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読者のご質問(15)

禅と浄土思想は矛盾するか

 次のようなご質問がありました。他の読者にも参考になると思いますので、あらためてここで私見を述べさせていただきます。
宮本様のご質問:
 幼少の頃より信仰してきたキリスト教者の話を並列して法然さんの真髄を語られましたが、禅徒として如何に考えるか困っております。
絶対神を信じない人達は無神論者と一口に片附けられます。浄土地獄を信じない私は本質無宗教者なのかも知れません、が、禅の考え方に沿うとしております。
その禅に於いても葬儀では南無阿弥陀仏を唱えます。私も名号は所有しております。
仰る法然さんであれば現在の浄土教団と浄土僧侶は不必要と考えますが、禅の自己追及において念仏をどのような位置づけに考えたら良いでしょうか。法然さんの心に従えば禅は逆説的に時間の無駄となります。
知る浄土宗住職さんは「座禅組みながら念仏を唱えるのが良い」と苦し紛れの言葉を発しております。(笑)
よろしくお願いします。

筆者の感想です:宮本様の御質問はいくつかの部分に分かれていますので、分別してお答えいたします。まず、
1)地獄極楽思想は日本仏教の妄想で、釈迦の思想にはありません(すでにブログでお話しました)。それゆえ地獄極楽を信じない宮本さんは無神論者ではありません。
2)「心の平安」のためでしたら現在の浄土教団と浄土僧侶は不要です。親鸞も「歎異抄」の中で、「父母のために念仏したことはない」と言っています。ただ、寺にはもう一つの意義があります。それは門徒の墓の管理者としての役割です。江戸時代以降400年の歴史があり、先祖も「南無阿弥陀仏で供養してくれ」と願っています。筆者自身は禅を実践していますが、実家の宗旨は浄土真宗です。それは変えることはできません。先祖が承知しないでしょう。法事の時は南無阿弥陀仏と唱えます。少しも問題はないと考えます。
3)禅の大家道元も究極的には仏を信じています(ブログでお話しました)。浄土思想と同じなのです。少しも矛盾しません。
4)エベレストに登るにはいろいろなルートがあります。禅も浄土思想もルートが違うだけで目標は同じ「心の平安を得ること」です。「坐禅をしながら念仏を唱える」には笑えます。その僧侶はルートが違うのに同じだと思っているのです。それでは遭難してしまいますね。
5)キリスト教も浄土系宗派も神(仏)にたいする絶対的な信頼があります。ただ、「絶対的」であり続けることは、よほどの信念がないと無理でしょう。「心の底から信じられるかどうか」ここがポイントなのです。あの東日本大震災で、津波で流されている人たちを目の当たりにして「神も仏もあるものか」と言った僧侶がいました。もちろん失格ですね。

浄土の教えの誤解「正法眼蔵・生死」

その1)
先日、筆者の友人がすごい剣幕で(古い友人ですから)筆者を批判しました。筆者のブログ「『浄土の教えを誤解しています』を読んで」と言うのです。筆者は、「ある有名な浄土の教えを信奉する人が『無量寿経は宝の山である』と言っているのを聞いて、唖然とした」と書きました。上記の筆者の友人はそこを批判しているのです。彼も定年後熱心に日本仏教について勉強を始め、すでにたくさんの関連書を読んでいました。宗教には無関心の別の友人もいる席でしたので、何も反論せず、ただ「どうして法然や親鸞の真意がわからないのだろう」と思っていました。

以前のブログで、「浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の中身は何もない」とお話しました。浄土の教えを説いた法然は、論理の基盤を善導の「観経疏」に置きました。「観経疏」は言わば「こじつけ」の書です(詳しくは以前の関連ブログをお読みください)。法然がそれを論拠としたのには理由があるのです。法然は「ただ仏を信じ、南無阿弥陀仏と唱えなさい」と言いたかっただけなのです。それでもとにかく「思想」ですから、一応論理体系としての体裁を取らなければならなかったのです。それゆえ「観経疏」を体裁上の論拠としたのでしょう。読者はこの論法を知って「おかしい」と思わねばならないのです。さすがに親鸞は法然の考えを正しく理解し、「たとえ私が法然の考えを信じたばかりに地獄へ落ちようと悔いはない」と言ったのです。有名な「地獄は一条住みかぞかし(歎異抄)」ですね。

親鸞の「教行信証」についても、同じです。なに一つ重要なことは書いてありません。浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如(1415‐1499親鸞より200年後の人です)は「教行信証」の一部を抜粋して「正信偈」を作りました。筆者の実家の宗旨は浄土真宗で、法事と言うとそれを読誦します。小学生の時お寺に集まってその練習をしました。今でもその一節・・・印度西天四輪家 中夏日域之高僧・・・などが自然に口を突くことがよくあります。じつに口調がよく、リズム感もすばらしいのです。まったく蓮如は大したプロデューサーだと思います。ちなみに彼は5人の夫人に27人の子を生ませ、それぞれを有名寺院の後継者に送り込んで一大宗派を作り上げた、呆れるばかりの人です。

「歎異抄」についても同様で、以前にも書きましたように、あれは「(親鸞の住む京の都を遠く離れた関東の弟子たちが)師の教えに勝手な解釈(異)をしている」と歎く弟子唯円の書なのです。たいしたことは書いてないのです。本願寺の書庫でそれを見付けた蓮如は驚いて「禁書」としました。なにしろそこには「親鸞の弟子など一人もいない」と書いてあるのですから、一大浄土真宗王国を築いた蓮如があわてたのは当然でしょう。

仏教は厳しい自力本願を修行の根本とします。釈迦自身の教えは、現実生活に即した穏やかなものです。しかし、釈迦滅後、すでに初期仏教の時代から修行はどんどん厳しくなって行きました。後代の真言密教や禅など「修行第一」ですね。そこへ法然が出て「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」との「他力本願」を説いたのです。釈迦以降の仏教史を様々に読み進んで行きますと、法然の思想がいかに革新的かがわかります。

法然の教えはただ一つ、「仏(神)に対する絶対的な信頼」です。 キリスト教と同じですね。すばらしい思想なのです。「歎異抄」を高く評価する人には、西田幾多郎、三木清、倉田百三とロマン・ロランなどたくさんいます。これら「浄土の教え」や「歎異抄」を信奉する人達が早くこのことに気付き、法然や親鸞の思想の原点に戻って欲しいのです。

その2)禅思想の究極には絶対神がある(道元「正法眼蔵・生死)

前回、秋田県の玉川温泉に集まる末期ガンを宣告された人たちの声をご紹介しました。自分の力ではどうしようもないこともあります。事件や事故で大切な肉親を失った人も同様でしょう。悲しくて辛いのは想像に余りあります。しかし、苦しさや辛さをいつまでも引きずるのは、体にも障るはず。よく使われる「それでは亡くなった人が浮ばれないから」という言葉は、長い間に培われた人間の知恵でしょう。

道元は人間の生死について、すばらしい言葉を残しています。「正法眼蔵 生死(しょうじ)巻」別巻5で、
・・・(生死は)厭うことなかれ、願うことなかれ。この生死は、すなはち仏の御いのち(命)なり、これを厭い捨てんとすれば、すなはち 仏の御いのち(命)を失なわんとするなり。これに留(と)どまりて、生死に執著すれば、これも仏の命を失うなり。仏のありさまを留どむるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて、仏の心にいる。ただし心をもて測ることなかれ、言葉をもて言うことなかれ。ただわが身をも心をも、放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに従いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死 を離れ仏となる。誰の人か、心に滞るべき・・・

筆者は最初、この道元の教えを読んで驚きました。道元は禅の悟りに至っていたはずですから、当然、自力で生死の問題も達観していたと思っていたのです。ところが、実際には道元は他力の人だったのです。しかし、ほとんどの人は他力の意味を誤解していると思います。他力とは、「神さま(仏さま)助けて下さい」とは違うのです。もちろん、重い病気の場合、悔いのない治療は受けなければなりません。しかし、それは過剰診療ではありません。筆者の知人に、末期ガンの御主人を治すため、財産のすべてを使ってしまった人がいます。それでも亡くなりました。

「最後は、神さま(仏さま)にお任せしよう」と道元は言っているのです。筆者の友人が言っていました「末期ガンの知人のお見舞いに行ったところ、まったくいつもと変わらない態度で本を読んでいた」と。その人は敬虔なクリスチャンだったそうです。「長崎の鐘」の著者永井隆博士は、長崎医大の放射線科の医師でした。当時のX線装置は不完全で、治療中に放射線が漏れ、医師や技師たちは深刻な放射線障害を受けるのがめずらしくなかったようです。永井博士は原爆に曝される前すでに、職業病としてX線障害を受けていたとか。夫人にそれを告白すると、夫人は「すべて神さまの思し召しどおりに」と答えたそうです。「神を心から信じる」とはそういうことなのだと思います。

筆者が「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経などは単なるお話で、法然や親鸞の教えの真意は別にある」と言っていますのはそういう意味なのです。

浄土の教えの誤解(2その3)

最近、「アメージンググレース(驚くべき神の恵み)」の演奏を聞き、あらためて感動しました。作詞はイギリスのジョン・ニュートン(1725‐1804)。彼はクリスチャンの家庭で育ちましたが、後に黒人奴隷貿易に携わり、多くの富を蓄えました。しかしあるとき、別の航海で船が嵐に遭い、転覆の危険に陥ったのです。彼は必死に神に祈り、救われたました。ニュートンはこれを転機とし、その後船を降り、勉学して牧師となったのです。そして多額の献金を重ね、自分が得た富を社会に還元しました。彼が作ったこの詩には、犯した罪に対する悔恨と、にも拘らず赦し賜うた神の愛に対する深い感謝が歌われています。アメリカ人に最も愛されている讃美歌です(筆者訳)。

驚くべき(神の)恵み(なんと甘美な響きよ)、
私のようなどうしようもない者も救って下さった。
かっては道に迷っていたが、今は神に見い出され、
今まで神の恵みが見えなかったが、今は見える。
神の恵みが私に恐れることを教え、
その恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じてから
多くの危険、苦しみと誘惑があったが、
私はいま辿り着いた。
神の恵みが、ここまで私を無事に導いて下さった。
さらに私を神の元に導てくれるだろう。
神は私に約束して下さった。
神の御言葉は私の希望である。
彼は私の御盾となり、分身となって下さる。
私の命が続く限り。
そうです。この心と肉体が滅び、
私の命が終わっても、
神の御許で得るものがある。
それは、喜びと平和の命です・・・・・・

これが本当の信仰だと思います。

法然の思想の真髄がわかったのは、親鸞と唯円などわずかな弟子だけだったでしょう。もちろん今日でも同じです。以前京都の本願寺へ行ったとき、壮麗な堂宇群に驚きました。法然や親鸞の死後500年、子孫たちは江戸幕府の権力機構の一端を担い、絶対的な力と富を作り上げたのです。いま日本の浄土系宗派(他の宗派ももちろんですが)が滅びつつあるのは明らかです。法然の真意もわからず、きらびやかな僧衣をまとい、儀式も説法も形式に流れ続けてきた当然の結果でしょう。そんなものは何もいらないのです。ただ心から「南無阿弥陀仏」と唱え、仏の愛を信じればいいのです。

読者のご質問(14)

 読者の方から次のようなご質問がありました。他の方にも参考になると思いますので紹介させていただきます。

ぶちょりんこさん
 ・・・実は密教を勉強したく、高野山真言宗のお寺に出入りがあって祈祷も勧められてしていたんですが、その住職には、このブログのことを相談したら、おかしいことは書いていない、まともでいいと思う、と言われました。なので、ずっと信じていたのです。もっと、批判的に見る目がなかったんでしょうか、と今驚いています。住職だから、坊さんだから正しいとは限らないこと、よくわかりました。実際に実生活にいるお寺が信用できないなら、いま、どうやって仏教を勉強したらいいのか、やっぱり自分で解釈していくしかない、と感じています・・・

筆者のコメント: これまでの私の意見を、よくぞ信頼して考えを受け入れて下さいました。あなたにとってつらい言葉もあったでしょうに。
 私はこれまで、現代のさまざまな仏教研究者や僧侶の著作を読みましたが、胸に響くものは一つもありませんでした。いつも「なにかおかしい」と感じたのです。唯一の例外として行き着いたのが橋田邦彦先生です。昭和の初めころ、すでに有名な僧侶による「正法眼蔵」の解説書はさまざま出ていましたが、一切無視し(おそらく失望したのでしょう)、東大図書館にあった古書「正法眼蔵御抄」を手掛かりにして、独学で優れた解説書を著わした人です。惜しくも志半ばで亡くなられましたが・・・。私も橋田先生のこの著作を唯一の拠りどころとして、以後は自分自身で勉強しています。あなたと同じ意見です。現代の日本仏教の衰退はだれの目にも明らかでしょう。いま世界の心ある人たちから注目されている東洋思想ですが。
 それにしても初学者が密教から入るとはどういうことでしょう。密教の最高の修法は文字通り秘法であり、修行僧の中でも特に選ばれた者にしか伝えられないからです。初学者など垣間見ることすらできません。高野山ではかんたんな瞑想も教えてくれますが、密教の修とは言えません。
 密教以外にふさわしい道はなかったか、誰かアドバイスしてくれる人はいなかったのでしょうか。

長内宗恵さん
 ・・・目に見えない、科学的に証明されていない世界のことはなんとも解釈や想像ができるので、そこの思想、仮説?をどうやって選択していくべきなのか、疑問です・・・

筆者のコメント:他人の言ったことや書いてあることではなく、自分の目で見、耳で聞き、肌で感じたことだけを自分で判断して信じるべきです。筆者は生まれて初めて体験した霊的現象を真実だと確信しました。ある友人が言っていました「某新々宗教団体が『霊的現象を体験させる。黒い幕をかぶせてパッと取った時光が見えます』と言うので受けてみた。かぶせられていた幕を取ったら光が見えるのはあたりまえじゃないか」と。麻原の空中浮揚などを信じたオーム真理教のエリートたちは、自分の目で見たわけではないのです。人間としてあまりにも未熟だったのですね。真面目な人も多かったのですが。空中浮揚写真など誰にでも撮れます。

潜在意識の活性化で願望達成?(1‐2)

 1)読者のお一人から、次のような趣旨のご質問がありました。ブログシリーズの途中ですが、熱心に私のブログを読んでいただいている方ですので、とりあえず私見を述べます。

・・・潜在意識(阿頼耶識)を活用すると願望が達成されると言う人がいますが本当でしょうか・・・

 関連するブログを読んでみますと、願望の例として、復縁や結婚がありました。さらに「その教えは原始(パーリ語)仏典の一つ『沙門果経』に銘記してある」とも。

 結論から先にお話します。その方法はお薦めできません。ブッダは、「なによりも心のあり方を正しくしなさい。そうすればこころ安らかな人生を送れます」というものです。すなわち、「和顔愛語(人にはおだやかな顔をして優しい言葉を掛.けなさい)。怒らず、こだわらず、欲を捨てなさい。自分を愛するように他人を愛しなさい」と言うのです。

 「沙門果経」をちゃんと読んで下さい(ネットに解説があります)。たしかに神通力のことが書いてありますが、それはあくまでも「ブッダの教えを実践した後で(段階的に)身に付く。つまり、それはあくまでも修行の結果だ。神通力願望は本末転倒であり、修行の妨げだ」と言っているのです。

 あなたが復縁や恋愛を望むなら(あなたがそうかどうかは知りませんが)、なによりも相手に謝罪し、改めるところは改めて(口先ではいけませんよ)、真心を込めて相手に接するべきです。離婚の原因は、あなたの心ない言動により、相手が深く傷ついたことにあるのです。(あなたが考える)真心が通じないと思ったら、潔くあきらめるべきでしょう。和解もせずに瞑想や阿頼耶識の活性化によって復縁しようとするのは虫が良すぎます。正しい仏の道ではありません。相手の魂の尊厳を傷付けます。キリスト教でも、「まず和解してから神の前に来たれ」とあります。人生の成功や結婚を望むなら、なによりもまずあなたの心のあり方を見つめ、改めることは改めて下さい。願望達成はあくまでもその結果なのです。他人に優しく、尽くす人にはおのずと他人の信頼や助力が集まるのです。そんなことは少し考えればすぐにわかることでしょう。

追記: 万が一にも、怒りや嫉妬、欲望の心を克服できないままこの方法が成功し(万が一にもですよ)、願望が達成されたとしますと、必ずしっぺ返しが来ます。邪悪な心の持ち主には邪悪な霊が集まるのです。闇の世界に入るのです。

2)ぶちょりんこさま(笑ってしまますが個人的ご相談ですから認めます)

 私のアドバイスを正しく受け止めていただいたようでホッとしています。もう二度とぶり返してはいけませんよ。私も瞑想や潜在意識の活性化によって願望を成就させようとする祈願の方法があることは知っています。それゆえ直ちにあなたのご質問に答えることができました。おっしゃるようにそれはカルトです。たとえ祈願が成就されたとしても、後で必ずツケが回ってきます。天は公平なのです。

 あの地下鉄サリン事件や松本サリン事件がオーム真理教のしわざであることがわかった時、日本中が衝撃を受けました。ちょうどその頃、夜たまたまラジオのスイッチを入れると、どこかの大学の先生が、この事件について話していました。とても印象的でしたのでご紹介します。その先生がおっしゃるには、

 ・・・私も霊的世界があることを認めています。しかし大切なことは、彼らが言うことを良識で判断することです。書いたものの行間を読むこと、眼光紙背に徹することが大切です・・・

 宗教ではよく顕在意識を軽んじますね。人は簡単に好悪、是非、善悪、貧富、階級の上下などの価値判断をするからです。しかし、じつは顕在意識で判断することはとても大切なことなのですね。教養や知性など、これまでの人生で学んだ良識に基づくことも多いからです。つまり、人間が頭で考える判断も、魂につながる潜在意識に基づく判断も、ともに神から与えられた能力なのです。

 オーム真理教の幹部たちの中には医師、有望な若手科学者や弁護士など、いわゆるエリートたちがいたことも驚きでした。彼らの中には人生を真面目に考える若者もいたのです。それだけに死刑になったことは痛ましい気がしました。犯した罪は許されるべきではありませんが。カルト集団が人間の弱点に巧みに取り入ることは、あなたの場合と同じです。

 あなたにとって現実を受け止めることは辛いでしょうが、間違った道に入り込まないでよかったです。どうかこれからも仏教やキリスト教などを学び続けて下さい。聖書や、ブッダの教え、ことに初期仏典は、やさしく、誰もが納得できるものです(中村元「ブッダのことば」岩波文庫など)。後の大乗経典などのような高邁な(?)理論などありませんが、本当の思想とはそういうものだと思います。
 くりかえします。もう二度とブレてはいけません。高野山で復縁の祈祷をするとは!怒りを覚えます。

霊魂ーベルクソン・小林秀雄(1-5)

 1)ベルクソン(H.L.ベルクソン1859-1941、註1)は「生物学的脳(以下、脳とは大脳を指します:筆者)は意識とは無関係である」、そして「霊魂はある」とも言いました。この考えは、当時も今も大問題になります。そんなことを口にすれば、「専門家」からも「一般人」からも痛烈な非難や中傷を巻き起こすはず。「『科学的』に説明できないものは認めない」というのが現代人の強固な共通認識ですから。小林秀雄(1902-1983、註2)はベルクソンの研究者として知られ、講演でも若者たちに向かって、この偉大な哲学者の著作を読むべきだと力説しています。ベルクソンの思想は他にもハイデッカー、サルトル、内藤湖南や西田幾多郎などにも大きな影響を与えました。しかしそれ以後この考えは途絶えてしまいました。筆者はベルクソンや小林秀雄の考えに共感しています。以下5回に分けて、このベルクソンの重要な思想についてお話します。 
 ベルクソンが言う意識とは、人間の感覚(イマージュ)と、「自分が自分であるとの認識」、そして霊魂の問題です。「それらの意識現象は、脳にはない。どこにあるかはわからないがそれは問題ではない。現代人は『ある』と言えばすぐに所在する空間を問題にするが、そういう考えは現代科学の欠陥だ」と言うのです。

 イマージュ(感覚)とは、たとえばリンゴを見て「赤い」と判断する精神活動です。この問題はけっして単純ではなく、現代にも続いています。茂木健一郎さんがクオリア(質感)と読んでいるモノです(「意識とは何か」ちくま新書)。たとえばカメラの焦点に映った像は、たんなる映像であり、「赤い」とか「おいしそうだ」という判断はありません。ではなにが「赤い」とか「おいしそうだ」と判断しているのでしょうか。記憶の中にあった、以前リンゴを見て「赤い」とか「おいしそうだ」と学んだものが呼び覚まされ、それと比較して「これも赤い」とか「おいしそうだ」と判断したはずです。  
 一方、人間には「自分」という、物心ついてから消えることのない意識がありますね。自分であることのアイデンテイテイのことであり、誰もが持っていて、「魂」とも深い関わりのあるとても重要な精神活動ですね。ベルクソンは「私」という意識はどこにあるのかについても考えました。それも記憶と言ってもいいはずです。

 第三に、霊魂の問題です。ベルクソンや小林秀雄は「霊魂は存在する」と言っています。この意見は当時も今も強い批判や中傷の対象となりやすいのです。しかし、彼らの論調の強さには、聞いていて心配になったほどです(小林秀雄講義第二巻「信ずることと考えること」新潮社)。ベルクソンや小林秀雄がバッシングを受けたかどうかはわかりません。おそらく二人ともそんなものは歯牙にもかけなかったでしょう。また、二人の思想家としての偉大さゆえに、まともに批判できる人間などいなかったでしょう。

註1ノーベル文学賞受賞。主著に「時間と自由」(岩波文庫)、「物質と記憶」(同)など。以前お話した、夫が戦死した状況を遠く離れた自宅にいた妻が白日夢として見た話は、「精神のエネルギー」(白水社)に出ています。

註2 小林秀雄には「新潮」に連載していた「感想」というベルグソン論がありますが、小林はこれを中断し、出版する事も拒みました。自分は無学だったからと言っています(しかし、死後十数年を経て「小林秀雄全集5精神のエネルギー」として特別に刊行されました)。

 2)ベルクソンは、失語症(言葉を忘れてしまう脳疾患)などの脳に障害のある患者(註3)の観察から、「記憶のありかは脳ではない。脳は記憶を引き出す働きを持つだけだ」と結論しました(註4)。

 ベルクソンや小林秀雄は「『あらゆるものはどこかになければいけない』という考えは、現代科学の欠点だ。すなわち、それは唯物論的考えであり、たかだかここ300年か400年来のものだ」と言うのです。唯物思考とはイギリスやドイツで1700年代から始まった産業革命の発展にともなって出てきた考え方で、「モノこそ大切だ」という思想です。マルクスやエンゲルスを経て、現代にも続いています。「現代人は唯物思考の奴隷だ」とも小林は言っています:筆者、註5,6)。さらにベルクソンは「なんでも数字で判断するところ、つまり、99%まちがいでも1%の真実まで否定するという考え方もいけない」と言うのです。統計学的方法の欠点ですね(註7)。それは「まったく予想に反してトランプが大統領になった」現実によく表れています。さらに、「すぐに正しいとか間違っていると区別する考え方も唯物論の弊害だ」と言うのです。

 もちろんベルクソンや小林秀雄は唯物論を基盤とする現代科学技術を否定しているわけではありません。その成果により、人類は月にまで行けるようになったのですから。ただ、「あまりにも唯物論が偏重される世になったのが誤りだ」と言っているのです。今のモノ重視の世界が、もうどうしようもなくなっていることは、心ある人ならだれでも知っていますね。それゆえ、東洋的思考である禅に世界から強い関心が寄せられているのです。

註3 たとえば、病気治療の目的で脳の一部(海馬)を取り除く手術を受けたある青年は、手術以降の生活を記憶する長期記憶を持てなくなってしまった。しかし今の瞬間自分がしていることの短期記憶(筆者註:日常のどんな行動するためにも、一瞬の記憶が連続しなければならない)は異常なかったので日常の生活は支障なくできるが、昨日のことはまったく覚えていないという事態になった。つまり海馬はものごとを記憶するのに関係している組織です。ただ、ベルクソンは「記憶自体は海馬にはない」と言っているのです。

註4 ベルクソンは「運動習慣(たとえば赤ちゃんの時に記憶した「歩き方」)の記憶は脳ではなく体(現在では小脳と脊髄)に蓄えられている」と言っています。

註5 それどころかマルクスと同時代のカント(1724-1804)やヘーゲル(1770-1831)は、「真の実在はモノではなく、私が見た(聞いた・・・)直接経験にこそある」と言っているのです。「あなたが見た(聞いた・・・)経験」は関係ありません。あくまで「私が・・・」です。あまりに唯物思考が「流行った」ため、カントやヘーゲルの思想は忘れ去られたのです。

註6「宇宙は数学という言語で書かれている」と言ったのは近代物理学の創始者ガリレオです(世界の最先端の宇宙物理学者が集まる東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構のホールの柱には、イタリア語でその言葉が書かれています)。ベルクソンが見たらどう思うでしょう。

註7 よく、「唯物論と対比される考え方は観念論だ」と言いますが、それは正しくありません。小林秀雄は、そういうグループ分けをとても嫌います。あくまで「私個人の直接経験が重要だ」と言うのですから。当然ですね。 

3)ベルクソンは「感覚や『私が私であるという意識』の基盤は記憶であり、記憶は脳の中にはない」と言いました(「物質と記憶」岩波文庫)。

 「意識のような人間の精神作用が脳神経の活動で説明できるかどうか」は、昔からの重要な課題でした。「脳神経の働きをどこまでも解析してゆけば精神作用を説明できる」という肯定派と、「できない」という否定派があります。つまり、精神作用は生物学的な脳の働きで説明できるかどうか、です。肯定派は「受胎後、神経回路のネットワークが複雑になって行くとやがて意識が生じる」と言うのです。ベルクソンや小林秀雄はもちろん後者で、「精神作用は霊魂の領域である」と言いました。先日NHKテレビで、「アインシュタインの脳の標本が残されており、それを分析すれば彼の大天才性が説明できる」という人たちの話が放映されていました。筆者は「そんなことは不可能だ」と思います。ベルクソンは「神経活動はオーケストラで言えば指揮者の身振りであり、それを見ることはできるが音楽は聞こえない」と言いました。つまり、「脳神経活動とは記憶を引き出す作用だけだ」と言うのですね。そして「記憶は霊魂にある。霊魂は生まれる前からあり、死後も存続する」とも言いました。以下に「精神のエネルギ-」宇波彰訳(第三文明社レグルス文庫)により、意識や霊魂についてのベルクソンの考えを紹介します。本文は難解なので、和訳の解説という変なことになりますが、()内に示した筆者の解説を合わせてお話します。

 ベルクソンはまず、「自分がそういう考えに至ったのは「常識の直接的で素朴な経験が語る事実そのものに直接に向かう方法に従った」と言っています(要するに実験的方法ではなく、夫が戦死した白日夢を見た妻の経験談を信用する)。ベルクソンはさらに、「経験はわれわれに、魂の生活、あるいは意識の生活が身体の生活と結び付いていて、両者のあいだにつながりがあるということを示している」とも言っています(「意識(魂)は身体の生活とつながっている)。さらに、「脳が心的なものと等価であるとか、脳の中にそれに対応する意識において生ずるすべてを読み取れると主張するのは、この点からはるかにズレる(精神は脳神経活動とは一致しない)」とも言っています。そして、「精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオ-ケストラの指揮者のタクトの運動の関係だ。脳は意識・感情・思考が現実の生活に向けられているようにし、その結果として、効果的な行動ができるようにしているだけだ(脳神経の活動は指揮者のタクトの動きであり、音楽そのものはそこにはない)と言うのです。そして、「記憶内容は精神の中にあり、意識が死後は消滅すると考えるただ一つの理由は、身体の解体が見られるということであり、この理由は、身体に対しての意識のほとんど全体の独立性が、それもまた確認される一つの事実であるならば、もはや有効ではないからだ(「脳神経活動が精神の基盤である」という説によれば、肉体が死ねば魂も滅びることになるが、魂《意識》は身体から独立しているのだから、身体が滅んでも魂は滅びない)」と言うのですね。

 長々とベルクソンの哲学的表現にお付き合いいただきましたが、ベルクソンの言いたいことはおわかりいただけたのではないでしょうか。

4)霊魂 ベルクソンや小林秀雄のような偉大な思想家が霊魂の存在を肯定したことは世界の思想史にとってとても重要です。ベルクソンは、「私」という意識(記憶)のありかは脳にはなく、「霊魂」にあると考えました。生まれる前からあり、死んでからも失われないと言われるものですね。筆者にはベルクソンが晩年、心霊学に興味をもつようになったのはよくわかります(註8)。
 「霊魂(魂)」とは、生まれる前からあり、死後も無くならない「自分そのもの」と言ってもいいと思います。霊魂の存在は「生まれ変わり現象」によっても支持され、それらの研究は欧米では正当な科学の一分野として認められています。筆者は、「わたしが私である意識」や「こころ」の中には、筆者の言う「本当の我(霊魂ですね)」を通じて神につながる記憶も含まれていると考えます。私達がふだん感じている意識に見え隠れしている記憶のことです。作家の田辺聖子さんは、筆がなかなかすすまず苦しんでい識として現われるようなのです(この問題についてはすでに当ブログシリーズでお話しました)。る時、突然先が見えてくることがあり、「神様が下りて来はった」と表現しています。

 小林秀雄がなぜベルクソンの研究を止めてしまったのかは、誰にもわかりません。前回お話したように、小林は若い時からベルクソンについて強い関心を持ち、雑誌「新潮」に10年にわたって「ベルクソン論」を書いた人です。小林自身はベルクソン研究を止めてしまった理由は「無学だったからだ」と言っています。小林が無学だったなどと思う人はいません。その努力は心血を注いだものだったと、周囲が伝えています。筆者の憶測として、小林さんはベルクソンを知る上で不可欠な霊的体験を持てなかったからではないかと思っています。実体験なくして霊魂について語ることはできません。小林さんの著作を読みますと、「霊的現象のようなもの」を体験したと書かれています。しかし、とても霊的体験とは言えません。小林はベルクソンが紹介した心霊体験のケースや、あの柳田国男が直接体験したの心霊体験を引用しているのみです。そこが残念だったのではないでしょうか(いずれのケースも十分信用できますが、一次資料とするかどうかについては意見が分かれるでしょう。柳田国男の霊的体験については、以前ご紹介しました)。ちなみにベルクソンも「自分には霊的体験はない」と言っています。

 これに対し筆者は、何度も心霊体験をしました。その一つは、ある霊能者が、まったく予備知識を与えていないのに、筆者が見せた家系図の上に家内の先祖が「(後継ぎがいなくなると心配して)わらわらと出ている」との指摘を目の当たりにした体験があります。当時筆者は心霊現象にはまったく興味を持っていませんでしたが、この指摘を信頼し、その後息子の一人を家内の実家の跡継ぎにしました。つまり霊魂の存在をありありと体験して真実だと認め、その結果に則って実践したのです。

 筆者は当時、生命科学の研究をしておりました。言うまでもなく、その研究方法は唯物論的手法です。しかし、一方で霊魂の存在を実感したのです。そしてその後、「生命は神によって造られた」と確信しました。筆者が行って来た生命科学についての研究は、あくまで「唯物科学の範囲内で」行って来たものです。生命科学と霊魂の世界とは、筆者にとってなんら矛盾しません。それを体験した今は、もう少し深く生命について考えられるように思います。最先端の科学者が敬虔なキリスト教の信者であることはごく普通です。「神の恩寵に応えるため研究をしている」と明言する人も多いのです。

註8 ベルクソンは後年ロンドン心霊学会で招待講演をしました。当会には、イギリス首相、ノーベル物理学賞や生理学賞などの受賞者やコナンドイルなどの小説家や哲学者など、そうそうたる知識人が参加していました。人間思想の新しいパラダイムだと考えたのです。ただベルクソン自身には霊的体験はないと告白しています。これはベルクソンの心霊科学研究にとって重大な問題点でしょう。

 ちなみに清水誠の「ベルクソンの霊魂論」には霊魂のことは書いてありません。清水は「まえがき」の中で、・・・本書に「霊魂論」という挑発的な題名を付けた理由は、近代科学の基礎である哲学的意識概念について、全体にかかわる洗い直しが必要であると信じるからである・・・と言っています。

5)筆者の感想 しかし、ベルクソンや小林秀雄の思想の基本である「記憶は脳にはない」は少し修正されなければなりません。現代では少なくとも記憶の一部は脳の海馬に保存されていることがわかってきたからです。なわち、長期増強という現象です。たとえば、円形の水槽に濁った水を入れ、ねずみを泳がせます。じつは水面下の一か所に台が隠れており、ねずみは何度も泳がされている間に学習し、だんだん短い時間でその台に達して休むようになります。そして、その学習効果は長く保持されます。さらにこのねずみの脳の海馬組織を取り出して、ある場所に弱い電流を通して、別の個所で測定します。すると学習したラットの海馬では、電流の流れが大きくなっていました。つまり、神経伝達効率が増大していたのです。人間の記憶は、その人の成長過程で学習した内容が、該当する神経系の伝達効率の増強という形で脳に蓄えられて行ったと考えられます。

 記憶の本体については、長い研究史があり、新しい核酸が合成されるという仮説も出されました。しかし、結局は特定の神経系の伝達効率が増強されるというこの長期増強説が重視されるようになったのです。この知見はもちろんベルクソンの時代よりずっと後に得られたものです。筆者は神経科学の研究に携わっていましたから、現役時代、この輝かしい長期増強の研究が進められるのを興味を持ってながめていました。それゆえ、ベルクソンの思想を読んでいてすぐに「?」と思ったのです。
 つまり、脳科学の新しい研究成果「脳は少なくとも記憶の一部を蓄えることができる」により、ベルクソンの思想の重要なテーマ「イマージュ(知覚)」や「私が私であるという意識」の基盤である記憶現象の考え方を修正する必要があると思えます。もちろん、これらの研究成果によって、ベルクソンのもう一つの課題である、生まれる前からあり、たしかに死後も続くと考えられている「魂」の問題まで否定されてしまったわけではありません。

 近年、ベルクソン生誕150年の催しがパリでありました。現代でもベルクソンの考えにいうて解説する人はたくさんいます(たとえば弁護士の野口幹夫さんは10年にわたってベルクソン哲学を現代の脳科学の知見を参照しつつ、紹介していらっしゃいます。ネットで拝見できますが、とても真摯な勉強家との印象を受けます:筆者)。

筆者の考え:
  意識の一部は霊魂の中に保存されていると思います。「前世の記憶」がその好例です。そして優れた研究者や芸術家の「ひらめき」は、「本当の我(霊魂)」を通じて顕在意識に現れた神の真理だと思っています。それらについてはすでに以前のブログでお話しました。もしさまざまな精神疾患の原因として前世でのトラウマがあるとすれば、それを突き止める以外には治療法はないはずです。とくにアメリカではそれらの問題は真面目な心理学の一分野として承認されています。筆者は数々の心霊体験から、霊魂の存在を信じています。一方、「科学的に証明されていないことは信じない」と言う人がよくあります。しかし、それは科学というものをよく知らない人の批判です。科学者はもっと柔軟な考えを持っており、事実を何よりも尊びます。生命科学の研究を40年続けた筆者がそう思うのです。

 以前、よくテレビ番組で超常現象容認派と否定派の論争番組がありました。反対派に早稲田大学元教授と、某俳優(お二人ともお名前は忘れました)が常連だった印象があります。それらの番組はまったく実りのない議論に終始していました。筆者は反対派の人たちと議論する気はありません。さらに、「霊魂は存在する」と声高にアッピールする気もありません。淡々と実体験をお話しているだけです。ベルクソンや小林秀雄もきっと批判など相手にしなかったでしょう。いつも「私はこう思います。参考にできるところがありましたら参考にして下さい」と言っていました。そのとおりでしょう。
このホームページは「禅塾」ですが、禅を語るのに霊魂の問題は決して避けては通れないと思ってさまざまに論述しています。
次回はまた禅のお話に戻ります。