霊は存在する(3)ー小林秀雄の考え方(1,2)

科学的に証明されない事実はいくらでもある‐小林秀雄の講演から(1)

 小林秀雄(1902-1983)は思想家、「本居宣長」「志賀直哉」などの著者。小林はある講演会で、ロンドン心霊学界大会で行ったH.L.ベルクソン(1859-1941フランスの哲学者)の講演を引用して、人の霊的体験について言及しています。あるフランス夫人が、「大戦中、夫が戦死する場面をありありと夢に見ました。その時集まって来た兵士たちの顔もはっきりと印象に残っています。後で夫の戦死を知らせてくれた人が、まさに夢で見た兵士でした」。その話をベルクソンとともに聞いたフランスの有名な学者で医師が、「その体験は本当だと信じたい。しかし、そういう体験には事実に反するケースも多いだろう。なぜ正しくない話を放っておいて、偶然当った方だけ取り上げるのか」。それを聞いた若い女性が「わたしは先生の考えはまちがっていると思います」と言い、ベルクソンも「そのとおりだ」と思った。

 小林は、「ベルクソンの言うとおりです。聴衆諸君は、現代の科学者がどれだけ自分の学問の方法に捉われているかに注意しなければいけない。かれらは人間の正しい経験に目をつぶってしまうのです。彼らはその夫人の具体的経験を抽象的問題に置き換えてしまう。その経験を正しいか、正しくないかの問題にしてしまう。夫人は問題を話したのではない経験的事実を話したのです。ほんとうか嘘かの問題ではない。主観的か客観的かは考えていない。婦人は自分の経験を話したのです。経験というものは昔からあった。しかし科学は合理的経験のみを取り上げた。定量できる経験のみに絞ったのです。それは私たちの経験とはまったく違うのです。私たちの経験には感情やイマジネーションや道徳的な部分もある。」と言っていました。そして「近代科学は、成立してからわずか300‐400年くらいしか経っていない。近代科学では、証明されることだけに絞って積み上げ、発展してきた。その結果人類は月へでも行けるようになった。しかし、証明されてはいない事実もいくらでもあるはず。それを無視してはいけない。聴衆諸君は近代科学の方法論に毒されてはいけない」と言っています。

 筆者もそのとおりだと思います。これまで筆者自身の実体験も含めて、多くの人の霊的体験についてお話してきました。それらは、科学的には証明できないものばかりです。しかし、まぎれもない実体験なのです。いつも言いますように、長年生命科学者として生きて来た筆者が言うのです。

 小林はさらに、「人間の精神を脳の神経活動として説明しようとする科学分野があります。しかし、それは不可能です。精神は神経活動とは別なのです。つまり、魂は肉体が滅んでも残る」と、ベルグソンのその後の長い研究を引用して結論しています。筆者は以前、「死後の世界はあるか。魂はあるか」についてのNHKテレビの番組で、近代脳科学の最先端についての報告を視聴したことがあります。それを見て筆者が思ったのは、人間の精神は脳の神経活動で説明できるとする科学者たちは、神経活動と、精神や魂とをごっちゃにしているということです。

 そして小林は、以前日筆者が紹介した、民俗学者柳田国男のことを話しています。柳田国男(1875-1962)は、いわゆる霊的体質があり、少年のとき強烈な神秘体験した。すなわち、知人の祖母の霊魂に触れたと言います。不思議なことに真昼なのに空にはたくさんの星が見え、それは柳田少年の天文学の知識にはない星座だった、と言うのです。「あのとき空で鵯(ひよ)がピーッと鳴いたので「ハッ」と我に返った。それがなければ発狂していただろう」と言っています。小林は、「柳田がその後民俗学に取り組むようになったのはこの霊的経験があるからです。柳田の民俗学は科学ではありません。しかしまぎれもなく学問なのです。『バカバカしいお話ならいくらでも知っていますよ』という柳田の言葉は、まさにそのことを言っているのです。柳田の弟子たちの書くものにはすぐれた作品がないのは、柳田のような霊的体質がないからです」と。

 筆者もそのとおりだと思います。「科学的に証明されていないことは信じない」という言葉を聞くたびに苦笑しています。

小林秀雄の考え方(2)

 前回に引き続いて、小林秀雄の思想についてお話します。小林はモノゴトの見かたについても話しています。思想家として当然ですが、まあお聞きください。小林は「(モノというものはなく)見たり聞いたりする直接の経験こそが実在ではないか」と言っています。まさにカントや西田幾太郎の考えと似ていますね。ということは、筆者がいつも言っている「空」の思想とも似ていることになります。私たちにとってカントやヘーゲルの考え、小林や西田のモノゴトの観かた、そして「空」思想は、今一つピンと来ないところがありますので、これを良い機会にこれらの思想についてもう少し深く考えてみたいと思います。

 まず、経験の内容は人それぞれ異なります。ほとんどの日本人は、味噌汁や沢庵を嗅いだり味わったりしても何の抵抗もありませんね。好ましいと感じる人が多いはずです。しかし外国人はどうでしょう。筆者の友人で、外国留学して毎朝味噌汁を作っていました。あるとき同じアパートの住人から、「まことに言いにくいがその匂いは・・・」と言われたそうです。同じ匂いを嗅いでも、「オッ」と思う人と、「ウッ」と思う人の差があるのです。ことほどさように、カントやヘーゲル、西田、小林の言う直接経験には個人差があるのです。たとえまだ判断の起こる前の一瞬の経験であっても、観えかた(聞こえかた・・・)は人によって違うのですね。個人差は、その人のそれまでの習慣や、持って生まれた感受性の違いによるのでしょう。とすれば、私が見ているモノとあなたが見ているモノは同じとは言えなくなります。つまり、「モノがあって私が見る」という、私たちが当たり前と思っているモノの見かた(唯物的な見かた)も絶対ではないのです。

 つぎに、ここにリンゴが二つあるとします。同じ母木になったのですから、産地はもちろん、色も香りも味も、品種、そして遺伝子まで同じです。しかし、唯物的な見かたでは二つとも「リンゴ」としか言いようがありませんね。明らかに別物なのですが・・・。ここにもこの「見かた」の欠陥があるのです。

 一方、それ以前の、カントの思想や「空」の思想では、観るという経験は、人間一人ひとり独特のものであり、その内容は別々です。また、同じ人の経験でも、二つのリンゴはそれぞれ別のモノとしてはっきりと区別して認識します。「私が見たもの(直接経験したもの)、あなたが見たモノそれぞれが真の実在だ」と、西田や小林も言うのです。それを思想として初めてまとめたのが、東洋ではインドの哲学者、西洋ではカントだったのです。後でお話しする仏教の唯識思想では、「一人一世界」と言います。やはり、モノゴトの認識は、一人ひとり別だと言うのです。

  私たちがふだん「私があってモノを見る」のは当然と考えて疑問にも思っていません。しかし、前にも言いましたように、じつは「モノがあって私が見る」という「見かた」をするようになったのは、せいぜいここ300年くらい、ヨーロッパで産業革命が起こってからのことなのです。産業革命は、モノ造りに関しますからモノが重視されたのです。この産業での新しいモノゴトの見かたが、哲学にも科学にも影響を与え、現在まで続いているのです。
 
 どうして「それらの観かたはまちがいだ」などと言えるでしょうか。逆に、私たちは、唯物思想に凝り固まってはいないでしょうか。それをガラリと切り替える必要はありませんか・・・。
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 じつは「空」のモノゴトの観かたにはもう一つ重要な意味があります。それについては後ほどお話します。

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