読者のコメント(7)

読者からのコメント(7)

 最近、読者のお一人から、さまざまなコメントを頂いており、どれも真摯な話題提供で、ブログの充実にもつながり嬉しく思っています。その方は、深く、広く禅仏教を勉強していらっしゃり、筆者も真正面から受け止めて、学びの材料とさせていただいています。ブログにも書きましたように、個人情報を守るため、原則として読者のお名前、所属などは非公開としています(ソフトの機構上消せない部分もありますが)。もちろん読者のコメントはすべて筆者の別のファイルに移してあり、余裕を見付けて、逐次筆者の考えをお話してゆきます。

 さて、前回の続き(同じ方から)です。
読者のコメント1)「五蘊は認識作用である」と「五蘊は認識内容である」とは殆ど同じではないでしょうか。「認識作用」があれば必ず「認識内容」を伴うでしょうから。日本の仏教学者が編集した『仏教辞典』では、「色」を認識対象と見なし、物質(形が有る物)とか肉体(姿が有る者)だという解説が主流なので、「色」は認識内容であり、姿や形や外観や見かけだと主張する為に『PALI-ENGLISH D.』の解釈を利用したのであって、辞典の解説を鵜呑みにしたのではありません。
どうぞ、再考してくださるようお願いします。
筆者の考え:筆者の以前のブログ「そもそも五蘊の解釈がまちがっているのだ」にも書きましたように、これまでのわが国仏教界では五蘊についての解釈がさまざまで誤りも多いと思います。あの碩学中村元博士でさえ、「存在するものには五つの構成要素があると見きわめた(下線筆者)」と言っています。この博士の「五蘊=存在するもの」に対する反論として、前回、「五蘊は認識作用である」と書きました。たしかに「五蘊は認識内容である」は適切と思いますが、それはあくまで「認識作用」の説明としてであり、「五蘊=存在するもの(つまり認識対象)」の反論としてはふさわしくないと思います。

読者のコメント2)(筆者の空の解釈「私たちがモノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)という体験こそが真の実在」について、)西田幾太郎著『善の研究』第2編第2章の「意識現象が唯一の実在である」と同じ主旨だと思って差し支え無いでしょうか。
筆者のコメント:同じと思います。西田博士は、純粋経験とか直接経験と呼んでいますね。筆者の前著「禅を正しく、わかりやすく」にも書きましたように、ドイツ観念論哲学者エマヌエル・カントの思想ともよく似ています。

読者のコメント3)他人の臓器を移植したり、癌細胞を切除して生き長らえる「我(われ)」は「経験我」とは異質のように思いますがいかがでしょう。IPS細胞で造られた「モノ」で病んでいる部分を取り替えることが可能になると、「我」はどのように理解すれば良いのでしょうか。蘊・処・界で説明できるのでしょうか。
自然(国土)が存在し、そこに生き物(衆生)が生存していて、生き物はそれぞれの知覚能力に応じた認識・認知内容の世界(蘊・処・界)に生きている、と考えたほうが分かり易いと思うのですが、いかがでしょう。

筆者の考え:魚川裕司さんの言っている「経験我」とか「個体我」は、あくまで人間の認識の問題ですから、他人の臓器を移植したり、癌細胞を切除して生きながらえようと「我」には変化はないはずです。ただ、最近、「臓器移植をすると人格(のある部分)が変わってしまった」と言う人がいます。あるいは臓器にも提供者の「我」が残っているのかもしれません。しかし、まだまだ症例があまりも少なくて何とも言えません。少なくとも当分は考慮しなくてもいいように思います。一方、人間以外の動物には、モノゴトを認識し、判断し、時には「苦」もつなげるような経験我は無いと思います。なぜなら、彼らは常に本能だけに従って生きているように思いますので。つまり、彼らは人間のような苦しみや喜びはないと思います

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