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能楽と禅(1,2)

能楽と禅(1)

 室町時代に観阿弥・世阿弥親子によって大成された能楽も禅と深い関係があるとされています(世阿弥は東福寺の岐陽方秀の下で参学したと伝えられています)。しかし、能楽と禅との結びつきを解説した本(たとえば鈴木大拙「続禅と日本文化」註1)やブログを読んでもピンと来るものはほとんどありませんでした。たとえばある人の解説:

 「禅は、自分とは何か、いかに生きるかを追求する。絶対平等の自己、無相・無位の自己、慈悲・光明の根源たる自己、それに目覚め、その本質になりきり生きようとする道である。苦を持つ者は、まず、それを解消する。苦の解消なしに、本格的に修行はできないからである。自分勝手な見方、エゴイズムの眼を捨て、エゴイズムの行動をやめる・・・世阿弥は「花鏡」の中で次のように述べている。  
 ・・・いろいろな技芸はつくりものにすぎない。それを支えて生かしているのは心なのだが、この心の存在を人に見せることがあってはならない。万一、見せてしまえば、それは操り人形の糸をみせてしまうような失敗である。さらにいえば、舞台に出て演戯をしているときだけのことではない。夜も昼も、日常生活のあらゆる瞬間に、意識の奥底の緊張を持続して、すべての動作を充実した心の張りでつなぐべきである。このようにつねに油断なく工夫しているならば、そのひとの能はしだいに向上して行く一方であろう。この条項は、秘伝の中でもとくに最高の秘伝である。ただし実際の稽古にあたっては、こうした不断の緊張のなかで、おのづから締めつゆるめ(緩め:筆者)つの呼吸があるべきである・・・

 世阿弥が教えている秘伝は、能の役者は常に日常生活の中で禅の実践工夫をせよ、ということである。世阿弥が、日常生活において常に工夫するといっているのは、禅である。禅者は世阿弥が言うような工夫を常にしていくのである。人は自覚せずに、考えを常に廻らしている。そんな妄想をせず、いつも、自分のなしていることを自覚している。正念である。また、熱心な禅者は、おごらない、名誉欲・財欲・権力欲に執着しない、無私、無恐怖、悪をなさない、他人の評価を気にしない、などの独特の生き方になって現れる。一休、芭蕉、良寛などを見ればおわかりであろう。世阿弥もそれを秘伝中の秘伝というのである。そうすれば、無心の能、上三位の能を舞える名人になるというのである。秘伝中の秘伝という意味がわかるのではないだろうか。このような工夫を能の関係者は実践しておられるのだろう。「公開された秘密」、それが禅であり、法華経であり、私たちの心である。みな、こころ、仏を見ているのに、こころ、仏がわかっていない・・・

いかがでしょうか。これは一般論であって(じつは太字の個所など一般論にすらなっていない)、観阿弥や世阿弥ならでの言葉はどこにも表れていないように思います。観阿弥・世阿弥の思想は別にあるのです。それについては次回お話します。

能楽と禅(2)
  能楽に「隅田川」という演目があります。あらすじは、

  春の夕暮れ時、武蔵の国隅田川の渡し場に女がたどり着きます。気が狂れていると思ったが、船頭が事情を聞いてみると、都から人さらいにさらわれた12歳の息子を捜しに来たと言う。船頭は「お前さまは気など触れていない。じつは、ちょうど一年前の今日、ここで亡くなった子供があり、死ぬ間際に、都の『吉田何某の子梅若丸です。自分が死んだらここへ柳の木を植えて供養してほしい』と言い残しました。命日の今日、村人が供養の大念仏をします」と言った。女は「それこそ我が子に違いない」と、村人とともに念仏に加わった。鉦鼓を鳴らして大念仏を唱えて弔っていると、母が「みなさま静かにしてほしい。子供の声がします」と言うと、塚の内から梅若丸の亡霊が現れ、ともに念仏を唱えていたのです。母が抱きしめようと近寄ると、幻は腕をすり抜けてしまいました。やがて東の空が白み始め、夜明けと共に亡霊の姿も消え、母はただ塚の前で涙にむせぶのでした・・・

 世阿弥の子と言われる観世元雅(1394‐1432?)作です。筆者はおよそ20年前にテレビで鑑賞しました。とても印象的だったのは、能の様式に従って言葉も所作も抑えに抑えたものだったのですが、見ていて涙が止まりませんでした。演者の表情は文字通り「能面のように無表情」でした。言葉も情景描写も字幕がなければわからなかったほどです。それでも演技から訴えて来るものに筆者の心が揺さぶられ続けました。能楽のすばらしさに圧倒されたのです。能楽によって、現代の映画やテレビ・演劇技法の一切が否定されてしまいます。恐ろしいことです。現代芸術は騒々し過ぎませんか?能楽ではあらゆる余分なものをそぎ落とし、究極にまでシンプルなものにします。そして静かに静かに私たちの心に沁みこんでくるのです。これこそ観阿弥・世阿弥がした表現した禅の心だと思います。

 家庭も持たず、名誉にも富にも一切無頓着な清貧そのものの生涯を送った良寛さんの生き方に通じますね。良寛さんは「雨の降る粗末な草庵の中でゆったりと足を延ばしている。それだけでこの私の心は限りなく豊かです」と詠っています。

利休 茶の湯と禅(1,2)

利休 茶の湯と禅(1)

茶の湯が禅と深い関わりがあることはよく知られています。「利休百首」に、
茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし
という有名な句があります。その解釈を試しにネットで調べてみますと、

1)一般にこれは、「茶の湯は、湯を沸かし、茶をたて、ただ飲めばいいのです。決して敷居の高い世界ではありませんよ」と解釈され、利休が推進したとされる茶の湯の庶民性を窺わせるものである。もう一歩踏み込んで考察すると、「(確かに)茶の湯は湯を沸かし、茶をたて、飲むということですが、(客の様子やその時や場に応じて)適宜湯を加減したり、分量を調節したりする心遣い[気働き]が肝要なのです」と考えられる。つまり、この点をふまえると、「茶の湯は湯を沸かし、お茶をたて、飲むという、当たり前のようなことであっても、それを当たり前のこととして行うということは決して容易いことではありませんよ。だから、しっかりと精進しなさいよ」ともとれる・・・。
2)(ある茶道教室HP)この言葉を読むと、「ただ湯を沸かして茶を点てて飲むだけ」
ならば、お作法もお稽古もいらないのでは?そう思われるかもしれませんね。この「ただ」は奥が深い!ただなんとなく、気軽に、のどを潤すために美味しいお茶を飲むだけだったらこんなに茶道が長く続くことはなかったことでしょう。私も茶道を長年続けてこなかったと思います。
3)(別の茶道教室HP)茶の湯は難しく考えずにただお湯を沸かし、お客様に差し上げ、自らもいただく、というシンプルな行為であることを言っています。そこに込められている含蓄はみなさんにも伝わるかと思います。シンプルな行為ほど実は厳しく難しいもの。利害関係や欲といったものが何をするにもついてまわるからです・・・。
4)確かに、この歌の通りなのだろう。お湯を沸かして、お茶を点てて、いただくのみと。この当たり前のことがどれだけ行うのが難しいかということは、この道に入った人は誰でも感じることだろう。その湯はどのくらいの温度であればお茶がおいしく点てられるのか、どのくらいの茶筅さばきであれば美味しいお茶が点てられるのか、どのように飲めばおいしくいただけるのか、すべては実践、実践を通じて体得するものであろう。また、たまたまいい湯が沸かせても、いいお茶が点てられても、それは再現性はほとんどないものなのではないか。つまり、お湯もお茶も一期一会。げに深きは茶の湯かな・・・。
5)・・・一椀のお茶を差し上げるために お茶の点前があります。一見堅苦しいと思える点前ですが、その姿は実に無駄のない動き、美しい形となって完成されています。しかし、ただの手順や形というだけではありません。 呼吸を整え、タイミングを計らい、心から茶碗や道具を清め、お茶を点てる心が 型と合致して、亭主と客人との間に心と心の交流ができあがる、これを目的としているのです・・・。

などとあります。しかし筆者はすべてまちがいと思います。じつは利休の心境はさらに一段上だったと思うのです。いかがでしょうか。

利休 茶の湯と禅(2)

利休自身が禅に深い造詣を持っていたことは、大徳寺の古渓宗陳に参禅して、悟道の印可を受けていたことからも明らかです。当然、利休の茶の湯も禅の心に裏打ちされていたことでしょう。それは、前出の「利休百首」から、さらに以下の二つの高弟の聞き書きから伺われます。すなわち、
・・・「茶の湯は禅宗より出でたるによりて、僧の行ひを専らにするなり。珠光、紹鴎、みな禅宗なり」「此の中すべて茶の湯風体は禅なり」「数奇者の覚悟、全く禅をもってすべきなり」(以上「山上宗二記」熊倉朝夫校注 岩波文庫)。
(1)でお話した「茶の湯とは・・・」についての現代の茶道関係者たちの解釈(註1)は、禅の心にそぐわないと思います。それは、「南方録」(高弟南坊宗啓の利休からの聞き書き。筒井紘一 淡光社)にある、
・・・わびの本意は、清浄無垢の仏世界を表して、この露地草庵に至りては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば、規矩寸尺、式法等あながちにいふべからず。火をおこし、湯をわかし、茶を喫するまでのことなり。他事あるべからず。これすなわち仏心の露出する所なり・・・茶一道、もとより得道の所、濁りなく出離の人にあらずして話がた(難)かるべし。未熟の人の野がけふすべ茶の湯は、まねをするまでのことなり。手わざ諸具ともに定法なし。定法なきがゆへに、定法、大法あり。その子細はただただ一心得道の取りおこない、形の外のわざなるゆへ、なまじゐの茶人構えて構えて無用なり。天然と取行ふべき時を知るべし・・・(註2)。
からも推定されます。規矩寸尺、式法(きまりごと:筆者)等あながちにいふべからず。手わざ諸具ともに定法なしとはっきりと言っているのです。
筆者は最近、織部茶碗を作りました。古田織部(重然・しげなり1543‐1615)は利休七哲の一人で、織部焼の創始者です。実際に作ってみて織部の精神を垣間見ることができました。それは「自由」です。織部焼はそれまでのすべての陶芸に「決まり事」があったのを越えて自由だったと思います。筆者は作っている途中でそれに気付き、計画を変更して、表面に文字も書きました。
このことは、やはり禅の達人である良寛さんの評伝についても言えます。すなわち、以前のブログで、「北川省一さんなど多くの良寛さん研究者が、『良寛は越後へ帰ってから衆生済度を行った』と言うのは的外れである」とお話したことと似ているのです。禅ではそういう解釈を「はからい」と言って嫌います。利休も良寛さんも「その心になりきっている。ただそれだけだ」と言っているのです。それが禅の心だと思います。茶道に家元も茶室も無用です。ましてや高額な免許料や月謝など、利休の精神にとは別のものです。
註1ネットにいろいろ出ています。
註2「南方録」も江戸時代に別の禅僧が追加したため、禅に傾き過ぎているとの説もあります。しかし、筆者はなにより南坊宗啓は高弟でしたから、利休の精神も伝えられていると思います。

良寛さん法華転・法華讃(6)

 筆者の感想

 要するに法華経の主旨は1)諸法実相(自然のすべては仏の姿や声の現われであること、2)人にはすべて仏としての本性があることでしょう。たしかにとても大切なことですね。道元や良寛さんが法華経を尊重していることや、「正法眼蔵」に法華経の思想がたくさん入っていることから禅と法華経には深いつながりがあることは容易に想像されます。

 しかし筆者は法華経を知る前からこれらのことを実感していました。すなわち、
 1)筆者は生命科学の研究に従事していたあるとき、遺伝子DNAの構造をながめていて、突然「いのちは神(仏)が造られた」と直感しました。生命だけではありません。山も川も、宇宙のすべてが神によって造られたにちがいないのです。法華経で言う「諸法実相」ですね。
 2)「造られた」ということは、裏を返せばそのまま私たちは神(仏)だということです。神につながる「本当の我(霊魂)」が人間の本体であると筆者は考えるのです。このことはこのブログシリーズでなんどもお話しました。神(仏)がお造りになった人間を愛おしみになるのは当然でしょう。母親が我が子を本能的に愛するように。これが本当の他力思想なのです。法然は、浄土三部経などで得た知識からではなく、直観的にこのことを理解したのでしょう。私たちはこのことをはっきりと認識し、ただただ、神仏の恩寵に感謝すればいいのです。法華経で言う「人間の本性は仏(神)」ですね。

 神仏は殺人の罪を犯した者さえ、そして自死した者でも救って下さるのです。よく、自死した者は煉獄に落とされ、永久に救われないという話がありますが、そんなはずはありません。それでは「すべての人を救う」という神仏の御心に反するからです。それはたんなる警告、仏教で言う抑止(おくし)に過ぎません。輪廻転生、つまりくりかえされる生まれ変わりが心の成長のためだとすれば、まあ「一回休み」でしょう。

 このように、法華経はたしかに優れた経典ですが、「特別な経典」ではないと筆者は考えています。日本には法華経に依拠する新々宗教がいくつかあります。以前それらについて調べてみたことがありますが、相互の攻撃があまりに過激であることを知り、調査をあきらめました。

良寛さん法華転・法華讃(1-5)

道元・良寛さん・賢治と法華経(1)

(1)このシリーズで以前、「道元や良寛さん、宮沢賢治の法華経に対する思い入れは相当のものがある」とお話しました。道元は「法華経は諸経の大王である」と言い、あの「正法眼蔵」には法華経からの引用が随所に見られます。また良寛さんは「法華転」「法華讃」と名付けた漢詩を、それぞれ68編と122編作っています(これだけでも良寛さんの学識が並々ならぬことがわかります)。さらに宮沢賢治は遺言として「私が死んだら法華経を印刷し、経筒に入れて故郷花巻を取り巻く山々に埋めて下さい」と言っているほどです。

 わが国の法華系のさまざまな宗教団体が「法華経こそ釈尊がお説きになった最高の経典である」としています。しかし、法華経が、いわゆる大乗経典の一種であり、釈迦の直説でないことは、学問的にはすでに確定しています(註1)。とは言え、筆者はけっして大乗経典を軽んじているわけではありません。釈迦以降にもインドにはすぐれた思想家が数多く輩出して、法華経という思想体系を作り上げたのでしょう。
 そこで、今回から、このシリーズの締めくくりとして、良寛さんの「法華転・法華讃」に基づいて、法華経についてお話します(註2)。
 まず、法華とは宇宙の真理を指します。そして法華転とは、森羅万象のすべては仏がお造りになったものであり、仏の働きそのものだ、という意味です。法華経では諸法実相と言い、繰り返し説いています。法華経ではさらに多くのたとえ話を巧みに使って、人間には仏としての本性があると言っています。法華七喩(しちゆ)と言います。それについては次回お話します。

 1)諸法実相について
良寛さんは諸法実相について、法華転・第六十三の偈で、
風定(さだ)まって花尚(な)お落ち 
鳥啼(な)いて 山更(さら)に幽(しずか)なり
観音の妙智力(かんのんみょうちりき)千古空(むな)しく悠々
と読んでいます。「これらの自然の風物こそ仏のはからいそのものだ」と言うのです。さらに、唐の詩人で禅者である蘇東坡が悟りに至った時の感激を読んだ有名な詩、
渓声便(すなわち)広長舌、山色豈(あに)清浄身(しょうじょうしん)に非(あら)ずや(谷川の音は仏法を説く声であり、山の姿は仏の清浄身の現われである) 
も引用しています(法華讃・偈第十四)。
註1 ここでは、あの中村元博士が「法華経の成立はどんなに遡っても紀元40年を越えることはない」と言っていることだけを追加しておきます(宮本正尊 編『大乗仏教の成立史的研究』(昭和29年) 附録第一「大乗経典の成立年代」)。釈迦滅後4~500年後のことです。
註2 現代語訳は中村宗一「良寛の法華転・法華讃の偈」(誠心書房)を参考にしました。

道元・良寛さん・賢治と法華経(2)
  2)人間の本性が仏であること(法華経の比喩)
 法華経の教えはたとえ話をよく使って説かれているのが特徴です。すなわち、
①火宅の喩(たと)え(譬喩品)
②窮子(ぐうじ)の喩え(信解品)
③薬草の喩え(薬草喩品)
④他城(けじょう)の喩え(化城喩品)
⑤衣珠の喩え(授記品)
⑥髻珠(けいしゅ)の喩え(安楽行品)
⑦医子の喩え(寿量品)
の七つです。ちなみに〇〇品とは法華経の章のことです。
火宅の喩(たと)えとは、
 家に火がついて大変なのに、中で子供たちは遊びに夢中になっている。外から父が「こっちには羊の引く車があるから出てこい」と言っても子供らは聞かず、「鹿の引く車がある」と言っても聞かなかった。そこで最後に「(最高級)の白牛が引く車がある」と言ったら、それに惹かれて子供たちが出てきた、という話です。子供たちとは、二流(二乗)の教えや三流(三乗)の教えを信奉している修行僧たちのこと。そして白牛の車とは、最高(一乗)の教え、つまり法華経を指し、「早くこの尊い教えに乗り換えろ」と父は言うのです。

窮子(ぐうじ)の喩えとは、
 長者の息子でありながら家を飛び出し、数十年後乞食となって放浪するある日、豪奢な家の前に立った。父親はすぐに息子とわかったが、息子はすっかり忘れていた。そこで父親は息子を便所の掃除人として雇い、だんだんさまざまな仕事を与えた。ようやくその行いや精神が正しくなったと認めた時、初めて我が子であると明かし、長者の家を相続させたという譬え話です。つまり、「本来人間には仏としての本質があるのにそれを知らずにいる。早くそれに気付きなさい」という教えです。
衣珠の喩(たと)えとは、
 友人を訪ねて酒をふるまわれた貧困の男が酔いつぶれているうちに、友人は所用のために出かけることになり、男の着物の中に名宝を縫い付けておいた。男は後に友人からその話を聞き、貧困から脱することができた。

 他に、誰に対しても、どんなに悪罵されようとも、「あなたは仏になれる人です」と礼拝した常不軽(じょうふきょう)菩薩についても「道友である」と言っています(法華讃・偈頌第五十六)。宮沢賢治が「雨ニモ負ケズ」の詩で「みんなにデクノボウと呼ばれ(るような人になりたい」と言っている僧です。
 しかし、良寛さんは、
昔日の三車(羊車、鹿車、白牛車)名のみ空しくあり
今日の一乗実も亦(また)休す・・・
(今では三車の譬えなどの法華経の教えも単なる物語として受け取られて形骸化し、一乗の教えも口にされなくなってしまった・・・)
と嘆いています(法華讃・偈第二十四)。そして、
 「(今では)坊さんが金襴の袈裟を着けて法座に上り、形ばかりの法要、説法に終始している。「嘆ずべきかなこの末世の仏法」と悲しんでいます(法華転・偈第七十五)」
 良寛さんも道元と同じように法華経が最高の教えであると言っています(法華転・偈第一)。すなわち、
口を開くも法華を謗(そし)り
口を閉じるも法華を謗る
法華 法華 如何にか讃(たた)えん
焼香・合掌して曰(いわ)く
南無妙法華・・・
(法華経を説明することも、説明しないことも法華経を謗ることになる。ではどのように法華経を讃ずるべきか。ただ焼香・合掌して「南無妙法華」と言うだけだ・・・)
道元は「正法眼蔵・法華転巻」で、禅の六祖慧能の言葉、
「心迷えば法華に転ぜられ(真理を離れ)、心悟れば法華を転ずる(真理と一つになる)」を引用しています。

道元・良寛さん・賢治と法華経(3)
  竹村牧男さん「良寛さまと読む法華経」(1)  
 前回、「法華経の重要さは、諸法実相(自然のすべてはそのまま仏の声や姿の表れである)ことと、人にはすべて仏としての本性があることの二つの重要な思想を説いていることにある」とお話しました。今回は、竹村牧男さん(1948-)のお考えをご紹介します(「良寛さまと読む法華経」大東出版社)。まず、「諸法実相」に関して、
「薬草喩品」に対する良寛さんの讃:
 習風昨夜煙雨を吹き
 山河大地共に一新す
 東公意無く恩沢を布(し)き
 資(もたら)し始(はじ)む千草万樹の春
竹村さんの訳:春風は昨夜、けぶるような雨をそよがせ、今日は山河大地すべてが面目を一新した。春を司る君公ははからいなくすべてに恵みをもたらし、ありとあらゆる草木が春らしい粧(よそお)いとなった(仏の大悲は、差別なく一切のものに働き、各々が各々の生命を輝かしていく。p79)。
竹村さんの解釈:如来(釈尊:筆者)の説法は、皆、悉(ことごと)く、人々に一切智地、すなわち仏地に到達することを実現せしめるものだ、ということです・・・法華経には一切智についての説明はありませんが、一切智(一切法:筆者)とは、まず真如・法性(宇宙の最高の真理:筆者)に通達して一切の存在に行き渡る本質・本性を体証する智慧でしょう・・・(筆者の責任において少し言葉の前後を変えましたp71)。「一切智についての説明はない・・・」これこそ江戸時代の平田篤胤が「(法華経は)効能書きばかりで中身のない丸薬」と言う理由でしょう。
 そして竹村さんは、「薬草喩品」の一節、
如來は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂(いうところは)、解脱相・離相・滅相・究竟涅槃・常寂の滅相にして、終(つい)に空に歸す。
を引用して、「一切法は空(くう)である。その一味こそが、如来の説法の核心だと言うのです。もっとも、空は無ではありません。空ということの中に、仏智の世界もあります。生き生きとした生命のはたらきの世界があります。ここが誤解されると、ニヒリストに陥ったりしますから、この真理を説くは用心が必要です・・・」と言っています。
 この竹村さんの「空」の解釈は筆者とは異なります。何よりの証拠は「空」は「無」と対比すべき概念ではないからです。

道元・良寛さん・賢治と法華経(4)
 竹村牧男さん「良寛さまと読む法華経」(2) 
 つぎに「人にはすべて仏としての本性がある」について、
「方便品」に対する良寛さんの讃:
騰々任運只麼過 騰々任運只麼(しも)に過ぐ
困来眠 飢来餤 困じ来れば眠り 飢え来れば餤(くら)う
唯此一事也不要 唯だ此の一事も也(また)要せず
不知何処度二三 知らず何れの処にか二三を度せず
竹村さんの訳:ただぼんやりと時を過ごしている。眠くなったら眠り、お腹がすいたら食べる。ただそれのみ。方便を設けて、ああでもないこうでもないという必要もない。
竹村さんの解釈:自己が自己に対してはからう(あれこれ考える:筆者)以前にある真実、それに目覚めるのが仏知見だとしたら、(法華経が言っている)一仏乗(仏の最高の知恵・一切智・一切法の理解に至る道。法華経のことですね:筆者)などということをふりかざすでない。ああでもないこうでもないという必要もない。
筆者の感想:前回の「習風昨夜煙雨を吹き・・・」の詩や、今回のこの詩のように、良寛さんは法華経を最高の経典と崇めながら、それについてさえ批判的ですね。「時の流れのままに、困じ来れば眠り 飢え来れば餤(くら)うの生き方でいいじゃないか」と言うのです。しかし、それは、あらゆる厳しい修行と思考・勉学を修めた良寛さんだから言えることでしょう。良寛さんはさらに、法華経を学ぶ目標についても厳しい批判の目を向けています。すなわち、
「授記品」に対する良寛さんの讃:
「授記」とは、将来仏になれるという釈尊の印可。最高の弟子魔訶迦葉がそれを受けたのを知り、魔訶迦栴(正しくは木偏ではなく方偏:筆者)延らもそれを願ったという逸話が書かれています。
それについての良寛さんの讃:
眼華影裏逐眼華 眼華影裏(げんけようり)に眼華を逐(お)い
記去記来無了期 記し去り記し来たって了期なし・・・(以下略)
竹村さんの解釈:眼華とは、眼病によって目の前にちらつく華のようなもので、じつは幻のように実体のないもの・・・眼華を逐(お)うとは本来無いものを求めて追いかけるということで、眼華の虚像の中でさらに眼華を求めるとは、迷中又迷の状態を表しているでしょう。良寛さまは授記などまやかしにも等しいと言っているのです。なぜかというと、やはり即今、此処、自己の真実に目覚めるのが覚りであって、その自己を離れて、遠い将来になにか仏として実現するような自己を追いかけるべきではない・・・すでに仏である者が、さらに仏になることはありえないと言うのです。
筆者の感想:ただ、竹村さんの言う「即今、此処、自己の真実に目覚めるのが覚りだ」については、「なるほどそういうものか。でも具体的にはどういうことかよくわからない」のが読者の率直な感想でしょう。

道元・良寛さん・賢治と法華経(5)
 良寛さん批判?
 水上勉のような良寛さんを批判する人が「(若いのに働きもしないで)他人に食物を無心する手紙が49通ものこっている」と言っています。見当はずれの言葉でしょう。「あなただったら3通も続きますか?」と言いたいです。当時の皆さんは良寛さんだから喜んで「無心」に応じたのです。さらに「49通もの無心の手紙さえ残っていることを不思議に思いませんか」とも・・・・・・。そうなのです。人々は良寛さんの手紙が欲しくてしかたなかったのです。無心の手紙を出させ、もらった人は宝にしたのです。

 つい、花を採ってしまった良寛さんを「謝罪の文を書いてくれたら許します」と言った人がいます。良寛さんの書が欲しかった偽りの怒りですね。良寛さんは、絵とともに次の句をしたためて謝ったと言います。すなわち、
良寛が 花もて逃ぐる お姿は いつの世までも 残りけるかな      
良寛「花盗人」(この書も残っています:筆者)
 あるとき浜辺の漁師小屋が焼けたことがありました。ふるさと柏崎のことでしょう。失火の犯人と疑われた良寛さんが、漁師たちに殴られました。そこへ偶然通り合わせた親しい人が漁師たちに飲み代をやって良寛さんを解放させ、尋ねたそうです。「なぜ自分ではないと言わなかったんですか」と。良寛さんは静かに「相手は怒っているのでしかたがない」と。私たちはよく、いわれのない誤解を受けて腹が立つことがありますね。しかし、良寛さんならきっと「誤解してるんだから仕方がない」と受け流すでしょう。
 またあるとき、「お経も読まず説教もせず、子供と遊んでばかりいる」批判する人がありました。良寛さんは「ただ、私はこういう人間です」と心の中で答えたそうです(その漢詩も残っています)。人の心情など他人が評価判断できるものではありませんね。良寛さんは、反論など無意味だとわかっていたのです。良寛さんの心はそういう人たちとは比べものにならないほど高く、批判する人たちとはケンカにもならなかったのでしょう。
・・・・・・・
 良寛さんは晩年貞心尼という熱心な弟子ができました。現代でも「老いらくの恋」などという人が少なくありません。筆者は数年前、長岡の近くへ行ったとき、車の中から「与板」と言う道路標識を見付けてアッと止めました。そうです。良寛さんファンなら知らない人はいない土地なのです。はたして近くに良寛さんと貞心尼の歌碑がありました。
 「誘いて行かば行かめど人の、見て怪しめ見らばいかにしてまし(あなたを誘って行くのは行ってもよいのだが、他人の目から怪しまれないだろうか)」 良寛
 「鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ 烏はからすなにかあやしき(何おっしゃるのです。トビはトビ同士スズメはスズメ同士、サギはサギ同士。黒衣のわたしたちカラスはカラス同士仲良く行くのに何が変でしょうよ)」 貞心尼
ほのぼのとした良いやりとりですね。貞心尼は長岡藩士の娘、良寛さんとは40歳も違う人です。大変な美人だったと弟子の尼が書き残しています。向田邦子の良寛さん批判など「〇〇の勘ぐり」でしょう。
 今でも良寛さんファンはたくさんいます。筆者もその一人です。現在、良寛さん関連の本は300冊以上あると言います。「良寛さん研究会」も各地にあります。みんな良寛さんのこういった人となりを知って心からホッとするのです。どんな高僧の本や仏教書にも勝るのです。

読者からのご相談

 「相手から裏切られた。怒りが収まりません」という、読者からのご相談がありました。答えはただ一つ「早く怒りを止めて下さい」です。「相手の裏切り行為は相手のもので、あなたのものではありません。重要なことは、じつは相手にたいする怒りや恨みで苦しんでいるのはあなたの方なのです」。それに早く気づくといいのですが。

 どんな宗教でも「こだわりを捨てよ」とあります。しかし、それが簡単でないことは、誰でも身に沁みて知っていることですね。あの、元薬師寺館長高田好胤師の「広く、広く、もっと広く」はとても良い言葉だと思いますが・・・。

 筆者の古い友人たちのことです。二人は60年以上にわたる、ほとんど仇敵同士です。どういうわけか双方、相手のごく個人的な秘密、それも社会的には公言できないようなことまでも知っており、筆者に話してくれます。筆者が共通の友人であることも気が付かないのです。相手を非難する人は、必ず相手もそれをわかり、非難を返してくるのです。おそらく片方が死ぬまで、いや死んでも関係が回復することはないでしょう。恨みを持って恨みに返せば恨みは消えることがないのです。一体どうするつもりでしょう。

 筆者は定年後、中学時代の友人たちと付き合うことが多くなりました。クラス会や学年会と言うと、いまではすべて中学時代の關係です。彼らから学ぶことが非常に多いのです。まず、彼らは民生委員や保護司など、誰かがやらなくてはならないことを何年も、もちろん無償でやっていました。彼らの話を聞いてみますと、たとえ善意の行為でも、腹立たしいことが返ってくることも少なくないようです。忍耐がなければできない仕事なのです。たとえば保護司の友人は「激しく反発されることもある。相手に来てもらったり、こちらが行ったりすることになっているけど、相手が来ないことがよくある」と言っていました。別の一人は「世の中いろいろな人がいるのだ」と言っていました。それが不愉快なことをクリアする彼のノウハウなのです。よい言葉ですね。だと思います。大乗経典の大きな趣旨は、「自未得度 先度他(たとえ自分が悟りに至ってなくても)人のために尽くす」です。

 友人の中には、大会社の幹部のような「偉い人」もいます。中には過去の立場を未だに引きずっている人が少なくないのです。上記の「仇敵同士の二人」も、現役時代は「偉い人」でした。一方、地道に社会貢献している人たちは、あるいは不動産屋の親父だったり、一会社員であったり、一農民であった人たちです。主婦として過して来た人もいます。彼らはいつも明るく、親切で、付き合うのがまことに楽しいのです。
 そういう友人の一人から最近聞いた話です。末期ガンで入院していた友が「君だけには聞いてほしい」と、病院から連絡があった。駆け付けると、話し始めたところたびたび眠ってしまうので、「明日も来るから」と言って帰ったとか。翌日行ってみると「今朝亡くなった」と。眠ってしまったのではなく、重症で気を失ったのですね。彼は遺言をしたかったのでしょう。近所の同級生と金銭上のトラブルがあったようなのですが。「それを聞けなかったのが心残りだ」と、昨日も残念がっていました。「最後の心残り」を話たかった唯一の人間だったのですね。
 
天は公平です。中学時代の人達とは、最近なにかと理由を付けて集まります。しかし、その「近所の同級生」や、「偉かった」人には、「集まろう」と回りから声を掛けてもらえることはないのです。