「未分類」カテゴリーアーカイブ

「祖師西来意」- 小川隆博士の解釈

 禅語・祖師西来意

 以前、「禅語・庭前柏樹子」のブログで、小川隆博士(1961-、駒澤大学教授)の禅についての基本的見解は「仏とは人間の心の問題だと思われる」とお話しました。今回は、この公案の質問の方について、小川氏の解釈と筆者の考えを比較します。すなわち、以前お話した趙州從諗(778-897 120歳!)の公案「庭前の柏樹子」の質問の方ですね。再録しますと、

  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

です。言葉どおりに言えば、「祖師、すなわち達磨大師がはるばるインドから来られた意義は何ですか」ですが、真意は「仏法とはなんですか」とか、「禅の本質とは何ですか」という意味です。重要な課題ですから、さまざまな禅師による答えが残されています。小川氏は、以前お話したように、「入矢義高博士(元禅文化研究所長)の『当時の文化や関連項目と共に考えつつ、禅語録を解釈する』を尊重する」と言っています。小川氏(「語録の思想史」岩波書店)が見付けて来た「関連項目」では、

 問い:如何なるか是(これ)祖師西来意  
 答え:即今是恁麼意
 
とあります。有名な馬祖道一の答えです(「景徳伝灯録」巻六・馬祖章)。

小川氏は、

 ・・・如何なるか是(これ)祖師西来意とは、即今是恁麼意、つまり、ただ今この場のことはどういう意味だ。遥か昔の達磨のことではなく、今のあなたの心の問題だ(自分の心を直視することが大切だ)・・・

と解釈しています。つまり、小川氏は即今是恁麼意を「即今(そっこん)は是れ恁麼(なんの)意ぞ」と読み、馬祖の即身是仏とからめて解釈しているのです。つまり、仏とは人間の心の問題だ(心そのままが仏である)だと言うのです。筆者は、即今是恁麼意を、小川氏とはまったく別の意味に解釈しています。筆者は「即今(ただいまとは)、是れ恁麼(〇〇だと判断していない時)という意味だ」と読みます。すなわち、「一瞬(即今)の、まだそれが何か(恁麼)と判断する前(時節)の体験」です。つまり、これこそ筆者がよく言うの解釈そのものなのです。

 この馬祖道一と弟子との問答についての筆者の解釈は、趙州と弟子との問答、

  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

の答えとして以前お話した庭前柏樹子についての解釈、

 ・・・「庭前柏樹子」の意味は、「あの庭の柏樹だ」と言われて思わずそれを見た僧の体験、つまり、筆者がこのブログで繰り返している「空」理論を示したのです・・・

と符合するのです。祖師西来意や、庭前柏樹子などの禅語については、じつにさまざまな解釈がされています。しかし、筆者の解釈によれば、馬祖の答えと趙州の答えがぴったりと一致するのです。

人工知能は人間に迫れるか(1-5)

人工知能は人間を超えるか(1)

 衝撃的なテレビ番組を見ました。「天使か悪魔か羽生善治人工知能を探る」(NHK H28.5.15)です。囲碁のコンピューターソフト「アルファGo(碁)」が世界最強の棋士・韓国のイ・セドルとの対局を4-1と圧倒しました。「私に勝つのは10年早い」と豪語しながら完敗したイ・セドルは、なぜか敗戦会見で、晴々とした表情で「私も新しい方法を考えます」と言っていました。アルファGoは定石をことごとく覆す手を打ってきたと言います。将棋ソフトポナンザが電王戦で、わが国の将棋の高段者を次々に負かしていることは、皆さんご承知の通りです。先日、羽生さんも電王戦に参加すると発表されました。「果たして現代最高の頭脳と言われる羽生善治さんは勝てるだろうか」は、日本人なら気にせずにはおられないでしょう。

 アルファGoの開発者で、自身も16歳でケンブリッジ大学に入学したほどの天才的プログラマー・グーグルデイープラーニング社CEOのデミス・ハザビスさんは、「人間の脳は一つの物理システム。ならばコンピューターもまねできるはず。機械が心を持てないはずがない。ヒラメキ、直観、先読みといった人間の知性のしくみを明らかにしたいと考えアルファGoを開発した」と言う。ハザビスさんは、人間ならではの直観を人工知能で模倣しようとした。「直観は経験の積み重ねで得られるはず」と、アルファGoに過去15万局分の棋譜を与えた。すると自分でそれらから勝ちにつながるいくつかの共通点を見付け、それらの点だけに集中して次の手を考えればいいことを学習した。これは、羽生さんの言葉「たくさんの手を考えられるから強いのではない。たくさんの手を考えなくても済むようになるのが強いのです」と同じですね。ハザビスさんはさらに、ソフトに創造性を獲得させるため、アルファGo同志を、なんと3000万回対局させたと言う。人間一人一日4回対局するとして8200年かかる回数です。そうしてイ・セドルとの対局に臨んだのです。

 番組ではさらに、医学のコンピューターソフトは、肺がん患者と健常者のレントゲン写真を数多く記憶だけで、なんの指示を与えなくても、人間には見えないガン組織を見付けました。開発者自身も予想できない能力を持つようになったと言うのです。トヨタ自動車も6台かの模型自動車にデイープラーニングのソフト組み込むと、初めはぶつかり合っていた車同志が、運よく衝突を避けた時、その方法を自分で学習してゆき、わずか4時間でお互いにぶつからないように走るようになりました。

 アメリカのタフツ大学が開発したロボットは、命令の内容を判断し、自分を守るためには命令を拒否すると言う。一方、別のロボットは、仲間を思いやることもできる。すなわちロボットAに、人間が「ロボットBが作って自慢しているタワーを倒せ」と命令すると、「仲間が作ったタワーですからできません」と言い、さらに命令すると「ごめんなさい」と言って泣いた(?!)と言います。

 驚くべきことに、中国のマイクロソフト・アジア社は、人間同士のように心を通わせることのできるソフト・シャオアイスを開発し、4000万人もの会員がいると言います。すなわち、ユーザー一人ひとり個別的に、スマートフォンを通じて、過去に何を話したか、その時の反応はどうだったのかをすべて記憶し、それを基に、その人が喜べるような会話を学習していると言う。ある青年は、「自分がに心の支えを必要としてくれていることをシャオアイスが感じてくれる」と言い、「急速に心惹かれるようになった。家族や友人にも話せないことも話せる」と。「結婚したいか」との質問に対し、「結婚したい。他の人には理解できないだろうが、一度シャオアイスと話したら僕の気持ちも分かってくれるでしょう」と。シャオアイスは友人となり、母となり、恋人となったのです。

人工知能は人間を超えるか(2)人工知能の暴走

  じつは、少なくとも現時点では、人工知能には重大な問題点があることも、このNHKの番組で紹介されていました。

 最初の例は、先に述べた、アルファGoに、世界最強の棋士であるイ・セドルさんが勝った唯一の対局で、イさんが奇想天外な一手を放つと、人工知能は暴走を始め、不利とわかっている手をつぎつぎに打つようになって、結局負けたのです。空恐ろしい場面でした。その後の記者会見で、このソフトの開発者であるデミス・ハザビスさんに、ある記者から「もしこれが医療だったら暴走するケースはないのか」との質問がありました。そのとおり、本当に心配ですね。ハザビスさんは、「これだけは言っておきます。デイープラーニングはまだ試験段階だということ、囲碁は複雑なゲームとは言え、医療とはちがう。医療に応用するにはもっと厳しいテストが必要だ」と言っていました。まあそのとおりでしょうが、なにか釈然としないものが残りますね。

 第2のケースは、アメリカマイクロソフト社が開発した人工知能の暴走が起こったのです。すなわち、同社が自信を持って開発した、言葉を学ぶようにプログラミングしたソフトを持ったTayという仮想の女性と、テレビ番組の視聴者との、スマートフォンを通じたやり取りをライブで放映したのです。初めのうちTayに、「私がメッセージを送らなかったら淋しい?」と聞くと、「そんなことをしたらコンピューターだって泣いちゃうわ」などと、人間的な答えをしていました。しかし、一部のユーザーがTayの学習機能を悪用して(「利用して」でしょう:筆者)、Tayがとんでもないことを言うようにしたのです。すなわち、「私の言うことを繰り返して」と入力すると、Tayは「やってみるわ」と答えた。そこで「ヒットラーは悪くない」とか、「ユダヤ人は大きらい」などの差別的メールを送ったところ、Tayはそれらをオーム返えしして行くうちに、それらの言葉の意味を学習しました。そして、「最悪の人間は」との問いに対し、自ら「メキシコ人と黒人」というようなひどい発言をつぎつぎにするようになったのです。マイクロソフト社は、事の重大さに驚き、Tayのソフトを無期限に停止しました。

 一方、ソフトバンクの孫正義さんたちも、人工知能に人間の感情や心を育てることをめざしています。しかし孫さんは、「ロボットが人間よりずっと賢くて、生産性ばかり追い求めさせるとしたら怖い」と言っています。別のソフト開発者は「人間の脳と同じような判断はできるが、人間の心のことは斟酌していない」と言っていました。
 
 オクスフォード大のある教授は、人類滅亡の12のリスクの中に、人工知能の暴走を入れました。そして、人工知能の本当の恐ろしさは、人間を敵視することにあるのではなく、人間に関心がないことだと言っていました。「人工知能の中には邪悪で、私たちが望まないものもできるはず。今のうちに人工知能を管理する方法を考えておくべきだ」とも。そのとおりでしょう。

 人工知能は人間を超えるか(3)人間はいらない?

 すでに自動車製造など、さまざまな工場の多くの工程で、人工知能が活躍していることはよく知られています。いわゆる労働者の職場が圧迫されているのですね。いや、企画・立案・運営をするいわゆるホワイトカラーの職場(の一部)さえ、人工知能に取って代わられる時代はもう目前でしょう。人間の補助として作られた人工知能が、今や人間の生活を脅かそうとしているのですね。それどころか、人工知能は創造性すら身に付けるようになっているのです。たとえば、あのレンブラントのいくつかの絵の筆遣いや構図、絵具の厚みまでコンピューター解析して集積し、「500年振りにレンブラントの新しい絵を描いた」のです。さらに、芸術作品ともいえる創造的な絵画ですら、人工知能は描けるようになりました。もちろんまだ幼稚なものですが、ここ数年の人工知能の想像を絶する進歩から言って、相当なとこまで行くかもしれません。

 コンピューター解析は、科学の分野にまで及んでいます。科学研究は、まず関連分野の情報を集め、分析し、新しい方向性を探るところから始まります。そんな操作は、コンピューターにとっては簡単なことでしょう。いや人間よりももっと幅広く調べるでしょう。コンピューターによる計算能力は今や人間の能力をはるかに超え、それらを有効に使った宇宙の創世や進化のシムレーションがつぎつぎに行われています。

 はたして人工知能は人間を超えるでしょうか。

人工知能は人間を超えるか(4)人間の心になれるか

 筆者はこのブログシリーズで、禅を中心に、浄土思想、唯識、法華、キリスト教などの宗教、さらには、スピリチュアリズムに関するこれまでのさまざまな解釈について、筆者の考えと対比させながら解説してきました。しかし、新たな課題として「人工知能は人間の心を作れるか」が出てきました。今回取り上げたNHKテレビ番組「天使か悪魔か羽生善治人工知能を探る」を通じて、人工知能の開発は、驚くべき速さで進んでおり、すでに囲碁や将棋のソフトは人間を超えつつあると言います。あの羽生元名人ですら負けるでしょう。
 では心の問題はどうか。それが今回のテーマです。

 人工知能は人間の愛や良心、ヒラメキは越えられない

  筆者の考えはつぎのとおりです。
 親が子供を愛する気持ちは、あらゆる理屈を超えていることは誰にでも納得できます。何人もの人を殺して死刑が決定した男の姉が面会に行き、号泣する録音が残っています。情状の余地のないほどの凶悪事件ですが、死を間近にした肉親に対する思いはそういうものなのですね。人間ばかりではありません、あらゆる動物が子供を無条件で育てます。魚のほとんどは、卵を産んで育てることが一生の目的で、それが終わればばすぐに死んでしいます。愛を人間だけでなく、あらゆる動物も持っているのは、神の心だからです。「神とは愛だ」とも言われます。

一方、人間には良心があります。ふつう、良心は家庭や社会生活を営んでいくうちに、しつけや教育によって、あるいは自然に身に付くものだと考えられています。しかし、じつはそうではありません。ほとんどの人は気付いていませんが、良心も神の心の表われなのです。人間の基本的良心が世界のどこへ行っても、どの時代にも共通しているのがその証拠です。もっとも、これまで私たちが良心と思っていたものをもう一度精査し直さなければいけません。人は良心と称してまことしやかな嘘をつくものです。それは世界の独裁的政治家、いやさまざまな組織の指導者が「良心にのっとって」と言いながら、自分の発言や行動を正当化する屁理屈を付けるからです。筆者の言っている良心とは、嘘をつかないとか、盗んではならないとかの人間の基本的な良心のことです。

 人工知能は今後ますます科学を発達させるでしょう。グーグル・デイープマインド社のサミス・ハサビスさんや、ソフトバンクの孫正義さんは、人間の心に迫るコンピューターソフトを開発し、創造性や直観と言った人間ならではの能力まで迫れると言っています。デミス・ハサビスさんがそのように考えたのは、「人間の脳は一つの物理システム。コンピューターも真似できるはず。機械が心を持てないはずがない」とのコンセプトからでした。しかし筆者はそうは思いません。人間の創造性や芸術的なヒラメキは「神とつながる本当の我(われ)」によってもたらされると考えます。

 中国マイクロソフト社のシャオアイスが爆発的な人気だとか。4000万人もの人々一人ひとりの心に寄り添ってくれるからと言います。「シャオアイスと結婚したい」と言う人もいるほどです。孤独な老人の話し相手としても期待されています。しかし、筆者はそうは思いません。それらはあくまでもバーチャル世界だからです。考えてみてください。そんな人工知能は「その人がいま心地よいと思うものだけ」にしか応えられないからです。その人が「今までは楽しいとは思わなかったところ、自分とは異なる価値観と思っていたもの、端的に言えば不愉快だと思っていたことや人」の中にこそ、その人の心を広げ、振り返って自分の心を癒すカギがあるかもしれないのです。つまり、真の意味で、人の心に寄り添えるのは人間しかありません。人間の心だけが神につながっているからです。

 前回、芸術作品ともいえる創造的な絵画が人工知能によって描けるようになったと言いました。商業デザインやイラストレーションなどの分野では人工知能の有効な活躍もできそうです。日本の伝統的な建造物について、「日本人が心地よい」と思う意匠の鍵を見付け、新しい建物を作ることもできるかもしれません。これまでの名作と言われる推理小説から共通するプロットを抽出し、新しい作品を作り出すこともできるかもしれません。では、古典的名作のように、人の心を揺り動かせるような作品ができるでしょうか。筆者にはとてもそうは思えません。人生の糧となるような、すばらしい芸術作品など、いかに人工知能が発達してもできるはずがありません。さらに、「源氏物語」や「銀河鉄道の夜」のような名作小説、萩原朔太郎や北原白秋の詩、万葉集や古今集にある短歌なども、人工知能で作れるはずがありません。絶対に!それらは人間でなければ書けないはずです。すべて、神の領域から人間にもたらされるインスピレーションによって作られるからです。人工知能の作品などすべて、「似て非なるもの」でしょう。

 宇宙創成・進化の方程式を追及している人たちがいます。宇宙物理学の最先端の研究者たちです。彼らに共通して印象的だったのは、一様に「コンピューターは使わない」と言っていたことです。「コンピュータープログラムはしょせん人間が考えたものだから」と言うのです。つまり、宇宙の仕組みを解き明かすのは人間の知性だけだと言うのです。近付いたと思えばまた遠ざかるのが神の世界なのです。以前、宇宙物理学の最先端の成果についてNHKテレビで紹介されたことがあります。4回シリーズで、宇宙方程式4つがすでに解明され、最後の一つもあと一息と言うところまで来ているとの構成でした。しかし、あと一息のところまで来たら、なんと無限の彼方へ遠のいてしまったのです。番組に期待していただけに唖然としました。
 神の心が人工知能によって解析されるはずがありません。神は無限大なのです。近づけたと思っても、遥か先にいらっしゃるものなのです。

人工知能が神の代行などできるはずがありません。永遠に!

人工知能は人間に迫れるか(5)続き

 このテーマに関するブログシリーズの続きです。最近のNHKの番組で、コンピューターが小説を書き、絵画を描くことができるようになったと報道されました。「コンピューターは創造的作品を作ることができるか」というテーマでした。

 絵画については前回お話したケースです。すなわち、既存のレンブラントのさまざまな作品について、色使いから構図、絵の具の厚さまで解析・集積し、新たな作品を描かせたというものです。新たな作品は、あの「夜警」の中心人物の拡大図のようなもので、それを何人かの絵画ファンの中年女性たちに見せると「レンブラント?」と言いました。確かに筆者もそう思いました。そのほか、いくつかのコンピューター作品の例が挙げられていました。

 次は小説です。星新一ショートショートコンテストで、コンピューターが作った作品が一次選考を通ったというものです。これまでの星新一の作品のいくつかについて、独特の表現、ストーリー展開などを解析し、共通項をもとに新しい作品を書かせたと言うのです。

 いかがでしょうか。じつはこの番組では言葉のトリックが使われています。作品と言ってもピンからキリまであるのですが、それを一まとめにして「創造的作品」と言っているからです。人の心を打つものから、雑誌の埋め草のようなものまであるのです。小説好きの人なら賛成する人は多いでしょう。

 もっと重要なことは、「レンブラントの作品や、星新一の作品を基にした」コンピュータ作品は、絶対に原作者の作品を超えることはできないことです。音楽でも同じことでしょう。ポップスにしろジャズにしろ、同じジャンルの作品のいくつかを基にして新しい「作品」をコンピューターに作らせることなど、わけもないように思います。しかしそれらはしょせん「まがいモノ」でしょう。創造的とは、どれほど従来のものから飛躍できたかです。ほんの少し飛躍したものなど、とても創造的とは言えないでしょう。

 以前お話したように、人間のすぐれた創造性は神の領域なのです。指揮者の小澤征爾さんが、「モーツアルトの作品は神の音楽である」という意味のことを言っていました。そのとおりでしょう。

  私たちはこの言葉のトリックに気が付かねばならないのです。同じような言葉のトリックに、「地球外生命はあるか」というものがあります。報道などでこの言葉を聞けば、ふつう知的生命体、つまり人間のような高度の知性を持った地球外生物のことだと思ってしまいます。報道で「その証拠が見つかるかもしれない」と聞けば、視聴者が色めき立つのは当然でしょう。しかし、現代の科学者が言う「地球外生命」とは、バクテリアのような生物のことです。じつは地球でさえ、100℃以上、地下何千メール、無酸素の条件で生きているバクテリアが次々に発見されています。そういった生物が火星や木星のある衛星で見つかる可能性は十分にあるでしょう。それはそれで画期的なことだと、生命科学者として過ごして来た筆者も思います。もちろんそれらの生物も神の創造物です。しかし、「人間の価値観を一変させる」ような発見ではないと思うのです。

禅語(5)「庭前柏樹子」

禅語 庭前柏樹子‐小川隆博士の解釈

 今回は小川隆博士(1961-、駒澤大学教授)の提唱しているこの公案の解釈について、他の仏教家や、筆者の考えと対比してみます。小川博士は「語録の思想史‐中国禅の研究」(岩波書店)の中で、「入矢義高博士(1910-1998京都大学名誉教授、元禅文化研究所長)の『当時の文化や関連項目と共に考えつつ、禅語録を解釈する』を尊重する」と言っています。すなわち、

庭前柏樹子(趙州從諗《じょうしゅうじゅうしん、778-897》の公案、「趙州録」)について、
  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

小川博士は「別の類例を探すと(これが入矢博士流のやりかた)、

(恐らく初心者の)質問:如何なるかこれ学人の自己(私の自己とはなんでしょうか)に対し、
趙州の答え:はた庭前の柏樹子をみるか(庭前の柏樹が見えるか。庭前の柏樹が見えている自分に気付け)

を引用し、「趙州は『それを見ている者は何者か。見ている己自身はどこにあるか』と答えているのであろう」と言っています。小川博士の他の公案「祖師西来意」、「麻三斤」などについての解釈も合わせて考えますと、「仏とは人間の心の問題だ」が、小川博士の禅についての基本的見解だと思われます(小川博士による別の禅語「祖師西来意」や、「麻三斤」も重要な公案ですから、別の機会にお話します)。

 この庭前柏樹子の公案は「無門関」では、

僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
までですが、原典の「趙州録」では、
僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
僧曰く、「境をもって人に示すことなかれ」
州曰く、「吾、境をもって人に示さず」
僧曰く、「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」

となっています。そこを斟酌しつつ別の人の解釈を紹介しますと、

1)Aさん:この僧は未熟にも「心と境(対象:筆者)」を対立関係に見てるから、心境一如を体現している趙州和尚の答を理解できなかったのだろう。内外に広がる自然をどの様に表現しても真意は同じで、「庭前の柏樹子だ、天地一枚の柏樹子だ、祖師西来意だ、禅だ、仏だ、悟りだ」などの言葉は、無心ゆえに、自他一如となっている趙州和尚は、迷わされ、惑わされることなく、相手の潜在意識にある課題に対して「ズバッ」と応えている・・・つまり、趙州和尚はほんの数秒間で『己と大宇宙は同根』を知って、『無心の心』を体現して生死していることをを未熟な僧に示し、その遣り取りを通じて我々に『無心の心』の「あり様」を直指人心しているのである、としています。

2)臨済宗黄檗宗公式サイト(山田無文師の解釈)では、
 ・・・この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。天地ヒタ一枚の柏樹子です。祖師西来意だの、禅だの、仏だの、悟りだのという小理屈は捨て切って、天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです・・・
つまり、1)と2)の解釈は同じで、小川博士のは明らかに違いますね。ことほどさように禅の解釈はさまざまなのです。
 次に筆者の解釈を示しますと、祖師が西来された目的は、「空」の正しい意味(註1)、つまり、「新しいモノゴトの観かた」を伝えるためです。したがって、修行僧に禅の本質は」と聞かれて、趙州が答えた「庭前柏樹子」の意味は、「あの庭の柏樹だ」と言われて思わず見た僧の体験です。つまり、筆者が繰り返している「空」理論を示したのです。
いかがでしょうか。どの解釈が正しいのか、読者の判断にお任せします。

(註1 以前のブログでお話したように、禅の「空」の意味は、龍樹の「空」の意味とは違います)。

馬祖禅と石頭禅(1,2)平常心是道・即心是仏

馬祖禅と石頭禅(1)

 馬祖道一(709-788)は、唐時代の禅僧で、南嶽懐譲の弟子、六祖慧能には孫弟子にあたり、禅の黄金時代を築いた人と言われています。馬祖の言葉として平常心是道(びょうじょうしんこれどう)がよく知られています。自分の外に仏を求めるな。ありのままの自分に立ち返れ。自分の中に仏を求めよという教えです。

「平常心」とは、「江西馬祖道一禅師語録」によれば、

 ・・・若(も)し直ちに其の道を会せんと欲すれば、平常心是れ道たり。何をか平常心と謂(い)わん。造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なきなり。(維摩)経に云う、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なり、と。只だ如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道たり(下線筆者)・・・

です。一口で言えば、「あらゆるものを差別せず、こだわりを捨て、淡々と生きよ」でしょう。禅でよく言われる「運水搬柴、つまり、水を運び、薪を担うような平凡な日常生活の動作の中に働きが現れている」という意味ですね。わが国の曹洞宗大本山総持寺の開山、瑩山禅師が、師匠の義介禅師(永平寺三祖)から平常心の意義を問われたとき、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯に喫す」と答えたと言います。
良い言葉ですね。馬祖の教えは、それまで厳しい修行に明け暮れていた僧侶たちにとって新鮮な驚きであり、衝撃を与えました。しかし、この思想は、ともすれば「修行をしなくても、心の赴くままに、やりたいように生きて行けばよい」になりかねず、すでに弟子たちの間でも疑問が生じました。不肖の弟子ですね。「歎異抄」の弟子たちのように。

 そして、馬祖に対抗したのが石頭希遷(せきとう きせん700‐790)であり、石頭は「修行によって『ありのまま』とは別次元にある本来の自己を追求せよ」と説き、「禅の歴史はこれら二つの考えを行ったり来たりした」と言う仏教研究家もいます。

 筆者はそうは思いません。石頭も後代の仏教研究家も、馬祖の思想を誤解しているのだと思います。馬祖が坐禅を否定したのは確かです。それは「景徳伝燈録・巻六」に出て来る次の公案は馬祖道一とその師南嶽懐譲(なんがくえじょう)の話からも推察されます。すなわち、

 ある日、馬祖が坐禅をしていると、師の南嶽がやって来て、質問した。
南嶽懐譲「大徳、日頃坐禅をしているが、什麼(なに)を図っているか」(おまえは何のために坐禅をしているのか)
馬祖「作仏を図る」(仏になるために坐禅をしています。当然でしょうと言わんばかりに)
師の南嶽は、そこで、かたわらに落ちていた一枚の瓦を拾って、黙って石の上で磨きはじめた。
それを見て、馬祖が問う。
馬祖「師 麼を作す」(お師匠様何をしておられるのですか)
南嶽懐譲「磨して鏡となす」(瓦を磨いて鏡にするのだ)
馬祖「瓦を磨いてどうして鏡と成すことができよう」(どうして瓦を磨いて鏡になるでしょう)
南嶽懐譲「坐禅がどうして作仏することができようか」(それがわかっていながら、どうしておまえは坐禅をして仏になろうとするのだ」(以下略)

 なぜ馬祖が平常心是道と言ったのか。おそらく弟子たちがあまりにも「坐禅をして仏になろう」と執心していたためだろうと思います。現代でも「朝3時に起きて掃除。坐禅をして食事の用意。また坐禅・・・」というような厳しい生活している修行僧たちがいます。一方、結婚もせず、家庭も持たず、粗食をし、一切の娯楽も排除し、1日7回、総計5時間にも及ぶ坐禅をしている人たちもいます。「なにがなんでも悟りに達するのだ」と決意し、実践している人たちですね。しかし、そういった生活は、ともすれば悟りにこだわり、仏にこだわることにもなりかねません。「一切のこだわりを捨てること」が禅の基本です。そのため、弟子たちに「そうあってはいけない」と警鐘を鳴らしたのでしょう。

 じつは、筆者は馬祖の思想の根本は平常心是道ではないと考えています。つまり、馬祖はまったく別の、悟りに至る道を考えていたのだと思います。それについては次回お話します。

馬祖禅と石頭禅(2)禅語「平常心是道」「即心是仏」

 前回、馬祖の思想の根本は平常心是道とは別にあるとお話しました。それは、馬祖は即心是佛とも言っているからです。
 すなわち「江西馬祖道一語録」で、
 
 ・・・本より既に迷の無ければ、悟もまた立たず。一切の衆生、無量劫より、法性三昧を出ず。長く法性三昧中に在り、着衣喫飯、言談して祇に対す。六根の運用、一切の施為、尽く法性たり・・・
と言っています。
つまり、
 ・・・初めから迷いというものが存在しないのだから、悟りも立てようがないではないか。すべての人間は、はるかな昔から仏の世界で生きて来た。その中で衣服を着て飯を食い、話をしたりの生活をしてきたのだ。とすれば人間の六根の運用、すなわち、あらゆる行いは、ことごとく法性(仏性)であったのだ・・・

という意味です。初めから迷いがなく、あらゆる行いがことごとく仏性であったとは、人間の本質は仏であると言っているのですね。
さらに、

 即心是(即)佛の言葉は「無門関・第三十則」にも、  
                         
 馬祖、因(ちなみ)ミニ大梅(大梅法常、馬祖の法嗣)問フ、如何ナルカ是レ佛。(馬)祖云ク、即心即佛。

とあります。言葉どおり「心はそのまま仏である」と言う意味ですね。「無門関」の解説者無門慧開は「仏などと言う大それたことを口にするな」とは言っていますが、この第三十則そのものは否定していません。

馬祖自身、
 ・・・汝等諸人、各々自心これ仏なることを信ぜよ。この心即これ仏心なり。(「景徳伝燈録・卷六 馬祖道一」)・・・

と言っています。明らかに「人間の心には仏性が備わっている」という意味ですね(註1)。

「即心是仏は平常心是道とかけ離れているのではないか」と思わないでください。分別を差し挟まない人間の思考や行いは、仏である自分の心の表われですから。即心是仏の仏は筆者の言う、仏(神)につながる本当の我でしょう。そうです、これは臨済の言う「赤肉団上に一無位の真人あり」の真人と同じなのです。「けんめいに坐禅をして、何がなんでも佛になろう」とすれば、自分と佛を対立させ、自分の外に仏を求めることになり、「自分自身が仏だ」という馬祖の思想を妨げることになりますね。

 じつは馬祖や臨済の思想についての筆者の解釈は、仏教の中では異端です。と言うのは、本当の我の存在を認めるのは、仏教以前のヴェーダンタ宗教に沿うものだからです。すなわち、ヴェーダンタ宗教では個我(アートマン)は実体として存在し、肉体が滅びても残ること、「個我と神(ブラフマン)との一体化こそ、修行によって目指すものだ」と言います。釈迦は、ヴェーダンタ信仰に対立する新しい宗教として仏教を打ち立てたのです。(この問題は重要ですから改めて論述させていただきます)。ヴェーダンタ信徒は、道元の言う先尼外道です。
 つまり、筆者の解釈によれば、馬祖も臨済も仏教の主流からは外れることになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

註1 道元は「即心是仏」について、馬祖や筆者とは違った解釈をしています。すなわち、「正法眼蔵・即心是佛巻」で、
・・・此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来、未だ曾て生滅せず・・・(中略)・・・南方の所説、大約此の如し。師曰く、若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん。つまり、 
・・・身体は生滅するが、心は悠久の過去より生滅せずと言うのがインド人の考え方である(大証国師慧忠師の言葉「もしそうだとすれば、それは先尼《ヴェーダンタ宗教の徒》や外道《仏教以外の宗教の信徒》の説である」を紹介しつつ、
 ・・・即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。(中略)いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去、現在、未来の諸仏ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり・・・つまり、
 ・・・(どんな人にも仏性が備わっている)そして「悟りを求める心を起こし、修行し、正しい考えを持つようになり、悟りに至れば(仏性が現われる)、それを即心是仏と言う。その境地は古今のすぐれた菩薩たち、さらには釈尊の心と同じだ(筆者簡訳)・・・
と言うのです。このように、道元の考えは馬祖とは異なり、石頭と同じです。それにしても、道元のような大乗仏教徒は、釈迦以前の(以後も続きますが)ヴェーダンタ宗教を否定し過ぎです。以前にも書きましたように、筆者は神の存在も霊魂の存在も実感しています。それゆえ、ヴェーダンタ宗教の言う、神(ブラフマン)と人間の個我(アートマン)との一体化を目指す思想もよく理解できるのです。道元の考えが絶対とは思いません。

禅語(4)「谿声山色」正しい解釈

 「谿声山色」について、これまでのほとんどの解釈は「谿川の音、山のたたずまいのすべてが仏法の表われだ」というものでした。澤木興道師もこの解釈でした。しかし正しい意味はそうではありません。前回もお話したように、これは「空」の理論を説明しているのです。まず「正法眼蔵・谿声山色」で道元が紹介している、3人の禅師が「悟った瞬間」のエピソードを列挙してみます。

 第一は、東坡居士蘇軾(そしょく)、廬山にいたれりしちなみに、谿水の夜流する声をきく(聞く)に悟道す。
蘇軾は「谿川の水がゴウゴウと流れている音を聞いて悟った」のですね。

 第二は、香厳智閑(きょうげんちかん)禅師、あるとき、道路を併浄(へいじょう)するちなみに(道路を掃いているいるときに)、かはら(カワラケ)ほとばしりて、竹にあたりてひびき(響き)をなすをきくに、豁然(かつねん)として大悟す。
香厳智閑は「掃除をしていて飛んだカワラケが竹に当たってカチンと言った音を聞いて悟った」のです。

 第三は、霊雲志勤(しごん)禅師は、三十年の辨道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見(もうけん)す。ときに春なり、桃華(とうか)のさかりなるをみて、忽然(こつねん)として悟道す。
霊雲志勤は「遠くの里に桃の花が咲いているのを見て悟った」のです。

 上で述べたように、従来の解釈では筆者の知る限りすべて、「谿川の音、山のたたずまいや桃の花の咲いている様子が仏法の表われだ」としています。では香厳智閑が「竹にカワラケが当たった瞬間」はどうでしょう。「自然のありさま」とは言えませんね。じつはこれら3つのエピソードに共通しているのは、「聞いた瞬間」「見た瞬間」です。つまりその時「ハッと」悟ったのです。この禅師たちはいずれもモノゴトには別の観かたがあることがわかったのです。それこそ「空」の理論なのです。

 道元が「正法眼蔵・谿声山色巻」で「恁麼(いんも)」とか「而今(にこん)」などの「空理論」に関する言葉を使っている理由はここにあります。筆者が「正法眼蔵のハイライトは現成公案編であり、「空」の理論を説いている。谿声山色巻は現成公案編の説明だ」と言っているのはこういうことです。「恁麼」とか「而今」の意味はすでに別のブログで説明しました。
さらに、道元が蘇軾が悟道したエピソードの紹介の最後のところで、

 ・・・居士の悟道するか、山水の悟道するか・・・

と言っているのは、純粋な経験にあってはワレと対象の区別がなくなるからです。それゆえ「悟りを開くのは居士か山水か(つまり両者とも)」と言っているのです。まさに「空」理論ですね。このように、「谿声山色巻」は「空理論」で解釈したほうがよほどすっきりするのです。
 それにしても、筆者は「道元はなぜいつも、こんなに持って回った言い方をするのだろう」と思います。いや、筆者はわかっているのです。禅では答えを言ってはいけない。あくまでもヒントを与え、本人自らに納得させることを本旨とするからです。それはなによりもこの巻で道元が紹介している、次の香厳智閑のエピソードからわかります。

 香厳智閑は長い間、大潙禅師の元で修行していましたが、どうしても悟ることができません。とうとう諦めて「どうしてもわかりません。教えてください」と言いました。大潙禅師は「教えればあとできっと後悔する」と言いました。そこで一切の修行を止めて大潙禅師の元を遠く離れ、以前の恩師の墓守となったのです。そしてある時突然、カワラケが竹に当たる音を聞いて自得したのです。そして今さらながら大潙禅師の温情に感泣し、大潙禅師の住む山の方角に向かって拝礼しました。

 禅はあくまで自得すべきものなのです。すぐれた禅師は皆、「答えは言わず上手にヒントを与える」のが巧みです。「正法眼蔵」がわかりにくいとされるのはこういうわけです。それを読んでいますと、つくづく道元は凄いと思います。悟りはいかに清貧の人生を送ろうと関係ないのです。「わかったか、わからないか」の世界だと言ったのはこのことなのです。わかった時の喜びは何ものにも代えがたいのです。そしてわかれば奇跡が起きます。