1)唯識思想は、大乗仏教の中心思想の一つと言われています。それについては筆者も以前のブログ(2016/6)で書きましたからご参照ください。
簡単に再録しますと、
・・・・ 唯識(ゆいしき)思想とは文字通り、「ただ心(識)だけがある」という考え方です。すなわち、あらゆるモノの存在は、一人ひとりの人間の唯(ただ)八種類の識によって成り立っているという大乗仏教大の考え方の一つです。八種類の識とは五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、そして第六の「意(識)」と、深層の「末那識(まなしき)」、さらに「阿頼耶識(あらやしき)」を指します。末那識とは、「自分であることの認識」です。阿頼耶識とは、下記の種子(しゅうじ、メモリー)が内蔵されている場所です。あらゆるモノが個人の識でしかないのならば、モノというものは主観的な存在であり、客観的に存在するのではないと言うのです。
たとえば、いま鳥の声が聞こえたとします。その時、鳥というものが自分の外にいて、鳴いた声が耳に届いて私が認識したのではないと言うのです。それは単なる縁であり、人間の深層の心(阿頼耶識)の中に納まわれていた種子(しゅうじ)がその縁をきっかけにして芽吹き、表層にある耳識(耳による認識)を刺激して「聞こえた」と。つまり、「阿頼耶識の中の鳥を生じる種子と、耳という感覚器官を刺激する種子と、聞くという聴覚を生じる種子とが一斉に芽を吹いた」とするのです。つまり、この唯識説では「自分の外に鳥という実体はない」と言っているのです。耳識のほかに、視覚は眼識、匂いを嗅ぐのは鼻識、味わうのは舌識、感触を身識と言い、合わせて五識とします。いわゆる五感ですね。それらの感覚を識別し、判断するのが意(識)であり、私たちがふだんやっている認識作用です。それゆえ、当然認識は個人のものであり、他人の認識とは違います。そして、実体のないものにこだわることが、悩みや苦しみの原因だ・・・・と、仏教のお決まりの思想になっていくのです。
いろいろ調べてみても、どの記事も大略こういう解説をしています。しかし、おそらくほとんどの人が困惑するのは、「モノというものは人間の主観であり、客観的に存在するのではない」の部分だと思います。つまり、モノには実体が無いというのです。しかし私たちの常識として、モノは「ある」のですから、「無い」と言われたら困ってしますね。何よりの証拠は、「ない」という人の頭をポカンとたたいてやればいい。「痛いじゃないか」と言うでしょう。モノはあるのです。じつは、多くの解説者は唯識思想というものを誤解しているのです。唯識思想は「空(くう)」の概念の延長上にあるもので、以前お話したように、そもそも「空(くう)」の解釈が間違っているのですから、唯識思想というものに無理があるのは当然でしょう。本当に困ったことです。
唯識思想は、あの玄奘三蔵によってインドから中国へ伝えられ、それを基に弟子慈恩大師によって法相宗が立てられました。それが玄昉などによって日本へもたらされ、法隆寺や興福寺・薬師寺などの中心思想になりましたから、奈良時代の日本仏教の主流だったのですね。
2)じつは、唯識思想の本来の意味は、「私が見る(聞く、味わう、嗅ぐ・・・以下同じ)世界(モノ)は、私の認識だ」です。つまり、モノはあるのですが、私が見たようにしか見えないと言うのです。それゆえ見え方は個人によってさまざまなのは当然です。つまり、モノは人さまざまに存在するのです。同じモノを見てもその人の歴史、感性、趣味によって見え方が違うのです。また、アマゾンの奥地にも人間はいるのですが、見たこともない私たちには「無い」のです。当然ですね。無着・世親の唯識思想を後代、いろいろな人が勝手に解釈し、内容を拡大していったために、誤解が生じたのです。それは現代の解説者についても同じです。
筆者は「空(くう)とはモノゴトの観かたであり、見るという一瞬の体験だ」とお話しました。「体験」の重要さは、人間が生きているのは今だけであり、その生きた目が見たものこそ真実の姿だからです。当然、そこにはいかなる価値判断も入る余地がないのです。これこそ禅の要諦なのです。「禅が神と通じる」と言いましたら猛反発をした人がいましたが・・・・。
それに関連して、よく「過去も未来もない。あるのは今だけだ」と言われます。ここでも多くの人が困惑します。「だってあいつがオレにひどいことをしたのは事実じゃないか」と。そのとおりですね。大切な人が亡くなったのを「過去はない」などと言えば怒るでしょう。じつはここでも解説者の誤解があるのです。筆者なら「ひどいことをされたのは事実です。しかし、あなたの怒りの感情は当時と今とで変わっていませんか?」と聞くでしょう。「その出来事もあなたの認識ですから、時間とともに認識も変わるはず」と。つまり、過去に起きたモノゴトは絶対ではないのです。これが唯識ですね。