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放っておこう-禅の心2)

 Bさんは文字通り「竹馬の友」で、掛け替えのない友人です。彼も中小企業の社長でしたが、30年間立派に経営の責を全うしました。かねがね、なんとか彼の成功の秘密を聞きたいと、あれこれ質問してきましたが、「よくわからない」と言うだけでした。彼の円満な性格はお父さん譲りで、それが成功の秘訣の一つであることは容易に想像がつきました。彼は以前、北陸のかなり大きな商社に勤めていました。ある年の昇給の査定で、どう考えてみても実績の少ない後輩の方が昇給が大きいことを知り、退職を決断しました。当時54歳で、子供も小さかったのですが、「誇りが許さなかった」と。すぐに経理の人が来て謝罪しましたが、耳を傾けなかったとか(その会社は間もなく倒産しました。「彼の存在が大きかったため」と筆者は考えています)。筆者がハラハラして聞いてみますと「まあ1年くらい失業手当をもらいながら、新しい職を見つける」とのんびり構えていました。しかし、関連業界の人たちが放っておかず、彼を助けて新会社を作りました。良い話ですね。

 その彼に、つい愚痴をこぼしたことがあります。20年前、筆者は親を亡くしましたが遺産相続を放棄しました。苦しい一家でも大学院まで行かせてもらった、せめてもの恩返しだったのですが・・・・。しかし、けっきょく譲った弟達の争いに巻き込まれ、立場上口を出さざるを得ませんでしたが、かえって恨まれ、義絶されるはめに。「立つ瀬がない」とBさんにこぼしたところ、「放っておこう」と。「ハッ」としました。とてもいい言葉ですね。人の心など変えられるはずもありませんし、たとえ縁が切れようと筆者の人生に支障をきたすわけでもない。少しでも気に病むのはバカバカしいのですね。考えてみれば「放っておこう」、これも禅の要諦の一つなのです。友人もこれまでに何度も、この精神で困難を乗り切ってきたのでしょう。

自分に気付く-禅の心

 「自分に気付く?私など自意識過剰なくらいだ」と言う人も多いと思います。しかし、本当の意味は違います。大部分の人は「自分」に気付いてはいません。筆者の畏友お二人は、はからずも、それぞれ30年あるいは50年間中小企業の会社を経営して来た人です。某大学の経営学専門の教授によれば、「ふつう会社の寿命は3年」とか。筆者の自宅の近くでも、最近、さまざまな業種の会社や店舗が閉じています。おそらく多額の負債を残して。それを30年あるいは50年間保ってきたのですから、苦労は筆者の想像を越えるはず。それゆえお二人には「キラリとする」言葉があります。筆者は長年「お二人の成功の秘密は何だろう」と、あれこれ話を伺いながら突き止めようとしてきました。以下、それぞれについて紹介させていただきます。

 お一人のAさんは、「我慢です」と。「契約を取れれば100%、すぐ次を取れなければ0%で、眠れない日が続く」。相手が役人であるときには「ただ忍耐」と。一般業者であろうと、争いなどできるはずがなく、たとえ勝っても次の発注はないことは筆者でもわかります。仕事が終わっても契約金をなかなか払ってもらえず、3回も相手の事業所を訪れたことも。事務の人が同情して、「あの社長の意図では、支払いは来年のつもりでしょう」と「秘密」を教えてくれたとか。もちろん、こちらもすぐにでも必要なお金でしょう。筆者など忍耐などとても続かず、まちがいなく鬱になっていたはずです。

 あるときAさんは、関連業界の友人のことを話してくれました。彼は経営上大きな会社の傘下に入ることを選択し、景気のいい時には何十億円の契約になったとか。Aさんが直接目にした彼のエピソード・・・・「京都の高級家具店へ行ったとき、『その辺にある家具を全部下さい』と」。しかし、身の丈を越える経営は長続きせず、やがて倒産してしまった・・・・。Aさんは「自分の身の丈はせいぜい年商1億円」と見極め、大企業の傘下には入らず・・・・その後も続いています。自分を見極めるには勇気が要ります。それを成し遂げて生き残ったAさんは達人でしょう。「インテリジェンスとは己を知ることである」・・・誰の言葉だったか忘れましたが叡智ですね。

 Aさんは定年後もなかなか経営から手を引けず、80歳を越える今になっても、あれこれアドバイスし、工事現場にも時々顔を出しているとか。「顔を見せるだけでも働く人たちの励みになる」と。筆者がいろいろ話を伺っても、「この人は余人には代えがたい資質をもっている」とわかります。筆者とは月に1度会っていますが、いつも「残りの人生はのんびりと、楽しく暮らしてほしい」と願っています。コロナ不況の今日、Aさんは意図的にいろいろな商店から「買ってあげる」こともあるとか。

 「おのれを知る」ことは、じつは「悟りの要諦の一つ」なのです。すなわち、禅はモノゴトの見方ですから、正しく観るには自分を常に確保しておくことが重要なのです。Aさんは、この悟りへの大切なステップをクリアしています。

寺院消滅

 鵜飼秀徳さん(1974~京都浄土宗正覚寺住職・ジャーナリスト)は、「寺院消滅」(日経BP社)の著者。以下、佐藤優さんとの対話から。字数の制約から一部筆者の責任で表現を変えました。(「寺院消滅時代をお寺はどう乗り切るか-佐藤優の頂上対決 デイリー新潮)から

 ・・・少子化が進んで、すでに人口減少社会となった日本。その影響は住民が減った地方の寺院に大きく表れている。高齢化した僧侶の後継者は見つからず、檀家減で経済的にも立ち行かなくなった。さらに葬儀の簡素化、墓じまいなどの風潮が拍車を掛ける。今後、寺院が存続していくには、どんな方策があるのか。國學院大学の石井研士教授の試算として、2040年までに日本の宗教法人17万7千のうち35.6%が消滅する。

佐藤(優、以下同じ):少子化、人口減もそうですが、家族形態の変化や都市部への人口集中という現象が拍車を掛けています。

鵜飼(秀徳):・・・・仏教宗派の大手教団はだいたい10年に1度、宗勢調査を行います。それによるとどの宗派も4割くらいが、「後継者はいない」と答えています・・・・仏教では、まず地方に住職のいない空き寺が増えていきます。そこは数年経てば、天井の落ちた“青空寺”になる。島根県大田(おおだ)市の金皇寺(こんこうじ)という浄土宗の寺院が国庫に帰属しました。長らく無住寺院で、境内は荒れ果て、本堂は倒壊寸前でした。ここはかなりの広さがあって、測量にも建物を取り壊すのにも、莫大なお金がかかります。その費用を誰も負担できなかったのです。

佐藤:近所の同じ宗派の僧侶が、空き寺の住職を兼務するということもありますね。

鵜飼:はい。昔はそれにもメリットがありました。空き寺になっても、その檀家が何軒かありますから、兼務すれば檀家が増えます。つまり収入が安定する。ただそうした地域の檀家数は少なく、寺院の修繕費を賄えるほどではないんです。ある程度の規模の本堂だと、足場を組むだけで数百万円かかります。ですから最近は兼務する側も相当に慎重になっています。

佐藤:実は規模は小さいのですが、キリスト教もまったく同じ問題を抱えています。仏教の檀家衆にあたる教会員の数が減っている上に、(会員は)平均すると年に1歳まではいかなくとも10カ月くらい高齢化しています・・・・日本におけるキリスト教のピークは1950年代で、その後どんどん衰退しているのです。日本基督教団では、教会を二つに分け、教会員の数が少なく財政的に成り立たない教会を「第二種教会」と呼んでいます。 籍を置いている教会の儀式にきちんと通う教会員を「現住陪餐(げんじゅうばいさん)」と言いますが、100人はいないと難しいですね。ただ教会がどういう不動産を持っているかで変わってきますし、幼稚園を運営してそこに間借りしていたりすると、30人ほどでも成り立ちます。

鵜飼:仏教では、檀家が少なくとも300軒はないと厳しいです。

佐藤:教学はきちんと学んでほしいですね。牧師でも、学生運動の盛んだった1970年前後に神学部を卒業した人たちは、勉強していませんから、聞くに堪えない説教をすることが多いんです。例えば、人が亡くなった時、「○○さんは肉体の苦しみから救われ、魂は天に上げられました」と言う。これは、キリスト教の教えではありません。世間一般では、死ぬと魂と肉体が分離し、魂は永遠だという受け止め方をされていますが、キリスト教では、死んだら魂も肉体も一度滅び、それが復活するのです。

鵜飼:仏教の説教は、お経を説く(=説経)という意味で、お経について話さなくてはなりません。それをいまは多くが「命を大切に」など、人生論に終始した話をしています。 佐藤:キリスト教カルヴァン派の講解(聖書の解説)説教では、一年を通じて決められた聖書の項目の説教をしなければなりません。でもいま牧師が好むのは「主題説教」ですね。その時、自分の中にあるテーマについて、聖書のいろんな部分を絡めたパッチワークで話をしてしまう。伝統宗教の継承が難しいのは、後継者の問題だけでなく、現代社会の新しい問題にも対応していかなければならないからです。例えば私は、ペットと入れるお墓を探しているんです。

鵜飼:私の寺院は、私が住職になってから墓地規約を書き換え、ペットも一緒に入れるようにしました。

佐藤:それは素晴らしいですね。

鵜飼:いま、ペット葬のニーズがすごくある。人間のお墓とぺットの動物霊園を作っている寺院がありますが、人間の方にはお供えものがないのに、動物の方には尾頭付きの鯛やステーキが供えてあって、その前でボロボロ泣いている人がいるんです。お葬式も人間は簡素化されていくのに、ペットはどんどん大きなものになっています。

佐藤:私の通っているプロテスタントの教会は、一昨年のコロナ感染拡大からZoom礼拝になりました・・・・でもカトリックと正教会、プロテスタントでもルター派は、それが難しい。キリスト教にはパンとワインを飲み食べし、それがキリストの血と肉に変わるという聖餐と呼ばれる儀式がありますが、それらの宗派ではその場にいないと変化が起きないのです。これがプロテスタントの改革派、会衆派の場合は、象徴であるから家のパンとワインでも構わないということになる。

鵜飼:仏教でもコロナ後にオンライン法事からオンライン葬儀まで出てきたのですが、全日本仏教会の調査では、それらを取り入れているのは全体の3%ほどです。まだまだ檀家さんたちは、お寺に行ってお線香の匂いを嗅ぎ、読経の声を聞き、ろうそくの揺らぎを見たいと考えている。逆に檀家さんが求めているのは、お布施の電子決済と、法事などの予約をスマホでできるようにすることです。つまり手続きを簡便にすることだけで、儀式には求めていない。そこを見誤ると、仏教はますます衰退していくと思います。

 私は、宗教復興には、きちんと信者からお金をもらうことも大切だと考えています。結局、資本主義社会においては、お金は力にもなるし、欲望にも変わります。だからお金をどれだけ出すかは、非常に重要な問題です。

 先日の安倍元首相銃撃事件の背景には、犯人の家庭から世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への巨額の献金がありました。彼らのホームページには、収入の1割の献金を奨励しているとあります。

佐藤:実際の献金額は1億円以上と報じられましたね。でも年収の1割だってキリスト教で出す人はいません。だいたい3~5%程度で、1千万円の年収がある人でも30万~50万円出すのが精一杯という感じです。

鵜飼:仏教だと、0.5%いけばいい方ではないでしょうか。

佐藤:消費税の20分の1ですね。それが今回の事件で、宗教は恐ろしいものと思われ、さらに萎縮してしまうのではないかと心配しています。

鵜飼:都市部のお寺では巨大な納骨堂を建てて収益をあげているところもありますが、もう自動搬送式の納骨堂は供給過多になっています。そうした方向ではなく、地域に開き、地域の人が守っていく体制を作っていく。それが今後の寺院の取るべき道だと思いますね。

筆者のコメント:寺院が消滅していくのは、なんと言ってもお寺に魅力が無くなったからでしょう。何度もお話しているように、有名寺院の僧侶たちですら仏教がよくわかっていないのです。ましてや地方のお寺の代々の住職たちの講話など、若い人たちにアピールする力がないのは当然でしょう。葬式だけがお寺の仕事と言われて久しいですが、それからすら「離れて」きているのです。寺院が消滅の方向に進んでいるのは自然の流れでしょう。現代社会ではますます宗教が必要になっているのですが・・・・。仏教界の根本的な改革が必要なのです。

唯識思想の誤解-1,2)

1)唯識思想は、大乗仏教の中心思想の一つと言われています。それについては筆者も以前のブログ(2016/6)で書きましたからご参照ください。

 簡単に再録しますと、

・・・・ 唯識(ゆいしき)思想とは文字通り、「ただ心(識)だけがある」という考え方です。すなわち、あらゆるモノの存在は、一人ひとりの人間の(ただ)八種類のによって成り立っているという大乗仏教の考え方の一つです。八種類の識とは五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、そして第六の「意(識)」と、深層の「末那識(まなしき)」、さらに「阿頼耶識(あらやしき)」を指します。末那識とは、「自分であることの認識」です。阿頼耶識とは、下記の種子(しゅうじ、メモリー)が内蔵されている場所です。あらゆるモノが個人のでしかないのならば、モノというものは主観的な存在であり、客観的に存在するのではないと言うのです。

 たとえば、いま鳥の声が聞こえたとします。その時、鳥というものが自分の外にいて、鳴いた声が耳に届いて私が認識したのではないと言うのです。それは単なるであり、人間の深層の心(阿頼耶識)の中に納まわれていた種子(しゅうじ)がそのをきっかけにして芽吹き、表層にある耳識(耳による認識)を刺激して「聞こえた」と。つまり、「阿頼耶識の中の鳥を生じる種子と、耳という感覚器官を刺激する種子と、聞くという聴覚を生じる種子とが一斉に芽を吹いた」とするのです。つまり、この唯識説では「自分の外に鳥という実体はない」と言っているのです。耳識のほかに、視覚は眼識、匂いを嗅ぐのは鼻識、味わうのは舌識、感触を身識と言い、合わせて五識とします。いわゆる五感ですね。それらの感覚を識別し、判断するのが意(識)であり、私たちがふだんやっている認識作用です。それゆえ、当然認識は個人のものであり、他人の認識とは違います。そして、実体のないものにこだわることが、悩みや苦しみの原因だ・・・・と、仏教のお決まりの思想になっていくのです。

 いろいろ調べてみても、どの記事も大略こういう解説をしています。しかし、おそらくほとんどの人が困惑するのは、「モノというものは人間の主観であり、客観的に存在するのではない」の部分だと思います。つまり、モノには実体が無いというのです。しかし私たちの常識として、モノは「ある」のですから、「無い」と言われたら困ってしますね。何よりの証拠は、「ない」という人の頭をポカンとたたいてやればいい。「痛いじゃないか」と言うでしょう。モノはあるのです。じつは、多くの解説者は唯識思想というものを誤解しているのです。唯識思想は「空(くう)」の概念の延長上にあるもので、以前お話したように、そもそも「空(くう)」の解釈が間違っているのですから、唯識思想というものに無理があるのは当然でしょう。本当に困ったことです。

 唯識思想は、あの玄奘三蔵によってインドから中国へ伝えられ、それを基に弟子慈恩大師によって法相宗が立てられました。それが玄昉などによって日本へもたらされ、法隆寺や興福寺・薬師寺などの中心思想になりましたから、奈良時代の日本仏教の主流だったのですね。

 2)じつは、唯識思想の本来の意味は、「私が見る(聞く、味わう、嗅ぐ・・・以下同じ)世界(モノ)は、私の認識だ」です。つまり、モノはあるのですが、私が見たようにしか見えないと言うのです。それゆえ見え方は個人によってさまざまなのは当然です。つまり、モノは人さまざまに存在するのです。同じモノを見てもその人の歴史、感性、趣味によって見え方が違うのです。また、アマゾンの奥地にも人間はいるのですが、見たこともない私たちには「無い」のです。当然ですね。無着・世親の唯識思想を後代、いろいろな人が勝手に解釈し、内容を拡大していったために、誤解が生じたのです。それは現代の解説者についても同じです。

 筆者は「空(くう)とはモノゴトの観かたであり、見るという一瞬の体験だ」とお話しました。「体験」の重要さは、人間が生きているのは今だけであり、その生きた目が見たものこそ真実の姿だからです。当然、そこにはいかなる価値判断も入る余地がないのです。これこそ禅の要諦なのです。「禅が神と通じる」と言いましたら猛反発をした人がいましたが・・・・。

 それに関連して、よく「過去も未来もない。あるのは今だけだ」と言われます。ここでも多くの人が困惑します。「だってあいつがオレにひどいことをしたのは事実じゃないか」と。そのとおりですね。大切な人が亡くなったのを「過去はない」などと言えば怒るでしょう。じつはここでも解説者の誤解があるのです。筆者なら「ひどいことをされたのは事実です。しかし、あなたの怒りの感情は当時と今とで変わっていませんか?」と聞くでしょう。「その出来事もあなたの認識ですから、時間とともに認識も変わるはず」と。つまり、過去に起きたモノゴトは絶対ではないのです。これが唯識ですね。

生まれかわり-大門正幸さん1,2)

 1)「もし死後の世界があることが実証されれば」は、「もし地球外にも人間のような知的生命があることがわかれば」と並んで人間の意識に革命が起こるとお話しました。今回は、その内、生まれ変わり現象についてお話します。

 生まれ変わり現象や、臨死体験、あるいは死後の世界などについて研究すれば、日本の大学ではほとんど受け入れられないでしょう。しかし米国では、それらをまじめな研究として承認されています。米バージニア大学医学部のイアン・スティーブンソン教授や、その後を継いだJ.B.タッカー教授は、1967年以来、前世の記憶を持つ子供たちへの聞き取りを進め、現在までに世界40か国で2600例以上を収集しています。一方、日本では、中部大学教授大門正幸さんが研究をしています(註1)。次のケースは、イアン・スティーブンソン教授の研究の端緒になった有名な日本の「勝五郎」のケースです。

 武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)の農家、小谷田源蔵の息子として生まれる。文政5年(1822)のある夜、突然家族に「自分はもとは程久保村(現日野市程久保)の藤蔵という子どもで、6歳の時に痘瘡で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。語った話が実際に程久保村で起こった話そのものであり、村に行かなければ分からない話を知っていたということでその当時大騒ぎとなり、「ほどくぼ小僧」と呼ばれるようになった。話は江戸まで知れわたり、神道家・思想家の平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き、聞き取った内容を以下のように「勝五郎再生記聞」という書物にまとめている。


 ・・・・武州中野村の小谷田源蔵の息子・勝五郎が8歳の時、「おまへはもと何処(いずこ)の誰(た)が子にてこちの家へ生まれ来たれる」と、兄と姉に聞いたことに始まりました。何を言っているんだと思った兄と姉は「そちは知りて居れるか」と返すと、「我はよく知れり。本は程窪村の久兵衛といふ人の子に藤蔵といひし者なり」と答えたという。この一件が、たちまち両親と祖母に知られることとなり、自分の前世は、武州程久保村の須崎久兵衛の子・藤蔵である。母の名はしづ、父の久兵衛は死んで、後に「半四郎」というもの(義父)が来て自分をかわいがってくれたが、6歳の時に藤蔵は疱瘡にかかり死んで、この家の母のお腹に入って生まれたと語りました。この当時、勝五郎は祖母と一緒に寝ていました。夜毎に程久保村の半四郎の家に連れて行ってくれと祖母にねだるようになります。とは言っても、子どもの言うこと、あやしく思った祖母がそれなら詳しく話しなさいと生まれてくる前の話を聞きました。

 勝五郎の話によると、藤蔵が死んで、魂が身体から抜け出た。家に帰ったが、話しかけても誰も答えてくれなかった。その後、白く長い髭を生やした仙人のような黒い着物を着た翁と会い、あの世で3年(実際は5年)ほど暮らしていた。翁に小谷田家まで連れてこられ、「あれなる家に入りて生まれよ」と言われ、竈(かまど)のところで家の様子を伺っていた。その時に、母が家計を助けるために奉公に出る話を父としているのを聞いたという。この話は、祖母も知らない両親の間でしか知りえない情報でした。それだけに勝五郎の生まれ変わりの話は、次第に本当かもしれないと父母も思うようになりました。そこで、程久保村をよく知っている者に「久兵衛という人を知らないか」と聞いたところ、勝五郎の前生「藤蔵」家は実在するといいます。文政6年1月20日、ついに祖母と勝五郎は「藤蔵」の家を訪ねました。藤蔵の母のしづと義父の半四郎が在宅しており、勝五郎を見て藤蔵によく似ているといい喜んだといいます。また、勝五郎は、はじめて訪れた家であるにもかかわらず、家の中や家の周辺のこともよく知っていて、みんなを驚かせました・・・・。

「生まれ変わり」のさまざまなケースについては、以下の文献をお読みください。

文献1)「前世を記憶する子供たち」イアン・スチーブンソン著笠原敏雄訳(日本教文社)

  2)大門正幸「生まれ変わりを科学する」(桜の花出版)

  3)同上「なぜ人は生まれ、そして死ぬのか」(宝島社)

  4)森田健「生まれ変わりの村①-④」(河出書房新社)

2)大門さんのように「生まれ変わりはある」と考えている人たちには「思い込み」があるようです。なにより問題なのは、大門さんたちは、生まれ変わりの過去の人物を特定できなかったケースを切り捨てていることです。大門さんも「前はイギリスのお料理屋さんの子供だった」という日本人トモ君のケースを紹介しています(文献5)。トモ君のたっての願いに応じたお父さんがイギリスへ連れて行きました。しかし、どうしてもトモ君の家は見付からなかったのです。大門さんはそこでその話を打ち切っています。ではトモ君の記憶には不確かな部分があったため?筆者はそうではないと思います。次のケースをお読みください。

 ある「私は阪神淡路大震災で亡くなった」と言っていた日本の少女がいます。大震災後わずか数年のことでしたし、「淡路島のある港で、橋が見えて、家は鮮魚店だった」というふうに、その記憶はきわめて具体的でした。そこでレポーターがそれらしい土地を探してみましたが、どうしても見付からなかったのです。これらの事実から、「生まれ変わり」とは別の解釈ができます。つまり、「亡くなった人の意識がどこか(の次元)に残っていて、それがその少女の意識に入り込んだ」とも考えられるのです。このように過去生を特定できなかったケースはいくらもあります。

 大門さんらは、人間の本性は魂(意識)であり、死後生まれ変わるという考えが浸透すれば死の恐怖は無くなる」と言っています(文献3)。そういう人もいると思います。しかし前回お話したように、筆者は数年前、ガンの疑いがあるためと生検を受けました。そのとき「ガン、そして死・・・・」という言葉が頭をよぎりました。しかし「生まれ変わるから不安はないという考えはまったく浮かびませんでした。なんの助けにもならなかったのです。「なるようになる」これが筆者の、いわば死生感です。

 大門さんはまた、・・・・国、人種、宗教を越えた生まれ変わりの実例が存在する。自分も次の人生で国、人種、宗教を越えた生まれ変わる可能性に思いを馳せることができれば、これらの違いに基づく対立は大幅に減るのではないか・・・・過去生で異性だった可能性について想像することができれば、女性蔑視に起因する事件や出来事は大きく減るのではないか・・・・「生まれ変わり現象や臨死体験についてのまじめな研究が集まって大きな流れになり、やがて人間観や世界観の大きな転換が起こる。その胎動が鳴り響き始めているのが現在であると思われてならない」と言っています(文献3)。しかし、筆者はとても期待できません。今ロシアがウクライナを侵攻していること、中国のウイグルでの蛮行を見て、ロシアやア中国の人々このようなパラダイムシフトが起こると思いますか?ソ連崩壊というきわめて深刻ななダメージを受けたにもかかわらず、ロシア人の意識は変わっていないのです。逆に100年前に戻っているのです。中国についても同じです。イスラエルとパレスチナの紛争についても、彼らの相互不信がこのパラダイムシフトで解けると思いますか?イスラエルという国が無くなることなど永遠にありえないのです。

 「死んだらどうなるの」について、筆者は「霊があることは確信していますが、それは単に神の世界があることを知るきっかけに過ぎません」と書きました。つまり、生まれ変わり現象や臨死体験の問題は重視していないのです。別に大門さんらの考えを否定している訳ではありませんが。

文献5 池川明「前世を記憶する日本の子どもたち」ソレイユ出版