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東洋的な考え方(5‐1,2)

東洋的な考え方(5ー1)

 いま西欧の人達から東洋的なモノゴトの考え方に大きな関心が寄せられています。ヨーロッパでも激しい競争社会は勝ち組と負け組をはっきりと分け、貧富の格差はますます広がっています。そしてテロによる無差別大量殺人の要因の一つにもなっているのです。競争原理は戦後日本人の考えにも大きな影響を与え、偏差値が良い学校、大会社への将来を決めるなど、あたかも人間の価値を決める尺度にさえなっています。それが子供たちの無気力や引きこもり、さらには校内暴力を引き起こしているのです。「殺したかったから殺した」という、あの異様な犯罪を起こした元女子学生も、おそらくあまりに強かった親の期待に自分を完全に喪失してしまったのでしょう。

 それら西欧人の考えの元になっているのが、「人間と自然とを対極的なものとしてとらえる」という思考法にあるのです。ヨーロッパでは、自然の厳しさもあって、自然とはコントロールするもの、克服するものとの考えが強くありました。それが現代の自然破壊を生んできたのはご承知の通りです。サハラ砂漠のような荒廃そのもののような土地も、2000年前は緑野と森林地帯だったのです。西洋における哲学や自然科学の発達も、「人間と自然とを対極的なものとしてとらえ、対象を分析する」という、唯物思考に基づいています。

 日本は温暖多雨で森林の再生能力も高い国です。そのため、日本人は常に緑の山々や木々に取り巻かれてきました。自然を克服するという発想など昔からなかったのです。神とは山や木などの自然神であることからもよくわかりますね。その日本人が、自然は人間と対立するものでないという東洋思想をごく自然に受け入れたのは当然かもしれません。日本人は、なんとしても、少しでも早く、東洋思想という宝物を持っていることに目覚め、それらを活用して子供も大人も生きいきと学び働ける社会に変えて行かなければなりません。学校の成績などが人間の評価の基準ではなく、一人ひとりが自己を大切にし、個性をいっぱいに伸ばせる社会にするには東洋思想こそが重要なのです(註1)。

 筆者は自然科学の研究者として生きてきましたが、もちろん研究法は西欧の唯物思考に則っています。以下にこの西洋的思考と、筆者が個人的に学び、経験して来た東洋的思考との根本的相違についてお話していきますが、唯物論で生きて来た人間として、かえって禅などの東洋的考え方をお話する資格があるように思えます。

註1 槇原敬之さんの「世界に一つだけの花」は、とてもいい歌だと思います。
 ・・・ぼくら人間はどうしてこうも比べたがる?一人一人ちがうのに、その中で一番になりたがる?そうさぼくらは世界に一つだけの花。一人ひとりちがう種を持つ。その花を咲かせることに一生懸命になればいい・・・

東洋的な考え方(5-2)

 では東洋的な思考とはどんなものでしょうか。東洋では人間と自然を決して対極的なものとは捉えません。常に人間は自然の一部として考えています。たとえば人口の庭の「借景」として後ろの山や木々を借りることはよく行われてきました。このシリーズでお話している禅思想はこの考えの究極的なエッセンスです。すなわち、いつもお話しているように「空」とは一瞬の体験です。そこにあっては観る私もその部分、観られる対象もその部分なのです。「体験の主観的部分と客観的側面」と言ってもいいかもしれません。「モノがあって私が見る」という、西洋の伝統的な見かたとははっきりと違いますね。

 自由という言葉について考えてみましょう。西洋で言う自由とは、「他からの束縛を離れる」という意味ですね。「親や学校の監督から離れる、夫の束縛から解放される」というように、常に「私と相手」という対立的構図から発想されています。ところが東洋思想でいう自由とは、自(みづか)らに由(よ)ることを意味します。つまり、自分の足で立つこと、自立することです。この自由の境地から、自己を確立し、自分の本当の価値を知ることになるのです。

 つぎに自然はどうでしょう。欧米的な考えでは、人間と対置される周りの環境ですね。しかし東洋では自然は「じねん」と呼ばれていました。「じねん」とは「おのずから(自ら)しか(然)る」という意味です。もともと中国の荘子(BC369?-286?)の思想です。

「天地は我れと共に生じて、万物は我れと一たり」(「荘子・斉物論篇」)
「道を以て之を観れば、物に貴賤なし」(「荘子・秋水篇」)

つまり、本来的にそうであること、本来的にそうであるもの。あるがままのありかた。まさに人間と自然を一体化する思想、すなわち外界としての自然界や、人間と対立する自然界という概念ではなかったのです。客観的な対象物としての自然への意識はあいまいで、その意味で人と自然の一体感は強かったのです。たぶん福沢諭吉のような先人たちが、幕末から明治にかけて、西欧文化を理解するために、Natureという英語に自然という漢字を当てて、「しぜん」と読むように翻訳してしまったのです。福沢諭吉が偉大な先覚者であることは言うまでもありませんが、
日本の伝統的考えを十分に理解してたとは思えません。賀茂真淵、本居宣長、熊沢蕃山、平田篤胤、荷田春満などは日本の誇るべき思想家です福沢諭吉は日本の思想には疎かったようです。

原始仏教‐スッタニパータ(1-4)

原始仏教‐スッタニパータ(1)

 以前のブログで、仏教とキリスト教の大きな違いについてお話しました。キリスト教徒が聖書を唯一絶対の教えとしてに連綿といるの続いているのに対し、仏教は釈迦の元々の教えがどいうものかわからないほど、拡大されて来ました(増広と言います)。考えればとても不思議なことです。その理由について、東京大学名誉教授の中村元博士は興味ある考えを述べておられます。

 いわゆる大乗経典類が釈迦の教えとはずいぶん離れたものであることは、今では定説になっています。にもかかわらず、今だにさまざまな新興宗教が、「私たちの根本経典は、釈尊が悟りを開かれて最初に説かれたものだ(初転法輪)とか、「涅槃に入られる前、最後に説かれたもっとも重要なものです」などと言っているのは理解に苦しみますね。釈迦の教えがその後大きく増広したことは、原始仏教の経典と大乗仏教の経典類を読んで比較してみれば一目瞭然です。筆者は、大乗仏教にはすばらしいものがあると考えていますが、なんといっても釈迦自身の思想を知りたいものですね。それが伝えられていると考えられるものを原始仏教経典類と称し、ふつうパーリ仏典と言います。

 その中でも最も古いと言われているものが「スッタニパータ(経典類の意味)」です。そこには釈迦自身が弟子に語った言葉も含まれているようです。そのパーリ仏典ですら、釈迦の死後数百年間はもっぱら口伝で伝えられました。「それなのに釈迦の言葉がそのまま伝えられていると言うのは!」との疑問もあるでしょう。しかし筆者は、口伝によって伝えられたということはかなり正確に伝わっているのではないかと思うのです。その良い例が日本のお経です。お経の文句はおそらく作られて数百年間ほとんど誤りなく伝えられているからです

 大乗経典は釈迦の思想とは無関係であると言ったのは、江戸時代の学者富永仲基です。富永がどのような理由をもってそう断じたのかはよくわかりませんが、仏教研究に革命を興した理論でした。筆者もさまざまな大乗経典を学び、そして「スッタニパータ」を読んでみて、まさしく富永の言う通りだったと思います。

註1パーリ仏典の一つ「ダンマパダ」は漢訳「法句経」としてわが国へも伝えられていましたが、その後ほとんど無視され、「浄土三部経」や「法華経」「阿弥陀経」「涅槃経」などの大乗経典類が広まりました。「スッタニパータ」五章のうち第四章だけは「義足経」として漢訳されていました。しかし、全体としては漢訳されていず、日本の仏教にはほとんど影響を与えなかったと思われます。したがって中村博士の「ブッダのことば」は、「スッタニパータ」の全文がわが国で初めて紹介された重要な書物です。「ブッダのことば」には詳細な注釈も付けられた親切なもので、まさに中村博士の学識の面目躍如たるものがありましょう。

原始仏教‐スッタニパータ(2)

 「スッタニパータ」は韻文(詩句)と散文に分かれ、中村博士によると、後者は後に解説として付け加えられたものです。そして、全体として教理というべきものがありません。すなわち、釈迦の教えは「対機説法」と言って、それぞれの人、それぞれの場合に応じて内容を変えていたのです。教えというものは、それぞれの人のためのものでしょうから、統一的な教理としてまとめられるようなものではないのは当然ですね。釈迦は「教えは大河を渡るのに使った筏のようなものであり、その人がその教えによって救われたら捨てるべきだ」とおっしゃるのです。いわゆる「筏のたとえ」です。

 以下、「スッタニパータ」の内容について、中村元博士訳の「ブッダのことば」(岩波文庫)を基にお話します。
 第一章 第七節「賤しい人」
 〇足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひと(人)の家で貪(むさ)ぼることがない。
 〇他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない・・・(以下略)
 〇何ひと(人)も他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
 〇あたかも、母が己が独り子を命を賭けても守るように、その一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)心を起こすべし。

第二章 第四節「こよなき幸せ」
 〇諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること・・・これがこよなき幸せである(以下同じ)
 〇適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずから正しい誓願を起こしていること・・・
 〇深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、言葉がみごとであること・・・
 〇父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり、混乱せぬこと・・・

第三章 第八節「矢」
 子供を亡くしてなげき悲しみ、7日間も食事をしない人を気遣って釈迦は、
 〇この世における人々の命は、定まった姿なく、どれだけ生きるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。
 〇生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
 〇たとえば陶工のつくった土の器が終にはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。
 〇このように世間の人々は死と老いとによって害(そこな)われる。それゆえに賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。
 〇迷妄にとらわれ自己を害なっている人が、もし泣き悲しんで何らかの利を得ることをことがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

筆者のコメント:いかがでしょうか。「親しい人を亡くして悲嘆するのは、亡くしたことと嘆き悲しむことの二重の苦しみを味わっているのだ。賢者は命の道理を知っているから、少なくとも嘆き悲しむことはしないないのだ」と言うのですね。このように、釈迦の教えはこのようにおよそ教理と言ったものではなく、大衆一人ひとりの現実に即した生き方の指針を示しているのです。それにしても、これらの教えが、東日本大震災で大切な人を失った人たちにも通じるかどうかには疑問が残りますが。

原始仏教‐スッタニパータ(3)大乗経典との接点

 「大乗経典は釈迦の思想とは無関係だ」と言ったのは作家の司馬遼太郎さんです。司馬さんは江戸時代の学者富永仲基の説を引用したのですが、正確ではありません。なぜなら、富永は著書「出定後悟」で、「およそ新思想というものは以前の思想に新たなものを加えたものだ」と言ったのです。富永の言葉「加上説」がよくそれを表しています。前の思想を完全に否定したのではないのです。つまり、大乗経典類には釈迦の思想の一部が残っていると考えるべきなのです。
 「スッタニパータは釈迦の思想に近いものだ」というのが中村元博士の説ですが、じつはよくわからないのです。筆者は「釈迦の思想の一部を伝えている」と想像しています。その前提に立って、以下、「スッタニパータと大乗経典類を結ぶものは?」について、検討を加えてみました。もちろん、初期仏典(パーリ仏典)は15あり、「スッタニパータ」はその1つですから、「スッタニパータ」だけについて検討するのは乱暴すぎますが、まあご容赦ください。

 まず、釈迦の思想と大乗経典類の思想と共通する部分を考えてみますと、縁起の法則・無常の法則・「空」の法則だと思います(じつはそれもよくわからないのですが)。それぞれについて「スッタニパータ」の内容を調べてみました(下記の章句番号は中村元訳「スッタニパータ」(岩波文庫)の章句に基づきます)。

 縁起の法則
 第三章 大いなる章 第十二節「二種の観察」
 〇およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起こるのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみが生ずることもない。 〇「苦しみは潜在的形成力の縁から起こるのである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲などの)想を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って・・・(以下略)

筆者のコメント:人は原因もはっきりわからないまま苦しんでいることがよくあります。「すべての苦しみには原因がある」と喝破したのは、やはり釈迦の卓見だと思います(筆者はこれこそ釈迦の言った言葉だと考えています)。

無常の法則
 第三章 大いなる章 第八節「矢」
〇この世における人々の命は、定まった姿なく、どれだけ生きるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。
〇生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

筆者のコメント:これの釈迦の言葉は「あたりまえのこと」ばかりですね。しかし考えてみれば、高尚な教理が、現に苦しんでいる大衆の心に染みわたることなどありえません。釈迦にはそのことが十分にわかっていたのでしょう。

空の思想(註1)
 第五章 彼岸に至る道の章 第十六節「学生モーガラジャの質問」
〇「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王は)見ることができない。
 第四章 八つの詩句の章 第十五節「武器を執ること」
〇古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引するもの(妄執)にとらわれてはならない。

筆者のコメント:筆者は、たしかに釈迦は傑出した思想家でしたが、インドには多くのすぐれた哲学者がそれ以降も何人も出たのだと思います。彼らは釈迦の言葉を深く掘り下げ、思想という鉱脈に至った。それが大乗仏典類だと思います。

註1 前にもお話したように、「空」の思想はその後変容し、あの龍樹の「空思想」ともちがいますし、禅の「空」ともちがいます。

原始仏教‐スッタニパータ(4)仏教とキリスト教の相違

 前にお話したように、釈迦の教えはそれを聞いたそれぞれの人がさまざまに受け止めていたのです。そうならば、受け止めた人がそれぞれ独自の解釈で発展させ、いわゆる大乗経典類という多くの思想としてまとめられたのももっともでしょう(註2)。これで、なぜ仏教はキリスト教と異なり、教祖の教えの増広が行われたのかよくわかりますね。
註2 原始仏典や、後の大乗経典類の冒頭には必ず「如是我聞(私はこのように聞いた)」とあります。

 筆者はキリスト教はすばらしい宗教だと思っています。ただ、なにかと言えば「〇〇伝第〇章第〇節」と出てくるのは気になっていました。ある人に何か問題が起こったとき、辞書を引くのと同じ要領でそれらの章句を検索するような気がするのです。経験を積んだ指導者は、それらの章句の多くを諳んじており、信者の相談を聞いてただちにそれらを示すのでしょうか。「それはおかしい」と以前のブログでお話しました。同じような相談に見えてもその内容は人さまざまでしょうし、時代により、国によってとても一律に考えることはできないと思うからです。釈迦が教義というものを否定した理由がよくわかりますね。

 原始仏典が後の大乗経典類とはほとんど別のものであることは、これまでにご紹介した「スッタニパータ」の一端からもご想像いただけるでしょう。すなわち、後者のどれもが整然とした文章の思想書であるのに対し、「スッタニパータ」ではごく日常的な話言葉で書かれているのです。それらの原始仏典のどの部分から後世の大乗仏典のさまざまな思想が生まれたのかを調べるのはあまり意味があることとは思えません。おそらく後代のインドの、今は名も知れぬ哲学者たちの努力の成果でしょう(註3)。筆者など、彼らが自らの思想なのに、わざわざ「如是我聞」と釈迦の思想に託した理由を測りかねます。

註3 わずかに唯識思想をまとめた人としてインドの無着・世親によることが知られています。

 中村元博士はさらに重要なことを述べておられます。それは「教理としてまとめられると、しばしば他人をそれに従わせようと強制する。それに従わなければ時に弾圧する」と言うのです。前にもお話したように、キリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教はもともと根は一つなのです。つまり、人類で初めて神の声を伝えたのがキリストであり、500年後にもムハンマドが神の声を聞いたのですから。それなのに、世界の歴史は「これらの宗教間の争い」と言ってもいいのです。それどころか、同じイスラム教シーヤ派とスンニ派が、恐らく教義の解釈の重点が異なるだけで、シリアや、イラン、イラクで深刻な争いを続けているのは皆さんご存知の通りです。それに対し、仏教国ではこれまでどこの国でも、ただの一度も宗教戦争が起こったことがないのです(註4)。

註4 わが国の法華一揆や一向一揆は、それぞれの宗派を旗印にした権力に対する闘いです。島原の乱でも同じで、キリスト教信者ばかりでなく、多くの百姓が加わっていました。
 中村博士は「強固な教義としてまとめられると、その言葉がしばしばスローガンになって他宗や他宗派の人々を攻撃する」と言います。それは現代でも起こっていますね。こわいことです。

悟りとはいかなる状態か – マイスター・エックハルトの思想(1-3)

悟りとはいかなる状態か – マイスター・エックハルトの思想(1)

 キリスト教学の大前提は「神は人間とは隔絶した存在である」ですね。その大前提に異説を唱えたのが、マイスター・エックハルト(オーストリアの神学者、1260?-1320?)です(以下は「神の慰めの書」相原信作訳(講談社学術文庫)から)。

 エックハルトは、

 ・・・汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない状態となり、名前無きなることを理解するであろう・・・

と言いました。エックハルトは「人間は神と一体化せよ」と言っているのです。この考えは、当時の(現在も)キリスト教学「神は絶対であり、人間世界と隔絶した存在である」とは、まったく反するものです。さらにエックハルトは、イエスや聖職者のような、神との仲立ちをする存在をも否定しています。そのため、とうぜん異端者とされ、キリスト教会から厳しく糾弾されました。エックハルトはそれらの批判に対する弁明書を提出していたのですが、宗教裁判に掛けられる前に病死しました。しかし、筆者はエックハルトの言うとおりだと考えています。

 さらにエックハルトは、

 ・・・被造物における善き者などもそれ自体が善いというよりも、善性がそれを生み出したから善いと言える。つまり、神は善性だから、神から生み出された被創造物は善き者だということ。神は知性を持っているので、神が生み出したからこそ被創造物は、知性を持つことができる。被造物にできる最高のこととして、魂の神と一致を試みることだ。魂とは、無に徹することだ。被創造物である人間は、神でないものすべてを打ち捨てて、神への譲歩で行かなければならない・・・

 つまり、人間が持っている良心や愛や知性は、人間が後天的に獲得したものではなく、神の属性をそのまま表現していると言うのです。眼が覚めるような言葉ですね。母親のわが子に対する愛や、良心や善性は時代を超え、人種を越えて持っていますね。考えてみれば、それらを人間がなぜ持っているのか不思議です。その理由は「神から与えられものだから」というエックハルトの考えには得心されます。

 エックハルトが伝統的キリスト教学に真っ向から対立するこの思想にどうしてたどり着いたのかはよくわかりませんが、おそらく深い瞑想によってわかったのでしょう。

悟りとはいかなる状態か – マイスター・エックハルトの思想(2)

 さらに、エックハルトは、

 ・・・原初における無の状態では、神は安らぐことはない。なぜなら、神はロゴス(言葉、概念:筆者)であり(註2)、その言葉によって、被創造物(たとえば人間)が創造された。神は論理とか真理を最初に創造した。そして、ロゴスによって被造物が創造されることによって初めて神は被造物において自分自身を存在として認識した・・・

と言っています。「無の状態では、神は安らぐことはない」とは、「無の状態では神ご自身がその絶対性を認識できない」という意味だと思います。そして、「神は被造物において自分自身を存在として認識した」とは、「人間のような神以外のものを創造して初めてそれが可能になられた」と言っているのです。そして人間が生きる目的とは、「この世で生きている間に自らが不完全であることに気付き、神に近づくための修行の場である」と言うのです。人生の目的を示した重要な考えですね。この考えは、スピリチュアリズムの世界でもよく言われています(註3)。

註2「ヨハネによる福音書」1:1には、
・・・はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった・・・
とあります。
註3 心霊主義とも。霊媒(高級霊との通信の仲立ちをする超能力者)を通して、あの世の高級霊団から伝えられた情報を研究する。数々の霊界通信によって、死後の世界や、生まれ変わり現象などの様子が知られるようになりました。「モーゼスの霊訓」や「シルバーバーチの霊訓」がよく知られています。

エックハルトの言う神がまだ存在しない状態について

筆者のコメント:宇宙の始まる以前、神以外の物は一切無かった。論理学的には、「ある」という概念は、「ない」との比較において「ある」はずです。それゆえ、神のみがいらっしゃる世界には何もなかったのです。さらに、「ある」と言うには「場所」が必要です。それゆえ、神の世界は空間のない無の世界なのです。それを理解するにはビッグバンを考えればわかりやすいと思います。138億年前、突然ビッグバンが起こり、宇宙が始まったことはよく知られています。「では、ビッグバンはどこで起こったのか」と考えてはいけません。「宇宙」などは無かったのですからビッグバンの起こった場所などありえないのです。「では、ビッグバンの起こる以前にも、別の宇宙があったのか」と考えてもいけません。現時点から138億年さかのぼるとビッグバンに行き着きますが、近付けば近付くほど時間の進みは遅くなるのです。そしてビッグバンの直前に時間が止まる。つまり、ビッグバンの起こる以前には時間も空間もないのです。まさしく神の世界には時間も空間もないのです。

悟りとはいかなる状態か ‐ マイスターエックハルトの思想(3)

 禅や真言密教の阿字観瞑想や虚空蔵求聞持法の修行者(註4)ならだれでも憧れる「悟り」とはどういうものでしょうか。「すべての苦から解放された安心立命の状態」では抽象的でピンと来ませんね。さらに、「悟りが大切だ。大切だ」と言われても、「ではそれはどういう状態か」との疑問に答えてくれる宗門はないでしょう。裏を返せば、悟りに至った人がこれまで、とくに近年にはほとんどいなかったのでしょう。

 筆者は、人間が「本当の我」を通して神と一体化できた状態だと思います。まさに前述のマイスター・エックハルトの言っている、

 ・・・汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる・・・

と同じ考え方だと思います。瞑想によって精神を安定化させ、自我意識を低める修行を続ければやがてそう言い状態に達すると思います。以前このブログシリーズで、筆者のこういう考えに対し、ある人から「そういう考えはすでに一闡提として否定されている」との投稿がありました。そもそもその人は「一闡提(いっせんだい)」の意味を誤解していますが、とにかく筆者の考えを否定したかったのでしょう。筆者は、以前からお話していますように、これまでに禅だけでなく、神道のいわゆる霊能開発修行を10年間行いました。その経験からも上記のように考えているのです。

註4 禅宗や真言宗以外に華厳宗でもまさに「神との一体化」を修行の目標としていると筆者は考えます。これに対し、他力を基本的教義とする浄土宗、浄土真宗には、原理的にも「神との一体化」という概念はありません。

悟りの証拠‐奇跡

 禅の世界では、悟ってもいないのに「悟った」と思い込むことを厳しく戒めています。道元の「正法眼蔵・一顆明珠巻」に「黒山の鬼窟(鬼のすみか)」として出てくる迷いの世界です(註5)。悟ったかどうかははっきりした証拠があるのです。

註5 ただし道元は、それを否定的な意味には取らず、「黒山の鬼のすみかでの一進一退の迷いの生活が一顆の明珠(一点の曇りもない珠:真実の世界)の働きそのものだ」と言っています。

 さて本題にもどり悟りの証拠とはどんなものでしょうか。例を挙げてお話します。

 高野山の奥深く、特別な修行のためのお堂があります。限られた人が「虚空蔵求聞持法」を実践する場です。虚空蔵求聞持法とは、あの空海が土佐の室戸岬にある御厨人窟 (みくろど)で悟りを開いた時に唱えた真言

 ノウボウアカシャ ギャラバヤ オンアリキャマリ ボリソワカ(註6)

を1日1万回づつ100日(または2万回づつ50日)唱えるという過酷な修行です。修行が成功すると奇跡が起こると言います。起こらなければ、修行をまたやり直さなければなりません。上記の高野山のそのお堂には、奇跡が起こった人のお礼の札が飾ってありますが、ごくわずかです。

註6 異説もあります

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(1,2)

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(1)

 人工知能(AI)の発達は驚異的で、今では逆に「人間とは何か」を再規定しなければならない状況になっています。先日もNHKテレビでこの問題について、AIの専門家である東京大学の特任准教授松尾豊さん、芥川賞作家の本谷有希子さん、囲碁七冠の井山裕太さん、お笑い芸人の徳井義美さんが話し合っていました。
 最近、世界最強の棋士イ・セドル(井山さん自身も)や将棋名人の佐藤天彦さんが、AIのそれぞれアルファ碁やポナンザに完敗したことが衝撃的でしたね。デイープ・ラーニングという、自ら学習するソフトが開発されたことが大きかったと言います。
 まず、松尾さんが「AIが発達すると人類を滅ぼすかもしれないと心配する人がいるが、そうしないようなプログラミングをすればよい」と言っていました。筆者など「コンセントを抜けばいい」と思っていますから、少しも心配はしていません。
 以前の番組で筆者の印象に残ったのは、中国であるソフト会社の有料の会員になると、仮想のキャラクター(若い男性に対しては若い女性)が割り振られ、さまざまな個人情報をインプットしてゆくと、やがてその男性のこよなき相談相手になるというものです。その仮想現実があたかも実在の人のように思われるようになり、やがて「結婚したい」とも錯覚するというのです。
 筆者がその様子を見て思いましたのは、「将来AIは、宗教に代わって人間を救う手段になるかどうか」です。本人の置かれている状況や、これまでの人生のさまざまな出来事などを、時には人に言えないような本音などまでもインプットしてゆけば、暮夜一人涙する時、心を慰めてくれるのでないかと思ったのです。
 今度の「人間とは何か」の番組は、その恐れ(期待?)を解消してくれました。すなわち、番組でAI同士(人間の姿が画面に映し出される)が勝手に会話をするところが紹介されました。驚くほどスムーズなやりとりでした。しかし、松尾さんは「はたしてこれが会話と言えるかどうか」と言っていたのが印象的でした。たしかに、いくら内容が複雑になっても、「おはよう」と言われたAIが「おはよう」と返すのと、本質的には変わりませんね。つまり、人間同士の会話でも何でもなく、たんなるパソコン上のやり取りに過ぎないのです。
 さらに番組では、赤ちゃんが母親を認識するメカニズムを例に挙げ、その複雑さはとうていAIが追いつけるものではないと言っていました。母親の手の温かさ、温かい息遣い、声の調子・・・など、きわめて多様で複雑な情報から赤ちゃんは「お母さんだ」と認識しているからです。宗教でもまったく同じはずです。昔から宗教を伝えるのは和顔愛語が大切だと言われてきました。よく相手の話を聞き、ときには共感して一緒に涙を流し、相手も気付いていない心の奥底を浮かび上がらせてあげる。そんな血の通った人間同士のやり取りがAIにできるはずがありません。

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(2)

 では芸術的創造性についてはどうでしょう。番組ではレンブラントの1200点にも及ぶ絵画作品の筆致、色調から絵具の厚みまで、2年をかけてAIに学習させ、その結果レンブラントの「新作」を完成させました。しかし筆者が見たところ、その「人物」の眼は死んでいたのです。一方、小説(短編)まで「創作」し、文学賞の予選を通ったと言うのです。しかし、そんなことは文字通り「バーチャル」の世界のことで、人間の創造性とは「似て非なるもの」でしょう。松尾さんが「AIの研究者達が、人間に近づけようとすればするほど人間が遠ざかっていくと口を揃えています」と言っていました。当然だと思います。

 「山椒大夫」「高瀬舟」などの名作で有名な森鴎外が医者であり、陸軍軍医総監だったことはよく知られています。森鴎外の漢文の素養は、夏目漱石が足元にも及べないものだったと言います。また、柿本人麻呂以来の歌人と言われた斎藤茂吉も精神科医であり、長崎医大の教授でもありました。「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」などの作者宮沢賢治は、「100年後にでも読み継がれる数少ない小説の作者」と言われています。賢治は土壌改良の専門家であり、花巻のレコード店が驚くほどたくさんのレコードを東京から取り寄せ、「羅須地人会」でレコード鑑賞会を開き、自らもチェロの演奏をするほどの文化人でした。とうぜん彼らの人間生命に対する深い洞察が、文学の基盤にもなっていたことはまちがいないでしょう。彼らは長い間にわたって蓄えられたさまざまな知識と、それらを抽象化して得た概念群、そしてそれらに裏付けられたすぐれた感性を持っているのです。人間の感性にAIなんかが追いつけるはずがないのです。

 囲碁7冠の井山さんも言っていたように、碁や将棋の棋士たちは過去の棋譜からだけ学んでいるのです。そんなものをAIが学べるのはむしろ当然でしょう。人間は疲れますし年齢による学習能力の低下もあります。一方、AIはほとんど無限に学習できるのです。中学生の棋士藤井君が世間を賑わわせていますね(彼は筆者の出身大学の付属中学生です)。彼は高校進学をやめて将棋に専念すると決心したようですが、筆者は義務教育さえ疎かにしている藤井君には高校へ行って欲しくありません。第一、たとえ天才棋士と騒がれようとも、しょせんAIには勝てません。すでに囲碁や将棋界ではAIとの対戦は止めたと決めたようです。それも当然です。すでに結果は明らかだからです。
 つまり、囲碁や将棋をする能力は人間のごく限られた能力に過ぎないのです。一方、芸術や文学、そして宗教は無限の広がりを持っているのです。AIが追従できるはずがありません。

 その番組の結論としては、「人間とは何かがますますわからなくなってきた」で一致しました。つまり、「AIなどが追いつけるとはとても思えない」と言うのです。

般若心経解釈:佐々木閑さん、玄侑宗久さん

般若心経解釈 佐々木閑さん(1)

 佐々木閑さんは臨済宗系の花園大学教授。先頃のNHK「100分で名著」で4回にわたって般若心経の解説をしていらっしゃいました。40年にわたり般若心経の研究をしてきた人です。まず、般若心経の中心思想である「空(くう)」について、色(肉体:註1)、受(外界からの刺激を感じ取る感受の働き)、想(いろいろな考えをあれやこれやと組み上げたり、壊したりする構想の働き)、行(なにかを行おうと考える意思の働き)、識(あらゆる心的作用のベースとなる、認識の働き)などの五蘊はすべて「空」‐実体のないものとしました。五蘊はたまたま寄り集まったモノに過ぎずないこと、すべてのモノは変化し、相互の関係で成り立っているからだと言います。

註1 佐々木さんは「色」を「本当は木や石なども含めて外界にある物質全般を指しますが、ここではとりあえず人間の肉体のことと考えたほうがわかりやすいでしょう」と言っています。つまり、すべてのモノは実体を持たない架空の存在であると言うのです。

筆者のコメント:すべてのモノは常に変化し、それらは相互の関係において成り立つとの佐々木さんの解釈は、それぞれ、無常縁起という、釈迦がお説きになった基本的な思想と言われるものに則ったもので、これまでの仏教学者の手法を一歩も出てはいません。佐々木さんは五蘊の解釈自体を間違えていると思います。それは、著名な中村元博士や鈴木大拙博士も同様で、
・・・存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いた・・・(中村博士の解釈。下線筆者)
と解釈しています。筆者は以前のブログで、「存在するモノには五つの構成要素があるという意味ではなく、人間の認識作用のことを言っているのです。それをモノの有る無しにまで拡大してしまったことが、そもそもの誤りなのです」とお話しました。すなわち筆者の解釈では、

 色蘊 –  人間の肉体、つまり認識作用
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの知覚
 想蘊  - 「あっ!きれい」と判断する価値基準
 行蘊  - 「バラを取りたい」という気持ち
 識蘊  – 「バラだ」と認識する知識

 つまり、受蘊で感覚したものをを識蘊が「バラだ」と識別し、想蘊が「きれいだ」と判断して行蘊が「あれを取りたい」と思う。つまり五蘊とは、人間の認識作用(見て聞いて・・・判断し、行動する)を意味しているのです。これで筆者の言っている「空とはモノゴトの観かたである」と通じることがおわかりでしょう。モノの有る無しのことを言っているのではないのです。第一、色即是空・・・に続く受想行識亦復如是の部分をどう考えるのでしょう。「モノにも知覚や認識や感性がある」ことになってしまうのです。だれでも「おかしい」と思うでしょう。中村元博士、鈴木大拙博士などの錚々たる仏教学者、そして佐々木さんも基本的なところの解釈をまちがえていると思うのです。