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出家の功罪

 世の中には、本来世俗にいた人が出家して専門僧になるケースと、逆に専門僧だった人が寺を飛び出して還俗するケースがあります。ここで話題にするのは、仏教を学ぶのにどちらがいいかということです。

 前者には、以前お話した秋月龍珉さん(1921-1999)がいました。秋月さんは東京帝国大学哲学科卒。在家で禅の修行を行い、50歳を過ぎた1972年に臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。1973年には丹羽廉芳師(永平寺77世貫主)のもとで出家。臨済正宗「真人会」師家、埼玉医科大学教授、花園大学教授。一方、西嶋和夫さん(1919-2014)は、東京大学法学部出身で卒業後大蔵省入省。その後、日本金融証券等に勤務のかたわら仏教研究を行い、仏教に関する多数の著書があります。すなわち、道元の「正法眼蔵」全巻の現代日本語訳「現代語訳正法眼蔵全12巻」、さらにその詳細な解説をした「正法眼蔵提唱録全34冊」など、昭和を代表する禅師でしょう。以前お話したネルケ無方さん(1968-)はドイツ出身で、日本で出家。2002-2018に曹洞宗安泰寺住職。在俗から出家して戸籍の名前まで変えてしまう人もいることは驚きです。

 一方、寺を飛び出した人には、あの良寛さんが有名ですね。

出家の問題点

 まず、出家することの良さは、日夜学び、修行することにあることは言うまでもありませんね。ブッダも道元もそれを勧めています。ただ、その問題点は、一人の師から弟子へ同じことが伝わるだけだ、ということです。以前お話したネルケ無方さんは「天地一杯の我」をキャッチコピーとしておられますが、じつは、同じ安泰寺の2代前の住職で、著名な澤木興道師が口癖のように言っておられた言葉なのです。最近、曹洞宗永平寺や、岐阜県美濃加茂市宗玄僧堂での修行をテレビで視聴しましたが、筆者の感じでは「問答」はかなり形式的なものに思えました。彼らは他の宗教や仏教の他宗派の教義はもちろん、西洋哲学やスピリチュアリズムを学ぶこともほとんどないでしょう。これでは、視野が狭くなるばかりでしょう。それゆえ出家することは逆に、悟りへの道から遠のくこともあると思います。

 一方、良寛さんは、備中玉島圓通寺で厳しい修行を積み印可(免許)を得た人ですが、その後そこを飛び出し、日本各地の名僧を訪ね歩いて教えを乞いました。しかし、そのすべてに飽き足らないものを感じて、無所属になりました。39歳で故郷の越後に戻って国上寺の五合庵などに住み、世俗の人たちと分け隔てなく付き合って、多くの人に慕われました。良寛さんの行動に現れた無言の教えは、200年後の現代にまで伝わり、多くの書籍が出版されています。筆者は良寛さんこそ、道元以来、いや道元を超える禅者だと考えています。

 筆者はもちろん出家する気持ちなどありません。禅を深く学びたいのはもちろん、ブッダ以前のヴェーダ信仰、原始仏教、それに続く大乗経典類、さらにはキリスト教から神秘思想まで、幅広く学ぶことが不可欠だと思うからです。瞑想は毎日欠かしませんが、安泰寺のように、問答もせずに年間1800時間も瞑想するのは多すぎると思います。道元の言う「只管打座」は、そんな意味ではありません。「無意味な問答をするより座禅をしなさい」という意味なのです。

 なお、筆者には「在家仏教」は論外で、たんなる気休めに過ぎないと思っています。

西嶋和夫さんの般若心経(1-4)

(1)西嶋和夫さん(1919-2014)は東大法学部卒。大蔵省を経て日本金融証券。勤務のかたわら澤木興道師の教えに従いつつ仏教研究を行った。永平寺の丹羽廉芳もとで出家。曹洞宗宝寿寺住職。主著は「現代語訳正法眼蔵全12巻」およびその解説(34巻)など多数。各地で日本人ならびに外国人に講義を行う。現在は、日本はもとよりアメリカ、ヨーロッパ、南米において弟子が活動をしている。長く、信者の篤志によって開設されたホームページ上で講演の内容が紹介され、筆者もよく読んでいました。昭和を代表する禅師でしょう。

 今回は「般若心経・参同契・宝鏡三昧提唱」(金沢文庫)に基づいて西嶋さんの考えの一端をご紹介します(一部言い回しは筆者の責任で変更しました)。

 1)龍樹の「中論」について

 ・・・今日の(日本の)仏教学会の通説では、「この世の中は、本来無いものである。それを一般に人々は、この世の中があるように錯覚している。この世の中は実際には存在しないことがわかることが仏教の勉強である」とされています・・・龍樹の「中論」を原文で読んでいくと、その教えはこの世の中は実在する。つまり「ダールマ」が明確に存在すると説かれている。ただ、人間はそれを頭で解釈しようとして、さまざまの幻影を作り上げる。眼に見えたもの、耳に聞こえたものだけが、ダールマのすべてだと錯覚する。したがって、そういう人間の考えの誤りを正すことが、龍樹の言う仏教の中心思想であって、ダールマの存在を疑っていることではない。しかもダールマは、たんなる理論ではなくて、われわれが生きているこの世界である(p2)・・・

筆者のコメント:まずダールマとは自然(宇宙)の原理を意味し、それはとりもなおさず、その現れである自然そのものを指します。

 ここで、西嶋さんの「中論」についての解釈が筆者とは異なることを指摘します。龍樹はインドの2-3世紀ころの人。それまで解釈が分かれていた「ダールマは絶対不変か」との議論に、釈迦仏教の基本理論である縁起の法を使って(註1)はっきりと否定したのが龍樹です。すなわち、「あらゆるモノゴトは原因(縁)があって生じ、縁が無くなれば消滅する」・・・これが縁起の法です。龍樹は「それゆえ、ダールマもその例外ではありえない」と言うのです。つまり、龍樹は「絶対不変のダールマなどない、その根拠(原因)が無くなれば消滅する」と言っているのです。西嶋さんの解釈では、ダールマの存在の一面しかとらえていないのです。龍樹のこの思想は、それまでの仏教界の混乱を一挙に沈静化し、以後の大乗仏教の方向性を決定したのです。それゆえ「八宗(仏教各宗派)の祖と称されています。

 ことほどさように、西嶋さんの「中論」解釈は、筆者のそれとは逆なのです。

 筆者が今回、西嶋さんの「中論」解釈の最初に「般若心経」解説を取り上げたのは、「中論」をベースにして「般若心経」解釈しているように思われるからです。

註1 じつは釈迦が説いたのは「縁起の法」などという抽象概念ではなく、「あらゆる苦しみには原因がある。それを突き止めることが苦しみから逃れる第一歩である」という、いわば「生活の知恵」なのです。それを後代の仏教学者たちが思想にまで高めて(低めて?)しまったことが、今日の仏教解釈の混乱を引き起こしたと、筆者は考えています。

(2)

西嶋和夫さんの般若心経(2)

 次いで「般若心経」に入ります。その冒頭に、(観自在菩薩は)照見五蘊皆空(五蘊すべてが空くうであることを認識された)とあります。西嶋さんは五蘊とは、

色(しき、姿・形態)、受(じゅ、感覚)、想(そう、思考)、行(ぎょう、行為)、識(しき、意識)のことだと言っています(p9)。

 以前お話した筆者の解釈は、

 色蘊  –  人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの感覚
 想蘊  - (「あれはバラだ」とする判断のための)知識
 行蘊  -  「バラを取りたい」という気持ち
 識蘊  –  「きれいなバラだ」と判断する価値基準の記憶

 西嶋さんの解釈は、それはそれでいいのですが、問題は、西嶋さんが「仏教では心と物とが一つのものだと考えれられている・・・仏教では、われわれの住んでいる世界が単に物だけでなしに、美しいものを見るとか、美しい音を聞くとか、あるいはおいしいものを食べるとか、そういう感覚的な働きも、この宇宙を形成している一つの集合体だという考えを持っている・・・この「五蘊」という考え方も、この世が物と、人間の心の働き、あるいは心そのものとが、共通の地盤の上で働いて、われわれの住んでいる世界が出来上がっていると考えている・・・それはについても同じで、われわれは脳を使ってさまざまなものを考える。そのことも仏教では、この世を形作っている一つの集合体だと考える。これはについても当てはまる。こういう形で、仏教では五種類の要素が、われわれの住んでいる宇宙を構成していると考えている・・・」との考え方です。

筆者のコメント:たしかにこのような考えをする仏教家は他にもありますが、筆者の考えは違います。筆者は「モノゴトの観かた(認識法)」だと考えます。たとえば、唯物論とか観念論とかいうような、「モノゴトの観かた」のことです。そうでなければ「般若心経」が、「度一切苦厄」、すなわち「正しくモノゴトを観て、苦から脱するための知恵」につながりません。いくら何でも「感覚的な働きも、この宇宙を形成している一つの集合体だ」と言うのには無理があります。

西嶋和夫さんの般若心経(3)

 いよいよ「般若心経」のハイライト「色即是空 空即是色」に入ります。西嶋さんは、「色即是空」を、われわれの住んでいるこの世界が、ありのままの姿そのものである。われわれはあたまを使っていろいろな解釈をしたり、感情的に様々な受け取り方をするけれども、そういう人間の考えや感情を乗り越えて、われわれの生きている世界は、ありのままに存在する」と言っています。

 一方、「空即是色」について。西嶋さんは、「空とは『ありのまま』ということでありますが、そのありのままの性質が、仏道の狙っている一つの目標である。われわれは、一切の執着を離れて、この世の中のすべてを、ありのままに受け取るべきだということが釈尊の教えでありますが、そのありのままの世界がけっしてわれわれが現に生きている世界以外に別にあるわけではない。机とか、壁とか、そういう具体的なものの中に、われわれは生きている。その具体的な物の世界がありのままに存在する。そのありのままの世界の中でわれわれは生きている。そういう事実をはっきりと確認することが、われわれにとって非常に大切な問題である・・・・・・この世の中は、醜い面があると同時に、その醜さを直そうとする人間の努力もあって、そういう組んずほぐれつの葛藤が、われわれの生きている世界である。その組んずほぐれつの葛藤を、ありのままに素直に受け取ることが、「空」の思想だ・・・(p31)

筆者のコメント:いかがでしょうか。西嶋さんは「空」を「この世界はありのままの姿をしている」としています。おそらく「ありのままの姿」とは、たぶん大乗仏教の根本思想の一つ「諸法実相」を指していると思われます。つまり、「釈尊が悟りの世界から見た森羅万象のことです。西嶋さんは、「現実の世界とあるべき世界との人間の葛藤を素直に受け取ることが『空』だ」と言っていますね。しかし、釈尊が悟りの世界から見た世界があるかどうかなど、現代のだれがわかるでしょうか。筆者の「空」の解釈は、すべての人にわかる「空(くう)の観かた」です。

 さらに、「空即是色」についての西嶋さんの考えは一層わかりません。「ブッダが悟りの境地で認識されたありのままの世界も、けっしてわれわれが現に生きている世界以外に別にあるわけではない」と言う意味でしょうか。しかし、西嶋さん自身、「空即是色」が特別な意味を持っているとは思っていないようです。その理由を以下にしまします。

 同書は西嶋さんがお弟子さんたちに向けた講演を筆録したものです。そのため、一区切りごとに読者との質疑応答があります。その一節(p46)に、

読者:「色即是空」と「空即是色」はたんなる文字の羅列ではないか。それとも何か深い意味があるのではないでしょうか。

西嶋:仏教の理論は、こういう往復的な説明なんです。「A(ここでは色)」と「B(ここでは空)」が同じだというだけでは、「色」と「空」とが別々のものだという前提になるわけです。仏教の主張は、「色」と「空」が一つに重なっている。だから「色」と「空」が別々のものではないと主張するために、こういう往復の論理を使うわけです。それはなぜかというと、現実そのものがそういう性格のものだという主張になるからです。たった一つのものの説明だから、二つのものがあって、それが一つという説明と違うという主張になります。

筆者のコメント:西嶋さんは「往復の論理、すなわち、たんなる仏教の形式に過ぎない」と言っているのですね。しかし、けっして往復の論理などではありません。重要な意味があるのです。

西嶋和夫さんの般若心経(4)

 西嶋さんの同書を読んで「アッ」と驚いたのは、「希望者がありますと、ときどき仏教の戒律を授ける、受戒の式をやっています。去年の3月に○○○さん、4月には××・××さん、同日にオーストラリアからやってきた△・△△と言う人・・・・」と。

 筆者の理解では、受戒を授けられる資格を持つのは特別な人です。あの鑑真和上は、奈良の南都七大寺には、戒律を授けられる僧がいなくなったので、わざわざ唐から招かれたのです。来日するのに苦難の道を12年かかったと言われていますね。それほどの特別な儀式を西嶋さんにが日常行っていたことを知って驚いたのです。じつは現在、永平寺などでも授戒の式は行われていますが、かねがね鑑真和上の時代に比べてあまりにも安易ではないかと思っていたのです。筆者は、良寛さんは道元以来の、いや、道元を超えるほどの禅師だと思っていますが、良寛さんが西嶋さんのこの行為を知ったら驚くと思います。決して表情には表さない人だとは思いますが。

 前述のように、西嶋さんはすでに亡くなられましたが(2014)、たくさんのお弟子さんや信者があり、講演と質疑応答の内容がホームページ(HP)に載っています。HPは信者の篤志により開設されています。

 このブログでお話したように、西嶋さんは、禅思想でもっとも有名な「般若心経」を全く理解してません。西嶋さんはすでに亡くなられましたので、筆者の批判に反論できません。ただ、たくさんのお弟子さんがいらっしゃるそうですから、どなたでも反論していただければ幸いです。

日本仏教のいい加減さ(3)

東大寺修二会の意味

 以前、「日本仏教のアバウトさ」についてブログを書きました。その続きです。

 NHK スペシャルで「東大寺二月堂のお水取り」を見て驚きました。3月1日から2週間、大仏開眼(752)から1270年間一度も休みなく続いている儀式ですね。とくに最終日の大松明でよく知られ、日本の重要な「四季の彩り」になっていますね。

 修二会(しゅにえ)の目的は十一面悔過法(けかほう)と言って、二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる11名の精進潔斎した行者が、自ら犯した過ち(さらには衆生の罪障までも!)を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事であるとされています。

 筆者が驚いたのは、この行事は、東大寺の所依する華厳の教えとは何の関係もないことです。おそらく奈良時代の初め、日本古来の修験道の修法などがごっちゃになって始まったものでしょう。東大寺初代別当良弁も苦笑していらっしゃるのでは?

 筆者には、歯のない下駄で堂内をドタドタ走り回る修法や、五体投地、さらには大松明を床にたたきつけたり、階(きざはし)から振り回す修法の意味はわかりません。「危ないなー」と思うだけです。現に1667年には二月堂自体が焼けてしまったとのこと(現在の堂宇は再建)。五体投地は懺悔の印とされているようですが、投地の板(幅3尺、長さ1間)は、あらかじめ板にクッション用の布団が敷いてある(!)ことや、体を打ち付けた後、その板がすぐ戻るように「しかけ」てあることを見て笑ってしまいました。投地をまじめにやりすぎて怪我をする僧も出るとか。なにをか言わんやでしょう。

 1270回目の本年は「コロナ退散」が主目的とのこと。練行衆は真剣にさまざまな修法を実践していました。

 追加:修二会を行う行者は練行衆と呼ばれる11人の僧侶で、三役や仲間(ちゅうげん)、童子(大人である)と呼ばれる人達がこれを補佐する。練行衆のうちでも特に四職(ししき)と呼ばれる4人は上席に当る。

これ以外の練行衆は「平衆(ひらしゅ)」と呼ばれる。

 本年は、平衆の中から「コロナなので、蜜は避けたいから辞退させてほしい」との申し出がありました。しかし、「1270年も続きている行事だから」と強行したとか。

最も難解な公案

 ちなみに公案とは、師匠が弟子に与える悟りのためのヒントです。最も難解な公案と言われるものの一つを次に示します。「正法眼蔵:有時」も最も難解な公案と言われています。要するに公案はどれもむつかしいのです。

 それは、道元の「正法眼蔵・有時」に引用されている公案で、

・・・薬山大師が大寂禅師(註1)に対して「如何なるか是れ、祖師西来意(達磨大師がはるばるインドから中国に来た意味は何か。註2)」と尋ねたのに対し、大寂禅師は「ある時は彼(註3)に眉を上げさせ、目を瞬きさせ、ある時は眉を上げさせず、目も瞬きさせない。 ある時は彼に眉を上げさせ、目を瞬きさせることは是(よいこと)であり、ある時は彼に眉を上げさせ、目を瞬きさせることは不是(よくないこと)である」。これを聞いて薬山は大悟したという・・・

 さて、読者の皆さんはこの公案の意味をどう理解しますか。ご意見をお寄せください。

註1大寂禅師(709-788)は唐代の優れた禅師。馬祖道一 とも。薬山大師(745-828)。

註2 「祖師西来意」を問う公案は他にも、「無門関」第三十七則に趙州和尚の「庭前の柏樹子」があります。「禅の要諦はなにか」という重要な問いですから、いろいろな禅師が弟子との問答にしているのです。

註3「無門関」第六則にある拈華微笑(ねんげみしょう)のエピソードのことと言われます。つまり、釈尊が弟子たちの前で、黙って花を差し上げ瞬きしたところ、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがにっこり笑ってその意味を覚ったので、釈尊は眉を上げ、「私の教えは摩訶迦葉に伝える」と言ったという。一般に「以心伝心」の意味だと言われていますが、誤りです。原典は「大梵天王仏疑経」ですが、偽経とされています。釈尊がこんな芝居がかったパフォーマンスをするはずがありませんね。ここにある「釈尊が花を差し上げ瞬きたところ、摩訶迦葉一人がその意味を理解したので、釈尊が眉を上げて「よし」とのポーズを示した」が上記の公案の「眉を上げさせ」の出典です。

瞑想の意義(2)

 筆者がここで話題にしているのは、いま流行のマインドフル瞑想(註1)のことではありません。禅寺で行われている「悟りを目指す瞑想」のことです。もちろん筆者は医学的治療法としてのマインドフル瞑想の効果を否定するものではありません。しかし、マインドフル瞑想が1日10分くらい実施するのに対し、禅寺では少なくとも1日2回、各40-50分行われます。以前ご紹介した兵庫県の安泰寺では、年間1800時間瞑想が行われているとか・・・とうてい同じ目的とは思えませんね。

 ところが、「悟りに至る瞑想」の意義はなにかと言いますと、とたんにぼんやりしてしまうのです。意義は当然「やり方」と関連します。

たとえば日本仏教会HPでは、「自分自身と向き合い、悟りを得る手法であること」と言っています。

一方、Wikipediaでは、「心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことなどとされている。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている」とあります。

 ネット「舞の道」では、

・・・自身と向き合い、今の自身の心がどう感じているかをありのまま受け止めながら徐々に心が無になる状態を目指して行うトレーニング ・・・

 NHK「心の時代・瞑想でたどる仏教」で箕輪顕量さん(日蓮宗僧侶、東京大学教授)は「心と身体を観察する。それによってブッダが悟りを開いた」と言っています。

筆者のコメント:ここで挙げたどれを読んでも、何のために瞑想するのかがわかりません。意義と方法がごっちゃになっています。道元のいった只管打座(ただ座るだけ)という言葉は、「なるほど」と、一見説得力がありそうですが、意義がわからなければ、座り方すらわかりませんね。

註1マインドフル瞑想についてはネットにいくらでも出ていますのでお調べください。