉が作り上げたに過ぎない。存在するものは心しかない。深層心の中にある阿頼耶識を浄化してゆけば苦しみや対立はなくなる」と持論を展開しました(重要な論点には下記のように仮の番号を付けました:筆者)。つまり横山さんは「宇宙は心の中の映像であり、それを言葉で表現した実体のないものだと言っているのですね:筆者)」
 大栗さん「そんなことあるのかな?が正直な感想です(註3)。科学では、まず世界というモノがあると仮定して、その仕組みを理解して行きます」

筆者のコメント:筆者も自然科学の研究者ですから大栗さんのおっしゃることはよくわかります。
 
1)人間の生きる意味とは
横山さん「人間の生きる意味とは何だと思いますか」
大栗さん「ワインバーグの『宇宙は調べれば調べるほど意味はない』を引用して、宇宙も人間も偶然の所産であり、生きる意味など与えられてい無いと思います」(あきらかに横山さん「(宇宙も)人間も神によって造られたものであり、人間には生きる意味が与えられている」と言外に言っていることを意識しての答えでしょう:筆者)。生きる意味は生まれてから成長する過程で人間が考えていくことだと思います。

2)唯識で宇宙の真の姿はわかるか
大栗さん「唯識思想では宇宙の真実の姿は理解できますか」
横山さん「ヨーガや瞑想によって、対象そのものに成りきると一切は夢であるとわかります。夢から覚めた人がブッダです」
大栗さん「対象に成り切るということがどういう形で真実に迫れるのかは私にはわかりません。さらに、成り切きって得られたコトが真実であるいかにして確信できるのですか」
横山さん「私が昔ブッダが悟りを開いたブッダガヤを訪れた時、菩提樹の下で涙を流して額を柵に付けて感動しました」。
大栗さん「科学者はそういうことに懐疑的です」

 筆者のコメント:大栗さんの言うとおりでしょう。横山さんが「対象そのものに成りきると一切は夢であることがわかる。夢から覚めた人がブッダである」の文言で言いたいのは「人々が現実と思っているのはすべて心が作り出した幻影である」との意味でしょう。「真実であることの証拠は、菩提樹の下で感動して涙を流したこと」では、およそ答えになっていませんね。まともな科学的論議とは言えません。
 
横山さん「ブッダの思想をどれだけ多くの人を引き付けて来たか、どれだけ多くの人が救われたかが、正しいことの証拠です」

筆者のコメント:オーム真理教も初めは多くの人を引き付けたと思います。これについては後述します。

3)自分とは何か
横山さん「自分とは何だと思いますか」
大栗さん「科学では『自分とは何か』には答えられない。自分というものがあるのではなく、脳細胞同士の関係として自分というものが現れて来るのでは」
横山さん「(自分の手を示しながら)手があると思えばあるのであって、無いと思えばないのです」
大栗さん「(唯識思想では)もともと「手」というモノさえ無かったはずではないですか」
横山さん「・・・・・・」

筆者のコメント:つまり、横山さんはそれには答えず、次の話題に移りました。

4)幸せとは何か
横山さん「人間にとって幸せとはどういうものですか」
大栗さん「自分に与えられた能力を最大限に発揮できることです。そして家族との円満な関係を感じた時です。それは普遍的なものではありません」
横山さん「その考えには反対です。普遍的な幸せはあります。それは、他人のために役立つことをすることです。そうすると人々の顔が輝きます」

いかがでしょうか。筆者の感想では、大栗さんと横山さんとの議論は成り立っていず、横山さんの回答はまったく答えになっていないと思います。つまりこの番組の内容はタイトルとズレていると思います。

 もし筆者が横山さんの代わりに大栗さんと対話していたら、やり取りは次のようになったでしょう。その前にご留意いただきたいのは、筆者は自然科学の研究者でしたから、大栗さんの立場と基本的には同じです。そこが、同じ仏教の研究者である横山さんとはまったく違うところです。一方、筆者は長年仏教について学んできましたから、大栗さんの考えともずいぶん異なると思います。このことを念頭に置いていただいて以下の筆者の考えをお聞き下さい。

唯識思想(2‐3)(前回からの続き)

 論点1)「人間の生きる意味」について:横山さんは「他人のために尽くすこと」という。大乗仏教の根本「未未得度先度他」を念頭に入れているのだと思います。それは最後の「幸せとは何ですか」の答えから明らかでしょう。あるいは「神から与えられた生命」としての使命を考えているのかもしれません。それに対し大栗さんは「生きる意味など、(神から与えられたものなどではなく)後天的に自ら感じて行くものだ」と答えています。それは3)の「自分とは何か」の答えとも軌を一にするものですね。

 論点2)「唯識思想では宇宙の真実の姿は理解できますか」について:横山さんは「対象に成りきればわかる。ブッダはそういう人だ」と言っています。大栗さんはさらに追及して「それが真実かどうかはどうして検証できるのですか」と言っています。それに対する横山さんの答えは取り留めもないものですが、筆者ならこう言います「直観的に正しいとわかるのです。数学者の吉田洋一さんはこう言っています。『ある数学理論が発見された時、それが自分の専門(数論)内ならば、2+3=5が誰にでも直観的にわかるように理解できます。専門外のことなら、手続き(つまり証明式)を踏んで行けば正しいかどうか)わかります』と。ちなみに横山さんの言う、「その教説が正しいかどうかの検証は
ブッダの思想をどれだけ多くの人を引き付けて来たか」は、正しくありません。これまで多くの新興宗教(たとえばオーム真理教)でも信者たちは教祖の言っていることに触れて随喜の涙を流して付いて行ったと思いますから。 

 論点3)「自分とは何だと思いますか」について:筆者も以前は大栗さんと同じ唯物思考でしたから、大栗さんのおっしゃることはよくわかります。しかしその後、仏教やスピリチュアリズムを学び、神道系の教団で数多くの実体験を踏むにつれ、考えが変わりました。すなわち、自分というものは死んで脳が壊れても存在するものだと思います。いわゆる「魂」ですね(もちろん、この世に生まれてからの人生で獲得し、変化した部分もあることは確かだと思いますが)。一番わかりやすい例は「生まれ変わり現象」や、霊魂の存在です。

 以上、結局、この番組で横山さんと大栗さんの論議は、タイトルである「唯識思想の科学性」とはかけ離れたものになってしまいました。大栗さんのおっしゃることはさすがに理論物理学者として明快でしたが、横山さんの唯識思想は大栗さんの疑問になんら答えることができなかったと思います。横山さんは唯識思想を50年にわたって研究してきたそうですが、「仏教とは何年やろうとわからなければわからない世界だ」と思います。
 以前お話したように、筆者は「唯識思想は仏教の正統な流れから外れてしまったもの」と考えています。「勇み足」と言ってもいいでしょう。ただ、正しい部分は残していると思います。以下に筆者が考える「唯識思想の科学性」についてお話します。横山さんの理解と比較してください。その前に、まず横山さんの唯識思想理解の問題点についてお話します。

 横山さんの唯識思想の問題点 2)

1)モノなどない?
 
 横山さんは(モノなどない。ただ心があるだけだ」の根拠として、「ただ縁起によってあるように見えるだけだ」と言っています。仏教学者がよくやる誤解です。本来、釈迦が説いた「縁起の法則」は、「すべての苦しみや悲しみには、原因がある。それを突き止めなさい」という意味だと筆者は考えています。素朴ではありますが、重要な教えで、原因も知らずに苦しみ、悲しんでいる人が多いからです。「縁起の法則」は「空」を説明するために誤解・援用する学者も多いことを以前お話しました。横山さんが、リンゴを示して「リンゴがあると思えばある。無いと思えばない」と言ったとき、アナウンサーが「でもリンゴはありますが・・・」と当惑したのは当然なのです。じつは、横山さんや、「空」の研究者自身も「ない」と言うのがなんとなく気持ちが悪いのでしょう。いつも筆者が言うように、「そういう人の頭をポカンとたたいてやればいいのです。「痛い!なにするんだ」と言うでしょう。そうしたら「あなたは頭などないと言ったではないですか」と言えばいいのです。
 モノはあるのです。禅でははっきりそれを言っています。「色即是空・空即是色」なのです。そこが、禅のすばらしいところなのです。

2)横山さんは末那(まな)識を「自己執着心」と解釈しています。それは横山さんの唯識思想の解釈に都合がいいからでしょう。しかしそれは誤りです。正しくは自分であることのアイデンテイテイ意識です。つまり、人間によるあらゆる認識や心の動きの本体である「自分であること」なのです。両者はまったく異なることにご注意下さい。

 次回は、筆者の理解した唯識思想です。

唯識思想(2‐4)

 唯識では本来、「人によってモノやコトの認識のしかたはさまざまである」と言いたいのだと、筆者は解釈しています。たとえば、ある人についての印象‐好悪の感情や能力の評価などは、それこそ多様でしょう。卑俗な譬えですが、「あばたもえくぼ」はこの人間の機微を言っているのだと思います。同じ見方なんてありえませんね。時が経てば変わりもします。つまり、「絶対正確な姿」などありないのです。もっと範囲を広げてみましょう。ここにある一つのリンゴについても、見え方は人によって変わります。リンゴが好きな人と、筆者のようにあまり好きでない人間でも見え方は異なるはずです。「人間だから」とおっしゃるなら、カメラや電子機器でも見え方はさまざまなのです。それぞれの器械の特性によって異なるのです。「見え方」だけではありません、味はもちろん、化学的性質や物理学的性質でさえ、測定機器それぞれで結果は少しずつ異なるのです。ではどれが真実なのか?つまり、人間であろうと、器械であろうと唯一絶対の真実など測定できないはずです。

 これが無着や世親が考えた唯識思想だったのではないかと思われます。つまり、人間の心は真実を歪めて認識することが多い。そのために苦しみや悲しみ、そして喜びまでも相対的だ・・・と言っているのだと思います。それを「モノなどない」と拡大解釈してしまったところに、日本仏教の解説者のほとんどの誤りがあったと筆者は思うのです。

唯識説の原理的欠陥

 以前のブログで筆者は、「唯識思想には原理的欠陥がある」とお話しました。もう一度言いますと、

 ・・・この思想は、阿頼耶識にはすべてのモノゴトについての種子(しゅうじ)が蔵されているとの前提に立っています。ではそれらの種子はどこから来たのでしょうか。「それは前世、およびその人のこれまでの人生で経験したモノ」と言います。ここで問題が生じます。それなら、今まで経験したことのないモノが目の前に現れたらどうでしょう。阿頼耶識にはその種子はありませんね。とすれば当然、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうこともできないはずです。そもそも、「(前世および)これまでの人生で経験した」と言っても、それらの最初の経験以前にはそれらの種子はなかったはずです。たとえば近代文明に接したことのない人がテレビやスマホを見たり聞いたりしても認識できないことになります・・・

いかがでしょうか。これらの理由がわが国から唯識思想が消えてしまった理由だと筆者は考えます。

日本人の情感の喪失

歌謡曲は死んだ。

 近頃とても気になることがあります。歌謡曲というものがまったく無くなってしまったことです。演歌は歌謡曲ではありません。歌謡曲の逃げだと思います。その証拠に、歌いたくなるような曲が一つもないからです。若者が好きなビートの効いた洋風の曲は、筆者にはただ騒がしいだけで、歌詞も聞き取れません。歌謡ショーも残っているのはNHKの他には1‐2でしょうか。50歳以上の人なら、歌える昔の歌謡曲の20や30はあるでしょう。「聞いたことがある」ものなら、50曲を超えるでしょう。筆者もその一人です。

 その理由はいろいろ考えられるでしょう。上手な歌手がいなくなったわけでも、すぐれた作詞家や作曲家がいなくなったからとは思えません。日本人の心が変わってしまったのは事実でしょう。「泣けた泣けた」とか、「惚れーてー惚れーてー」とかの生(なま)の言葉を受け付けなったのは当然でしょう。そうではなくて、何よりも日本人の心が情緒とか情感を失ったからではないかと心配なのです。筆者は、よく知られたレコード制作会社が昭和時代に自社が制作した流行歌80曲以上をまとめたCD集を持っています。それらを一人の女性歌手が歌っていますが、その人の歌唱力とあいまって、それらは一つひとつ心に沁みます。つくづく歌謡曲は日本人の心を歌ったものだとわかります。この全巻80数曲は、その会社の歌謡曲制作史の記念として残したのだと思います。まぎれもなく日本の文化史として残るでしょう。

 「歌は世につれ」と言います。では一体、「今の世」はどうなったのでしょう。「歌謡曲が死んだ」ことは、「本が売れなくなった」ことと軌を一にしていると思います。電子本が大きな割合を占めるようになったためとか、ネットから大量の情報が供給されるとかは、理由に過ぎないと思います。やはり、入り込むべき日本人の心のひだの数が減ったからでしょう。

 その理由についてはよく考えねばなりませんが、一つには社会が激しい競争化の時代になったことがあるでしょう。その影響は子供たちにも及んでいます。今は小学生でも塾に行くのは当然のようになりました。よい中学→よい高校→よい大学→よい会社の人生目標が定着してしまったのでしょう。筆者の時代には学習塾などありませんでした。「勉強ができなくてもスポーツで」などは共通の認識でしたし、成績が上位でも実業高校へ行った人はいくらもいました。そして、中卒や高卒で就職してもそれぞれの立場で十分に力を発揮し、重要な役割を与えられた人もたくさんいます。筆者の現在の自宅の近くにもたくさんの子供たちがいますが、彼らが外で遊ぶ姿など見たことがありません。誰も彼も学習塾へ行くようになったのは、団塊世代が小学生の頃で、その子、そして今はその孫・・・。つまり、現代を構成する大部分の人達なのです。これでは情感や情緒が日本人の心から消えて行ったのは当然ではないでしょうか。

 筆者が心配するのは、このような世相が、これから成長する子供たちの情感を育くむ力が衰えてきたのではないかということです。歌や本は、大きな人間の心の支えでもあることは言うまでもないでしょう。それがら急速に失われつつあるのです。学習塾や、子供が好きなゲームなど、少しも情感の発達の役には立たないでしょう。
 そして何より筆者が心配なのは、情感が衰えた子供たちが宗教を必要とする時、それらを受け止められるだろうかということです。宗教は苦しんだり悲しんでいる人たちの琴線のどこかに触れるのだと思います。筆者が「禅塾」と謳いながら、他力の浄土宗系の仏教やキリスト教、神道、そしてスピリチュアリズムと幅広い窓口を開けていますのは、なるべく多くの皆さんの心のひだのどこかに感じていただけるところがあるのではないかとの思いからです。

鈴木大拙 即非の論理(2-4)

鈴木大拙 「即非の論理」(2)

 鈴木大拙博士(1870-1966)は、禅を東洋独自の思想として世界に紹介したわが国の誇る宗教学者です。また、栄西や道元によって伝えられ、日本の文化にも大きな影響を与えてきた禅の世界を、私たち現代人に開いてくれた人です。大拙博士の勉学の広さと深さは、筆者が垣間見るだけでも驚くべきものがあります。

大拙博士は、大乗仏教の基本である般若系経典の中心思想は「即非の論理」であると考えました。すなわち、金剛般若経の中の「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密(釈尊は「悟りは悟りではない、だから悟りと名付ける)おっしゃいました」という表現に着目したと言われています(註1)。大拙博士はこれを「Aは即(そのまま)非Aである。ゆえにAである」と抽象化し、禅の基本的考えとしたのです。「即非の論理」についての理解は、大拙博士と筆者とは基本的には同じだと思いますが、少し違う部分もあるかもしれません。以下は、筆者による理解とお考え下さい。

 道元の「正法眼蔵 山水経巻」にも「古佛(註2)云、山是山水是水。この道取は、山これ山といふにあらず、山これ山といふなり。しかあれば、山を參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。」とあります。
筆者訳:古(いにしえ)のすぐれた修行者は言っている。「昔は山は山、水は水にしか見えなかった。その後(修行が進むと)、山は山でなく、水も水でなくなった。ところが、さらに修行が進むと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってきた」と。とても大切なことです。このことをよく考えなさい。

 これらの考えは筆者がこのブログで繰り返しお話している「空」思想=体験と軌を一にするものです。たとえば、「山」は、ふつう考えられていうような「山」だけではなく、「山を見るという体験」、すなわち「体験」の対象的側面もあるのです(ちなみに主観的側面は「観る私」です)。つまり、「山は即山ではない。だから山である」となるのですね。
「空」思想=体験が大切なのは、「あれは山だ」と思ったときはすでに、判断が入ってしまうからです。禅ではものごとが「観念」として一瞬たりとも固定化されることを徹底的に嫌います。「体験は一瞬の出来事であり、すぐ消える」はず。それゆえ、いかなる判断も、観念として固定化されることもないのです。「空」、すなわち「体験」の対象的側面とは、あくまで「なにかあるもの」なのです。それゆえ「山だ!」と思ったらもう山ではなくなる。つまり、「山は即非山」なのです。すなわち、山と非山、これらが一如(いちにょ)になった時が真の実在としての「山」なのです。これが「即非の論理」だと思います。

註1 「金剛般若経」には、類似の文言は多数ありますが、この言葉自体はありません。

註2 雲門文偃(うんもんぶんえん 宋代の禅師864‐949)「雲門廣録」に「諸和尚子莫妄想。天是天地是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗」とあるといいます。

鈴木大拙 「即非の論理」(3)

 「即非の論理は禅の要諦である。それは、禅では観念の固定化を厳しく戒めているからだ」とお話しました。苦しみや悲しみ、そして怒りは、何度も思い出し、繰り返すたびに深まるものです。苦しみや悲しみ、怒りから逃れるのはとてもむつかしいのです。韓国の人たちは「恨みは1000年経っても忘れない」と言っています。従軍慰安婦像問題のむつかしさや、伊藤博文を暗殺した安重根の「血の一滴」の巨大なモニュメントを作ったことからもわかりますね。考えるまでもなく、それは韓国にとって何一つ良いことにはならないのです。筆者は韓国からの留学生を何人も受け入れたことがあり、今でも深く付き合っています。それだけに韓国の人達のそういった性情を気の毒に思うのです。
 一方、日本人はかなり対照的のようです。悲惨な太平洋戦争が終わって1年もしないうちに、「憧れのハワイ航路」とか、「粋なジャンパーのアメリカ兵が・・・」とか、「ジープの歌」が流行したのは、いささか呆れているのですが。もちろん日本人にとっても恨みや怒りの感情が続くことがあります。もう50年になりますが、1968年に、こんな新聞記事が出て、とても印象深く覚えていることがあります。山口県萩市の青年会議所が、福島県会津若松市の青年会議所に「今年は戊辰戦争からちょうど100年になります。ここらで昔のわだかまりを捨てて友好関係を築きませんか」とのメッセージを送りました。言うまでもなく萩は長州藩の本拠ですね。しかし、会津若松市の青年会議所は一言のもとにそれをはねつけ、古老たちの喝さいを浴びたそうです。
 怒りの感情に凝り固まっている人は、じつは相手より自分自身を傷付けているのです。他人に対する怒りや憎しみは、唯識で言う阿頼耶識=魂を傷付けます。筆者の古くからの知人に、ほとんど何十年にもわたっていがみ合っている2人がいます。2人ともに親しく付き合っていますが、こういうケースであり勝ちのように、相手も同じように自分のことを悪く言っていることに気が付かないのです。死ぬまで憎み続けるのでしょうか。
 
 筆者は長い間仏教について学んでいますが、怒りや憎しみを持ったままこの世の生を終えるというのはとてもいけないことだとわかります。人間が肉体を持ってこの世に生まれてきたのは、肉体を持つがゆえに出会う苦しみや悲しみを克服し、魂の成長を図るためだと言われます(註3)。この世のことはこの世で決着しておかなければいけないのです。筆者は「苦しみや悲しみや怒りから逃れるにはどうしたらいいか」、この釈迦以来の課題を受け継いで少しでもお役に立てたいと、このブログシリーズを続けています。のちほど改めて筆者なりに長年学んで来たノウハウについてお話していきます。
 
註3 いわゆるスピリチュアリズムの思想で、シルバーバーチのような高級霊がこの世の霊能者を通じて伝えて来るメッセージです。

鈴木大拙の大乗経典理解
 鈴木大拙 「即非の論理」(4)

 鈴木大拙博士の著作を読んでいて{あれ?」と思うことがしばしばありました。それは、大拙博士は大乗経典類も釈迦が説いたものだと考えているのではないかということです。それを立証する文章を見つけたので紹介します(「禅問答と悟り」春秋社 より)。

 大珠慧海(馬祖道一の弟子)と禅僧(ここでは法師)とのやりとり(原文は漢文。現代語訳は大拙博士による)

法師「師は何の法を説いていらっしゃいますか」
大珠「私には人を説き落として、救ってやるべき法などない」
法師「禅師家というのはそういうものですか」
大珠「あなたは何の法を説いているのか」
法師「金剛般若経です」
大珠「もう何回説いたか」
法師「二十回以上です」
大珠「その経はそもそも誰が説いたのか」
法師「もちろん釈尊です。(ご存知のくせにバカにしないでください)」
大珠「もしそうなら、お前がそれを説くのは釈尊を謗ることになるぞ(釈尊は教説は説くものではなく心で直観的に理解するものだと言っているのです:筆者)。

ここで大拙博士は明言しています。
 ・・・釈尊は「金剛経」どころか「大般若」六百巻を説いている。これを説かぬと言ってよいか。説かぬのが本当なら、一巻のお経もあってはならぬわけだ・・・

筆者註 この一節は経典の講釈を専門にする法師(教相家)と禅師との立場の違いを言っているのです。禅の世界ではひたすら問答と坐禅を重んじ、経典の解釈は二の次にしているからです。そのため当時このような論争がよくありました。経典の文言にとらわれて論争している弟子たちに向かって、道元が「只管打座(ひたすら坐禅せよ)」と言ったのはこのためです。ただ、筆者は小学生に対して坐禅を進めている現代の禅僧の言葉を聞きましたが、何もわかっていない子供に「坐禅をしなさい」など言うのはナンセンスでしょう。仏教では一般に「教行一如(学ぶことと修行はともに必要だ)」と言っています。

 下線の部分にご注目下さい。筆者の予想通り、大拙博士は大乗経典類は釈迦の直説だと言っているのです。現代では、大乗経典類は釈迦の直説ではなく、死後数百年かけてインドの哲学者たちが作り上げた、ほとんど別の思想であることに疑いを持つ研究者はいないと思います。筆者は、大乗経典類を釈迦の直説とするかしないかで、仏教研究者の見識の一つの分かれ目としていますが・・・。

 なお、大拙博士は禅の根本経典は「般若経典類」であると言っています。しかし筆者は、以前お話したように、むしろ「法華経」の方が禅の思想的背景として重要だと考えています。たしかに「金剛般若経」にある「即非」の考えは禅の思想の一つではありますが、むしろ「空」思想の方が重要だと思います。なお、般若経の「空思想」や、あの龍樹の「空思想」は、禅の「空思想」とは異質のものであることは、すでにお話しました。

鈴木大拙 東洋的な考え方

鈴木大拙「最も東洋的なるもの」(新潮CDより)

 鈴木大拙(1870‐1966)は金沢の人。1897年に渡米して、ドイツ人の依頼で老子の「道徳経」の英訳仕事に従事。その翻訳作業を通じて、西洋と東洋のモノの考え方に違和感を感じることが多かった。

 大拙:たとえば西洋ではモノゴトを対立的に考える。恐らく主体(subject)と客体(object)とを分ける言語のスタイルから来ているのだろう。さらに、たとえば、Dogs have four legs.「犬が足を持つ」という言い方は日本人としては変だ。「犬には足が4本ある」だろう。そういうふうに主語を明示しないことも多い。さらに、言葉一つひとつの定義(概念)がはっきりしていない。たとえば西洋では「春風は暖かい」と「事実」を言うが、東洋では「春風駘蕩」と「感じ」を述べる。(以下筆者の感想:あるいは、それは西洋の国同士の言葉の違いによるのかも知れません。概念をはっきりさせないと意思が通じないからでは?。西洋ではそれらの言語的特徴が哲学にも影響を与えたのでしょう)。

 大拙:さらに、主体と客体をはっきりさせるという西洋の言語のスタイルが、人間と自然をも対立させることになったのではないか。それゆえ、「自然を克服する」とか、「人間の害になる虫や雑草を駆除する」という発想につながったのだろう。そのため自然は破壊され、貴重な生物種の絶滅の原因になった。東洋では「人間は自然と共存する」と考える。自然とは人間と対比させるものではなく、「自(みずか)ら然(しか)る」、つまり、「それ自身でそうなっている」と言う。(道元が「正法眼蔵」で言っている「現成公案」《モノはあるべきようにあり、「体験」によって現れる》という考え方ですね:筆者)。

 大拙:「自由」についても同様だ。西洋では「他からの束縛を離れる」ことを言うが、東洋では「自らに由(よ)る」とまったく別の意味で使う(すなわち、「自分をよりどころにし、他人に頼らない」というのです。素晴らしいですね:筆者)。
 西洋と東洋はますます近づいて来ており、これらの「西洋的なモノゴトの考え方」と「東洋的な考え方」をうまく融合させることが重要になって来る。でないと、対立や疑心暗鬼が深まるばかり。これからは両者のモノゴトの考え方の長所を出し、欠点を補い合うことが大切だ。

 以上が鈴木大拙博士の講演の要旨だと思います。

 じつは、「主体と客体を対立させない」ことこそ禅の要諦なのです。筆者がこのブログシリーズで何度もお話しているように、「空(くう)」のモノゴトの観かたそのものです。「モノがあって私が見る」という唯物的な考え方とは異なり、「モノを見るという体験こそが真実である」と言うのです。そこでは「見る私と見られるモノ」は一体になっているのです。その体験は一瞬であり、まだいかなる価値判断も生じない段階なのです。禅の代表的な公案の一つ、「父母(ぶも)未生(みしょう)以前のこと」とはこういうことなのでしょう。