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霊的世界はある(その6,7)

霊的世界はある(その6)

 加山雄三さんの体験

 「神秘世界のことを目の前で見せてくれたら信仰する」と言う人は少なくありません。その気持ちはわからないでもありませんが、じつは神の世界への道とは正反対の態度なのです。キリスト教では、「叩けよさらば開かれん」という言葉があります。この言葉には深い意味があるのですが、信者の中にもその意味がよくわかっていない人が多いのです。長い間生きて行く問題で苦しんだ挙句、この言葉の真意がわかって回心した人を知っています。その詳しいお話しはいずれします。
 筆者の古い教え子の一人も「神秘世界のことを目の前で見せてくれたら信仰する」の一人でした。卒業後10年ほどしてから、ふらりと筆者の研究室を訪れ、ニコニコしながら「手かざしで果物が傷まなくなるのを見せてくれ」と言います。筆者が以前、なにか神秘現象について、その人に話したことがあったのでしょう。たしかに「手かざし」で病気を治したりする新興宗教の一派があったようですが、筆者には関わりがありません。しばらく雑談をして帰りましたが、何か様子が気にかかり、数ヶ月後、実家へ電話をしてみました。聞くと、事業に失敗して今は行方不明だとか。あの時のニコニコ顔の裏には深刻な事情があり、「神を信じたいがその証拠が欲しい」と、筆者を訪れたのでしょう。もっとゆっくりと話を聞いてあげていたらと悔やまれました。

加山さんの神秘体験(1)

 このブログシリーズでは、「閑話休題」という形で、この重要な問題について、少しでも多くの人々の切実な願いに応えらればと、さまざまな神秘体験についてお話してきました。そのさい、「できるだけ客観的に」と、筆者自身の体験(たくさんあります)は避けて、ちゃんとした新聞やテレビの真面目な報道について紹介してきました。今回は、加山雄三さんの体験談についてお話します。

 加山雄三さんはご存知のように、俳優で歌手で、明るい都会的センスを持った人ですね。加山さんがある日のテレビで、昔こんな体験をしたと言っていました。友人達と田舎へ行った時のこと、裏山の木立の中に小さな祠があった。ふと見ると祠の扉付近から一筋の光がスーッと前に向かって差しているのを見つけたのです。驚いて騒ぎ、祠の中をのぞいても、後ろへも回ってみても、別に何にも仕掛けはなかったそうです。それどころか後ろの板壁の間からは向こう側にいる仲間たちの姿がチラチラ動いているのが見えた ・・・。
と、加山さんはあの調子で、別に「すごい体験をした」などというのではなく、サバサバと語っていました。

 加山さんの神秘体験(2)

 加山さんはあるテレビ番組で自分が見た予知夢の話をしていました。

・・・ある時奇妙な夢を見た。夢の中で友人と電話で、海で消息を絶った仲間の安否について話している内容だったそうです。このときなぜか、「あいつは救出されたようだよ」と答えてしまった。
 その夢から三週間後、現実にその友人と電話で、遭難した仲間の安否について話していた。「夢の場面と同じだなあ」と思っていたところ、目の前のテレビで仲間が救出されたという臨時ニュースが流れたそうです。そのため思わず「あいつは救出されたようだよ」と言ってしまった。なんと、セリフまで夢と同じだった・・・。

加山さんは霊的に敏感な人のようです。

霊的世界はある(その7)

 前回もお話したように、「神(仏)が実在する証拠を見せてくれたら信仰する」と言う人は少なくありません。信仰とは正反対の気持ちですが、話を進めます。繰り返しますが、筆者は10年間神道系教団に属し、「霊感修行」をしました。40代から50代にかけてのことです。その間にさまざまな霊的現象を見聞きし、自分でも体験しました。もちろんそのことは職場でも、家族にも一切話しませんでした。そんなことをすれば研究者としての資質が疑われたはずです。

 筆者は、「霊が実在する」ことを確信しています。今回は、そのうちの一つをご紹介します。それは15年くらい前、筆者が国際学会でベルギーへ行った時のことです。現地でのツアーバスで、九州のある大学の先生と隣席になりました。ご専門は神経内科で、長年大学病院で診療に当たった来られた人です。たまたま「拒食症」のことに話が及びますと、ある興味ある症例について話してくださいました。ちなみに極端な食事制限を続けると、脳の中の食欲中枢がマヒして、体の要求量のはるかに下でも『これだけでいいのだ』と適応してしまうことがわかっています。

 その患者さんは食事の時、食器に直接口を突けて、そう、まるで犬や猫のように食べるというのです。先生は不思議に思って「どうしてそんなことをするのか」と聞いてみました。すると、「私の中にもう一人の『私』がいて、普通に茶碗と箸を持って食べようとすると、ビシッと止められるのです。ですから食べようという姿勢をその何者かに悟られないようにしてるのです」と答えたとか。どうも、食事を拒否することを続けていると、何者かが「この人間は死ぬのだ」と考えて、体の中に入ってくるらしいのです。そして「死なしてやろう」と思うらしいのです。それが何者かは、患者自身にも先生にも筆者にもわかりません。

  もう一つ、このブログでもお話しましたが、筆者が目の前で聞いた話をご紹介します。筆者が所属していた神道系教団の若い女性会員が、ある時友人を連れて来ました。「どうも様子がおかしい」と言うのです。教祖が話を聞いていますと、「〇〇ちゃんがいない。〇ち〇ゃんがいない」としきりに言うのです。霊視しますと、その人には心中した娘の霊が憑いており、「〇〇ちゃん」とはその相手の男のことで、向こうの世界で別かれわかれになってしまったと言うのです。大切なのは、これからお話しすることです。

 相談に来た若い女性は看護師をしていましたが、いわゆるホスピス病棟担当でした。ホスピス病棟とは、ガンの末期患者など、もう治る見込みのない人たちの世話をする場所です。その看護師さんは「治る見込みがあってこそ、看護師としてやりがいが出るのであり、ホスピス病棟担当になってすっかり希望を失ってしまった」と言うのです。まことにもっともなことですね。つまりその人は自分を見失ってしまったのです。そうするとその隙に他人の霊が入り込んでしまったのです。これは、人間というものを考えるのにとても重要なことです。このことはまず、肉体と本体(筆者の言う本当の我は別々であることを示します。そして自分を見失ってしまうと他の霊的存在が入ってしまうということです。
どうか読者の皆さんもよく記憶しておいてください。

 元女子大学生が「殺してみたかったから殺した」という異常な事件の公判が始まりました。名古屋大学理学部生でしたから相当優秀だったはずです。その人が起こしたのが猟奇的事件であることもショックですが、大切なことが見落とされています。彼女はいわゆる発達障害で、自分を見失ってしまっていた。そこへ邪霊が入り込んだに違いないのです。それを除く方法はあります。そこを考えなければ、この事件の真の解決はありません。

 

禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(1-3)

禅の空思想と龍樹の空思想とは異なる(1)

 以前のブログで禅の空思想と龍樹の空思想とは異なるとお話しました。それに対してある読者から「龍樹の空と禅の空は同義。何か深い配慮が龍樹の空と禅の空が違うと言わしめるなら検証の要あり。空は所詮譬喩であって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、因果応報の六概念下で理解される物柄であると信ずる」とのコメントがありました。言葉足らずのところがあったかも知れませんし、重要な課題ですからもう一度お話します。

 龍樹(ナーガールジュナ、AD100‐200頃のインドの人)は、空思想を初めて体系化した人で、その影響は大きく、仏教中興の人とも言われています。龍樹の主張は、それまでの部派仏教の一会派説一切有部の思想に対する反論として展開されました。
 釈迦の死後100年ほど経つと、仏教は上座部と大衆部に根本分裂し、さらに上座部は多くの部派に分かれました。その中でも最大会派であった説一切有部は、この世界を成り立たせている一切の法(=原理 ダルマ)が過去・現在・未来の三世にわたって実在するとすると考えます。そして原理に支配されたモノが現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する。しかし、それぞれのダルマそのものは、未来から現在をへて過去にいたって常に存在し続ける(三世実有・法体恒有、つまり自性がある)と言うのです。説一切有部は「自性が有る」の意味です。

 ちょっとわかりにくいと思いますので、釈迦仏教以前からあったヴェーダ信仰を引用して説明します。釈迦仏教はヴェーダ信仰の対立命題として成立したものですから、筆者のこの言い回しはおかしいのですが、まあお聞きください。そのヴェーダ信仰では、人間には個我(アートマン)というものが内在し、肉体が滅びても残ること、それが転生してまた新しい肉体を得てこの世に現れる。その現世で心のあり方を向上させるのを繰り返すことによって、ついには神(梵、ブラーフマン)と一体化する」とする考えです。つまりヴェーダ信仰では「個我も梵もそれ自身で存在する」と言うのです。「それ自身で存在する」を説一切有部では「自性がある」と表現しました。

 ここで慧眼の読者はおわかりでしょうが、この頃までに釈迦仏教は分裂を重ね、釈迦の思想はどこかへ行ってしまったのです。もちろん部派の中には、説一切有部の考えは釈迦の思想から外れるものとして、他の部派から厳しく批判されました。ただ、説一切有部は勢力も大きかったですから、その思想を打ち破るのは大変だったのです。そんな状況の中で現われたのが龍樹でした。

龍樹の空理論

 龍樹は釈迦の教えの中でも中心的だと思われていた縁起の法(註1)を援用して、反論しました。すなわち、あらゆる法(原理)とそれに基づいて生起したモノやコトは必ず他の法(原理)に依存している。つまり、それ自身で存在する法やモノゴトなどない(自性などない、無自性)と言うのです。そしてそれが「空」だと主張するのです。龍樹のこの考えは多くの支持を得て、やがて大乗仏教が発展するきっかけになりました。大乗仏教はインドだけでなく、チベット、西域、中国、朝鮮、そして現在の日本へと続いている大きな思想体系ですから、龍樹が仏教の中興の人と言われるのがおわかりいただけるでしょう。

註1じつは縁起の法は、釈迦の思想が拡大解釈されたものだと筆者は考えております。釈迦の思想がその後1000年以上にわたって拡大、整理(増広と言います)され続けて来たことがキリスト教などとは大きく異なる特徴です。この問題についてはいずれまとめてお話します。

禅の空理論

 一方、筆者がくりかえしお話しているように、禅の空理論では、「私たちがモノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)という体験こそが真の実在」なのです。つまり説一切有部や龍樹の言う「法(原理)やモノに自性があるかないか」とはまったく別の問題、つまりモノゴトの観かたなのです。
 筆者は龍樹の「中論」(中村元「龍樹」講談社学術文庫)を読んでいて、禅の空思想と龍樹の空思想とは異なることに気付きました。
 読者の皆さん、上記のような批判をされる前に、筆者のブログシリーズ全体をよくお読みください。

禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(2)

 龍樹の思想の問題点

 龍樹は釈迦の縁起の法を援用して、部派仏教の一つ、説一切有部の「法(そっしてそれに支配されて現われたモノ)にはそれ自体で成り立つ自性がある」を否定し、「すべては縁によって成り立っているのであり、自性などない(つまり無自性)、それがすなわち空なのだ」と言いました。この考えは、以降の大乗仏教の発展の大きな礎になり、これが仏教中興の祖と言われるゆえんです。

 しかし筆者は、下記のように、縁起の法は釈迦の思想を拡大解釈したものだと考えています。仏教を大乗経典類から初期仏教の思想(パーリ仏典)へと遡って行くと、だんだん釈迦自身がおっしゃったことがボンヤリして来るのを感じます。ヤフー知恵袋というコーナーがあるのをご存知でしょうか。だれかが「〇〇について教えてください」と投稿しますと、「われこそは」という人たちが回答を書き、その中で質問者が「なるほど」と思った回答を「ベストアンサー」とするものです。以前、「般若心経の作者はだれですか」という質問があった時「それは釈迦です」という回答が「ベストアンサー」とされているのを見て、筆者は吹き出しそうになりました。結論から先に言いますと、漢訳者は鳩摩羅什(AD344-413 インドの人)であることはわかっていますが、作者はわかっていないのです。
 ことほどさように、仏教思想は釈迦以後、原始仏教→部派仏教→大乗仏教と変化して行くうちに、次々と新たな解釈と追加が加えられたのです。これが仏教がわかりにくいことの最大の原因だと、筆者は考えています。

 「一体各教典の前後関係はどうなっているのだろう」と、まじめな僧侶・研究者ならだれでも考える疑問でしょう。各教典を読み比べてみますと、お互いに矛盾する内容があるからです。鳩摩羅什の弟子慧観(中国南北朝時代の人)は、釈迦が悟りを開いてから亡くなるまでの45年間を5つの時期に分け、
  1)鹿野園で四諦転法輪を説いた
  2)各所で大品般若経を説いた
  3)各所で維摩経・梵天思益経を説いた
  4)霊鷲山で法華経を説いた
  5)沙羅双樹林で大般涅槃経を説いた
としました。「五時(五つの時期)の教判」と言います。仏教の各宗派がそれぞれ、「最初に説かれた法に依拠しているから我が宗派は正しい」とか、「最後に説かれた最高の法である正しい」と言っていることが、仏教を知る上での大きな問題なのです。

 「しかし、いくらなんでもそれはおかしい」と考えた人も多かったのですが、この問題に初めて科学的分析を加えたのが、江戸時代中期の学者富永仲基(1715‐1746)です。富永は大阪の大商人たちが作った私立の学問所・懐徳堂出身の学者で、わずか32歳で早世しましたが、明治の東洋史学者内藤湖南が「大天才」と呼んだ人でした。本当にすごい人です。富永は主著「出定後悟」の中で、「仏教思想(全部で4500巻以上ある)は、古いものがだんだんと批判され、積み重なって変質して行った」との考え(加上説)を提出しました。この思想をもって「大乗経典は、釈迦の思想とはまったく異なる」と言ったのは作家の司馬遼太郎ですが、それはちょっと言い過ぎだと筆者は思います。「積み重なって変質して来た」が正しいと思います。大乗経典類の中でも釈迦の思想の痕跡は残っていると思います。
 このように、大乗経典類→部派仏教→釈迦の思想と遡っていきますと、釈迦の思想そのものがどんなものかがよくわからなくなってしまうのです。このことを頭に刻むことが仏教を学ぶ上で大切なことだと思います。

 さて、龍樹が援用したのは釈迦の「縁起の法」だと一般には言われていますが、釈迦の本当の思想は「因果の法」だと筆者は解釈しています。つまり、「あらゆる苦しみには原因(因)がある。そのことに気付き、それにこだわるのをやめなさい」という、素朴な生活の知恵だったのだと思うのです。それが因果の法→因縁果の法→縁起の法と拡大解釈されていったのでしょう。因縁果の法とは、たとえば、いま爆弾が破裂したとします(因)。その被害の大きさ(果)は、たまたまその人が物陰に居たかどうか(縁)で決まる、というわけです。龍樹が援用したのは「あらゆる原理やモノは、他の要因によって決まる」ですが、それは釈迦の因果の法を拡大解釈したものだということがおわかりいただけるでしょう。

 龍樹の誤り?

 「龍樹が説一切有部の思想を批判するのに使った縁起の法には限界があった」と筆者は思います。なぜなら、縁起の法は神という絶対者の存在さえ認めないからです。「あらゆる宗教はそのバックグラウンドとして神(=仏)を持っているのは論理的必然である」と以前お話しました。もちろん仏教は宗教の一つです。

 禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(3)

 禅は般若経典の流れとは異なる思想 

 筆者はこのブログシリーズで、「龍樹の空と禅の空は無関係である」とお話しましています。その理由にはもう一つあります。禅の初祖達磨大師(5世紀後半から6世紀前半の人)が、南インドのある国の王子として生まれ(註1)、中国南北朝の宋の時代(520年頃)に中国にやって来たとされています。「景徳傳燈録」(代々の禅師たちの言葉をまとめた書)によれば、達磨大師は釈迦から数えて28代目です。
 
 そもそも、中国へ仏教が伝来したのは紀元1世紀とずいぶん古いことでした。そして龍樹(インドの人)が「空」思想を体系化したのは紀元2‐3世紀で、その後の大乗仏教の発展のキッカケになったと言われています。「祖師西来意(祖師達磨大師がはるばる西から中国へやって来た意味は何ですか)」は、よく知られた禅の公案ですが、歴史的事実でもあるのです。つまり、達磨は中国の仏教界へ横から割り込んできた人なのです。ちなみにあの玄奘三蔵(602-664)が般若系経典をまとめて「大般若経」と名付けたのは、達磨大師が中国へ来てから100年も後のことですし、わが国の弘法大師空海が密教を中国からもたらしたのは806年です。これらの経緯から考えて、禅は中国仏教界とは別の思想体系であると言った方がいいと思います。

 最初に達磨を迎えた梁の武帝(464‐549)との次のやり取りは有名です。

 武帝:私は即位以来、多くの寺を建立したり、写経をさせたり、たくさんの僧侶を得
    度させてきたが、どんな功徳があるでしょうか。
 達磨:なにもない。
 武帝:なぜですか。
 達磨:そんなことは煩悩の種を作っているだけだ。
 ・・・・・・
 武帝:仏法の根本義とはなんでしょうか。
 達磨:カラリとして聖なるものはなにもない。
 武帝:私の前にいるあなたとは何者でしょうか。
 達磨:そんなことは知らない。

 とやり取りし、達磨は「これはだめだ」と、武帝の元を去ったそうです。

註1 ペルシャ人との説もあります。

 そして禅は唐時代になって、慧能(六祖638-713)、南嶽懐譲、馬祖道一、百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄などのすぐれた禅師たちが輩出して隆盛を極めました。

 色即是空・空即是色は、よく知られた般若心経にある言葉です。「般若心経は禅の要諦である」との考えには異論はないようです。その観点に立って禅の空思想を考えてみれば、文字通り(シキ、モノゴト)と対句として用いられています。龍樹の考えでは、独立したモノなどもともと存在しないのですから、禅のようにと対句になるはずはありません。このことからも、禅の空思想が龍樹の空思想とは別ものであることがおわかりいただけるでしょう。
 色即是空・空即是色については、次回改めてお話します。
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 今回の投稿者の「空は所詮譬喩であって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、因果応報の六概念下で理解される物柄であると信ずる」とのコメントは・・・・。

神の心を忘れた戦争行為(1,2)

神を忘れた戦争行為(1)

 先日、4夜にわたって、NHK特集「東京裁判」が放映されました。NHKが8年間、裁判を担当したアメリカ、中国、イギリス、フランス、オランダ、ソ連、ニュージーランド、オーストラリア、インド、フィリピン、カナダの判事たちが残した日記や書簡などを詳細に調査し、それらに基づいてドラマ仕立てにしたものです。文字通り力作で、深い感銘を受けました。

 起訴された28人の戦犯容疑者について、キーナン検事たちや、清瀬などの弁護人とのやり取り、証人たちの証言などが適宜盛り込んてありましたが、11人の判事たち同士の激しい議論が中心でした。
 罪状は1)平和に対する罪(侵略罪 註1)、2)人道に対する罪(註2)、そして3)戦争犯罪(軍紀に反した行為)の罪に分かれ、それぞれについて有罪か無罪かを審理するものでした。まず念頭に置かねばならないのは、これらの判事や裁判長の人選を含め、マッカーサー元帥の意向が強く働いていた点です。ただ、マッカーサー元帥は、審議の内容については、直接介入していたわけではないようでした。

 判事たちの間でいちばん意見が分かれたのは、これらの被告たちが1)の平和に対する罪(侵略罪)に該当するかどうかについてでした。「該当しない」との意見は、オランダのレーリング判事と、インドのパル判事でした。あとの9人はすべて「該当する」でした。レーリング判事とパル判事の「該当しない」の理由は、それは「事後法」だというものでした。「事後法」とは「罪の不遡及」とも言い、「当時それらの行為を禁止する法律がなければ、無罪である」という、法学の大原則です。たとえば、最近わが国でもIT関連のさまざまな犯罪行為が増えてきましたが、将来、重大な問題となると思われる行為について、次々に法律が制定されていることから分かります。つまり、同じ行為についても、その法律が成立する以前の案件については、遡って訴追してはならないのです。
 レーリングやパルの主張に対して、残りの9か国は「侵略を禁止したパリ不戦条約があるじゃないか」と反論しました(註1)。

 東京裁判の判決の前に、旧ドイツの戦犯についてのニュルンベルグ裁判があり、すでに刑は決定していました。ドイツが始めた戦争も、日本が始めた戦争も、外国への侵略がきっかけでしたから、当然、「侵略罪」が成立しそうです。しかし、ここに重大な問題が出てきます。それらの侵略行為は、それ以前に行われたロシア帝国による近隣諸国の占領、イギリス、フランス、ベルギーなどによるインドやアフリカ諸国の植民地化は、ドイツや日本の行為となんら変わるところがないからです。東京裁判における外国人弁護士が「私は、広島長崎への原爆投下を指令した人間を名指すことができる」と言ったのには説得力がありますね。

 「事後法」は、「一事不再理の原則(一度確定した無罪判決については、後で覆されない)とともに法律の大原則ですから、レーリング判事やパル判事の主張はまったく正当なのです。「事後法」になることを十分承知していた他の判事たちが、それでも強硬に「有罪」を主張したのは、ニュルンベルグ裁判の判決を覆してはいけないという大前提とともに、日本が始めた戦争により、中国やフィリピンの非戦闘員の死者があまりにも多かったためです。ちなみに、第2次世界大戦による死者総数6500万人の内、4000万人が非戦闘員、つまり一般市民だったという事実を斟酌しならないからでした。それは断じて戦争による犯罪、つまり上記2)や3)の戦争犯罪に該当するとは言えません。たとえばドイツによるユダヤ人の虐殺は600万人と言われていますが、ヒットラーの「アーリア人純血主義」と言う狂気の思想によるものです。決して戦争犯罪とは言えませんね。それでもあまりの犠牲者の多さに、たとえ原則を捻じ曲げてでも、ドイツの戦争犯罪人を罪に問わねばならなかったのでしょう。

註1 1928年に制定された不戦条約ですが、いわゆるザル法で、イギリスやアメリカは「国境の外で、国益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではない」との驚くべき留保を行いました。

註2 ドイツがユダヤ人に行ったホロコーストのように、一民族を根絶やしにする戦争行為。ニュルンベルグ裁判で「制定」された、明らかな事後法でした。たとえそうであっても、ドイツの蛮行を何がなんでも裁きたかったのでしょう。筆者もよく理解できます。それが実際に日本の戦犯に適用されました。
 たしかに、日本についても同様で、中国やフィリピン判事の主張する「犠牲者一千万人以上」はとても無視することはできませんね。

神の心を忘れた戦争行為(2)

 わが国でも、「東京裁判は勝者による一方的なものだ」と言う人が今もよくいます。さらに「広田弘毅元首相などは、強引に有罪とされた」と言う人が当時からいました。
 筆者がこれらの「東京裁判シリーズ」を懸命になって視聴し、学習した感想は、「東京裁判は決して勝者による一方的なものだと決めつけてはいけない」でした。もちろん、広田弘毅が死刑になったことについては気の毒に思います。それでも「連合国の検事や判事たちは、かなり正当な判決をした」と思うのです。ではなぜ筆者がそう考えるのか。それは別の理由からです。

 すなわち、この番組は前述のように力作ですが、重要な視点が抜けているように思います。それは、日本やドイツの自国民の犠牲者のことです。太平洋戦争による日本の犠牲者は軍人が250万人、一般人80万人と言われます(ちなみにドイツの戦死者325万人、一般人335万人)。

 日本はなぜ、あんなに無謀で悲惨な戦争を起こしてしまったのか。筆者はその理由を30年以上にわたって調べてきました。読んだ資料は100冊を下らないでしょう。絶対に戦争責任者を突き止めなければなりません。そういう意味で東京裁判の意義はとても大きいのです。裁判開始の頃、ウエッブ裁判長は「半年くらいで決着するだろう」と言っていました。しかし、実際には2年半もかかったのです。「どうしてそんなに長引くのですか」という記者の質問に、「あまりにも調査する資料が多いからだ」と答えていました。
 
 もし、「東京裁判は連合軍による勝者の裁判」と言うのなら、戦争を引き起こした人間たちをだれが裁けたのでしょう。亡くなった兵士の大部分すら一般市民だったのです。兵士たちはもちろん、一般大衆は戦争を引き起こした人間も、あんなに悲惨な結果に終わった理由もほとんどわからずに死んだのでしょう。戦死者の4割は餓死でした。残りの6割の内3割は、「極限的な栄養失調によるマラリヤや赤痢などの感染による死」と言います。さらに、残された遺族たちの苦しみや悲しみの大きさは、想像もできません。それはドイツとて同じでしょう。初めはヒトラーに煽られた興奮状態だった出でしょう。しかし、結果は合わせて700万人の兵士と市民の犠牲者だったのです。ああいうことは日本人やドイツ人の体質も原因の一つかもしれません。両国の戦争の責任者を、なにがなんでも突き止めて、二度と起きないようにしなければなりません。

 では連合国ではなくて、当時のわが国やドイツのだれが戦争責任を追及できたでしょうか。あの状況では、まったく不可能だったとしか言いようがありません。膨大な資料の収集、2年半もかけた徹底的な審理によって、戦争犯罪の全貌がわかったのです。私たちは連合国の関係者に感謝しなければならないのです。もし時機を逸していたら、あんなことはできるはずがありません。「勝者による裁判」などと、どうして言えるのでしょうか。
 
 柳条湖事件をひき起こした石原莞爾、インパール作戦の首謀者牟田口廉也中将、「最後の一機で私も突入する」と言って実行しなかった陸軍の特攻作戦の最高責任者の菅原道大中将や、「最後の一機で敵前逃亡した」富永恭次各中将など当然重罪にすべきでした「潜行三千里」で連合軍の訴追を免れた辻正信など論外でしょう。海外でろくな裁判も受けずに処刑されたBC級先般は1000人以上(5000人以上とも)と言われています。

 これが東京裁判に関する筆者の思いです。
 戦争に至る経過や推移を見ていますと、当時の軍人はもちろん、政治家や一般国民に至るまで、神の心などまったく忘れた狂騒状態だったとしか言いようがありません。日本人はともかく、ドイツ人はみんな敬虔なキリスト教信者だったはずです。

釈迦も驚く神仏習合(1)

釈迦も驚く神仏習合

前回、「道元は釈迦仏教を乗り越えた人だ」とお話しました。禅、つまり仏教の背景には仏(=神)の存在があることを示したのです。この問題について読者の方から「神仏習合思想を初めて提唱したのは泰澄ではないか」という質問をいただきました。

泰澄は奈良時代の僧(682-767)で、越前の越智山で修行し、遥かに見える加賀の白山で、十一面観音と感応して白山信仰を開いた人として知られています。白山信仰は修験道を旨とするもので、要するに仏教と日本古来の神道とを習合させたと言われているのです。この思想は、有名な役行者(634‐701)創建と伝えられる吉野の金峯山寺や大峰山寺や熊野三山(熊野三社)でも起こり、独特の教理を作り出しました。神とは仏が人々を救済するために現れたという本地垂迹説を提唱しています(註1)。あの京都聖護院や日光東照宮も神仏習合の例ですね。岐阜県にある白山の登り口には、白山長滝寺と長滝白山神社(名前が逆になっただけです)が同じ敷地内にあり、もとは両者が回廊でつながっていて、神社信仰を担う僧侶もいたそうです。現代の私たちから見れば唖然とするような姿ですね。

つまり、質問者がおっしゃる通り、道元以前に仏教思想の中に神仏を見出したのは泰澄と言えなくもありません。しかし、神仏習合思想は釈迦仏教から外れるものだと筆者は考えています。「ほとんど無関係だ」と言ってもいいでしょう。本地垂迹の考えには、両者を無理にくっつけたような不自然さがあります。神道には仏教と違って体系的な思想というものはありません。神仏習合の考え方と道元の思想はまったく別のものです。今でも山伏の修行の様子を見ればわかるように、厳しい修行を通して直接自然神と一体化しようとするものなのです。つまり、思想を飛び越えているのです。

これらの、神社とお寺が一体化した体制が、明治政府による神仏分離令によって事実上解体されたことはよく知られています。修験道さえ禁じられました(その後復活しました)。前述の白山長瀧寺と長瀧白山神社も完全に分離され、両者をつなぐ廊下も取り払われました。神仏分離令が、天皇を神とする皇国史観に基づく明治政府の政策であったことはよく知られています。しかし、筆者にはどうしても、両者をつなぐことの無理が大きかったことも理由の一つだと思えてなりません。神仏習合思想は、やはり消えて行く運命にあったのでしょう。もちろん修験道は真摯な修行であることに変わりはありません。

これに対し、仏教は二千年以上に亘る思想の熟成があります。その底流には絶対者としての神仏があったと筆者は考えるのです。それについてはすでにお話しました。そして、「そのことを初めて仏教史に位置付けたのが道元だ」と筆者は考えるのです。

発見とは、それがこれまでの歴史の中に位置づけられることです。「アメリカ新大陸を発見したのは、コロンブスではなくて北欧のバイキングたちだ」という考えがあります。しかし、たとえそうであっても、バイキングによる発見は世界史に位置づけられることはありません。泰澄や役小角の考え(よくわかりませんが)は、仏教史のどこへも位置づけられるものはないのです。

註1「いや神が仏の姿を借りて現れたのだ」という、神道の側からの反論もあり、神本仏迹説と言います。いずれにしても無理があります。

即心是仏ー「正法眼蔵」(1ー3)

即心是仏‐「正法眼蔵」(1)

 「無門関」第三十則にもある重要な公案です。道元は、「正法眼蔵・即心是仏巻」の中で(以下、現代語訳はネットから記事を引用させて頂きました。その内容には筆者は批判的なので、出典は省略させていただきます。太字は「正法眼蔵・即心是仏」巻の原文です:筆者)。
仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり
訳:仏たち祖師たちが、連綿と護持してきたものは、即心是仏(この心がそのまま仏である)だけです。
 即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。いまだ発心 修行 菩提 涅槃せざるは、即心是仏にあらず・・・いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり
訳:即心是仏の人とは、仏道を発心し、修行し、悟り、成就する諸仏のことです。いわゆる諸仏とは、つまり釈迦牟尼仏です。ですから、過去 現在 未来の諸仏が皆 仏になる時には、必ず釈迦牟尼仏になるのです。
さらに、
 いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法一切法一心なり・・・古徳云く、作麽生(そもさん)か是れ妙浄明心。山河大地、日月星辰
訳:また昔の釈尊や優れた祖師たちが、正しく伝えて来た心というのは、「心とはすべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である」ということです。清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である」とも説いています。
(ここは道元の思想の重要な部分ですから、後で改めて解説させていただきます:筆者)

 さらに道元は、大証国師慧忠(675‐775)と、南方から来た僧とのやり取りを紹介しています(以下「師」とは大証国師のことです:筆者)。すなわち、
 師曰く、「南方に何なる知識か有る。」
 僧曰く、「知識 頗(スコブ)る多し。」
 師曰く、「如何が人に示す。」
 僧曰く、「彼(カ)の方の知識、直下(ジキゲ)に学人に即心是仏と示す。

 訳:師、「南方にはどのような師がいますか」
   僧、「師は大変多いです」
   師、「どのように人に説いていますか」
   僧、「あちらの師は、すぐ修行者に即心是仏(この心がそのまま仏である。註1)と説きます。
 身中に遍(アマネ)く頭に挃(フル)れば頭知り、脚に挃れば脚知る。故に正遍知と名づく。此れを離れての外、更に別の仏無し。
 訳:この本性は身体の中に行き渡っていて、頭に触れれば頭が知り、脚に触れれば脚が知るのである。そこで、これを正遍知と名付ける。これ以外に決して別の仏は無い。
 此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来未だ曾て生滅せず。即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所説は大約 是(カク)の如し。
訳:この身体は生滅するものであるが、心の本性は永劫の昔から未だ嘗て生滅したことはない。つまり、我々の身体は無常なものであるが、その本性は常住であると。南方で説かれていることは、だいたいこのようなものです。

 それを聞いた大証国師は、「それでは、かの先尼(註2)が言ってることと同じではないか」と答えた。そして道元は先尼の思想を紹介しています。すなわち、
 外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛癢を了知す。
訳:外道(註2)の種類になると言うのは、昔インドに外道がいて、その名を先尼と言いました。彼に説によれば、大道は我々の今の身にあり、その様子は容易に知ることが出来る。いわゆる我々は、苦楽をわきまえ、冷暖を知り、痛痒を知ることが出来る。
 彼が云く、我が此の身中に一の神性有り。此の性能(ヨ)く痛癢を知り、身の壊(エ)する時、神(シン)は則ち出で去る、舎(イエ)の焼かれて舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なりと。
訳:先尼が言うには、「我々のこの身体の中には一つの神性がある。この神性は、よく痛い痒いを知り、身体が死ぬ時には、その神性は出て行く。あたかも家が焼けて、家の主人が出て行くようなものである。この家は無常なものであるが、家の主人は変わることがない」と。

註1 中国南方で説かれている「即心是仏」が、道元が説く「即心是仏」と同じ言葉であることに注意してください。つまり、大証国師(道元)は、「向こうの解釈は間違っている」と言っているのです。
註2 外道とは仏教徒以外の者。先尼とは、釈迦以前のインドのヴェーダ信者。大証国師や道元など、大乗仏教徒が、ヴェーダ信者や初期仏教徒を見る目は厳しすぎます。外道とか、先尼、小乗などの言葉は明らかに貶称です。後ほどお話しますが、筆者はむしろ彼らの思想の方が正しいと思っているのです。

即心是仏‐「正法眼蔵」(2)

 道元は先尼の思想を批判して、

 若し見聞覚知を以て、是を仏性と為さば、浄名は応(マサ)に、法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知にして、法を求るに非ず、と云ふべからず。
訳:もし見たり聞いたり考えたり知ったりするものが、仏の本性と言うのなら、維摩居士が「真実の法は、見る聞く考える知るということから離れている。もし見る聞く考える知るということを行えば、これはただ見る聞く考える知ることであって、真実の法を求めることにはならない。」とは言わなかったであろう。
そして道元は、
 いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗(註3)ゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著(モンジャク)あり、行取あり、証著(ショウジャク)あり。
訳:いわゆる仏祖の護持している即心是仏は、外道や小乗の修行者には、夢にも見ることが出来ないものです。これはもっぱら、仏祖だけが即心是仏を明らかにしてきたのであり、究め尽くしてきたと言われるのであり、行じてきたのであり、悟ってきたのです。
 つまり、道元は、「(大証国師の時代に)南方で行われていた教えは、いわゆる先尼の思想であり、それを同じ言葉『即心是仏』で言うのは大きな誤りだと言っているのです。

註3 大証国師や道元のような大乗仏教徒が、それ以前の部派仏教徒のことを小乗と貶めて呼ぶ言葉。

道元や大証国師が先尼(釈迦以前のヴェーダ信者)や初期仏教(二乗)を激しく批判している理由:

 要するに先尼(ヴェーダ信徒)や二乗(初期仏教徒)が言うのは、人間には本来神性があるであり、道元や大証国師はあくまでも神性(仏性)は悟りに至った者だけに現れると言いたいのです。しかし、道元たちと先尼や小乗仏教徒(いやな言葉ですが)の論点はズレているのです。なぜなら、もちろんヴェーダ信徒や初期仏教の人達も修行を不可欠のものとしていますし、道元の主張によっても悟りに至った者には神性はあることになるからです。とすれば、その神性はどこから来たのでしょうか。やはり、もともと人間が持っていたとしか考えられません。つまり、道元や大証国師の言うことはなんら矛盾していないのです。目くじら立てて痛罵することではないと思います。
 筆者は、むしろヴェーダや、部派仏教の一つ、説一切有部の考えに共感しているのです。

 道元や大証国師がヴェーダ信徒や部派仏教徒を批判する言葉の激しさには戸惑いを覚えます。釈迦仏教はヴェーダ信仰のアンチテーゼ(対立命題)として成立したことは、前にお話しました。ヴェーダの思想は「人間には本来個我(アートマン)という、不変のものがあり、肉体が滅びても永遠に残る。人間が転生を繰り返すうちに心のあり方を正しくして行けば(梵、ブラーフマン。神ですね:筆者)と一体化できる」というものです。

 釈迦仏教では「すべては縁によって成り立つものであり、梵とか個我のような固定的なものの存在は認めない」と言うのですから、対立するのは無理はありませんね。面白いことに、初期仏教の中にもヴェーダ信仰と同じ思想があるのです。つまり、初期仏教(部派仏教)の中に、早くも釈迦の思想に反対する人たちが出てきたのです。部派の一つ、説一切有部の「有」とは、「個我のように不変なものがある」と言う意味です。説一切有部が、他の部派や大乗仏教徒から排撃されたのは当然でしょう。しかし、およそ宗教にあっては、他の宗教や宗派を攻撃するのは神の心に反する行為です。

 繰り返しますが、筆者は、むしろヴェーダや説一切有部の考えに共感しているのです。釈迦仏教は、ヴェーダ信仰のアンチテーゼ(対立命題)として出発したために、かえってそれに足を取られ、正しい方向に進めなかった野だと思います。とくに大乗仏教徒がヴェーダ信仰や部派仏教のうちの説一切有部などを悪しざまに言うのは、天に向かって唾を吐く行為だと筆者は思うのです。

即心是仏‐「正法眼蔵」(3)

  道元が仏(神)の存在を認めていた理由

 この「正法眼蔵・即心是仏」で道元は、
いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
つまり、「いわゆる仏祖が正しく伝えて来た心とは、すべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である」と言うのです。

古徳云く、「作麽生(ソモサン)か是れ妙浄明心山河大地(センガ ダイチ)、日月星辰(ニチガツ ショウシン)」・・・心とは山河大地なり、日月星辰なり。
 また昔の高僧達も、「清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である・・・心とは山河大地であり、太陽や月や星である」
と言っているのです。
つまり道元は、悟りに達した者のみの心が認識する山や川、日月や星こそ真の実在である(だから発心し、修行し、菩提、涅槃に入るように努めなさい)と言っているのです。悟りに達した者の眼で見た自然とは、仏(神)の目で見た自然だというのが論理的必然です。道元自身がそうと自覚していたかどうかはわかりません。しかし、
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる(「正法眼蔵・生死巻」)
の仏とは、まさに神仏の「仏」ではないですか。

 筆者は、人間には本来仏(神)性があり、ふだんは潜在意識の中に眠っている。それが修行や禅の学ぶことによって顕在意識、そして神仏と通じるようになると考えています。それが悟りなのです。しかし、なにも禅の修行だけが、神の心に通じるための必須要件なのではありません。すぐれた芸術家や科学者は、常人以上の努力と集中力によって偉大な成果を挙げています。漱石は禅を学んだそうですが、芥川や谷崎についてはそういった話は聞きません。「モーツアルトの音楽には神の心が感ぜられる」と言う意味のことを小澤征爾さんが言っています。天才とは「生まれながらに神の心に通じている人」ではないかと思います。しかし天才でなくても神の心に通じることはできるのです。それは懸命な努力によって成し遂げられるのだと思います。イチローがどれだけ努力と工夫を知っているかをご存知の人は多いでしょう。

 話を元に戻します。道元は禅思想のバックグラウンドが仏(神)であると認識していたはずです。それは道元の書いたものや言った言葉から明らかです。本人がそれをどこまで認識していたかどうかはわかりませんが。