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禅語(1,2)「枯木龍吟」「無我」

          中野禅塾だより (2016/1/8)
禅語について(1)
 
 禅語というものがあります。禅のエッセンスを熟語にして、色紙や掛け軸にしたものです。これからお話しする枯木龍吟とか、柳緑花紅がよく知られていますね。今、禅が静かなブームだと言います。先日もテレビ番組「今こそ実践 禅の生活」で、禅を実生活に生かして救われたケースが紹介されていました。一例を挙げますと、Aさんは、59歳の時心筋梗塞で死線をさまよい、将来に大きな不安を感じ、「私はもうダメだ。私にはこれからの人生は無理だ」と弱気になったとか。しかし、禅語枯木龍吟に出会い、「病気を治して頑張っていこう。生きて人のためになることも可能だ。生きるんだ!」と大きな勇気が湧いたと言っていました。62歳で定年となり、さまざまな地域活動(街歩きサークル、合唱、生涯学習)のリーダーとして活躍し、74歳の現在も元気で、手帳のスケジュール表は一杯でした。まことに結構で、ご同慶の至りでです。Aさんの人生の転機となった、禅語枯木龍吟をAさんは、「枯木でなければできない役割がある(歳取った私でなければできない役割がある)と受け取ったからだ」そうです。
 しかし本当の意味はまったく別なのです。Aさんがこの禅語に出合って心機一転されたのは結構なことですが・・・(それにしてもAさんは自分を枯れ木だとは!)。以下は道元の「正法眼蔵 第六十一巻 龍吟(わざわざこういう巻を設けているのです)」にある文章です。筆者抄訳で示しますと、

・・・・・・舒州投子山慈濟大師にある僧が質問した。僧:枯れ木は龍吟を奏でるでしょうか。慈濟大師:私の仏道においては、ドクロの瞳が大いなる法を説いている・・・外道(仏教徒以外の人、道元の言葉は厳しい:筆者)の言うところの枯れ木は、釈尊の言う枯れ木とは意味がまったく異なる。外道は枯れ木を朽木だと言う。それでは朽木が龍吟をかなでるはずがない。巡り来る春に逢うはずがない・・・・・・仏祖の言う枯木は枯れ海に等しい。海が枯れるのも、木が枯れるのも等しいのだ。木は枯れても春に逢うのだ。今ある山も海も空も枯木と同じなのだ。萌え出る芽にそよぐも風の音も枯木の龍吟と同じなのだ・・・・・・

と述べています。つまり「枯木が風に静かに鳴る音やどくろの黒い目の色(エキセントリックな表現ですが、禅ではよくこういう言い方をします)など、自然のあらゆるものはそのまま仏の姿、仏法そのものの表れだ」と言うのです。こういう話を聞くと、筆者はすぐ蘇東坡(中国北宋の人)の「渓声山色」を思い出します。「悟りを開いてみると、谷川の音、山のたたずまいすべてが仏法の表れだとわかった」という感動的な詩です。

Aさんの理解とはまったくちがうことがおわかりいただけるでしょう。拙著「禅を生活に生かす」には、このように自己流の解釈をしている人がいかに多いかを書きました。やはり正しい意味を知り、深い意味を味わうことが大切でしょう。ちなみに禅では生半可な解釈を「生悟り」と言って厳しく戒めています。

禅語について(2)
「無我」

「無我」は禅だけでなく仏教の中心思想の一つです。しかし、これまで多くの僧侶や宗教学者や評論家が誤って解釈してきました。すなわち「無我とは我欲を捨て去ることだ」と言うのです。「我欲は棄てなさい。自分を苦しめるだけです」という「教え」は誰でもが納得しやすいので「なるほど」と思わせるのでしょう。つまり、人は自分の欲望やエゴに振り回されている。「よい学校に入って、倒産の恐れのない有名会社に就職し、豊かな人生を送りたい・・・」、しかし、その代償として過酷な競争や、毎日夜遅くまでの就業など、心に余裕のない生活を送らざるをえないのが現代人の姿でしょう。そして「こんな人生で良いのだろうか」と感じている人も多いでしょう。しかし、そんな教えを聞いて救われた気持ちになるのは一時のはず。家へ帰ればすぐに過酷な現実が待っており、いやおうなしにそれに向き合わなければならないからです。

 道元は「正法眼蔵・現成公案編」で、
 ・・・佛道をならふ(習う)といふは、自己をならふなり、自己をならふというは自己をわするる(忘るる)なり、自己をわするるというは、萬法に証せらるるなり、萬法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり・・・
と述べています。よく知られた一節ですね。これをある人が、
・・・仏道(真の道)を学ぶというのは、自己を習い知るということである。自己を習い知るとは、自己を完全に忘れ去ることである。自己を忘れ去るとは、自分が空になって、空になった自己が万法によって保証されることだ。万法に証されるということは、自己の身心も、他己(自分以外の人)身心も脱落(とつらく)せしめ、空になって、それが法によって保持されることだ(下線筆者)・・・
と解釈しています。「空」などの言葉を使ってもっともらしいですね。しかし、道元の教えはこれとはまったく違うのです。
 
 筆者の解釈は、
・・・仏道を習う、つまり仏法に従った正しいものの観かたとは、体験の世界なのだ。自己はそれ自身独立してはありえない。他己(自分以外のモノやコト)によってあらしめられる、他己があって初めて自己もある。しかし、純粋な体験とは、観るものなくして観る行為(現象)そのものなのだ。そこでは、行為だけがあり、もうその主体である私は(他己も)ないのだ。しかも、一つの体験に留まっていてはいけない。それをたゆみなく続けていくことこそ、真の仏道なのだ・・・
です。つまり「空」の理論を説いているのです。いかがでしょうか。
「空とは体験である」とお話しました。純粋な体験の世界には我(われ)、つまり、観る主体は消えているという意味なのです。それが本当の「無我」の意味です。「エゴを棄てる」などという意味ではないのです。我欲とはまったく関係ありません。

 禅のキーワードを正しく理解しないで禅がわかるはずがありませんね。「無我」を「我欲」などとするのは安直な解釈なのです。いまもっとも必要なことは、これまでの僧侶や宗教家のこういう解説を棄てて、禅の原点に戻って学び直すことだと思います。

禅の公案(1, 2)

 禅の公案(1)

 禅でよく言われる「不立文字・直指人心」とは、禅は文字を通じて伝えるのではなく、直接弟子の心に伝える、という意味です。初祖達磨大師、二祖慧可など、初期の指導者たちの言葉がよく伝わっていないのはそのためでしょう。しかし、その後どうしてもそれだけでは不十分であり、六祖慧能(638-713)の頃からは悟りを促す重要な言葉やエピソードが記録されるようになりました。それらをまとめたものが「公案集」であり、「無門関」「従容録(「碧巌録」と重なる部分が多い)」、臨済宗の祖臨済の言葉を弟子達がまとめた「臨済録」などが有名です。「公案が理解できると仏祖(釈迦)や祖師の思想に直接つながる」とも言われます。ちなみに「公案に答えはない」と書いている人がいましたが、それは誤りです。「禅問答」と混同しているのでしょう。「公案は解説するものではない」と言われます。修行を積んだ僧を悟りに導く最後のひと押しとも言いますから、いわば上級者のためのものですね。解釈を示してしまったら「不立文字・直指人心」の精神に反するからです。以下に、印象的な公案について幾つか感想を述べます。

1) 趙州狗子(じょうしゅうくし)
「無門関」(岩波文庫)第一則です。著者無門慧開はこの公案を「無門関」の初めに置きました。そして四十八則それぞれについて「評唱」と「頌」を付けました。「評唱」とはコメント、「頌」とは会得した時の感動を詩にしたものです。いずれも回答ではありません。この公案はまた「無字の公案」と言われ、禅宗、特に臨済宗の看話禅では修行者の第一関門としてまず課せられます。次の趙州(778-897、120歳!)は唐時代の高僧です。

趙州和尚、因(ちなみ)に僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや」(趙)州云く、「無」
(趙州禅師に、ある時、一僧が、「狗子(犬)に仏性が有りますか、無いのですか」と尋ねた。趙州は「無」と答えた。)
この僧は「一切衆生悉有仏性」(涅槃経にある、一切のものには仏の本性があるとの意味です)」との文言が常識だと分かってた上で尋ねたのです。ですから趙州が「無い」と答えたのを、「犬には仏性がない」と解釈してはどうにもなりません。「有るとか無い」の問題ではないという意味なのです。なにより「従容録」第十八則でも、趙州は同じ質問に対して「有」と答えています。ただし、さまざまな禅師が言うように「絶対無」と解釈してはまた迷路に入ってしまいます。
 無門慧開は「評唱」で、
 ・・・「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透(とお)るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す(筆者訳:禅に参じようと思うなら、何としても禅を伝えた祖師達が設けた関門を透過しなければならない。これがその一つである)」・・・「通身に箇(こ)の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ。昼夜提撕(ていぜい)して、虚無(きょむ)の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ、有無の会を作(な)すこと莫(なか)れ (筆者訳:全身を疑いの塊にして、昼も夜もこの無の一字の意味を理解せよ。この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない)」
と言っています。筆者はこの有名な公案を以前から知っており、いろいろな人の解説を読みましたが、納得できるものはありませんでした。ある人は「ただひたすら無の意味を考えよ」と解釈しています(その通りに書いてあるのですが)が、そんなことが続けられるとは思いません。しかし、ある時その意味が「アッ」とわかりました。禅をできるだけ広く深く学んでいれば、いつかおのずとわかることだと思います。頭で知っていたことが腑に落ちるということは、禅ではとても大切だと思います。もちろん無は空とはまったく違います

禅の公案(2)

庭前柏樹(子(「無門関」三十七則より)

    趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来(せいらい)の意(註1)」
    州云く、「庭前の柏樹子(はくじゅし)」。
   (ある僧が趙州に聞いた。「祖師がわざわざインドから来られた意味は何でしょうか」
  趙州和尚は、「庭前の柏樹子(註2)」と応えた)

  この問答の原典「趙州録」(「趙州録提唱」福島慶道著 春秋社)によると、僧は趙州の
  答えに満足せず、
  「和尚、境(きょう)を将(もっ)て人に示すこと莫(な)かれ」
  趙州云く、「我れ境を将て人に示さず」
  僧問う。「如何なるか是れ祖師西来意」
  州云く「庭前の柏樹子」
(「和尚、境《外境、つまり自己の対象物:禅独特の表現》なんかで示しても分かりません。もっと精神的な内容を持つ言葉で説明して下さい」と趙州に抗議した。そして同じ質問を繰り返したが、趙州は「あの柏の樹じゃ」と答えた)

 註1 つまり禅とは何か、仏法の本質とは何かという重要な意味です。
 註2 柏餅の柏のことではなく、ヒノキ科の柏槙(びゃくしん)のことです。

ある人の解説では:
 ・・・この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、天地ヒタ一枚、禅師の心には境など存在しないのです。庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。祖師西来意だの、禅だの、仏だの、悟りだのという小理屈は捨て切って、柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。この消息は釈迦、達磨といえども窺い知る事の出来ない、兎の毛ほどの思慮分別も差し挟む事の出来ない徹底的な「無心」の心です・・・
とあります。こういう解釈が多いのですが、間違いです。おそらく「境」という字にとらわれて、前回枯木龍吟のところでもお話した「自己と境が一体である」と同じ公案だと解釈してしまったのでしょう。第一、「無門関」では、「境」という言葉は使われていません。正しい意味は、次の拈華微笑と同じなのです。ちなみに「天地ヒタ一枚」はあの澤木興道師の口癖です。影響を受けた人は多いのです。

拈華微笑(ねんげみしょう )
 禅では有名な言葉で、「無門関」第六則に「世尊拈華」として出てきます。
 臨済宗・黄檗宗公式ホームページ「臨黄ネット」(山田無文著作集より引用とあります)では、
 ・・・一般に「インドの霊鷲山上で釈迦が黙って華を拈(ひね)ったところ、大衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという」とか、「言葉を使わないで、心から心へ伝えること」と解釈されています・・・

このように、「以心伝心」との解釈が多いのですが、それでは公案にはなりませんね。無門は「評唱」でこの公案の一般的な解釈に疑問を呈しています。筆者も同感です。上記の「庭前の拍樹子と同じだ」をヒントに考えてみてください。

日本大乗仏教の衰退

     日本大乗仏教の衰退(1)

 後ほどお話しする、「空思想」の発展型である唯識思想は、法相宗として薬師寺・興福寺などに伝えられました。一方、華厳思想に基づく華厳宗は東大寺がその総本山です。
 聖武天皇が鑑真和上をわざわざ唐から招いたのは、よく言われるような、日本の仏教を盛んにするためだけではありませんでした(註)。すなわち、奈良の上記など寺院勢力が増すとともに、僧侶が政治も口を出すようになり、天皇の施策上侮りがたい勢力になったからです。聖武天皇はそれに対抗するため唐から鑑真を招いたのです(最初から鑑真和上を考えていたわけではないようです)。その名目は鑑真が授戒(受ける僧から言えば受戒)、すなわち僧になるための儀式のエキスパートだったからです。これは正式に僧として認可されるための免許ですから、既存の奈良の大寺院の僧と言えども、それを受けないものは公式な僧として認められないことになり、大問題でした。聖武天皇の意図はこうして達成されたのです。しかしこの目論見は鑑真の死後、既存仏教の反発により唐招提寺は衰えてしまいました。
 こうして薬師寺、興福寺、東大寺等の奈良仏教が再び勢力を張るようになりました。しかし、平安時代に入るとそれらの寺院は急速に衰えてしまったのです。その最大の理由が、桓武天皇による平安遷都です。平安遷都にも聖武天皇と同じ深い政治的意図がありました。すなわち桓武天皇は奈良仏教勢力に対抗するため、遷都と言う大パフォーマンスを行ったのです。それは大成功でした。以後、奈良仏教は衰退してしまったからです。
 
 わが国の仏教を考える上で、このような視点はとても大切だと筆者は考えます。このような構図はエジプトの王と神官たちとの関係も同じで、あのツタンカーメンの父アメンホテプ4世は大胆な宗教改革(多神教であったエジプトをアテンを唯一神とするアマルナの改革)を行いました。これによって神官たちの権力は大きく後退しました。

註 授(受)戒:仏教で新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う儀式のことです。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧集団内での規則を「律」と言います。日本に仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んでした。しかし、奈良時代に入るとそれをないがしろにする者たちが徐々に幅を利かせたと言います。そこで10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため唐へ渡り、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた・・・これがこれまでの通説です。

 こうして平安遷都から1200年、奈良仏教が日本人の思想や文化に与えた影響はほとんどありませんでした。ご存知のように現在は観光寺院としてだけ有名です。

 今度の東日本大震災にあたって、遺族達をなんとか勇気付けようと、奈良の有名寺院の僧たちが次々に被災地に派遣されました。しかし、その試みはほとんど挫折したのです。NHK特集で、その心情を涙ながらに吐露していた僧は、薬師寺の衆生済度を担当する青年部のエリート僧でした。この僧の同僚が説いていた「般若心経」の解釈は明らかに間違いでした。東日本大震災は、はからずもわが国の奈良仏教の衰退を如実に示したのです。

 日本大乗仏教の衰退(2)浄土思想の衰退

 以前「歎異抄には新しい思想はない」とお話しました。文字通り「親鸞の教えを勝手に解釈するようになった不肖の弟子たちを歎く」内容に過ぎないからです。
 法然の「選択本願念仏集」や「一枚起請文」にはまさしく法然思想の神髄「ただ南無阿弥陀仏と唱えよ」と書かれています。親鸞の「教行信証」にはそれを超えるものは何一つあません。たしかに法然は世界仏教史の中でも画期的な位置を占めています。親鸞の凄さは法然の教えをいじらしいほど固く信じていたことにあります。浄土真宗をさらに堕落させたのは八世蓮如(1415-1499)です。蓮如は生涯に5度婚姻し、男子13人、女子14人の子をもうけ、男子は新しい寺の開基としたり、有名寺院の後継者として送り込む一方、女子はやはり有名寺院の住職の妻としました。さらに重大なことは、蓮如は上記の我が子たちを中心に構築する巨大な宗教団を作り、下記のように法事などの催行を独占して莫大な財政基盤を確立しました。さらに蓮如は親鸞の「教行信証」の一部を「正信偈」という短い経文(?、内容はありません)に仕立て、信者が毎日唱誦するものとしました。なんだか現代のAKB48グループ経営会社のようなアイデアですね。

 後年、蓮如は本願寺の書庫で「歎異抄」を見つけ、
 ・・・寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても、本願の働きにすべてお任せして、深い信心を頂くなら、それこそ本願のお心に叶うことでありましょう(第十八条 筆者訳、下線も)・・・とか、
 ・・・親鸞には一人も弟子などおりません(第六条 同)・・・
と書いてあるのを見て大変驚き、末尾に「妄りに読ませはいけない」と書き加えたのは、蓮如のやったことが、親鸞の教えとあまりに違うからでしょう。

 さらにこの浄土真宗教団の巨大化の追い風になったのは江戸幕府の「寺請制度(檀家制度)」でした。宗教統制が目的の権力機構で、民衆は何れかの寺院を菩提寺としてその檀家となる事を義務付けるものでした。それによりキリスト教を禁制として、信徒に対し改宗を強制しました。それまでの民衆の葬式は一般に村社会が執り行うものでしたが、檀家制度の制定以降、僧侶による葬式が定まったのです。そして檀家制度は、寺院に権威と収入を保証しました。さらに妻帯が認められ、職業は世襲化されました。そのため僧侶とその家族は、当時としてはきわめて恵まれた生活を送れるようになったのです。さらに寺僧たちは無学文盲が多かった村社会においては教養も高く、特権階級となって行きました。僧侶たちの仏教を深く学ぶ意欲が低下して行ったのは自然の成り行きでしょう。そしてついに葬式仏教と化したのも当然でしょう。現在、東西両本願寺の門徒は1200万と公称し、その頂点に立つ本願寺門跡は貴族化しました。わが国最後の貴族はここにいるのです。
 明治になって寺請制度が廃止されると、寺が徐々に衰退して行ったのは驚くことではありません。今日、わが国では家族が分散して先祖供養も満足にされないため無縁墓が増え、葬儀は専門会社によって代行さるようになりました。それどころか最近ではネットによる僧侶の派遣事業も始まり、寺の経営上大きな脅威となっています。基盤であった葬儀や法事すら寺の手を離れ始めているのです。

 東日本大震災の遺族を慰めるため派遣されたエリート僧たちが挫折感を味わったとお話しました。浄土真宗でも同様だったのです。筆者は法然や親鸞の思想はすばらしいと考えています。その原点に戻って教えを説き、人々を救わなくてはなくては寺の将来はないのです。

鈴木大拙の即非の論理

         中野禅塾だより (2015/12/20)

鈴木大拙の即非の論理

 鈴木大拙と西田幾太郎は同郷(金沢)の親しい友人同志で、「お互いに影響を受け合った」と言っています。すなわち鈴木博士は以下に述べます即非の論理、西田博士は絶対矛盾的自己同一理論がそれぞれ禅と哲学における画期的な思想でした。

 鈴木博士の「即非の論理」は「金剛般若経」をヒントに案出されました。以前お話したように「金剛般若経」は、「般若経典類」の中でも初期に成立(紀元150-200頃、ちなみに「般若心経」の成立は4世紀頃)しました。空の思想が述べられていますが「空」という言葉自身はありません。その意味でも初期のものであることが推定されます。鈴木博士は「金剛般若経」には「即非」という言葉が繰り返し出て来るのに注目しました。たとえば、

 ・・・仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是経名金剛般若波羅蜜(如来によって説かれた<智慧の完成>は、智慧の完成ではないと如来によって説かれているからだ。それだからこそ<智慧の完成>と言われるのだ)・・・とか、

 ・・・所言法相者 如来説即非法相 是名法相(それではどのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ)

というふうに、「〇〇〇である。しかし○○○ではない。だから〇〇〇」なのだ」と、マッチポンプ的な表現なのです。ちょっと面喰いますが、じつは重要です。鈴木博士は禅の要諦は即非にありと考えたのです。さすが慧眼だと思います。なぜなら禅の中心課題の一つに概念の固定化の否定があるからです。さまざまな公案集を読んでみますと、それがよくわかります。筆者が研究者時代、あらゆる学説や新しい研究報告に対し信じつつ信じないという態度を一貫して取って来たことは以前お話しました。

 ある人のブログを読んでいましたら、鈴木博士や西田博士に対する厳しい批判が出ていました。たとえば、
 ・・・大拙氏の「即非的自己同一」なる論理はまったくのナンセンスで、そのナンセンスなものをヒントにして作成した西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一(註)」なる論文は、茶番としか言えないのである・・・鈴木大拙氏の「主客未分(註)」の禅理論が何の根拠もない誤論であることは、わたしは度々指摘した。ゆえに、その誤論を根拠に構築したと思われる「絶対矛盾的自己同一」や「善の研究」はまったく以ってナンセンスとしかいいようがない・・・
とありました。自説に対する批判は少々厳しくても甘受して次の展開の糧とすべきでしょう。しかし、じつはこの人のブログの内容自体にも誤りが多いのです。しかも匿名でした。それは許されません。上記の筆者の解釈をお読みいただければ、鈴木博士の解釈はナンセンスどころか重要な指摘であることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

註 「主客未分」および「絶対矛盾的自己同一」については次回以降にお話します。

死生観

         中野禅塾だより (2015/12/18)

 死生観(1)

ある小さな会合で、「あなたの死生観は何ですか」と尋ねられたことがあります。筆者の著書を話題にした会合で、質問した人の声の響きからけっして好意的なものではないと感じました。死生観など、軽々しく、しかも初対面の人間に聞くものではないと思います。人の心の奥底の問題ですから。
 死は誰にとっても最大の不安でしょう。歳を取れば否応なしに死のことも考え、それに対する心構えをするのが自然の成り行きでしょう。長年神の愛を説いてきた女性が突然ガンであることを宣告されて「神はヒットラーだ」と罵ったケース。宗教学者として、死後の霊魂の存在が人々の宗教に対する最大の拠り所であることを熟知しながら、悪性のガンになって煩悶し、霊魂の存在など認めないことを自分の知性だと頑張った岸本英夫博士。お墓など絶対に作らないと宣言していた吉村昭さんがお墓を作って亡くなり、その考えに同調していた妻、津村節子さんが夫の遺影を飾り、毎朝コーヒーを供えているケース。出家得度し、仏の愛を説いて来た瀬戸内寂聴さんが、病気になってあまりの苦しさに「神も仏もあるものか」と叫んだケースなどについては以前触れました。

 後期高齢者のある知人が「僕はいつ死んでも悔いはない」と言うのを聞いて、「あんなこと言わない方が・・・」と思いました。裸の坊さんが月を指して「を(お)月さん幾つ、十三七つ」と言っている禅画で有名な仙厓和尚の臨終の場で、「何か最後の名言」をと待ち構えている弟子たちに「死にとうない」と答えて当惑させたエピソードはよく知られています。あの一休さんにもそんな話があります。二人とも案外本音だったのではないでしょうか。

 筆者が軽々しく死生観など口にしないのは、どんな人でも「そのとき」になってみなければ分からないと思うからです。筆者の元同僚や後輩にもガンで亡くなった人が何人もいます。退院して久しぶりに学科の会議に出席したその姿を見て、あまりの憔悴振りに驚いたことがあります。隣の研究室の人で、ごく親しく付き合っていましたから、何度もお見舞いにも行きました。しかし彼は終始少しも乱れる様子はありませんでした。15年経った今でも感動しています。
 筆者が長年多くの人の死を見聞きした経験では、どんなに善い人でも、若い人でも、節制や運動にも関係なく、「そのとき」は来たようです。アッという間の人も、苦しみ通しだった人も、痴呆症にもなり6年も施設に入った人もいました。「そのとき」は避けようがなく、否が応でも受け止めるしかないようなのです。

 筆者には死生観などありません。ただ家内には「過剰な高額治療だけは止めてくれ」と言ってあります。お金は大切なものだからです。

死生観(2)

  前回、立派に死を受け入れた筆者の友人についてお話しました。筆者と一緒に最終講義をするのを楽しみにしていましたが、3か月後のそれも待てずに逝ったのです。
 
 親しく付き合っていましたから、病気になってからの心の推移は想像できます。体の不調を覚えて病院へ行き、「疑いがある」と言われたこと。検査が進み、だんだんその疑いが濃くなって行ったこと。最後にそれが決定的になり、体調もさらに悪化したこと。そんな時、だんだん迫ってくる死への恐れや、家族の将来を考えて夜も眠れなかったことでしょう。しかし、どんなに不安であろうと苦しもうと避けられなかったのです。よく言われることですが、人はこういう時、まず「そんなはずはない」とその状況を強く否定し、つぎに天を呪い、最後にあきらめの境地になると言います。そのとおりなのでしょう。
 それでも彼は終始平静を保ったと、筆者には見えました。お葬式でまだ1歳そこそこのお孫さんを見て、彼も幸せだったろうと救われました。

 前著「禅を正しく、わかりやすく」にも書きましたが、筆者は6年前大変苦しい状況に陥りました。病気ではありませんが。そのとき筆者が長年書き溜めて来たノート3冊を繰り返し読みました。昔から「これはよい話だ。苦しい時には自分を支えてくれるだろう」という文章の一節を、さまざまな本や新聞から書き抜いて置いたものです。しかしいくらそれらを読んでも心は休まりませんでした。さらに悪いことには、体調まで悪くなったのです。視野の中に光が見える症状、心臓の動悸などです。眼科に行っても医者は首をかしげるばかり、内科へ行って「不整脈ですか」と聞いても、「そうではない」との返事。心臓の動悸は、初めの頃は一日数回でしたが、後には5分に1回にもなりました(ところが問題が解決してみると、これらの症状はピタリと治まったのです)。
 不思議なことに、とにかく全力で戦わなければいけないその時に、ともすれば「このままでいいんだ」と現状を肯定する気持ちが働くのです。そのための理屈まで考える始末。
結果としてはそれを抑えて戦い抜きましたが。

 なんとかそういう自分を支えたいと、本格的に禅を学び直したことは前にお話しました。いま考えますとこれは筆者にとってとても良い経験でした。「ピンチはチャンス」とはよく言ったものです。日本人なら一生の間に本格的に禅を学ばない手はありません。いずれきちんとお話しますが、禅はインドで基礎が作られ、西域を経て中国で発展してわが国へ伝えられました。栄西や道元のお蔭ですね。ところが中国ではその後の国家体制の変化もあり、今では禅の系譜は途絶えてしまったのです。曹洞宗では、禅の正統は道元の師、宋の如浄から道元に伝えられたと言います。あながち身びいきな言葉ではない、と筆者は考えます。

 道元の「正法眼蔵」はわが国古典の内でも最も難しいものとされています。しかし原文は漢文ではなく、かな交じりの日本語で書かれているのです。こんな幸運を受け止めなくでどうするのでしょう。