「未分類」カテゴリーアーカイブ

臨床宗教師について(1,2)

臨床宗教師について
 今、ニート(引きこもり)、いじめ、登校困難児童が大きな社会問題になっています。さらに自死者は年に3万人にも上っています。これらの現象、つまり心の問題は今後ますます深刻になって行くはずです。その大きな原因が社会の競争化が急速に進んでいるためであることはまちがいないでしょう。競争に付いて行けない人たちが心を病むのですね。その人の価値は別にあるのですが。この意味でも、まさに21世紀は「心の時代」なのです。筆者のこのホームページ・ブログはそのために開設しました。

 あの東北大震災で親子、兄弟を亡くした人たちの心のケアがクローズアップされました。あのとき、わが国のたくさんの僧たちが、現地に行き、遺族たちの傾聴を行いました。しかし、そのほとんどは挫折したのです。NHKテレビで、それまで年に200回以上も講演をしていた有名寺院のエリート僧が、東北での活動に失敗し、自分の無力さを涙ながらに語っていたのが印象的でした。その僧たちの「色即是空」の解釈も間違えていました。結局、「般若心経」の写経会をしたり、お墓参りくらいしかすることがなかったそうです。
 現在日本仏教の先端で活躍している別の僧が、日本の仏教は形骸化し、刷新しなければならないことを、「日本にはたくさんの心の病院、つまり寺があるはずなのに(76,000もあります:筆者)、大衆も寺側もそれらが機能していないことを問題にしていない」と表現していました。筆者も同感です。上で述べたエリート僧の失敗体験は、少しも不思議なことではないのです。

 2012年、東北大学実践宗教学寄付講座として、臨床宗教師研修講座が開設されました。仏教を中心にしていますが、キリスト教や神道とも連携を取りながら、多角的に心のケアをする専門職を養成しようとするものです。それは翌年の東北大震災もあって注目され、龍谷大学や高野山大学、鶴見大学の大学院研究科にも次々に同様の講座が開設されました。心のケアには大震災などの遺族だけでなく、寿命の限られた人達に対する終末期施療も含まれています。限られた範囲ですが、現にそれを実践するビハーラ僧もいらっしゃいます。筆者も臨床宗教師研修制度の動きに注目していますが、不安もあるのです。
 第一は、現在の日本仏教にその力があるかどうかです。その現状は今お話した通りです。上記のさまざまな大学の臨床宗教師研修課程のカリキュラムも見てみましたが、「これで本当に力のある専門職が育てられるのか」と思わざるを得ませんでした。言うまでもなく、仏教を伝えるということは知識の受け売りではありません。仏教の心を伝えるようになるには、懸命に学んでも10年はかかるでしょう。学ぶには修行も不可欠なのです(行学と言います)。修行の大切さは、筆者の経験からもよくわかります。
 第二に、養成された臨床宗教師に対する経済的保障の問題があります。つまり、職業として成り立つのかどうかです。一体だれが金銭的補償をするのでしょう。わが国の病院でビハーラ僧を正式な職員として採用しているところは、あそかビハーラ病院《京都》、長岡西病院などごくわずかです。
 キリスト教には古くからチャプレン制度があります。グリーフケア、すなわち耐え難い苦しみに遭っている人達の心のケアを専門にする人達です。上智大学にはグリーフケア研究所があり、専門職養成講座も開設されています。ただ、キリスト教には伝統的にそういう活動に対するサポートシステムが発達しているのです。キリスト教精神ですね。そこが仏教とはまったく違うのです。つまり、日本で臨床宗教師をどんどん養成しても、職業としての保証がなければどうしようもないのです。

臨床宗教師について(2)その不安

 筆者は、ときどき「臨床宗教師になりたいと思います。研修はどんなものか教えてください」というメールをいただきます。先日、ご返事したものをご紹介しますと、

 ・・・メール拝読しました。臨床宗教師研修は、東北大学、龍谷大学、高野山大学、大谷大学などで開催されています。東北大学だけが年に何回か、いわゆる短期研修の形で行われています。あとの大学では大学院の課程として行われていますので、入学しなければなりません。あなたのご希望によれば東北大学のコースが適当と思われます。全国臨床宗教師協会事務局(連絡先:)へお問い合わせください。そのほかにキリスト教系のグリーフケア(悲嘆)アドバイザー研修制度、および上智大学グリーフケア人材養成講座があります。これらも大学院のコースではありませんので、あなたのご希望に沿うと思われます(連絡先:)
 
 臨床宗教師とは、終末期の患者さんの死の恐怖を軽くするためのカウンセリングです。キリスト教ではチャンプレン、仏教ではビハーラ僧とも呼びます。とても重要な役目で、筆者もますます発展していただきたいと思っています。ただ、筆者には、次の点でまだまだ大きな不安があります。

 第一に「お金はだれが出すか」です。上記のメールの方は現在介護士として働いておられるそうで、臨床宗教師になっても、当然生活が保障されなければならないでしょう。キリスト教系の団体では、古くから信者の金銭的奉仕の精神が広く行き渡っていますから、それによる援助の可能性は高いでしょう。一方、仏教系ではどうでしょうか。筆者の知るかぎり、ビハーラ僧を制度として雇い、給料を出している病院はただ一つです。上記の東北大学の臨床宗教師研修制度の修了生は2016年までに約140名ですが、担当の先生に直接聞いたところ、大部分の人は給料をいただけるような組織には属していないとのことです。つまり、すでにどこかの寺院の住職として生活の保障をされている人以外は、活動するとすればボランテイアとしてなのです。筆者が知っている数少ない終末カウンセリングの成功例は、僧侶として生活の基盤を持っている人と、キリスト教系大学の先生です。
 そもそも、心という重要な問題について、原理的に短期研修では無理ではないでしょうか。たしかに研修が終わった後も何回かフォローアップ研修が行われていますが、それでも、どうしても付け焼刃になってしまうような気がします。

 一方、介護士制度は、ご存知のように、国民が一定額の介護保険料を出し、それに基づく国の正式な制度です。現在、私たちは医療保険とともに介護保険料を払っています。とくに後期高齢者保険料は高額です。関係機関では、将来、臨床宗教師が国の正式な資格となることを目指しているいるとのことです。しかし、それが認められたとしても、国民が「終末期カウンセリング保険」制度まで受け入れるかどうかです。そもそも介護活動は、食事を作ったりや買い物など、一日も欠かすことのできない実務です。それゆえ、国民のだれもが納得しやすいでしょう。一方、終末期カウンセリングは、さまざまな人の心の問題だけなのです。そういういわばソフトのサービスに対して国民は保険料を払わおうとするでしょうか。つまり、はたして制度として納得するかどうかです。 いわんや個人的に謝礼を払える人などごくわずかでしょう

 第二に、講師の側、つまり、今のわが国の仏教僧たちには終末期カウンセリングの実務経験はほとんどないはずです。当ブログシリーズで何度も取り上げてきましたように、その宗教的素養についても不安があります。東日本大震災のあと、わが国の代表的仏教宗派から多くの僧侶が現地に派遣され、遺族の声に耳を傾けよう(傾聴)としました。しかし、「全く無力だった」と涙ながらに挫折を告白していた、見るからに誠実そうな僧侶もいたことを知らねばなりません。仮設住宅の扉に「傾聴お断り」の張り紙をされたところもありました。「ビハーラ僧は病院へ来るな」という声もあるのです。たしかに、葬式のイメージのある僧衣を着て、死の予感におびえる人たちの病棟を歩き回られたら、たまったものではないでしょう。研修を受けて終末期の患者さんのところへ何度か行っても、結局最後まで宗教的なことは何も話せず、ただ、よもやま話だけをして終わった僧侶もいます。

 日本人の大部分は仏教徒ですが、事実上は無宗教であることはよく言われていますね。いったい、いままで無宗教だった人に、はたしてカウンセリングができるのかどうか危ぶまれるのです。上記の東北大学の研修では、仏教の僧侶のみならずキリスト教の神父(牧師)さんや神道の宮司さんも講師となっています。形の上でも仏教徒であった人、キリスト教徒、無宗教の人たちも対象になることを想定しているからでしょう。しかし、多様な終末期患者に対して掛け持ちで(そうしない金銭的な保証が得られない)カウンセリングなどできるのでしょうか。ある終末期の患者さんが「今まで宗教など信じていなかったのに、この期に及んで宗教的カウンセリングを受けるのは・・・」と正直に言っていました。

 もちろん筆者は、これからの臨床宗教師やチャプレンの活躍を心から願っています。そして上で紹介した「臨床宗教師になりたい」と言う人たちに「情報提供などについて、できる限りお役に立ちたい」と返事しました。しかし、ブログを読んでいただいたことが臨床宗教師になりたいとのきっかけになったとすれば、筆者にも責任が生じます。上記の筆者の感想をお考えの上、すでにこれらの研修を修了した人たちの意見も聞いてから参加を決断されることをお勧めします。

テーラワーダ(上座部)仏教(1-3)

テーラワーダ(上座部)仏教(1)

 釈迦が新しい教説を建てる以前にもインドには宗教がありました。ヴェーダ信仰と言われるもので、釈迦仏教が隆盛を極めた時でさえ、厳然として続き、ヒンズー教へとやや変質し、現在に至っています。むしろ仏教はインドから駆逐されてしまったほどで、決してインドにおける唯一絶対の宗教ではありませんでした。この視点はとても大切です(インド宗教史については後日お話します)。

 では釈迦の教えの新しさはどこにあったのか。それは、

 ・・・あらゆる苦しみには必ず原因があり(縁生)、恒常的なものではなく(無常)、実体などない。実体のないモノにこだわる(渇愛)から苦しむのだ。この縁と苦しみの関係に気付いてそれを取り除けば、苦しみから解放される(涅槃、悟り)・・・

というものです。縁起の法則と言います。この視点を明示し、渇愛から逃れる方法も示したところに釈迦の思想の新しさがあります。それらの思想は、初期仏教の上座部仏教(現在はテーラワーダ仏教とも)が依拠するパーリ仏典に明確に記されています。ただ、パーリ仏典にある釈迦のさまざまな言葉は、まるでその場にいた人が記録したように書いてあり、現在の修行者がそれらをそのまま信じているように思えるのは気になります。なんといっても釈迦の没後数百年経ってから成立したのですから。

 初期仏教はその後大乗仏教として大きく変貌しました。人によっては、「大乗仏教は上座部仏教とはあまりも変質してしまったので、別の宗教として建てるべきだった」と言う人もあります。しかし、筆者はそうは思いません。縁起の法則は、まちがいなく「空」思想につながっているからです。さらに、大乗仏教徒の基本的姿勢である「自未得度先度他(自分が悟りを開かなくても他の人々を救う」は、釈迦の思想(悟りを優先する)と反すると言う人もいます。たしかに釈迦は悟りの後、その内容があまりにも高度で表現しにくく、人に教えるのは無理だと考えていたと言われます。にもかかわらず、梵天に強く懇願されれて、死ぬまで45年間も衆生済度の旅を続けたのです。

 それはともかく、上座部仏教は現在、あのテイクナットハン師の活動として全世界に広がっています。そればかりかミャンミャーやタイ、その他の国には上座部仏教の瞑想センターが設立され、さまざまな国から修行者が集まっています。以前述べましたように、テイクナットハン師の元には、あのイスラエルとパレスチナの人たちも集まってリトリート、すなわち癒しを受けているのです。つまり、仏教の新しい潮流となっているのです。

 ただ、筆者は上座部仏教にも限界があると思っています。たとえば、池田小学校児童殺傷事件(2001)や、東日本大震災(2011)や、今度の軽井沢観光バス事故で子供さんや親兄弟を亡くされた遺族たちが、この釈迦の教えで救われるかどうかです。「実体のないモノにこだわるから苦しむ」と言われても、子供さんや親兄弟を亡くされたことはまぎれもない実体なのですから。その点、禅は上座部仏教とは根本的に違うのです。禅は実体を「空」と同じように尊重しているからです。
 やっぱり上座部仏教から禅への数百年の経過には意味があるのです。そこをどう皆様にお伝えできるかが、筆者の課題です。

テーラワーダ(上座部)仏教(2)禅との違い

「禅は大乗仏教の流れを汲むものである」と言う人もいます。その理由として、「禅の基本理念は「空」だからだ」を挙げています。言うまでもなく大乗仏教の基本理念も「空」であり、あの龍樹(ナーガールジュナ)が、それまで様々な解釈があった「空」についての考え方を統一し、その後の大乗仏教の方向性を決定付けたと言われています。
 しかし、筆者は以前のブログで龍樹の空思想は、禅の空思想とは違うとお話しました。その意味で禅は大乗仏教の範疇から外れる(出た)ものだと思っています。
 前回のブログ、テーラワーダ(上座部)仏教(1)で、「禅が上座部仏教とは根本的に違うのは実体を「空」と同じように尊重しているからだ」、とお話しました。実体とは「色」ですね。もう一度テーラワーダ仏教の基本的考えについて簡単に述べますと、
 ・・・あらゆる苦しみには必ず原因があり(縁生)、それは恒常的なものではなく(無常)、実体などない。実体のないモノにこだわる(渇愛)から苦しむのだ。この縁と苦しみの関係に気付いてそれを取り除けば、苦しみから解放される(涅槃、悟り)・・・
というものです(註1)。釈迦の教えをこう理解しています。

 しかし、「無情だから実体はない」と解釈するところに重大な誤解があるのです。仏教関係の本を読みますと、ほとんどこういう解釈が行われています。昔からで、宿痾と言っていいでしょう。恒常的ではあるが実体があることは、筆者がよく言います「ポカンとその人の頭を叩いてみるがいい。『痛いっ。何するんだ』と怒ったら、『あなたは今、実体がないと言ったじゃないか』」からおわかりいただけるでしょう。子供を亡くした親に「あなたの苦しみには実体はない」などと言ったら殺されるかもしれません。筆者の専門である生命科学でも「生物の体は常に合成と分解を繰り返している」ことは基本的な事実です。でも「実体がない」などとはけっしてして言いません。

 禅は実体があることをけっして否定していません。上座部仏教の成立から数百年の間に、さすがに上座部仏教の不備に気付き、基本的な思想を転換したのでしょう。そこでは実体を「色」と表現しました。「色」と「空」はそれぞれ、モノゴトの二つの見かた(観かた)です。
 では、

 註1 本当は釈迦は「あらゆる苦しみには原因がある。そのことに気づくことが大切だ」とだけ言ったのだと思います。後代の人はそれを拡大解釈してしまったのでしょう。教えの拡大解釈は仏教のお家芸ですから。

(いつもお話することですが、筆者のブログで示した他の人の考えは、すべて原典を把握しています。けっして孫引きや思い込みではありません。文字数制限から省略しているのす。)

テーラワーダ(上座部)仏教(3)ヴィッパサナー瞑想

 まず、テーラワーダとは、テーラ(師)のワーダ(教え)という意味です。スリランカは、インドから初期仏教、つまり上座部仏教が伝わった最初の国です。同国からアルボムッレ・スマナサーラ師など、これまでに多くの禅師が訪れ、熱心に初期仏教の教えと修法を伝えています。筆者は、スリランカ中部の街キャンデイの山の上にある仏教寺院で修行したことがあります。日本を含めたいろいろな国から人々が来て、熱心に修行に取り組んでいます。同国の、まだ中学生かと思われる少年僧もいました。彼らが談笑している時にも静かな声で笑っているのが印象的でした。

 ヴィッパサナー瞑想の修法は、「慈悲の瞑想」と「気づき(サテイ)の瞑想」からなります。
「慈悲の瞑想」とは、静かに座って、「自分が幸せになりますように」「生きとし生きる者が幸せになりますように」「私が嫌いな人が幸せになりますように」「私を嫌いな人が幸せになりますように」と念じます(念ずる言葉にはまだそれぞれいくつかあります。くわしくは成書をお読みください)。
 
「気づきの瞑想」とは、今この瞬間、自分がしていることを意識することです。ちなみに、ヴィッパサナーとはヴィ(明確に)、パサナー(観察する)という意味です。

 1)坐禅をしながら、呼吸のさい、体の状態を「ふくらむ」「ちじむ」と意識するのです。もし、あれこれ妄想が起こったときは、「妄想」「妄想」と意識し、それを止めます。
 2)坐禅以外にも、座る瞑想、立つ瞑想、歩く瞑想があり、それらの時にも、常に自分が「今」していることを意識します。座る瞑想では、ゆっくりと手をあげたり、椅子に腰かけて、やはりゆっくりと手をのばしてコップをつかみ、その中の水を飲みながら、それらの状況を頭の中で「実況中継」するのです。もちろん、そのさい妄想が出てきましたら、そのつど「妄想」「妄想」と気付いて抑止します。

つまり、坐禅・瞑想と言っても禅のそれとはまったく違います。ちなみに真言宗にも「阿字観」瞑想や「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」があり、やはり禅の瞑想とは違うものです(「虚空蔵求聞持法」は、空海が土佐の御厨人窟《みくろど》で達成し、悟りに至ったと言われています)。というより、どの仏教の宗派にも坐禅・瞑想はあります。あの奈良の東大寺大仏様は釈迦の瞑想の姿を表わしたものです。東大寺は華厳宗です。

 どの瞑想法を選ぶか
 いま述べましたように、テーラワーダ仏教の修法は確立されはていますが、それらにどんな仏教思想の裏付けがあるのかがよくわかりません。そこが人によってはもの足りない点でしょう(次回、筆者の解釈を示します)。どんな瞑想法でも、自分で納得できる思想に裏付けられたものでなければいけないでしょう。第一、とても続けられないはずです。そればかりか、指導者もないのに坐禅・瞑想をして(本人は「毎日喜々としてやった」と言っています)、取り返しのつかないほど重大な害を受けた人もあるのです。筆者が著書で「必ず能力のある指導者の指導を受けてください」と繰り返しているのは、そういう訳です。

無師独悟

無師独悟
 禅にある言葉で、師匠の元につかず、独力で悟りを目指すという意味です。道元は、「悟りを得ようとする者はすべからく寺に入るべし」と言いました。たしかに寺に入れば俗世間の魅惑的なモノゴトや煩わしい人間関係に悩まされることもなく、毎日の規則正しい修行生活をするのは効率的でしょう。また仲間が居ることは、競い合う心も生まれ、修行の辛さにひるむ気持ちも支え合うでしょう。西嶋和夫師のように、一流会社の重職から寺に入った人もありますし、一般社会人から修行僧になった人も少なくありません。
 しかし、大変気掛かりなこともあります。それは寺に入れば否応なしに先師の教えを受け、その寺の伝統にどっぷり浸かることになるからです。筆者がこのブログシリーズで繰り返してお話したように、近・現代の著名な禅師たちの禅の理解には誤りが実に多いのです。「そもそも五蘊の解釈が間違えているのだ」にも書きました。ある時ある人が誤った解釈をしたものが連綿と語り伝えられ、今日に至っていることがわかります。つまり、よほどのことでもない限り、その伝統から抜け出すのは容易ではなさそうです。良寛さんはその例外的な一人でしょう。村上光照師は「一所不在」つまり、いかなるお寺にも留まらず、弟子数人とともに修行を続けています。恐らく寺での修行に限界を感じたのでしょう。

 橋田邦彦先生のことは以前お話しました。元東京大学医学部教授で、医学の研究と教育に携わりながら、生涯「正法眼蔵」の研究を続けた人です。重要なことは、橋田先生は、当時有名だった禅師たちの著作には、おそらく一顧だにされず、まったく独力で解明に取り組んまれたことです。すなわち、先生は道元の直弟子詮慧(せんね)の書いた解説書「正法眼蔵御抄(みしょう)」を大学図書館で見付け、それを唯一の手掛かりにして、20年掛けて解読されました。そして「今でも毎日解読を続けている」と著書にあります。
 筆者には先生のお気持ちがよくわかります。近・現代の著名禅師や仏教研究者の著作をいろいろ読みましたが、さっぱりわかりませんでした。そのため禅の勉強から一時は離れていました。しかし、偶然橋田先生の「正法眼蔵釈意」に出合い、「これだ!」と思いました。橋田先生の著書でさえ筆者には難解でしたが、先生の真摯な態度に、同じ研究者として共感するところがあったのです。そこで橋田先生の著書に絞って必死に学びました。そしてようやくなにか「正法眼蔵」の主調のようなものがわかったのです。本当に嬉しいことでした。筆者が最初の著作に「橋田邦彦先生に」と献呈したのはこういうわけです。

 一人だけで坐禅・瞑想を毎日きちんと続けるのは、なかなか大変です。筆者は欠かすことはありませんが、時として集中力が下がってしまうこともあります。この点、禅寺では仲間が居るだけお互いに励まされるでしょう。しかし、良寛さんは畑でも坐禅・瞑想したとか。要するにその人の意志次第です。

死生観(3)避けられない死

死生観(3)避けられない死

 数年前こんな夢を見ました。まあお聞きください。
 薄暗い廊下を一人で歩いていました。どこかはわかりませんが、その先が死であることは、はっきりとわかっていました。死刑場への道だったような気がします。しかし、それを避けることはもちろん、立ち止まることも、叫ぶことも許されません。誰かに押されるわけでも、引っ張られるわけでもなく、ただ前へ歩くよりしかたなかったのです。周りには誰一人居ず、自分の意識だけがありました。本当に恐ろしいことでした。幸いにもその夢は現実にはなりませんでしたが、今でもその時の気持ちはありありと思い出せます。
 前にお話した、ガンで亡くなった筆者の友人たちもそういう気持ちを味わったと思います。体調不良を感じて医者に行き、検査がだんだん進んで行って、いよいよガンであることが確定して行った過程です。恐らく太平洋戦争で特攻攻撃を命じられた兵士たちもそうだったでしょう。よく言われる100%死と99%死との差はたとえようもないほど大きなものだと実感できました。
 筆者はそれが夢だとわかって、何とも言えない気持ちでした。そして、死を決定付けられた人の気持ちがどんなものかが身に染みて理解できました。筆者は禅を中心にさまざまな宗教について書いています。もちろん人間が最も恐れるのは死であり、避けられないそれに対しいかに平常心を保てるか、その安心を得るために人が宗教に関心を持つのでしょう。
 前にも書きましたように、死を目前にしたことのない者が宗教について書き、死後の安心を人に説くのは許されないことだと思っています。あの高僧仙厓が死に臨んで「死にとうない」と言って弟子を当惑させたこと、長年仏道を説いて来た瀬戸内寂聴さんが重病になったとき、「神も仏も無いものか」と言ったことは、信仰のもろさを、本音を暴露したということでしょう。瀬戸内さんはその貴重な体験を、神仏に対する疑問よりも、苦しむ人達への共感へと向けるべきだったのではないでしょうか。一方、東日本大震災の被災者を励ますために現地に乗り込んだ有名寺院のエリート僧たちがすべて挫折したのもわかるような気がします。死の恐怖や苦しみを感じたことのない者が、頭で考えたことで人を癒せるはずはないでしょう。とても共感を得られるとは思えません。逆に「傾聴おことわり」のビラを仮設住宅の扉に張られてしまったのが何よりの証拠、と言ったら言い過ぎでしょうか。さらに、筆者が死生観など軽々しく他人に聞いたり、自ら口にするものではないと言うのもこういうことなのです。

 筆者のこんどの夢は、はからずも、死が決定付けらた人間の心情をわからせていただいた貴重な体験だったと思っています。

禅は宗教か?(1, 2)

禅は宗教か(1)

 確かに禅僧はお坊さんで、僧衣を着てお経をあげています。以前のブログ「科学と宗教」でもお話しましたが、もちろん禅宗は仏教の一宗派です。あの曹洞宗永平寺にも本尊があり、釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来です。釈迦は説明の必要はありませんね。阿弥陀如来は無量寿仏、すなわち「無限の寿命をもつもの」の意味で、西方にある極楽浄土を治める仏(東方は薬師如来)ですから、全宇宙を主宰する毘盧遮那仏(大仏)の一つ下の階級の仏のようです。弥勒仏は釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏とされていますが、大乗仏教では菩薩のお一人(如来の下)と言われています。つまり、道元は禅の延長上に神を見据えていたのでしょう。
 しかし、それらの衣をすべて剥ぎ取れば、禅は哲学、すなわち東洋独特のモノゴトの観かたなのです。道元やその師、中国の如浄が寺に住み、僧衣を着ていたのは、当時哲学を学ぶには寺しかなかったからです。現代においても西嶋和夫師のように社会で活躍していた人が禅を学ぶため得度して寺に入った例もあります。その一方で、寺という組織に限界を感じ、飛び出した人たちもいます。あの良寛さんがそうですし、以前お話したベトナム出身の禅僧テイクナット・ハン師、わが国では村上光照師がそうです(村上師のことはいずれお話します)。 

 前回、「禅は世界を救う」とお話しました。「禅は仏教だからキリスト教やイスラム教とはまったく相容れないのではないか」との疑問もあるかもしれません。しかし、それはまったくの危惧です。禅は哲学、すなわち東洋独特のモノゴトの観かただからです。他の宗教と相容れないところは一つもありません。そして僧衣などを身に着ける必要も、お寺に入る必要もないのです。ちなみに禅寺で読誦されているのはお経ではありません。「なむからたんのーとらやーやー・・・」は教えではなく、呪文(陀羅尼)なのです。何よりの証拠は、他のお経のように漢語や日本語ではなく、インドの古代語であるサンスクリット語をそのまま詠唱していることです(それについてはいずれお話します)。

 たしかに禅とキリスト教やイスラム教との違いはあります。しかし、その違いにこだわり、目くじらを立てなければなんら矛盾はありません。それどころか、さまざまな宗教・宗派間の対立は、すべて自分たちの宗教・宗派に対するこだわりが原因です。キリスト教とイスラム教との間、はなはだしい場合には同じイスラム教でもシーア派とスンニ派のような、単なる宗派の違いで憎み合い、殺し合って来たのは神の心を正しく理解していない人たちであり、神の意志に反する行為なのです。信仰とは神の心を知り、救いを求めることにあるのは言うまでもありません。
 キリスト教やイスラム教と禅との根本的な違いについては次回お話します。しかし、それはなんら対立を生むものではないことに改めて念を押しておきます。

禅は宗教か(2)禅は宗教ではない(2)
 
 前回、「禅とキリスト教やイスラム教との間には決定的な違いがある」とお話しました。キリスト教やイスラム教では神は絶対であり、およそ人間とは次元の違う存在とみなすからです。「絶対なる神をひたすら尊び、その御心に反しないような生活を送る」これがこれらの宗徒の理想ですね(註1)。ここで、「じゃあイエスキリストは神なのか人間なのか」という疑問が当然出てくるでしょう。この世で生きていらっしゃたのですから。その疑問に対し、筆者が大学教養部の頃、熱心なクリスチャンであったドイツ語教師が「キリストは、ちょうど円と接線のように、神が人間界に接触した唯一の例である」と話してくれました。「なるほど」と、当時は思いましたが、現在では「うまい矛盾の解決法だな」と思えます。屁理屈と言ったら言い過ぎでしょうか。

 一方、禅では「悟りによって神と一体化すること」を究極の目標とします。つまり、神と人間とは隔絶した間柄ではないのです。一方、「いや、今、禅は宗教ではないと言ったじゃないか」と言う人がいるかもしれません。もっともな疑問ですが、まあ聞いて下さい。じつは「禅の目的は悟りによって神と一体化すること」は筆者独自の見解なのです。筆者が禅を学ぶ過程で気付きました。おそらくこれまでの禅師たちにはそういう考えはなかったと思います。前回お話したように恐らく道元も悟りの延長上に神を見据えていたのではないでしょうか。道元が永平寺の本尊としていた阿弥陀仏や弥勒菩薩はなのです。つまりキリスト教で言う「エホバの神」と同じなのです。道元はさすがにわかっていたのでしょう。
一方、大多数の禅宗のお坊さんは阿弥陀如来信仰を持っているわけではなく、「ただ悟りを開くこと」のみを目標としているのでしょう。悟りを開いたその先のこととか、悟りの本当の意味などは考えていないと思います。今言いましたように、よく考えれば当然「神と一体化すること」になるのですが・・・。
 筆者の言う「禅は宗教ではない」とはこういう意味なのです。どちらの道を行くかですね。

 つまり、筆者は「禅とキリスト教やイスラム教はなんら矛盾するところはない。現代のキリスト教やイスラム教徒などの人達が忘れていた正しいモノゴトの観かたは禅にある。世界の危機を免れる重要な知恵だ」と言いたいのです。
註1 仏教にもキリスト教やイスラム教とほとんど同様の宗派があります。それは浄土思想です。仏教は釈迦以来「自力本願」つまり、努力によって平安に達することを教えてきました。それに対し、浄土思想は「ただ(絶対神である)阿弥陀仏におすがりする」という「他力本願」なのです。法然の考えがいかに革新的だったかお分かりいただけるでしょう。