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夢想国師「夢中問答」(1-5)

1)「夢中問答」は夢窓国師(疎石1275~1351)と足利直義(1306~1352)の問答集で、1342年に出版。夢想国師は、道元より少し後の人で、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う(註1)ため創建した天竜寺の住職。室町時代を代表する禅師でした。しかし、残された言行記録は少なく、筆者には国師の禅境がよくわかりませんでした。

 この「夢中問答」からは、直義が禅仏教を深く学び、座禅修行をしていたことがわかります。夢窓国師は臨済宗の僧侶で、後醍醐天皇、足利尊氏・直義兄弟など、当時の錚々たる人たちから深く帰依されていました。

 筆者はこれまで足利直義には良い印象は持っていませんでした。なぜなら、足利尊氏の実弟として室町幕府開府の立役者でありながら、重臣高師直一族を滅ぼし、さらに兄尊氏と対立し、不利になると、こともあろうに南朝と和睦して対抗する(註2)など、一見、およそ節操のない一生を送った人だからです。これら一連の騒動は感応の擾乱と呼ばれ、あまりのやりきれなさに、あの司馬遼太郎でさえ途中で筆を折ったと言われれています。

註1 尊氏は実力を付けてきた武士団のトップ、後醍醐天皇は貴族の頂点に立つ人でした。後醍醐天皇は時代が読めなかったのです。これで後鳥羽上皇以来の反武士団闘争はとどめを刺されたのです。

註2兄の尊氏でさえ、後に南朝と手を打ちました。南北朝が統一されるのはようやく3代義満になってからで、「明徳の和約」と言われています(1392)。それも北朝系と南朝系から交互に天皇を出すという約束を反故にしました。南朝方もそうなることを予想していましたが、勢力の衰えは如何ともしがたく、この「和約」を受け入れたと言われています。

 しかし、筆者は、今では尊氏や直義の生き方が理解できます。そうせざるを得なかった「時代」だったのでしょう。南北朝に続く室町時代も、6代将軍義教が暗殺され、一大名に過ぎない山名氏が11か国を支配するなど異常な時代でした。それに続く応仁の乱も11年続いた泥沼闘争でした。将軍義教を殺したの播磨の赤松満祐で、その後幕府によって滅ぼされました。そして後南朝最後の尊秀王(18歳)、忠義王(17歳)を暗殺して神璽を奪ったのは、吉野に潜り込んだ赤松の遺臣でした(長禄の変1457)。それによって当初の約束通り赤松氏は復活したのです。徳川家康は、これら前代の政治状況を大いに参考にして、大名や天皇・貴族を支配する苛烈な体制を敷いたのです。それが260年以上続いた江戸幕府の成功の要因なのですね。

 尊氏も直義も、あのようなやりきれない状況だったからこそ、夢窓国師に教えを乞うたのでしょう。それほど彼らの人生にとって禅を学ぶことは切実な問題だったのです。筆者は今では彼らの人間らしさがよくわかり、親しみを憶えます。

 そこで筆者は改めて「夢中問答」を深く学び、読者の皆さんにそのエッセンスをお伝え出来たらと思います。

夢窓国師「夢中問答」(2)

 「夢中問答」が始まったのは直義37歳、夢想国師68歳でした。それから4年間続き1342年に終わりました。問答は1‐93まであります。そのうち筆者の目に留まったいくつかについてご紹介します。文章が長いため一部簡約し、わかりやすくするために言い回しを変えました。数字は問答の番号です。

 32)公案の意義

 直義:福徳とか、智慧を求めることを(禅では)ことごとく嫌っているのに、禅宗を学ぶ学者が公案を「さとし」として悟りを求めるのは、差し支えないか。

 国師:古人が「心を持って悟りを求めてはならない」と言っている。もしも悟りを求める心があれば、公案を「さとし」とする人とは言えない・・・公案を与えるというのも、決して宗師(師家)の本意ではないのだ。たとえ情けを掛けて、一くだりの公案を与えたとしても、それは仏の名号を唱えて、往生極楽を求め、陀羅尼(呪文)を誦し、経を読んで功徳を求めるのと同じではない。つまり、宗師が弟子たちに公案を与えることは、極楽浄土に往生するためでもなく、成仏得道を求めるためでもない。すべて情識(囚われた考え)の届かないところである。それゆえに公案と名付けたのだ。

 53)覿面(てきめん)提持の疑・不疑

 直義:公案を看(み)る(考察する)のについて、疑ってみよというのと疑ってはならぬというのと両論ある。どちらを本(もと)としたらよいでしょうか。

 国師:宗師のやり方には決まった道筋はない。そのつど石を撃った火花のごとくであり、雷電のひらめく光のようである。ある時は疑ってみよと示し、ある時は疑うなと言う。皆これは、学ぶ者に向かい合った時に直接に教えを垂れる詞(ことば)である。善知識(優れた師匠)の胸の中に、かねて蓄えて置いた説法ではない。それ故にこれを覿面(てきめん)提持(目の前で出して見せる)と名付けている。もしこれが悟った宗師ならば、疑えと言って示し、疑うなと言っても何ら差し支えない。

 55)古則着語の公案

 直義:大慧普覚禅師など多くの優れた師匠が、唐の趙州の「無」字の公案を与えられたのは、皆もとの古則のままに挙げて、これを見よと言って示されている。しかるに、近来、唐土の優れた宗師なる中峰和尚が、本(もと)の古則の上に語(ことば)を付け加えて、「趙州はどうしてこの無の字を言ったのか」と公案を示された。その意味はどうでしょうか。

 国師:昔の修行者は、仏道のために発心することが一通りではなかった。そのため身の苦しみを忘れ、路の遠いのをものともせず、諸方へ赴いて、善智識(優れた師匠)の下へ参じた・・・優れた禅師はこれを気の毒に思って、一言半句の公案を示した。みなそれは本分(教えの本質)を直(じか)に指示したものだ。その意(こころ)は、言句の表面にあるのではない。それ故に、利発な修行者は、言外にその本旨を悟った。どうして、さらに他の言句の上で、とかくの論に及ぶ必要があろうか。たとい愚鈍であって、暫時、言句のもとに足踏みしている人でも、自分勝手な考えで推し量ることはしない・・・こうして、あるいは一両日を経て、あるいは一両月、さらには十年・二十年たった後に解けた人もあった。しかし、一生の内についに解けないと言う人はなかった。

 こういうわけで、昔は善智識の方から、自分の語(ことば)を公案にして、めざめよと

すすめたこともない。疑ってはならぬともまた言わない。

 一方、近来の修行者は、求道心がますます薄くなったために、寝る間も食べる間も思案を続けるということがなくなった。さらに師匠も形式的に公案指導と名付けて、明かし暮らしているだけだ・・・そのため中峰和尚は、親切心から「趙州はどうしてこの無の字を言ったのか」とわざわざ注意を喚起したのだ。

 筆者のコメント:現今の臨済宗では(曹洞宗でも)公案の提示は、必要不可欠とされています。しかも筆者がその様子を拝見したところ、両宗派ともほとんど形式的なものになっていました。この夢想国師の言葉は、宗師たちには耳の痛い言葉でしょう。

夢窓国師「夢中問答」(3)

 座禅の意義

21)座禅と狂乱

 直義:座禅をする人の中に狂乱することがあるのを見て、座禅を尻込みする人がある。このように狂乱することは、座禅の咎でしょうか。

 国師:座禅をする人の中に狂乱する者があるのは、少しばかり「わかった」からと、高慢の心が生ずるためである。魔の精がその心にくっついて狂乱する場合もある。あるいは前世の悪業によって、怪しのものに悩まされて狂乱するものもある。あるいは執着心にとらわれ、早急に悟りを開きたいと思って身体をひどく使ったがために、血管が乱れて狂乱するものもある。座禅のせいではない。狂乱は一時的なことである。狂乱を怖れて座禅をしない者は、永久に地獄へ落ちて、抜け出る機会はめったにない。それが本当の物狂いというものだ。

筆者のコメント:たしかに座禅中に錯乱状態になる人がいます。その理由は夢窓国師の言うところとは違うと思います。筆者が「座禅は神仏の前で」と言うのはそのためです。それについては、また改めてお話します。

34)学解と修行

 直義:学んで解るということを禁じて、ただ修行をせよと勧めるのは間違いだと言う人があります。それについてどうお考えでしょうか。

 国師:たとえて言えば、重病にかかった人が、病気の仕組みを学んでから治そうとしたら、間に合わずに死んでしまうだろう。これにたいし、既に病気のことを十分に学んだ医者の治療に従えば、確実に良くなる。同じように種々の教えを学んでから、学んだ理法に従って修行しようと思えば、習学がまだ済まないうちに、寿命が尽きてしまう。それより、すでに理法を十分に学んだ師匠の教えに従って修行すれば、たとえ自分の学びが不十分で、理屈がよくわからないまま修行を行っても、いつか時節が到来して迷妄も一時に消滅するであろう。

 48)座禅の本意

 直義:古人が、漫然と座っているだけでは座禅はむだだと言っています。これについてどう思いますか。

 国師: 古人がこのように言っているのは、生死の悟りのために一所懸命やっている人が、善智識の許(もと)にも参ぜず、たんに座禅と称して、ぼんやりと座っている心掛けを正すためである・・・経を読み、陀羅尼(だらに)を誦し、念仏を唱えることはやさしい・・・禅宗の座禅と言うものは、念を落ち着かせ、身体を動かすまいとするものではない・・・しかし、座禅の本当の意味を知るのはむつかしい。座禅を難しい行だと言っているのは、いまだ座禅の極意を知らないからだ。

筆者のコメント:禅だけでなく仏教では教行一如と言って、教えを学ぶことと修行をすることは不即不離の大切なことだと言っています。無窓国師が「禅宗の座禅と言うものは、念を落ち着かせ、身体を動かすまいとするものではない」と言っているのは正しいと思います。座禅のやり方については師匠によって言うことがさまざまです。やはり、一つ一つ自分で試して納得が行く方法を見付けることが肝要でしょう。

夢窓国師「夢中問答」(4)

次は、46)是非の念と大悟の一節です。

 国師:・・・昔、唐の南岳懐譲が六祖慧能の許(もと)に参じた。六祖が「何物がこのようにやって来たのか」と問うた。南岳は答えることができないで退かれた。その後八年経って、初めて大悟した。ふたたび六祖の許に参じて、前の問いに答えて「本分について一言でもすれば、すなわち当たらない」と言った。これで初めて六祖の印可を得た・・・「何物がこのようにやって来たのか」と問われて、答えられなくて帰ったのは、利口だったからだ。もしそうでなかったならば、たとい千年たっても大悟することはできない。

 今時、鈍根の者が来て、仏法を問う時に、「このように仏法を問う者は何者だ」と言えば、あるいはぼんやりとして、日ごろの妄想を本(もと)にして「わたくし」と名乗る者がある。あるいは「問う者はだれかと疑ってみるべきか」と言うものもあり、あるいは「自心はこれ仏だ」と言っている言葉に随(したがっ)て解こうとして、眉を吊り上げ、目を瞬き、手を上げ、拳を差し上げる者もある。あるいは識心(こころ)には実体がなくして、諸種の形相を離れているところを求めて、南岳和尚の「説似一物即不中」と答えられた語(ことば)に取り合わせて、上によじ登って、仰ぐことができず、下に身みずからを断ち切ると答えるものもある。あるいは、わずかに問いがあり答えがありとすれば、それは皆、外辺(そとまわり)の事だと心得て、一喝をやる者もある。あるいは、このようにいろいろの比較調和にかかわらないところを宗旨だと思って、袖を払って、そのまま立ち去る者もある。もしこんな風ならば、たとえ末世になって弥勒菩薩がこの世に現れ変わって救いに来る世になっても、大悟することはできない。

筆者のコメント:とても重要な公案だと思いますが、読者のみなさんの答えはどうでしょうか。我と思わん方はお知らせ下さい。いくつか掲載させていただきますから皆さんで検討しましょう。

「夢中問答」(5)

 最後に

 93)無窓国師が足利直義に示した公案をご紹介します。そういう意味でも重要な教えでしょう。

 直義:国師が私に示していただく真の教えとは何でしょう。

 国師:新羅夜半に日頭明らかななり(新羅の国の夜半に、日の出が明らかである)。

筆者のコメント:「日本と新羅との距離や、夜半に日の出とい時間を超越した境地だ」と言っているのですが、いかがでしょうか。読者の皆さんのお考えをお寄せください。

以上参考文献

中村文峰「現代語訳 夢中問答」春秋社

川瀬一馬「夢窓国師 夢中問答」講談社学術文庫

金縛りは睡眠麻痺か

 金縛りには霊的現象もある(2)

 以前のブログ金縛りには霊的現象もある(1)で、脳科学者の上田泰己さん(東京大学医学系研究科教授)が科学的に解明できている」と言っているのをご紹介しました。上田さんも「金縛りは睡眠麻痺である」と説明していました。

 金縛り・・・就寝中、意識がはっきりしていながら身体を動かすことができない症状・・・にかかった人は少なくないと思います。NHKの「チコちゃんに叱られる」(2021年1月)でも取り上げられていましたね。ゲストの江戸川大学睡眠科学研究所の福田一彦所長(早稲田大学文学部心理学専攻修了!)は、「そのメカニズムはすでに科学的に証明されている」と言っていました。睡眠麻痺ですね。専門医たちもそう説明しています。ただ、メカニズムは人によって少し異なります。福田教授は「昼寝をし過ぎて夜眠りが浅くなる人。仰向けに寝ると睡眠麻痺になりやすい」と言っています。「では」とNHKのデイレクターがやってみましたが、4回やっても1度も金縛りにはならかった。それを言うと「高齢者はなりにくい」と。「それはないでしょ」ですよね。デイレクターはどう見ても40歳代でした。

 一方、ある人は、

・・・思春期に起こりやすく、仰向けの姿勢、不規則な生活、寝不足、過労時差ぼけストレスなどから起こる・・・とし、上記「睡眠科学研究所」所長は、「普通の人は眠るとしばらくして深い睡眠状態(ノンレム睡眠)になり、やがて眠りは浅くなりレム睡眠となる。レム睡眠とはRapid Eye Movement、つまり眠っていても目を動かしている状態で、「夢を見ている」と考えられています。1晩の間にレム睡眠を繰り返し、やがて目覚める。ところが昼寝をし過ぎた人はノンレム睡眠に入らずに最初からレム睡眠の状態になる。人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、身体を触られているといったような、何かが見えたり聞こえたりするのは、夢に過ぎない。レム睡眠中は筋肉を動かせない状態なので、「金縛り状態」になる。非常にはっきりした夢なので、あたかも目覚めているように錯覚するのだ。幽霊や心霊現象ではない」と説明しています。

筆者の体験:もちろん筆者は睡眠麻痺によるものも否定しません。しかし、それに加えてまったく別のケースもあると考えています。筆者は40代に2週続けて金縛りを体験しました。そんなことを言えば、読者の皆さんの多くは上記の知識があり、一笑に付されるでしょう。でもまあ聞いてください。今もその状態を鮮明に記憶しています。当時、筆者は神道系教団に入って霊能開発修行をして.いました。その結果、次々に霊的現象に出会っていたことは、この問題をお話するに当って重要でしょう

 1回目は、眠っていて「ハッ」と目覚めました。その時一瞬、隣の部屋で勉強している息子の部屋の明かりが見えましたから、絶対に夢ではありません。すると天井から黒い幕がバサッと落ちてきて、何も見えなくなりました「アッやられた」と思い、隣で寝ている家内を起こそうとして愕然としました。声も出ず、手も動かないからです。そして掛け布団の上に誰かが乗っている重さを感じました。ちょうど布団蒸しのようです。・・・この辺はよく言われる「金縛り」と同じです。その時筆者は赤ちゃんのように手を上にあげて寝ていたようで、そこへサラサラした長い髪を感じました(「家内のかな」と思いましたが、翌朝、家内はショートカットであることがわかり、驚きました)。焦りましたがどうしようもなく、ハッと気づいて「南無阿弥陀仏」と唱えるとフッと楽になり、金縛りが解けたのです。しかし、もう怖くて眠れません。ふと気づいて「お守り」を身に着けて寝たところ、もう大丈夫でした。

 2回目は1週間後でした。小学1年の娘が「学校で要るから」と、近所の公園へ松ぼっくりを取りに行きました。拾っていてフト見上げて「しまった」と思いました。そこは広い霊園だったのです・・・。果たして夜、また金縛りに会いました。今度上に乗ったのは明らかにゴツゴツした体型の男のようでした・・・。

 いかがでしょうか。今お話したように、けっして夢ではないことが読者にもおわかりいただけるでしょう。筆者の金縛り体験は、それ以前にも、以後、今日に至るまで一度もありません。神道系教団での霊感修行の成果(?)が活発に表れていた時期だからとしか考えられません。

 アメリカ航空宇宙局の担当者が、UFOの目撃情報を徹底的に調べた結果が報告されています。それによりますと、その95%は「見まちがい」でした。しかし「後の5%は、現代科学では説明できない」と言っています。ここなのです。筆者が体験したのは霊的現象としか考えられません。つまり「すべてを睡眠麻痺で説明するのは正しくない」と考えるのです。ではなぜ浅い睡眠時に霊に憑り付かれるのか・・・以前のブログで「自分を失うと霊に憑り付かれやすくなる」とお話しました。浅い睡眠の時は「自分意識が稀薄になる」のです。こういう時に霊的現象が起こってもふしぎはないのです。

「無門関」趙州狗子(1-3)

 (1)公案集「無門関」の第一則に、

趙州和尚(註1)、因(ちな)みに僧問う、

「狗子に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや」

(趙)州云く、「無」。

:ある時、一人の僧が趙州に問うた。「犬にも仏性があるでしょうか」

趙州は答えた「無い」

筆者のコメント:有名な「無字の公案」です。「無門関」の著者無門慧開(1183-1260)はこの「狗子(くす)無仏性」の公案で悟りに至ったと言われています。そのため、最重要の公案として第一則に持って来ているのですね。

 無門は「では、最も重要な関門とは何か。ここに提示された一箇の「無」の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つに他ならない。そこでズバリこれを禅宗無門関と名付けるのである。この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚にお目にかかれるだけでなく、同時に歴代の祖師達とも手をつないで行くことができる」 と言っています。

 無門はさらに、「全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げなければならない。しかし、この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない・・・そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう」と言っています。

1)臨済宗・黄檗宗の公式サイト臨黄ネット」:山田無文師の「無文全集」の一節を引用して、・・・「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」、これはまさしく仏教の根本原理である・・・犬に仏性が有るか無いか、と探究するならば、それは動物学の問題であって、精神文化としての禅の問題ではない。禅の問題は常に自己の探究にある。従って、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」という質問は、「犬のごとき煩悩だらけの無自覚な私ごとき人間にも仏性がござりますか、いかがですか」という切実な問題であらねばならぬ仏性とは何か・・・臨済禅師はこれを「無位の真人」と言われた・・・仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である。生まれたままは遅い。生まれんさきがよい。親も生まれんさきがよい。これを父母未生以前の本来の面目と言う、などと説けば説くほど屋上に屋を重ねることになる。やはり趙州和尚の「無」の一字、この一字以上の言葉はない。ただこれ「無」。

筆者のコメント:「仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である」ではないのです。その理由は次回お話します。

2)千葉県正木山西光寺無玄師の解釈

 ・・・趙州に対して(修行)僧は、「一切衆生悉有仏性(一切のものには仏の性質がある)」が常識であるとされている中で質問したのです・・・この「無」は、有るとか無いとかの「無」ではないのです。虚無の「無」でもありません。強いて言えば絶対の無です。それは如何せん言葉では説明が出来ないのです。ある料理の味を知らない他人にいくら説明してもその味を理解させることは不可能です。それは本人が食べてみないことにはほんとうには分からないからです。それと同じで「無」の「味」も体験してこそ分かるのです。まさにこの無字が一大経蔵であり、大宇宙であるのです。どうですか、「無」とは何か追求してみては。あなたが宇宙、宇宙があなた、あなたが仏、仏があなたになれる最も合理的な方法ですよ・・・

筆者のコメント:仏性とは、無文師の言うような「個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性、臨済が言った『無位の真人』」ではないのです。理由は次回お話します。

 一方、西光寺無玄師の言う「絶対の無」とは何でしょうか。西嶋和夫師もそう表現していましたが、意味不明の言葉だと思います。「絶対の無」などと言われても多くの人は途方に暮れるでしょう。「言葉では説明できない」とは、要するに無玄師自身も「わからない」のでしょう。これでは参考にもなりませんね(ちなみに以前お話した西田幾多郎博士の「絶対無」とはまったく別の意味です)。一方、ある人は「これは仏性とは何かを問うている」と言っています。しかし、筆者はまったく別の解釈をしています。さらに「言葉では説明できない」「体験してこそ分かる」も、何をどのようにして体験すればいいのか、取り留めがなく、参考にはなりませんね。

 重要なことは、両者の見解はいずれも、「一切の衆生、悉く皆な仏性をす」を土台にした解釈だということです。じつは道元は「そういう解釈をしてはいけない」と言っているのです。筆者もそう考えます(次回に続きます)。

趙州狗子(2)

一切衆生悉有仏性は、大乗経典の「大般涅槃経」にある言葉です(註1)。その意味はふつう、前記の山田無文師や西光寺無玄師のように、「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」とされています。しかし、道元は「それは誤りである」と言っています。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」にある言葉です。すなわち、その第2節に、

・・・世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり…(中略)・・・すなはち悉有は仏性なり・・・正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり・・・

とあります。しかし、その解釈も人さまざまで、かつまちがっているのです。困ったものです。筆者の解釈は後回しにして、まず、

佐藤隆定さん(曹洞宗僧侶)は、

・・・お釈迦様が残した言葉「一切衆生、悉有仏性」の真意とは何だろうか。それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする・・・慧能は「何者が何をしに来たのか」と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた。自分という、この存在が何者であるのか。自分とは何なのか。畢竟、存在とは何なのか・・・あらゆるものは仏であり真理であると言っているわけだ。この言葉を体現するとき、この自分こそが身も心もまさしく仏のあらわれとして存在していることを、人は明らかに知るのである・・・

と解釈しています(「禅の視点-Life」-(https://www.zenessay.com/entry/bussyou)。

つまり、「道元は人間とは何なのかと問うている」と言っているのです。筆者の解釈はは後ほど示します)。そもそもこれは、お釈迦様が残した言葉ではないのです(註1)。

次いで、 伊藤秀憲さん(愛知学院大学教授)は、「道元禅師と仏性」(愛知学院大学禅研究所紀要「禅のこぼれ話 平成15年」)で、

道元(以下同じ。一部言い回しは現代文に変更:筆者)は「正法眼蔵・仏性(第41節)」で、「衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんと求むとも、仏性初めて来るたるべきにあらざる宗旨なり・・・と言っています。

伊藤:「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」によって衆生の内に仏性が存在するという考えが否定され、悉有(あらゆる存在)が仏性であると説かれるのです。他の箇所では、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれます・・・待つ想いなかれ」と述べられているように、修す必要があります・・・道元禅師が仏性の顕在を説いても、それは行じるところにおいて言っているのですから、修行が不要とはならないのです。では、その行とは何かですが、ここでは紙幅の関係から論じることは出来ませんが、それは、只管打坐(しかんたざ)の坐禅です・・・。

筆者のコメント:「仏性は内在するのではなく、すでに顕在している。悉有(あらゆる存在)が仏性である」と、ここまでは伊藤さんの解釈でよかったのです。しかし、「(しかし)そのためには修行をしなければならない」は、いかがなものでしょうか。

註1じつは、上座部仏教の「大パリニッパーナ経(長阿含経)」にも同名の「大般涅槃経」があり、80歳の釈迦が、王舎城東部の霊鷲山から最後の旅に出発し、マッラのクシナーラーにて入滅(般涅槃ほつねはん)するまでの言行、及び、その後の火葬・遺骨分配の様子が描かれている。大乗経典の 「大般涅槃経」は、それから大きく増広した、全く別の経典、つまり釈迦の言葉ではないのです。筆者がよく言いますように、仏教を理解する上でこういう視点はとても大切です。

趙州狗子(3)

 じつはここでも道元は空思想を述べているのです。答えはすぐそこに隠されています。

すなわち、・・・是什麼物恁麼来(これはなにものかいんもに来る)の道転法輪なり…(中略)・・・すなはち悉有は仏性なり・・・がそれです。空思想についての筆者の考えは、すでにこのブログシリーズで何度もお話しました。「悉有は仏性なり」とは、悉有、つまり、あらゆるモノゴトの体験こそ仏の真理(仏性)の表われであるという意味です。そして「是れ什麼物か恁麼に来る」とは、「純粋体験においては、それが何かとかの判断が起こる前の一瞬の体験のみがある」という意味です。

 それを佐藤隆定さんのように「慧能は『何者が何をしに来たのか』と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた」と解釈してはだめなのです。

 一方、伊藤秀憲さんのように「悉有仏性の意味を知るには修行が必要だ」などと言われたら、「それはないでしょ」と途方に暮れるでしょう。「紙幅の制限があるので・・・」は、「逃げ」に過ぎません。

それにしても道元は「答えを言わずに巧みにヒントを示す」のが実に上手です。まるで隠し絵のように、背景の中に「教え」が隠してあります。トリックですね。それを見付けるにはが必要です。このがわかれば、道元の言葉の真意は次々にわかります。それがわからなければ絶対に「教え」はわかりません。ここにも「禅はわかったかわからないかの世界だ」の例があります。それが「正法眼蔵」が日本古典の中で最もむつかしいと言われる理由なのです。佐藤さんも伊藤さんもあっさり道元のトリックに引っかかってしまいました。

尊厳死(4)

 NHKドキュメンタリー「彼女は死を選んだ」の放映後、障碍者団体から「公共の機関であるにもかかわらず!」と厳しい批判がされました。NHK スペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(2019年6月2日放送)における幇助自殺報道の問題点についての声明 日本自立生活センター 代表 矢 吹 文 敏

b筆者もこの番組を繰り返し視聴しました。そこで、当センターが問題としている箇所と、それについての筆者の感想を述べますと、

 日本自立生活センターの声明:(詳しくは上記の声明で検索してください)

 ・・・WHO「自殺予防 メディア関係者への手引き」によれば以下のことをメディア関係者は守らねばならず、NHKは当然これを知っていたにもかかわらず、一切守られませんでした(太字筆者)・・・(中略)・・・

(A)今回の報道では、明らかに、障害や難病の苦しみから逃れるため、自殺が一つの方法だと伝えられていました。番組が自殺拡大効果をもっていることについてNHKはどう考えますか?

筆者の感想:まず、「一切守られませんでした」は明らかに感情的な言葉だと思います。次いで「番組が自殺拡大効果をもっている」については、言葉の暴力だと思います。NHKの関連番組の中である介護士が、「私の腕に爪を立てて、『死なして欲しい』と何人もの患者に泣いて頼まれた」と言っていました。この番組を見て「患者さんの希望を聞いてあげればよかった」と言っているのです。

(B)自殺の手段や場所も詳しく伝えられていました。あんな簡単に死ねるんだ、と当事者や家族が見たら、どう思うと考えますか?当事者たちへの想像力は、ありますか?

筆者の感想:これも感情的な発言です。上記の番組でKさんと2人の姉がスイスへ行って病院で処置を受けるのにかかる費用は決して少なくないはずです。なによりも重要なことは、Kさんはあのまま帰国すれば、必ず自死をしたはずです。すでに何回も未遂をしているのです。

(C)リアルに死にゆく様が放映されていました。こんなふうに死ねたらいいなという思いをもった視聴者も多いと思います。現に苦しむ当事者たちにこんなふうに死にたい、と思わせる番組ですか?

筆者の感想:番組の趣旨を取り違えているのです。「あんなふうに死にたい」と思わせてどうして悪いのでしょう。(B)でも述べましたが、Kさんはそれまで何度も自死未遂をしているのです。あのまま帰国すれば、今度こそ完全に実行するでしょう。番組からそれが十分伺えました。

(D)現在は、どんな障害や難病でも社会的支援を得ながら、生きていくことができるようになりつつある世の中です。家族や病院の介護苦にばかり焦点があてられ、社会資源としての組織や専門家の支援を得て生きるすべがあることが一切紹介されませんでした。「自殺のすすめ」のための番組だったのでしょうか?

筆者の感想:こういう論調を繰り返されたら筆者でも「議論する価値がない」と思います。Kさんが日本で見た、もっと病状が進んだ患者はほぼ完全な植物状態で、Kさんが尊厳死を決断したのもよく理解できました。「人間としての尊厳を失ってまでなぜ生きるか」なのです。たしかに番組ではこのような患者に対する社会的支援について、もう少し詳しく紹介されればよかったと思います。

吉村昭さんの尊厳死

 吉村昭さん(1927-2006)は「深海の使者」、「長英逃亡」、「戦艦武蔵」「熊嵐」「高熱隧道」、「ふぉん・しーぼるとの娘」などの作者で、その徹底した取材態度に好感が持てる作家でした。 2005年春に舌癌と宣告され、さらにPET検査によりすい臓がんも発見され、2006年2月2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年7月30日夜、東京三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後に死去しました。 吉村さんは、兄が、瀕死であるにも関わらず、医師が無理な姿勢を取らせて写真撮影したのを目撃しました。それ以来過剰な医療に対して強い疑問を持っていたのです。

 「声明」は、おそらく「必死になって生きようとしている障碍者をないがしろにした」と思ったからでしょう。しかし、まったくの誤解なのです。NHKも筆者も、懸命になって生きようとしている人たちを批判する気持など毛頭ありません。「人工呼吸器を付け、胃ろうや経静脈栄養を受けて、意思表示することもままならい人生など意味がない」と考える人もいるのです。人間は生きる権利とともに尊厳死をする権利も持っていいのではないかと言うのです。もちろん「自死を容認する」というような低次元の問題ではありません。

旧約聖書コヘレトの言葉と「空」(1-4)

 読者のお一人から「NHKこころの時代『コヘレトの言葉』で、さかんに『空(くう)』と言ってました」とお知らせいただきました。

(1)さっそく調べて見ますと、たしかにEテレ「こころの時代~宗教・人生~それでも生きる旧約聖書『コヘレトの言葉』」と題して6回にわたって放映されていました。筆者も当番組のレジメ冊子と、小友聡著「旧約聖書注解・コヘレト書」(日本キリスト教会出版局)を入手して読みました。以下に従来の解釈と小友さん(東京神学大学教授)の考えと、筆者の感想をお話します。

 初めに旧約聖書は大小39の書からなり、「コヘレトの言葉」もその一つです。キリスト教の成立より古いことが特徴で、紀元前2世紀頃まとめられました。問題は、キリスト教の教えと正反対と思えるところがあり、爾来多くの学者を悩ませてきたのです。

 一番の問題は、冒頭の「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい(聖書協会共同訳旧版)。 その改訂版では、空の空、一切は空である。註1)」 という言葉です。ここで言う「空しさ」とか「空」は原文のヘブライ語で「ヘベル」です。英訳の聖書では、vanity(空しさ)、emptiness(空虚)、meaningless(無意味)、futility(無益)、nothing(無/虚無)、absurd(不条理)、irony(皮肉)、ephemerality(儚さ)、insubstantiality(脆さ)、mystery(神秘)、enigmatic(謎めいた)など、さまざまな訳し方があるとか。

註11987年にカトリック教会とプロテスタント諸派が共同して新訳したもの。2018年に改訂された。

 コヘレトは、「すべては空である」に続いて、

 ・・・日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか(新訳第1章3)とか、

 ・・・たしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである(同14)・・・

と言っています。つまり、新約聖書にあるようにイエスは、徹頭徹尾「生きることのすばらしさ」を説いているのに対しコヘレトは、「人生は空しい」と言っているのですからキリスト者が当惑するのは当然でしょう。

 さらにコヘレトは、 

 ・・・太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである(同8章15)・・・

と言っています。さらに、

 ・・・若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ。〈中略〉若さも青春も空だからである(同11章9)・・・

これでは快楽主義になりかねませんね。と言うかと思うと、

 ・・・朝に種を蒔き夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのかあるいは、そのいずれもなのかあなたは知らないからである(同11章6)・・・

つまり、「人間の努力が報われるのは、働いた人なのか、はたまた他人なのかわからない」と言っているのです。これでは「働きなさい」と言いながら、一方で「働いても無駄だ」と言うのと同じですね。信者はますます困ってしまいます。

 そこでこのパラドックスを解決するために、わが国の指導者には、「神なしに生きることは空しい」「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて」と解釈している人が多いのです。これに対して小友聡さんは別の解釈を提案しています。それについては次回お話します。

 (2)小友聡さんの解釈

 小友さんは「ヘベル」を束の間(時間的に短いこと)と捉えています(註2)。

とすると、

・・・若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ・・・若さも青春も束の間だからである。(11章9-11節)・・・

となり、たしかに筋が通りますね。小友さんが「空=束の間」と解釈した理由は、当時のイスラエル人の平均寿命が35歳くらいだったから」と言っています(註3)。

 註3 しかし、それは誤りでしょう。なぜなら、平均寿命35歳を「束の間」とするのは、現代の感覚からであって(日本:男81歳、女87歳)、当時のイスラエル人は35歳を「そんなものだろう」と思っていたはずだからです。根拠にはなりません。

 この考えに従って小友さんはコヘレトの言葉を、やはり旧約聖書のダニエル書の黙示思想との対比として解釈しています。すなわち、「黙示的生き方とは、来世に価値を置き、現世は堕落して破局に向かうゆえに、これを試練として耐え、禁欲的に生きるという態度である。これに対してコヘレトは、この束の間の人生を喜び楽しみ、すべてを神からの賜物として受け入れ、与えられた生を徹底して生きることを説いているのではないか」と言うのです。つまり、

 「・・・太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである(同8章,

15)・・・

も刹那主義や享楽主義ではなく、ヘベルの人生、つまり終わりのある束の間の人生をどう生きるかを説いているのだ」と解釈しています。そして「聖書で言う終末とは、黙示思想の言うようなこの世の終末ではなく、人生の終わりを言うのだ」と言うのです。

 また、前回お話した、

 ・・・朝に種を蒔き夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか。あるいは、そのいずれもなのか。あなたは知らないからである(11章6)・・・

の言葉も、善因善果、悪因悪果のキリスト教的因果思想から外れるとされ、信者を困惑させてきましたが、小友さんは、「コヘレトは、将来受けるかもしれない果報など考えず、とにかく今を生きよと言っているのだ」と解釈しています。

 これも、旧約聖書の内容と新約キリスト教的思想とのパラドックスの一つの解釈ですね。

註3小友さんの解釈と同一線上にある考えの人は他にも少なくないと小友さんは言っています(たとえば上村静さんは「キリスト教の自己批判: 明日の福音のために」新教出版社で、コヘレトの思想が徹底的に此岸《この世》的であり、現世肯定的であること。厭世的なのは黙示思想であり、コヘレトの思想は反黙示であると言っています)。

 従来の考えと小友さんの解釈についての筆者の感想は次回お話します。

(3)筆者の感想

 従来、筆者は聖書にはすばらしい教えがたくさんあると思っていました。たとえば、

 あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(‭‭マタイによる福音書‬ ‭6:34

 人を裁くな。自分がかれないためである。あなたがたが裁くきで、自分もかれ、あなたがたの量るそので、自分にも量り与えられるであろう」(‬ ‭7:1-2)‬

 汝らの中、罪なき者、まず石をなげうてヨハネによる福音書 8:1‐11

・・・今読んでもすばらしいですね。しかし、これらはすべて新約聖書、すなわちイエス・キリストの言葉なのです。これに対し旧約聖書は、それ以前のイスラエルの人々の人生訓です。つまり、前者は「神の言葉」であり、後者はいわば「知恵」に過ぎません。事実、「コヘレトの言葉」は「知恵の書」と言われています。どちらが人の魂を揺り動かすか、言うまでもないでしょう。

 小友さんが「空(くう)=束の間」と解釈したのはたしかに一つの見識だと思います。「それゆえこの世を神からの賜りものとして楽しもう」となり、前記のパラドックスも解消されるようです。ただ、小友さん自身も「あえてそう解釈した」と言っているように、やはりこの解釈にはかなり無理があります。やはりコヘレトが「風のように空だ」と言うのを「風のように儚(はかな)い」と取る方が、「風のように束の間だ」と解釈するより自然でしょう。

 「コヘレトの言葉」についての上記二つの解釈を公平に見て、やはり「空」を「空しい」と考えるのが自然だと思います。と言いますのもヘブライ語「ヘベル」の本来の意味は「息とか蒸気」ですから、わが国の多くの牧師さんが「この世は空しい、神の存在を考えなけば・・・」と解釈しているのも納得できます。

 すでにお話したように、小友さんの学説は、同じ旧約聖書にある「ダニエル書」と「コヘレトの言葉」との比較においてなされています。しかし、考えてみますと、「ダニエル書」で述べられている黙示思想(この世には終末がある)は何の根拠もない「伝説(註4)」に過ぎません。それゆえ「伝説」についてあれこれ言うことなど、本来意味のないことなのです。10歩下がってその意義を認めたとしても、たんなる「聖書学」の範囲内のことで、およそ後世の人たちが範とする価値はないと思います。言うなれば「古事記」を研究するのは「古事記学」として結構ですが、そこから「人生の教え」を導き出すのは牽強付会(こじつけ)というものでしょう。また、小友さんは「黙示思想が五島勉の『ノストラダムスの大予言は』や、オーム真理教の『ハルマゲドン』として復活した」と言っていますが、そんなものを信じたのはごく一部の日本人に過ぎません。大部分の日本人は醒めていました。ことほどさように、旧約聖書を「人びとへの教え」として研究する学者がいるのには驚きです。筆者はかねてから、聖書学者は聖書を唯一無二のものとして、そこから一歩も出ないのを不思議に思っていました。しかも小友さんはそれを30年も続けてきたとか。

註4 「限られた予言者のみに与えられた神の秘密の開示」と言われていますが、真実かどうか怪しいですね。新興宗教によるある「神の啓示」と同じだと思います。

・・・・・・

 ここで最初にお話した読者のメッセージ「NHKこころの時代のコヘレトの言葉で、小友さんが『空』『空』と言っています」に戻ります。これまでお話したことから、小友さんが番組内で「空(くう)」「空(くう)」と言ったのは、少し言い過ぎでしょう。私たちはどうしても禅の「空(くう)」を連想しますから。小友さん自身も「禅の空とは関係ない」と言っています。

4)聖書と仏教経典

 以前にもお話しましたが、キリスト教と仏教には大きな違いがあることに驚かされます。と言いますのも、キリスト教が2000年来、聖書を唯一無二の聖典とし、いかなる変化を加えることもなかった(註4)のに対し、仏教は釈迦の言葉を基本としながら、その直後からいくつかの宗派に分かれ、それぞれの解釈をしました。また紀元前後には、「般若経」、「維摩経」、「涅槃経」、「華厳経」、「法華経」、「浄土三部経」、「金剛頂経」などのいわゆる大乗経典類、さらには無着と世親(4世紀ころ)によってまとめられた「唯識」や、「密教」(7~8世紀)、禅など、多くの追加や整理が行われてきました。これらの積み重ねはインドの哲学者たちによるものです。このようにインドには幅広い哲学者集団による思索が続いてきたのですね。キリスト教ではおよそ考えられないことです。

 キリスト教は聖書を唯一無二の聖典とし、いかなる変化を加えることもなかった

 筆者の知人にキリスト教の敬虔な信者がいて、毎月「通信」を送ってくれます。それを読んでいつも感じていたのは、どの記事を読んでも「マタイ伝〇〇章○○節」とか、「〇〇への手紙」というように、必ず聖書に則って話していることです。「これでいいのか!」ですね。筆者は「禅塾」を標榜していますが、それ以外に「浄土の教え」、「華厳経」、「法華経」、「唯識」など仏教の他の宗派についても、さらにキリスト教から神智学などカントや西田幾多郎の哲学に至るまで幅広く学んでいます。そういう広い視点に立たなければ禅の本質など到底わからないと思うからです。筆者が長年携わって来た生命科学研究についても全く同じで、専門分野のみ学んでいてはとても生命の本質など明らかにはできません。

 この「コヘレトの言葉」シリーズでも小友さんは終始一貫して聖書、ことに「コヘレトの言葉」がある旧約聖書についてのみ話していました。これに対し、番組で対話していた若松英輔さんが、聖書の内容以外に、ゲーテやドストエフスキー、内村鑑三、芥川龍之介、などの言葉を引用しているのが印象的でした。当然でしょう。 

註4 キリスト教における聖書の正典化は、2世紀前半から4世紀にかけて議論がおこり、4世紀半ばにはほぼ確立しました。しかしいくつかの文書の正当性について争いがあり、正式な正典化は10世紀においてなされたとされています。