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デフォルトモードネットワーク(1‐3)

(1)  読者の滝川哲さんから誠実なお言葉をいただきました。内容は他の皆さんにも参考になると思われますので、ご紹介させていただきます。紙面の都合上一部は次回にご紹介します。

 ・・・貴HPを最近読み始めた者です。初めて感想を書きます。

 中野さんが、「パッと『生命は神によって造(創)られた』と直感した」現象は、恐らく「デフォルト・モード・ネットワーク」現象だと思います。NHK(BS1)の「シリーズ人体~神秘の巨大ネットワーク “脳”のひらめきと記憶」で紹介されました。「デフォルト」とは「何もしていない状態」のことです。「何もしていない状態」の時、人間には知性・能力・思考等を超えた〈気づき〉が起こるというのです。その番組で、出演していた山中伸弥氏(京都大学)は「アパートのシャワーを浴びている時、ふと素晴らしいアイデアが閃いて、「『よし!』と言った」そうです。これが、ノーベル賞に繋がったそうです。

 他にも例はいくらでもあります。冷たい水で本棚を雑巾掛けしていた時「無姿、無形、不可視」の者を〈見た〉、それは「私が〈神〉を見る眼は、また同時に〈神〉が私を見る眼であった」という前川博さん、父から指導された「内観法」で〈神〉に逢着した井筒俊彦氏などで、神秘体験です。そこに気づいた人間(往相)は、既に現実世界に帰還していると思われます・・・龍樹の間違いも納得しました・・・。

筆者のコメント:滝川さんはかなり仏教を学んだ方だと思います(御歳は筆者より上か?)。しかも、そういう人にありがちな「上から目線」でなく、筆者と対等な立場からお話いただいているという温かみを感じます。良い機会ですから筆者の感想を交えて解説します。

 まず、筆者が「パッと『生命は神によって造(創)られた』と直感した」ことは、ブログにも書いた通りです。筆者の研究グループが明らかにした、人間のタンパク質の遺伝子(DNA)構造を眺めていた時のことです。滝川さんのご指摘を勘案すれば、私たちが初めて突き止めた神の御業の一つに触れた瞬間だったのでしょう。それゆえ『生命は神によって造(創)られた』と直感したのかもしれません。滝川さんが「還相です(註1)」とおっしゃっているの聞き、身が引き締まる想いがします。「神の御業に触れた人間は、多くの人にそれを伝えなければならない」と言う意味ですが、本当に筆者の体験がそうであったかどうかはわかりません。ただ、この10年間、禅について著書を出し、ブログを書いていますのは、「なんとか皆さんのお役に立ちたい」と考えているからです。

筆者は今でも、あのとき「パッと」浮かんだ考えは、神からのメッセージだと思っています。それを現代科学の言葉で言えば「デフォルト・モード・ネットワーク(註2)」の働きかもしれません。

註1還相回向(げんそうえこう)のこと:浄土宗の基本的思想。念仏して極楽に往生した者が、再びこの世に帰ってきて衆生を教え導き、共に仏道を実践すること。

註2Marcus E. Raichleワシントン大学医学部教授の考え。 かんたんに説明しますと、

 ・・・脳活動の中心となっているのは、「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる複数の脳領域が連携するネットワークで、脳内のさまざまな神経活動を同調させる働きがある。私たちの脳は、話をする、本を読む、といった意識的な仕事を行っているときだけ活動し、何もせずぼんやりしているときは脳もまた休んでいると考えられてきました。しかし、安静状態の脳でも重要な活動が営まれているというのです。しかもこの脳の「基底状態」とも言える活動に費やされているエネルギーは,意識的な反応に使われる脳エネルギーの20倍にも達すると言います(「脳科学メデイア」より)。車で言えばアイドリング状態のこと。

デフォルトモードネットワーク (2)

 滝川さんの「(筆者の言う)龍樹の間違いも納得しました」の一言には勇気付けられました。以前のブログにも書きました「龍樹の『空』と禅の『空』は違う」ことこそ、近・現代の僧侶や禅の研究家が禅の「空観」を誤って理解していることの証拠と思うからです。龍樹が間違えたのではなくて、彼らが安易に「龍樹の空観」を禅の「空観」と結び付けているのです。前にもお話しましたが、筆者が初めて禅について学んだのは松原泰道さんの「般若心経入門」(祥伝社)でした。松原さんの言う「空」の意味は、「あらゆるモノは変化し、縁によって生じているから)実体はない」でした。それまで「空観」には諸説あったのですが、龍樹は「あらゆるものは変化する(無常)」と「縁によって生じる(縁起)」をブッダの思想の根本とし、「空」を説明しました。本当はブッダの言った「縁起」とは別の意味だったのですが・・・。筆者は松原さんの本を読んで、「そんなばかな。たたけば痛いじゃないか。実体はある」と、どうしても納得が行かず、その後禅から離れてしまったのです。松原さんは澤木興道さんの高弟だったとか。澤木さんは、内山興正さん、西澤和夫さん、そして松原さんなど、そうそうたる人たちの師で、「大正・昭和を代表する禅師」と言われています(註3)。澤木さんを初め、内山さん西澤さんの本も読みましたが、心に響くところはありませんでした。

 じつは筆者は「龍樹の『空』と禅の『空』は違う」こともある時「パッと」気が付いたのです。「どうして今までこんな当たり前のことに気が付かなかったのか」と、笑ってしまいました。澤木一門は誰一人このことに気付かなかったのです。「空」がわからなければ禅はわからないのですが・・・。なお、筆者の空観察や、龍樹の「空」と禅の「空」の違いについてはすでに詳述しました。

註3村上光照師も澤木さんの弟子ですが、上記の人たちとはまったく違い、特別な人だと思います。現代最高の禅師だと思いますが、残念なことに著書がほとんどありませんので、村上さんの考えを詳しく知ることはできません。17回、計5時間も瞑想をする、まさに「只管打座」の人なのでしょう。

デフォルトモードネットワーク(3)

瀧川哲さんへ、デフォルトモードネットワークは悟りへの梯子ではありません

 以前、滝川哲さんから「デフォルト・モード・ネットワークは、「空」であり、悟りへの梯子である」とのご意見をいただきました。

 デフォルト・モード・ネットワークとは、何もしないでぼんやりしている時の脳の状態のことで、脳の消費エネルギーの75%はこの状態のときに使われています。この時、脳の複数の離れた領域が、同期・協調して働きネットワークでつながって活動することが、ワシントン大学のマーカス・レイクル教授などによって発見され、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と命名しました。DMNは、心がさまよっているときに働くネットワークですが、脳に次々雑念が湧いてくる時に活性化するほか、これから起こりうる出来事に備えるため、さまざまな脳領域の活動を統括するのに重要な役割を果たしていると考えられています。

 人は何もしないでぼんやりしている時、よく過去の出来事の後悔や未来の不安などネガティブなことを無意識に次々と連想させてしまうことがあります。考えても意味のないことを、繰り返し続ける思考の堂々巡りから抜け出せず、心も身体も疲れ果ててしまうのです。つまり、DMNの暴走が起こるからです。その結果、うつ病になることが多いのです。

 この暴走を食い止めるようにする方法が、マインドフルネス(気づき)のトレーニングです。それを系統的に指導・実践している施設が世界各国にあり、うつ病の治療や働く意欲の向上に目覚ましい効果を上げています。

 さて、瀧川さんは「デフォルト・モード・ネットワークは、「空」であり、私が見つけた悟りへの梯子である」とおっしゃっています。たしかにDMNは瞑想状態を連想させますね。しかし、残念ながらDMNと瞑想状態とはまったく違います。なによりDMNでは「あれこれ取り止めもなく考えている状態」であり、瞑想では「まったく何も考えない」からです。もちろん「空」ともちがいます。その理由については、筆者のブログをお読みください。瀧川さんは相当深く仏教、ことに禅を学んでいらっしゃる方だと思いますが・・・。

 禅は「わかったか、わからないかの世界だ」と言うのはこういうことなのです。どうこのチャンスをプラスと受け止め、一層の精進をお祈りします。





聖なる巡礼路を行く

 NHK(7・24)「聖なる巡礼路を行く」を見ましたか?フランス中部の聖地ル・ピュイ・アン・ヴィレイからスペイン北西部の聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラ寺院までの、実に1500キロを徒歩で目指すものです。サンチアゴはキリストの弟子パウロのスペイン語名です。キリスト亡きあと、第一の弟子として活躍を期待されていた人ですが、その声望を恐れたユダヤ王によって殺されました。遺体は弟子たちによって船で運ばれ、密かに埋葬されました。その場所は長く不明でしたが、800年後、星に導かれた羊飼いによって見付けられました。そのに建てられたのがサンチアゴ・デ・コンポステーラ寺院です。12世紀には巡礼者は年間50万人に達したとか。しかし、その後途絶え、今世紀になってふたたび盛んになりました。現代の巡礼者たちは1日約20キロ、2か月半を掛けて辿るのです。巡礼路のところどころには、専用の宿泊施設もあります。1500キロは、奇しくもわが国の四国88か所巡りと同じ距離です。筆者は以前から、四国遍路に強い関心をいだき、ブログにも書きました。今回もこの番組を見て強い感銘を受けましたのでご紹介します。

 巡礼者たちの動機はさまざまでした。さまざまな国から、そしてさまざまな年齢層(中には80歳代の人も)の男女が参加していました。とくに印象的だった例は、

 1)46歳男性。スイス国境に近いフランスの町でレストランのオーナーシェフでした。21歳で結婚してから、家族のために働きづめに働いた結果、半年前に心筋梗塞で倒れた。「ある日突然私の心臓は止まったのです。そこで初めて気付いたのです。私は自分を癒す時間を取らなかったことを。それが最も必要なことで、常に私が求めていたことを。ゆっくり人生を考える時間はありませんでした。子供が大きくなったらゆっくり休もうと思いながら。結局ずっと働き続けました」。この危機を契機にそれを問い直すため、レストランを売ってこの巡礼に参加した。巡礼の途中で出会った教会には必ず立ち寄り、祈りを捧げた。「追い越されたり抜いたりしているうちに、自然に一つの集まりになったのです。それがとても心地よいことだと気づいたのです。そのうち自分が小さな幸せの中にいることに気づくのです。今までと違う視点でものごとを考えることができるようになりました。抱えてきたストレスが消え、心がとても静かになりました」。

 2)46歳フランス人女性。夫の家庭内暴力に長い間苦しめられ、最後には全財産を持って出て行かれた。おまけに娘まで家出をしてしまった・・・。「なぜ巡礼路に向かったのか思い出せないくらい混乱していました」「歩いてみると私のために祈ってくれる人がいたのです。自分が独りぼっちではないと気が付いたのです・・・」。 取材の今、2回目を歩いています。

 3)17歳アメリカ人少女。母親と一緒に。「高校を卒業して、大学に入る前1年間休みを取ることにしました。本当の自分の進むべき道は何なのかを知りたい。巡礼することで世界の人々とつながりを持てるし、どんな人生を送るべきかその答えも見つかるかもしれません」と参加。

 フランス―スペインの国境にあるピレネー山脈越えが最大の難所で、頂上は氷点下にまで下がり、最初の9キロはひたすら上りが続く。このため、登り口には、わざわざ巡礼者にその大変さと覚悟を確認するための案内所があるほど。とくに印象的だったのはスペインに入って150キロ続く丘陵地帯を歩く。山も川も木々さえまれな道のため、意識はひたすら自分の内部に向けられる。四国巡礼にも同じような遍路道があり、巡礼者に大きな実りをもたらす一方、そこで挫折する人も少なくないと言います。

  巡礼者たちは歌います。

 ・・・毎朝われわれは道を行く行く、毎朝もっと遠くへと。巡礼路がわれわれを呼ぶ。それはコンポステーラの声。もっともっと遠くへ。もっと高みへ。神よ導き給え・・・

 目的地に達した人たちの満足感は測り知れないでしょう。

 ・・・とても良い話ですね。これらの話を聞いて、筆者には忸怩たるものがあります。例に挙げたオーナーシェフ以上の人生を送って来たからです。70歳で仕事をやめ、自分を見つめる生活に入りました。幸いにもそれまで倒れることはありませんでした。それから10年、禅を学び続けています。

宗教と奇跡(1)

超常現象はある(その1)

 以前このブログで「宗教を真剣に学び、修行が進めば霊感が鋭くなる。霊感が鋭くなければ宗教の要諦は究められない」とお話しました。釈迦はもちろん、道元や法然は、数々の奇跡を体験したに違いありません。今回からしばらくは、霊的なことについてお話します。

「科学者はなぜ幽霊の存在を信じないのか」。その理由として、次の二つの「原則」が挙げられているようです。

1)カール・ポパー(1902-1994)「いかなる仮説も観測や実験によって仮説が間違っていることを示せる可能性があるべきだ」つまり実験により証明できないものは考慮の対象外とする、と言うものです。

2)オッカムのかみそり。オッカム(オッカムという場所にいるウイリアム、神学者、哲学者 1285?-1349?)ある事柄を説明する際に、必要以上に多くのことを仮定するべきではないという指針。別名として科学的単純性の原則や倹約の法則とも。伊勢田哲治さん(註1)による説明:例えば、等速直線運動に対する次のような説明があったとします。 ・・・外から力がかからない物体は、神が等速でまっすぐに動かし続けている・・・ この場合、「神が」という部分が説明に不要である、として切り落としてしまうのがオッカムの剃刀です。オッカムの剃刀で「神」という余分な仮定を切り捨てると、 ・・・外から力がかからない物体は、等速で直進する・・・となる、と言うのです。

 筆者のコメント:それに対し筆者は、「これらの指針に従わない事実はいくらでもある」と考えています。筆者は長年生命科学の研究に携わってきましたが、霊や超常現象の存在を確信しています。現時点では、それらの有無を実験的に証明する方法は見つかっていませんが、事実は厳然としてあるのです。ダークマターや重力波の存在はまだ証明されてはいませんが、科学者たちは莫大な費用と人員をかけて、それらの存在を実験的に証明しようとしています。単に、これまでの技術では証明できなかったのに過ぎません。よく超常現象に関するテレビ番組に登場し、何でもかんでも否定する元早稲田大学教授大槻義彦さんなど論外です。 以前にもこのブログシリーズで書きましたが、筆者は10年間、神道系の宗教団体に属し、霊能開発修行を受けました。別に筆者が望んで受けたのではなく、それを目的とする団体だったからです。その結果、超常現象を「これでもか」というほど体験し、その激しさが増していくようになりました。教祖に相談しますと、「もう少しで霊能者としての扉が開く」と。世の中にはそれを喜ぶ人も少なくないようですが、筆者は「霊能者になれば当然、責任が生じる」と考えました。趣味でやるような事ではないはずです。筆者には大学での研究と教育という使命がありました。教祖もそのことをよくわかっていただいていており(たぶん)、それ以上霊能が開発されるのを止めていただきました。今でも後悔はなく、教祖には感謝をしています。以前、某国立大学教授でありながら自らの霊能(その程度のものを持つ人は筆者の周りにはザラに居ます)を利用して、前世療法に加担していた人のケースをお話しました。本人は「専門の研究はちゃんとしている」と言っていましたが、結局、その大学を追われることになったのです。現代の日本はそれほど甘くはないのです。

安楽死?それでも医師を支持します(2)

 前回ご紹介した、スイスで安楽死を選んだKさんの闘病生活や安楽死に至るまでの思いを克明につづったNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」について、「精神病者集団」から次のような抗議が寄せられました(紙面の制限により一部割愛させていただきます)。

 ・・・番組中では、安楽死が肯定的に表現され、死に様までもが克明に放送されたことは私たち障害者にとってたいへん衝撃的でした。この「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、相模原市における障害者施設で発生した連続殺傷事件の被告の優生思想につらなるものであり、平然と公共放送で流されている状況は看過できないです。相模原事件の被告につらなる「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、つまるところ障害者の生を否定するものであり、私たち全障害者に向けられた殺意そのものです・・・。

筆者のコメント:かなり激烈な表現ですね。ことに「『重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ』という考え方は、つまるところ障害者の生を否定するものであり、私たち全障害者に向けられた殺意そのものです」の発言には、疑問があります。まず、相模原事件とKさんの問題はまったく別です。相模原事件は異常な偏見を持った人間による殺人事件です。一方、NHKの番組は、Kさんの「私には、生きる権利と同時に死ぬ権利も欲しい」という願いと経過を冷静に追ったものです。筆者も強い感動を得ました。「殺意そのもの」という感情的表現は、これからなされるべき真摯な話し合いを妨げるもので、大勢の人の反発を招きかねないと思います。

 一方、今回のAさん(実際はHさん)の安楽死事件について、ALS当事者で医師の竹田主子さん(50)は、

 ・・・私は7年前に発症しました。ALSとの診断をされ、大きなショックを受けました。自分が無力で価値のないものに思えます。ALSのようにどんどん身体が動かなくなるのは恐怖ですし、治らないとなると人生に絶望し、死にたくなります。でも今は24時間介護を受けて、視線入力パソコンを使い、医療コンサルタントの他、生命倫理や終末期医療について学会や大学で講義を行っています。病気で療養している、という自覚は消えて、たぶん、健康な皆さんと同じ感覚で生活しています。そんな私から見ると、この事件は二つの要素があります。一つ目は自殺願望の人間の呼びかけに応じて、ゆがんだ思想を持った医師が、金銭目的で殺人を行ったこと。二つ目は病気を苦に、自殺したい人がいることです。この二つは分けて考えなければいけません。報道で見る限り、2容疑者は、高齢者蔑視の発言をしたり、医学的知識を悪用して完全犯罪をもくろみ、「死なせたい“老人”」の殺害方法を書いたり、その目的を達成するために患者さんの意向をでっち上げることをほのめかしたりと、もはや医者の皮を被った凶悪犯罪の容疑者としか思えません。問われるべきは医師の倫理です。他に被害者がいないことを祈るばかりですが、こうした明らかに倫理観が欠如した医師を生み出さないシステムを考えないといけないと思います・・・今回の事件のような、健康問題を抱える人と自殺したいほど悩んでいる人を、全員法律で自殺可能にしていいのでしょうか?

筆者のコメント:竹田さんのように、病気を受け入れ、ネットなどを通じて社会とかかわりを持ち、「生きがいである仕事もして、プライベートも充実して、何事もなかったかのように生活している」人はまことに結構だと思います。しかしここでもKさんやAさんの状況とはまったく違うのです。24時間途切れることのない激烈な痛みに苛まれ、将来、人工呼吸器を付け、栄養も排泄も他人に頼らざるを得ず、植物状態にもなりかねない人たちの必死の訴えなのです。「全員法律で自殺可能にしていいのでしょうか?」 の言葉もこれからなされるべき真摯な議論に水を差すものです。精神難病についての研究をしていていた筆者がそう思うのです。さらに、竹田さんの「健康な皆さんと同じ感覚で生活しています 」は嘘です。

 安倍首相はじめ政権はこの件にタッチせず。立憲の枝野代表に至っては「安楽死事件ではない」と述べてこの事件を安楽死や尊厳死に関連付けて議論すべきではないとの認識を示した。ただ維新だけが「尊厳死の法整備の議論をすべき」と言っています。その通りだと思います。

追記: 石原慎太郎元東京都知事が「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ」とTwitterで発信しました。やや乱暴な言葉ですが、事の本質は突いているようです。

正法眼蔵・道得・將錯就錯

 このところ読者のお一人huさんのコメントについて筆者の考えをお話しています。よく勉強していらっしゃいますし、謙虚な態度に好感が持てます。なにしろ「正法眼蔵」や「スッタニパータ」の文章を自己表現の手段としていらっしゃるのですから。前回のコメントに、

 ・・・(筆者の「huさんの解釈には誤りがあります」とのコメントに対して)・・・ありがとうございます。真摯に受け取らせていただきます。今現在の私の考えに過ぎないので否定していただいてよろしいです・・・正見できるよう精進したいと思います。將錯就錯、「道得を道得するとき、不道得を不道するなりを肝に銘じます」・・・

とありました。良い機会ですので、これらの言葉について解説します。

 まず、將錯就錯(しょうしゃくじゅしゃく)から。

「正法眼蔵・行佛威儀」に、
 ・・・たれかこれを夢幻空花と將錯就錯せん。進歩也錯なり。退歩也錯
一歩也錯、兩歩也錯なるがゆえに錯錯なり・・・

筆者訳:進むも錯(あやまり)、退くも錯(あやまり)、一歩すすめば錯、二歩進も錯であるから錯の連続である。このむなしい努力を夢幻空華としてやりすごすことはでむきない。間違えても間違えても進むしかない。

夢幻:ゆめとまぼろし。また、はかないことのたとえ。「夢幻のこの世」

空花:目の見えない人が空中に花を見たように錯覚すること

筆者のコメント:huさんは「間違えても間違えても前へ進む」とおっしゃっています。謙虚な感想ですね。

次に「道得(どうて)を道得するとき、不道得を不道するなり」について。

 これも「正法眼蔵・道得巻」にある言葉です。「諸仏諸祖は道得なり」から始まります。「諸仏諸祖は道得なり」とは、これまでの優れた先師たちは、仏法(真理)は言葉で言い得て、それを実践できる人だ」という意味です。「道」とは「言う」という意味で、仏法(真理)は言葉で言い得るかどうかです。とても重要な問いですね。禅の世界では師から弟子へ、言葉を通してではなく、直接心に訴えることを重要視します。直指人心ですね。それもわかりますが、筆者は言葉でも通じると考えています。思想とは言葉です。言葉なくして思想はありません。キリスト教では「初めに言葉(ロゴス)あり」と言います。「光あれ」と神がおっしゃったので光が現れたのです。筆者は、これは決して単なる神話とは思いません。たとえば、ビッグバンは何もないところ(無)で起こったのです。宇宙は無からできたのです。まったく不思議ですが事実です。筆者がこのブログシリーズを続けていますのは、言葉によって仏法が伝えられると思うからです。言葉を通じてわかれば奇跡は起こります。

 huさんも「仏法は言葉で言い表せると考えているからコメントしている」とおしゃっているのですね。