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法華経と道元、良寛さん、賢治(1,2)

法華経と道元、良寛さん、道元(1)

 はじめに

 「法華経」は初期大乗経典(般若経、法華経、維摩経、無量寿経、阿弥陀経)の一つであり、紀元1世紀から紀元3世紀までに成立したとされています。現代でも法華宗系統の宗派では「釈迦が最後にお説きになった最高の経典」と考える人が多いです。しかし、前にも書きましたが、この経典は釈迦の思想とはほとんど無関係です。現在でも法華経を根本経典とする宗派は、日蓮宗、創価学会、立正佼成会、顕正会など数多くあり、信者(世帯)数は1600万人以上に上ります。

 筆者は30数年前に初めて法華経を読んだとき、「???」と思いました。「法華経はすばらしい」「法華経はすばらしい」と書いてあるばかりで、なかなか本題に入らないからです。結局本題はよくわかりませんでした。たとえば源氏物語の中に「源氏物語はすばらしい」「源氏物語はすばらしい」と書いてり、源氏物語の本文がなかったら、やっぱり変でしょう?そうしているうちに、すでに同じようなことを言っている人がいることを知りました。

法華経は効能書きばかりで中身がない薬のようなもの

 江戸時代の学者富永仲基は、「法華経一部、只讃言のみ、仏を讃めたたえるか、自画自賛する言葉だけで教理らしきものは説かれていない。経と名づけるに値しない」と言っています(註1)。さらに、平田篤胤(1776-1843、 古神道の復活に寄与した人。以前お話した「勝五郎再生記聞」の著者 註2)も、「みな能書きばかりで、かんじんの丸薬がありはせぬもの」と言っています。

註1「出定後語」(日本思想大系43・富永仲基・山片蟠桃)の作者。のちほど改めてお話します。

註2「出定笑語」。富永仲基の「出定後語」をもじったもの。両著についての検討は菅野博史氏の東洋大学紀要に詳しい:https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/15718.pdf

 一方、現代の尾崎正覚さんは、「仏教学者の中には、『法華経そのものは、仏が広大な功徳を持つ有り難いお経を説いたと述べるだけで、説かれた筈の肝心の経の内容については何も説かず、恰も薬の効能書きだけで中身のない空虚な経だ』と言う者もいる。然しそれは正に彼等が仏法を知らないことを自ら暴露するものである」と言っていますが・・・。

 その後筆者は、敬愛する良寛さんや道元禅師が深く「法華経」に傾倒していることを知りました。「正法眼蔵」には別巻として「法華転法華」の巻がありますし、良寛さんには、「法華転」と「法華讃」という、文字通り「法華経」を礼賛した詩があることもわかりました。・・・と聞けば看過することはできないと、再びできるだけ精密に「法華経」を学び直しました。これからのシリーズはそれを基にしています。

 まず、本題に入る前に、皆さんにぜひ確認して置いていただきたいことがあります。それは「法華経」は釈迦の思想とはほとんど無関係だということです。「法華経」は、上述のように、いわゆる大乗経典の一つであり、釈迦の死後数百年も経ってから成立した経典です。つまり、釈迦の思想はそのごく一部にしか残っていないのです。これを「大乗非仏説」と言い、大乗教典類が成立したころから言われていました。そして、現在ではほとんど定説になっていますが、それを初めて体系立てて述べたのは江戸中期の学者富永仲基(1715-1746)です。仏教の経典のすべてを集めたものを一切経(大蔵経とも)と言い、約5000巻あります。富永がそれをすべて読破したかどうかはわかりませんが、「さまざまな経典は、必ずそれ以前の考えを乗り越えるものとして成立した」という、「加上説」を唱えました(前出「出定後語」)。それ以前は、経典はすべて釈迦が説いたものだと言われていましたから、後代、だんだん積み重ね(増広)られて行ったと看破した富永は恐るべき天才と言えるでしょう。道元はもちろん「法華経は釈尊が直接お説きになったものだ」と確信していたでしょう。良寛さんは、富永より50年くらい後の人ですが、当時の国情から考えれば、富永の考えは知らなかったと思います。

 追って「法華経」の内容についてくわしくお話しますが、「法華経」は釈迦の思想とはほとんど無関係だとすれば、道元も良寛さんの考えもよほど変更を余儀なくされるでしょう。それでも道元は「法華経は経典の王である(「正法眼蔵 帰依仏法僧宝巻」」と言えるかどうかですね。

法華経と道元、良寛さん、賢治(2)

 まず、「法華」とは法(宇宙真理)の華(花)という意味で、「法華経」はそこからつけた名前です。「法華経がまずあって」ということではありません。前回お話したように、「法華経」のような大乗経典類は、それまでの初期仏教(部派仏教とも)に対する批判から成立しました。それまでの初期仏教では、修行者自身がお寺などに籠り、ひたすら自己の悟りをめざして瞑想などをしていました。「それでは大衆のためにはならない」と、「自未得度先度他」(たとえ自分が悟りを得られる前でも、他の人の悟りへの道を助ける)を重視して大乗の教えが発達したのです。それは現代でも、法華宗の信者たちが、ともすれば強引に折伏する態度によく表れています。
 「法華経」の崇拝者たち(道元ですら)が、初期仏教のことを「小乗」と称していますが、以上の経緯から名付けた貶称(バカにした言葉)なのです。筆者は大乗経典も尊重していますが、まず釈迦自身の思想をぜひ知りたいと思っています。その意味で、釈迦の思想そのものを色濃く残していると言われる初期仏教の経典(パーリ語経典類)に強い関心を持っています。
 たしかに釈迦は傑出した思想家でしたが、古来インドには哲学的国民性があり、釈迦以降にも沢山のすぐれた思想家が出ています。「法華経」などの大乗経典類の作者は知られていませんが、釈迦に劣らないほど優れた人だったのでしょう。その人たちが大乗仏教を盛んにする一方、現代ではむしろ、仏教とは異なるヒンズー教などが主流を占める原因となっているのです。これらの事情をよく念頭に置いて「法華経」を学んでいただきたいのです。

 法華経とは

 「法華経」には四つの大きな論点があると思います。第一が、「初期仏教にはない最高の教えを説いている」とする点で、一乗の教えとか、阿耨多羅三藐三菩提、あるいは無上正等覚と呼ばれるものです。第二は、「すべての人には仏性(仏となれる素質)があるというものです。第三が、「善悪、美醜、貧富など、一切の対立概念がない」こと、そして第四が上で述べた「自未得度先度他」の思想です。

 では「法華経」で説く最高の教えとはなにか。じつは、「それは最高の悟りに達した者だけがわかる」と言うのです。すなわち、

「法華経方便品」には、

 ・・・舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ(下線筆者)・・・

最後の下線は、よく知られた漢訳の「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」です。そして「如来寿量品」には、

 ・・・三界に住む者が三界を見るようなことではない・・・

とあります。つまり、「三界(欲界・色界・無色界)を輪廻するお前たち衆生が見る世界とは違う」と言っているのです。
                           (以上、日蓮宗精勤山西鶴寺 加藤康成師訳)

 まったく、「あれだけ重要な経典だ、重要な経典と言っていながら、いい加減にしてくれ」と言いたいですね。それが筆者が最初に読んだとき「???」と思ったところなのですが、道元や良寛さんはちゃんと読み取っているのです。以下、道元の「正法眼蔵」や良寛さんの「法華讃」を参考にして筆者が理解できたところをお話します。結論から言いますと、最高の悟りに達した者が見るこの世の姿と、大衆の見る世界とはまったく違うのです。そして、「法華経」はやはりすばらしい経典だったのです。

神は実在されます(1)

神は実在されます(1)

 筆者がこのブログシリーズを書いてきて、「宗教とは」をお話するキーポイントは、神と死後の世界の実在について、筆者がどう受け止めているかをお伝えすることだと感じています。神や死後の存在を「受け止められない」とか、「そこがわかれば」と言う人は多いはずです。そして、それらが納得できれば、大震災などで大切な人を亡くした人たちの心がどれだけ癒されるかわかりません。

 以前お話したように、筆者は神の実在を確信しています。筆者は生命科学の研究者として生きてきました。その過程で、たくさんの人たちの協力で、あるたんぱく質の遺伝子構造を明らかにすることが出来ました。そのたんぱく質は、あるはたらきを持った酵素の一種で、各種のアミノ酸が重合したものです。まずそのたんぱく質を精製し、次いでアミノ酸の配列順序を明らかにしました。それを基にそのアミノ酸配列を決める遺伝子DNAの構造を推定しました。今度はそれを同じ構造を持つDNAを人工合成し、それを鋳型としてたんぱく質を合成しました。そしてそのたんぱく質の機能を調べてみますと、まさしく元の酵素たんぱく質の働きが再現できたのです。その遺伝子の構造を眺めている時、突然「生命は神が造られた」との考えが浮かびました。そのときは別に、神の存在について考えていたのではありません。「ハッ」と、「生命は神によって造られた」と確信したのです。

 生命だけではありません。じつは山も川も、それどころか宇宙も、その元になっている素粒子も、ダークマターもダークエネルギーも神が造られたと思っているのです。宇宙は138億年前のある時、ある場所でビッグバンという大爆発が起こって始まったことは、今では疑う人はいません。しかし、よく考えてみますと、そのとき宇宙は無かったのです。なにもないところであることが起こったのです。ここにすでに論理の絶対矛盾がありますね。それからはるかに時が経過して、地球上に私たち知的生命が存在しています。しかし、地球上で知的生命が生まれたのも奇跡としか考えられないのです。人間のような高等生物が生まれたのは、地球が太陽からの距離の100±1~2%のごく限られた範囲にあったこと、月という衛星がちょうどいい位置にあったことなど、偶然に偶然が重なったからです(註1)。

註1 ビッグバンから人類の誕生に至る出来事がすべて、奇跡としか思えないハプニングの連鎖によって起こったという筆者の考えの根拠については、いずれくわしくお話します・・・。

 いま、宇宙物理学も急速な進歩を遂げています。しかし、科学がどれほど進歩しようと宇宙や生命が生まれた仕組みがわかるだけで、なぜその仕組みができたのかまでは不可知なのです。たとえば、現在17種の素粒子が知られています(最近18番目の粒子の存在の可能性が出てきました)。しかし、なぜ17種類で、なぜそれらの粒子がそれぞれの性質を持たねばならなかったのかなど、永遠に説明しかできないでしょう。
 筆者はこのブログシリーズで、これまで、筆者自身が体験したことに限定し、神と死後の世界についてお話してきました。しかし、読者の皆さんには、それでもなかなか納得していただけないのです。そのお気持ちはよくわかります。いえ、筆者はそれらを実体験できたことをほんとうに幸運だったと思っているのです。
 しかし、
読者の皆さんには、自分が体験できないからと言って、「ない」とか「受け止められない」と決めつけないでいただきたいのです。「見えたり感じたりする人もいるのだ」と思って下さい。あのマザーテレサは、インドコルカタのキリスト教系の学院の一教師だったのですが、休暇のため避暑地へ向かう汽車の中で「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くようにという啓示を受けた」と語っています。それが「神の愛の宣教者会」の創立につながり、「見捨てられた人々」の救済のための人生を送ったのです。筆者は、テレサと修道女たちによるの神への奉仕の様子を長編のドキュメンタリーテレビを見て、涙が止まりませんでした。
 明治以前の人に、テレビや電話というものを説明するのに、いくら「遠くにいる人と話したり、その人の姿が見えたりする」と言っても、理解させることは到底無理でしょう。現代の私たちがそれらの存在を確信しているのに。

「沈黙」‐踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(1,2)

「沈黙」‐踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(1)

遠藤周作さんの「沈黙」が再評価されているそうです。来年には映画も公開されるとか。再評価の理由は、欧米で「従来のキリスト教信仰は、教会主導色があまりにも強かった。これからは個人が尊重される信仰に」との思いが大きくなったためと言われる。読んだことのない人のために、簡単にあらすじをお話しますと、

 ・・・島原の乱が終わって間もないころ、ローマへ「日本へ派遣されたフェレイラ神父が、苛烈な弾圧に屈して棄教した」という驚くべき報告がもたらされた。ただちにその弟子ロドリゴらが派遣された。二人は途中のマカオでキチジローに出会い、その案内で五島列島に潜入した。五島では、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われることになる。そして、幕府による弾圧にも屈なかったため、拷問の末処刑された信者たちの様子を目の当たりにした。逃亡し、山中を逃げ回っていたロドリゴは考えた「万一神がなかったならば・・・私は恐ろしい想像をしていた。彼がいなかったなら、殉教したモキチやキチゾウの人生は何と滑稽な劇だったか。多くの海を渡り、三か年の歳月を要してこの国にたどり着いた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見続けたのか。そして今この山中を放浪している自分も・・・」。やがてロドリゴはキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。

 神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、棄教したフェレイラが語りかける・・・その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。フェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに「踏み絵」を踏むことを受け入れる。

 ロドリゴはすり減った銅板に近づけた彼の足に痛みを感じた。しかし、そのとき、踏絵の中のイエスが語りかける。
 ・・・踏むがいい。お前の足は今痛いだろう。だがその痛さだけで十分だ。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ・・・。

 そしてロドリゴは踏み絵を踏んだ。ロドリゴは言う。
 ・・・主よ私は今まであなたが沈黙しておられるのを恨んでいました。あなたは沈黙していたのではなかった。あなたが沈黙していたとしても、私のこれまでの人生が、あの人について語っていた。私は今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。強いものも弱いものも無いのだ。強いものより弱いものが苦しまなかったと誰が断言できよう・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 つまり遠藤さんは、「信仰がどん底まで落ちて、初めて新しい信仰が始まる」と結論付けているのです。
 しかし、筆者は、遠藤さんの考えをとてもそのまま受け止めることはできません。筆者はまったく別の角度からこの小説を読んでいます。それについては次回お話します。

「沈黙」‐踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(2)

 「沈黙」は発表後一部の教会派から、強い批判を受けました。長崎県などでは禁書扱いだったとか。当然でしょう。あの地方は隠れキリシタンの「聖地」でしたから。筆者の今回のブログシリーズは、NHK「こころの時代」(2017年4月)に沿って話を進めています。しかし、これからお話することは、同じ情報についてですが、まったく異なる筆者の感想をお話します。

 遠藤周作さんは、お母さんの影響で12歳のときに洗礼を受けました。しかし、長い間、「合わない洋服を着ていた。自分の背丈に会うものに仕立て直さなければならない」と考えていたと言っています。そして、それが遠藤文学の大きなテーマだったと、遠藤文学の研究者であり、自身も熱心なクリスチャンである山根道公さん(ノートルダム清心女子大学教授)は言います。遠藤さんは、長崎の26聖人の殉教のその場や、外浦(そとも)の隠れキリシタンの住んでいた島を何度も訪れ、信者たちの話を聞きました。そして「沈黙」としてまとめたのです。山根さんは「『沈黙』のテーマは、遠藤さんが、モキチやキチゾウのような殉教者か、ロドリゴ司祭やキチジロウのような棄教者か、それともそれらを回りで見ていた人間なのかを確かめることだった」と言います。そして、遠藤さんは「私はキチジロウだった。母の私(遠藤さん)に対するキリスト者としての期待を裏切って来たからだ」と答えています。

 しかし、筆者は前述のように、遠藤さんの「沈黙」に込められた告白を素直に受け止めることはできません。結論を先にお話しますと、遠藤さんは、お母さんの期待を裏切って来たからどころではなく、まさに踏み絵を踏んだ人なのです。その理由は次のようです。じつは遠藤さんは、学生時代重症の結核に患かりました。そのとき、あまりの苦しさに「神などあるものか」という、キリスト者が決して口してはいけない言葉を吐いたのです。それを山根道公さんが「遠藤さんから直接聞いた」と証言しています。

 「神などあるものか」の言葉を吐いたことは、踏み絵を踏んだことと同じです。遠藤さんは結核が治ってから、その罪に苦しみ続けていたのではないでしょうか。26聖人の殉教地や、隠れキリシタンの里を訪れ、信者たちの話を聞いた時、客観的な目を通して取材していたのではなく、じつはその間、自分とはあまりにもかけ離れた「本物のキリスト者」すごさにおびえ続けていたのではないでしょうか。筆者は「沈黙」は、自分の罪を合理化(贖罪ではない)するために書かれたと思うのです。ロドリゴ司祭やキチジロウは架空の人物です。ロドリゴが、キリストの「踏むがいい」との言葉を聞いたというのも、フィクションですからいくらでも書けるでしょう。そして、「踏むがいい」と言われたとすることによって、自分の罪を正当化しようとした。つまり、遠藤さんにとって虫の良いフィクションではなかったかと、筆者は思うのです。

 前述のように、遠藤さんは「私は殉教者の立場なのか、棄教した人間か、それとも傍観者なのか」を見極めることが『沈黙』執筆の動機だった」と言っています。しかし、じつは初めから「自分は棄教者である」ことを承知し、その罪におびえ、何とか正当化したいと考えていたのではないでしょうか。遠藤さんは、ユーモアの人としても知られています。しかし、江戸時代の老人の格好をして銀座のバーへ行ったのは、ユーモアを越えているでしょう。その常識外れとも思える行動は、じつは踏み絵を踏んだことの罪悪感の裏返しではなかったかとも思います。そう考えると遠藤さんの行動が筆者の腑に落ちるのですが・・・。
 
 山根さんは「いま、欧米のキリスト教信者によって「沈黙」が高く評価されている」と言っています。「殉教などは教会が示す理想であり、もっと自由な信仰でありたい」という気持ちが、遠藤さんの『沈黙』に眼を向けさせた」と山根さんは言います。しかし、筆者はそうは取りません。欧米や中東の政治家や一般市民の多くは、熱心なキリスト教徒やイスラム教信者のはずです。しかし、その一方で、第一次大戦や第二次大戦、そしてその後の各国での様々な戦争で、大量殺人や虐殺をしているのです。まさに「神とは愛である」とのキリスト教やイスラム教の教理に反する行為でしょう。まともな精神を持った人間なら、それらの行為はまさに、自ら踏み絵を踏んだとわかっているはずです。したがって「もっと自由な信仰を」ではなく、「踏み絵を踏んだことを合理化させてくれる書」と勝手に解釈し、「沈黙」を評価しているのではないでしょうか。はたして、ロドリゴが踏み絵を踏んだことで、命を助けられた人たち(じつは彼らは結局殺され、ロドリゴの棄教は無意味だったのです)は喜んだでしょうか。筆者にはそうは思えないのです。

 最後に、筆者のこの感想は、信仰を持つ者としてのそれではなく、ロジックとしての疑問だということを付け加えさせていただきます。「沈黙」の発表当時、一部の教会派から批判された」のですが、それは教理にそぐわないからではなく、遠藤さんのこのごまかしが赦せなかったのだろうと思うのです。筆者もこの教会派も、遠藤さんには、はっきりと「自分は棄教した人間です」と告白して欲しかったのです。じつは、それだけで赦されるのです。これが神の愛だと思います。

 筆者は、このブログシリーズで、宗教学者の岸本英夫さんや、小説家の瀬戸内寂聴さん、吉村昭・津村節子夫妻の「信仰」について批判してきました。他人の信仰についてとやかく言っているのではありません。もちろん信仰は自由です。ただ、信仰を都合よく自分の信念に合わせたり、小説化することによって、本心を誤魔化したり、すり替えたりしないでほしいのです。

読者のコメントへの回答(1)

ブログに対するコメントへの回答

 最近ブログの読者から次のようなコメントがありました。

 >実に馬鹿馬鹿しい論理ですね。自己満足と自己陶酔に嵌っているだけでしょう
今の世に神話を信じている人がどの位居るでしょう。亡くなった人が神になったり石や木が神になったりはたまた動物まで神に、・・・誠に多種多様な八百万の神とは恐れ入ります。一神教の国も有り、此をどの様に整合されますか。鰯の頭も信心から・・・良く言ったものです。この世に神仏が存在するならば、震災も貧困も無くなるのでは。ましてや神仏が有るから戦争が無くならない事はお釈迦もキリストも知っていた筈です。弱い人類、不安だらけの人類を如何に洗脳で籠絡し、自分の主義主張を押しつけたのが宗教の始まりでは。・・・いい加減に他力本願を押しつける事は止めましょう・・・

筆者の回答:礼儀を弁えないのはあなたの品性の問題ですから、筆者には関わりがありません。第一、あなたのコメントが誰に向けられているかもはっきりしません。「無視しよう」とも思いましたが、「これから宗教の勉強を本格的に始めよう」としている人には参考になる点もあると思いますので、筆者の考えをお話することにしました。

 まず、あなたの考えはあまりにも素朴だと思います。

1)一神教か多神教か
 この問題は、それぞれの宗教・宗派の考え方ですから、筆者が関知するところではありません(筆者の考えはいずれお話します)。キリスト教やイスラム教のような一神教と、日本のような多神教の思想を統合するなど、まったく稔りのない議論になるでしょう。

2)この世に神仏が存在するならば、震災や貧困が無くなるか
 敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒の皆さんは、震災があろうと、貧困であろうと、神に対する絶対的な信頼は変わらないはずです。もし、争いも、貧困もなくなり、幸せばかりの人生ならば、この世に生きる意味がなくなってしまうのではないでしょうか。筆者など、極楽やシャングリラ(理想郷、あるとは思えませんが)では、暇でどうしようもないものになるでしょう。苦しみがあるからこそ、それを越えたとき喜びが湧くのではないですか。スピリチュアリズムでは、さまざまな苦しみを乗り越えて魂の成長を遂げることが、人間がこの世で生きる意味だと言います。
 この問題は、筆者のブログシリーズの主要テーマですから、これからも、折りに触れてお話していきます。

3)神仏があるから戦争が無くならないのか
 確かに世界の歴史はユダヤ教徒とキリスト教徒、キリスト教徒とイスラム教徒との争いの歴史だと言ってもいいでしょうね。それは現在でも世界各地で起こり、凄惨な殺し合いが行われています。しかし、正しくは、神仏があるのに戦争が無くならないのだと思います。戦争もするのもしないのも人間の意志です。

4)他力本願の押し付けかどうか
 イスラム教やキリスト教は法然の浄土思想と同じ、「ただひたすら神を信じる」ですね。他力思想です。滅多なことを口にしない方がいいと思います。あなたのこの考えを「神は偉大なり」とするイスラム教徒過激派が知ったらどう思うでしょう。

飯田史彦さんについての疑問(1-3)

死後の世界と生まれ変わり(5)-飯田史彦さんについての疑問(1)

  飯田史彦さん(1962‐)は福島大学経済学部経営学科教授。「生きがいの創造」「同II」「生きがいの本質」(PHP文庫)など著書多数。さらに活発な講演活動もしている人です。とくに、飯田さんの「生きがい・・・」シリーズは全部で130万部以上の大ベストセラーになったということです(「生きがいの創造」での著者紹介から)。それだけこのシリーズで紹介した「人は死んでも魂は不滅」とか、「いつかまた死者に会える」、「生まれ変わってまた家族になれる」などの言葉が、多くの人に死の不安や家族を失った悲しみを癒してくれると受け取られたからでしょう。しかし、筆者はこの飯田さんの発言に強い疑問をもっています。それをお伝えするのが今回以降のお話です。

 飯田さんのこれらの著作を読んですぐ気が付いたのは、これらのシリーズの随所に「批判に対する予防線」や「自己弁護」が目立つことです。もちろんその理由の一半は筆者にもよくわかります。飯田さんのような大学の研究者が、スピリチュアリズムについて話すのには、学内外からの大きな抵抗があるからでしょう。「いったいそんな不確かなことを大学教師が言っていいのか」とか、「それらの発言はあなたの研究とどういう関係があるのか」とか、「沢山の著書を出しているが、大学での研究や講義に差し支えないのか」などの批判です。筆者も研究者でしたからから、それらの批判があることはよくわかります。飯田さんのさまざまな「予防線」や「自己弁護」は、恐らく著書を発表する以前からたくさんの指摘があったからでしょう。

 しかし、飯田さんのさまざまな発言や活動については、それらを越えた本質的な疑問があるのです。つまり、飯田さんの言動の根拠が正しくないからです。じつはご本人もそれを感じているらしく、「生きがいの本質」では、「まちがっていたかもしれない」と反省しています。しかし、それも自己批判ではなく、たくみに論理のすり替えをしているのです。
 
 飯田さんに対する筆者の疑問は次のようなものです。

 1)飯田さんの所説の独創性
 飯田さんの初期の著作「生きがいの創造」「同2II」HP 文庫)を読んで、まず筆者が感じた重要な疑点は、「はたして飯田さん自身もブライアン・L・ワイス博士らのような「退行催眠による前世療法を実践しているかどうか」です。それがなければ、同著は科学研究報告書ではなく、独創性もない、たんなるお話になってしまいます。筆者はもちろん飯田さんが医師でないことは承知しています。しかし、専門医と共同研究をし、現場に立ち会い、結果の判断などに関与することはできたはずなのに実践していません。たしかに飯田氏さんは奥山輝美医師(註8)との共著「生きがいの催眠療法」(PHP研究所, 2000)を出版していますが、内容はすべて奥山さんの医療実績であり、よく読めば実際には飯田さんはまったく関与していないことがわかります。それは、同著の「おわりに」の部分で奥谷さんが、

 ・・・(私の実践している)「催眠治療による生きがい療法」の基礎理論は、プラトン哲学、ゲシュタルト理論とユング心理学が主体となり、脳神経外科と東洋医学の知識と経験が媒体となり、それらに飯田史彦先生の「生きがい論」がコーテイングされて「生きがい療法」という形に仕上がっている(下線筆者)・・・

と言っていることから明白です。つまり、筆者の予想通り、共同研究でもなんでもないのです。にもかかわらず飯田さんが主著者になっているのは理解に苦しみます。好意的に見ても「奥山さんの実践の成果を(おそらく奥山さんが多忙のため)代筆しているだけなのです。ここに、飯田さん自身の研究者としての良心が疑われるのです。

註8 奥山クリニックの最近のHPを見てみますと、2017年までの20年間に4000例の「光の前世療法」をしており・・・施療を受けた人は「解決したいテーマについて光と対話していただき、神託を得ていただきます」とか、「輪廻転生から離脱します」とかの、信じられないような効果がうたってあります。奥山さんは上記の書で、次のようにも言っています。
 ・・・「催眠治療」は、誰が(催眠を)誘導しても同じではない・・・誘導する先生のテクニックと経験はもちろんのこと、その哲学と理論的裏付けによって、たとえ同じ過去生を経験したとしても、得られる結果はまったく違ったものになる可能性がある・・・
まさに語るに落ちた、唖然とするような発言だと思います。

2)飯田さん自身の霊的体験
 次の筆者の疑問は、「はたして飯田さん自身のスピリチュアリズムの体験」はどの程度のものか」でした。霊的体験のない人がこのような問題を公言し、著書を書けば、たんなる「また聞き」になってしまうからです。「生きがいの創造」に、「私(飯田さん:筆者)の霊的体験は『生きがいの創造II』で示します」とありましたので、早速読んでみました。そこには、多くの読者からも「飯田さんが『生きがいの創造』で一言だけ書いている、ご自身の体験とは、具体的にどのようなものでしょうか?」という質問が多かったとありました。

 しかし、そこに書かれておりましたのは「自死やガン死をした霊との交信体験と、霊の謝罪の気持ちを遺族に伝える『魂のメッセンジャー』としての活動」と、「まぶしい光からの『これをお前の使命として与える』とのメッセージ(註9)だけでした。つまり、退行睡眠による前世療法などとは一切関係なかったのです。それだけでは「他人の〇〇で相撲を取る」こととまったく変わりません。少なくとも飯田さんの言説が「人を救うため」にあるのならば、一つの思想科学として十分な検証がなされていなければなりません。筆者のこのブログシリーズは、すべてそういう基本的態度でお話しています。

註9 こう言った「光からのメッセージ」は、まず疑ってかかるのが、スピリチュアリズムや神道に関心のある者のあるべき基本的態度です。

 3)飯田さんの「霊魂不滅」や「生まれ変わり」の根拠となる知見がどこから得られているのか
 飯田さんが自説の根拠としているのが、ほとんどブライアン・L・ワイスが実践した「退行催眠による前世療法」で示された臨床例だけであることは明らかです。しかし、すでにご紹介した、「前世を語る子供たち」の著者イアン・スチーブンスンは、退行催眠による前世の探求には重大な欠陥があることを指摘しています。それについては以下に紹介します。しかし、それを待つまでもなく次の飯田さんの文の一節から明らかなのです。すなわち、ブライアン・L・ワイスと被験者キャサリンとのやりとり(「生きがいの創造」p54)、

ワイス:あなたの名前はなんですか?
キャサリン:アロンダ・・・私は18歳です・・・(中略)・・・時代は紀元前1863年です・・・

おわかりでしょうか。なぜ彼女が「今」いるのが「紀元前」とわかるのでしょうか。紀元前とか紀元後という概念は、キリスト以降の人が規定した年号なのです。キャサリンが生きているのが「紀元前」であることが分かるはずがありません。キャサリンの答えは明らかにフィクションなのです。飯田さんはそれに気付かずに引用しているのです。次回にも述べますが、これが「退行催眠による前世療法」の危険の一つなのです。

 飯田史彦さんについての疑問(2)
 
 ここで改めて、「前世を記憶する子供たち」の著者イアン・スチーブンソンによる、「退行催眠による前世医療法」に対する警告についてお話します。まずご注意いただきたいのは、スチーブンソン自身、「退行催眠による前世の復元」を何度も実践していることです。その経験の上に立って、「退行催眠・・・」の危険性を指摘しています。すなわち、

 ・・・催眠状態にある被験者(患者:筆者)の注意は、驚くほど集中した状態になっている・・・こうした集中力をさらに高めて行く中で被術者の思考の主導権を施術者(催眠を誘導する人:筆者)に委ねてしまうため、施術者の催眠暗示に抵抗できにくく・・・催眠によって誘発される特殊な服従状態の中で被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしいものを物語らずにはいられない衝動に駆られるため、現世の生活の中からそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶が全くなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれない・・・また、被術者は催眠のもう一つの特徴である演技力を利用することも多い、記憶の中に潜んでいるいろいろな情報をつなぎ合わせ、それをもとに「前世の人格」を作り上げてしまうのである・・・(以上下線筆者、「前世を記憶する子供たち」p71‐72、長いため筆者の責任において一部簡略化しています)

 催眠術に少しでも学術的な興味をお持ちの方なら、十分納得のいく論述でしょう。以上、実際に「退行催眠」を行っているスチーブンソンの経験として、十二分に尊重すべきではないでしょうか(註10)。スチーブンソンはさらに、

 ・・・薬物を使うにせよ(幻覚剤LSD:筆者)瞑想(による方法もある:筆者)や、催眠(による方法もある:筆者)を利用するにせよ、前世の記憶を意図的に探り出そうとすることにはあえて反対の立場をを取りたいと思う・・・心得違いの催眠ブームを、あるいは前世と思しき時代まで遡る大半の催眠実験の、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を・・・何とか終息させたいと考えている(p7、下線筆者)・・・

と明言しています。前述の奥山医師が実践している「前世療法」は、まさにそれです。

 もちろんスチーブンソンは、「退行催眠による前世の探求」を全否定しているわけではありません。
・・・結果については懐疑的ではあるが、全てを無意味だとして切り捨てているわけではない(p78)・・・
とし、前述の「真正異言」のケースを例として挙げています。

前世療法の根本的矛盾
 退行催眠によって神経症の問題点を突き止めるというのは、取りも直さず中間生(前世と現世の中間:筆者)で決めた「課題」を知るということです。「課題」は、現世で起こったことから「自ら知る」ことが何よりも大切なはず。それを人の助けを借りて知ってしまえば「答え」を知ることになり、スピリチュアリズの根本原則に反することになります。これこそ重大な問題点でしょう。

註10 スチーブンソンは「患者の作り話」説以外にも、「霊の憑依によるもの」について触れています。つまり、こういう、自分としての意識が極端に低下している状況では他の霊が憑依し、患者の口を借りて発言することがありうるのです。それに関する筆者の体験ついては、いずれお話します。前回、「阪神淡路大震災で死んだ少女の前世記憶は他の霊の記憶との混信でしょう」と筆者が紹介したケースはこのようなケースの一つだと思われます。

 4)飯田さんの自己批判には論理のすり替えがないか:
  飯田さんには、「生きがい・・・」シリーズを書き進めるうち、読者から多くの厳しい批判が寄せられていたようです。そして、それらの中には、看過できないような重大な指摘があることを気付いていたようです。そのため、おそらく版を進めるうちに、それらの批判に対する「予防線(反論封じ)」を、気になるほど随所に張ったのでしょう。それどころか、「生きがいの創造II」の冒頭で、

 ・・・「こんなこと絶対あり得ない」と拒否する方は、どうぞ目くじら立てないで、きらびやかなファンタジー(空想小説)として、お楽しみ下さい・・・「こんなことがあったらいいなあ」と願う方は、どうぞ、わくわくしながら、夢をかなえてくれるエンターテインメント(娯楽)として、お楽しみください・・・

とあります。驚くべき無責任さです。さらに、飯田さんの著作や講演、そして自死やガン死に霊魂たちと遺族たちとのメッセンジャーとしての実践活動の主目的は、「ただ何かの御縁で目の前にいらっしゃる、その御方を救いたいだけ」と明言している以上、それらの根拠が、ファンタジー小説やエンターテインメントであっていいはずがありません。それどころか、現実に飯田さんの「生きがい・・・」シリーズは多くの反響を呼び、人々に影響を与えているのです。これこそ、科学者としての基本的態度が問われるところです。

 飯田史彦さんについての疑問(3)

 5)科学者としての飯田氏の態度:
  飯田さんは、
  ・・・第一作の『生きがいの創造』は、死後の生命や生まれ変わりに関する各国の大学教官や医者たちの研究成果をご紹介し、私たちはどのようにして生まれてきたのか、という仕組みの観点から、人間の「生きがい」について考察しました。私自身は、決して“真理の解明”に興味があったわけではなく、人間に生きがいをもたらす価値観とはどのようなものなのか、を新たな方法で追求したつもりでした。しかし、私の書き方が未熟だったために、私があの世や魂そのものの研究を行っているかのような誤解も生んでしまいました。私は「あの世」でなく「この世」の研究者であり、あくまでも、人間に生きがいをもたらすような発想法に興味を抱いていたにすぎません(下線筆者「生きがいの本質」p32)・・・

と言っています。しかし、飯田さんの「決して“真理の解明”に興味があったわけではなく云々」は、およそ科学者として許される発言ではありません。明らかに科学者としての踏み絵を踏んでいます。

 飯田さんはさらに、
 ・・・私は、人間の生きがいについて、人間の価値観というものに焦点をあてながら研究している学者ですから、何が真理であるかということよりも、どのような価値観を選び取ることが人間に生きがいをもたらすのだろうか、という問題意識を貫いています。なぜなら、真理であるかどうかという判断不可能な問題にこだわってしまうと、かえって自分自身を、出口のない迷路へと追い込んでしまうからです(下線筆者「生きがいの本質」p345‐346、「CD付き{新版}生きがいの本質」p332‐333)・・・

と唖然とするようなことを言っています。「なぜなら、真理であるかどうかという判断不可能な問題にこだわってしまうと、かえって自分自身を、出口のない迷路へと追い込んでしまうからです」とは!こだわる?出口のない迷路へ追い込む?・・・自己弁護以上の詭弁でしょう。

 加えて飯田さんは、
 ・・・催眠療法中に受け取るイメージについて、たとえその記憶が、受診者の脳が創作した空想物語にすぎないとしても、その物語を活用することによって症状や苦悩が改善されるのであれば、「脳が与えてくれた素晴らしい贈り物」として、医学的見地から大いにありがたく役立てるべきだからです。
 少なくとも、あらゆる可能性に心を開こうとする真の医療関係者であれば、その物語を活用して前向きに生きようとする人々の努力を、それが真実であると物理的に証明できないという理由のみによって、馬鹿にしたり否定したりはできないはずです(下線筆者)・・・

と持論を展開しています。「物理的に証明できなければ、科学的に証明できない」?もしそうなら、あらゆる心理学や精神療法はまちがいということになってしまいます。心理学や精神療法はまぎれもなくサイエンスです。つまり、物理的に証明できなくても、科学的に真理に近づけるのです。イアン・スチーブンソンの研究をくわしく検討すれば納得できるでしょう。飯田さんは明らかに論理のすり替えをしているのです。

 驚くべきことに、飯田さんはその一方で、
 ・・・私の著書は、空想小説ではなく「科学的考察を基にした思想書」(「生きがいの本質」p349)です・・・

と言っています。飯田さんは以前、「空想小説としてお楽しみください」とか、「真理の解明に興味があったわけではなく・・・」
と言ったではないですか!なのにここで、「科学的考察を基にした思想書」とは!「言いも言ったり」です。「科学的根拠を持たない科学的考察を基にした思想書」と言うべきです。

 科学者としてばかりでなく、こんなに重要な問題を人々に伝えるためには、真理であるかどうかを徹底的に追求しなければならないのです。飯田さんとまったく対照的なのが、イアン・スチーブンスンのスタンスです。スチーブンソンは、「前世を記憶する子供たち」の事例を2600以上集め、確かなものと不確かなものをさまざまな基準で峻別しています。それどころか、ワイスの「退行催眠」すら実践し、両者にまつわる危険性を明示しています。そして、最後に残された事例だけについて診断しているのです。一方、飯田さんは、「こだわると迷路に迷い込む」というネガテイブな語句を使って、巧妙に自分の態度を正当化しているのです。科学者としても、良識ある人間としても許されないはずです。

 その一方で飯田さんは、「生きがいの催眠療法」において、
 ・・・私は本書に記してあるような内容を、大学の「経営学」関係の講義中や、ゼミナールで学生たちに話すことは、一切いたしておりません・・・さらに、大学での私は、専攻する「経営学」(経営戦略論および人事管理論)の研究者として、勤務時間の全てを通じて「経営学の学術的研究」に専念しており、「経営学」に関するガチガチの学術論文を、コンスタントに発表しています(「生きがいの創造II」)・・・

と言っています。しかし、「人間に生きがいをもたらす価値観とはどのようなものなのか、を新たな方法で追求したつもりでした」の発言はまさしく飯田さんの「経営学(人事管理論)」の学術目的に沿ったものでしょう。これでも「研究や講義やとはまったく別」と言うのでしょうか。「勤務時間の全てを通じて云々」は、レトリックです。研究は「勤務時間以外」にもするものなのですから。

 飯田さんもここまで来ては後戻りなどできなくなっているのでしょう。しかし、これまで多くの著書やたくさんの講演を通じて、多くの人々に誤った感動を与えているのです。さらに、すでに日本各地に、おそらくワイスや飯田さんの強い影響を受けて、退行催眠による心理療法を行う有料のセラピストも輩出しているのです。筆者は、飯田さんの実践している「魂のメッセンジャー」としての活動を否定はしません。しかし、誤った根拠に基づく「前世療法」思想をこれ以上広めてはいけません。

 筆者はけっしてブライアンL・ワイス博士の「退行催眠による前世療法」をトータルに否定しているわけではありません。しかし、前述のように、この方法には強い疑問があるのです。飯田さんはイアン・スチーブンソンによる批判を知らなかったのでしょうか。それとも知っていて目をつぶっていたのでしょうか。前者なら、科学者として信じられないような怠慢ですし(筆者は当シリーズのように、ワイスの研究、スチーブンソンの研究、そしてシルバーバーチの霊訓をセットとして考察しています)、ことさらに無視したのならなら、不実としか言いようがありません。

 「人間としてもっとも重い罪は、人に誤った神理を伝えることだ」と聞いたことがあります。